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“週休4日”君との時間を堪能する程、別れ際が惜しくなる。


雨音が屋根を突く音で目を覚ました。元々、雨を好まない僕にとって本来なら2度寝を優雅に味わう所だがそういう訳にもいかない。

腫れぼったい瞼を擦りながら洗面所へ覚束無い脚で向かう。慣れた手つきで萎んだ歯磨き粉の中身を捻り出す。はねた髪を直しながら冴えない顔と対面する。

今日は“あの子”の所へ行くのだから間違っても格好の悪い姿でいてはならない。昨晩から選び抜いた白のTシャツに黒のダウン、淡い茶のコーデュロイのズボンをまとい入念に姿見で確認する。

既に数回は“あの子”の家に上がり込んでいるが未だに同じ格好では顔を合わせていない。毎度、僕を新鮮に感じて欲しいからだ。

準備を終えれば戸締りと荷物を確認して家を出る。いつも使う通り道は幾万と見ているはずなのにこの時だけはより鮮明に映えて見える。無色透明なビニール傘の骨が1箇所折れていてそれを見る度に買い直そうかと思うが今日ばかりはそんな事などどうでも良い。

自然と上がる口角を落ち着かせている内にとうとうたどり着いた。先日まで客という立場で開けていたこの錆びれた木造の扉。だが今は勤め先の入口としてそこを潜る。

真っ先に目に入るものは白いカップを磨いている店主と奥で珈琲を啜る年増な男性客。店主に会釈をすると2階に“あの子”が居ると目で応えられた。もう一度会釈をして15段ほどある急角度の階段を登る。

階段を登った先には一般的な玄関があり、そこから廊下を真っ直ぐ進み2つ目の扉を開ければ“あの子”の部屋である。

この瞬間が何よりも緊張する。自らの鼓動により一瞬で筋肉が硬くなり、関節が伸びきるのが分かる。だがそれよりも君の存在をこの目で確認したい気持ちも負けていない。恐る恐る扉を開く。

〇   あれ、いない

飛   あ、来てたんだ

〇   お、おはよ

飛   もうお昼だよ

〇   そっか、そうだよね

飛   珈琲と紅茶、どっちがいい?

〇   珈琲がいいかな

飛   本当好きだね

〇   その為に来てると言っても過言ではないしね

飛   じゃ授業なし?

〇   受験、失敗して泣くのは飛鳥さんだよ?

飛   それは…嫌

〇   じゃ3時間だけ頑張ろっか

飛   ん、淹れてくるから待ってて

〇   ありがとう、お願いします

2日ぶりに見た君。やはり綺麗だった。冷静を装って会話をしていたが我に帰れば激しい鼓動の音は健在だった。君が淹れてくれる珈琲は僕にとっての生きる活力だ。云わば僕のエンジンなのである。

そうこうしていると君が茶色いお盆に淹れたての珈琲を2つ乗せて部屋に入ってきた。

〇   ありがとう

飛   無料で飲める代わりにインスタントの特製珈琲、召し上がれ

〇   特製?ブレンドしたの?

飛   まぁただの豆と私の労働時間が合わさってるだけですが

〇   通りで美味しい訳だ、よし始めようか

それから3時間殆ど止まらずに参考書やら教科書やらを散らかして勉学に励んだ。途中、君の横顔を見て僕の頬が僅かに明るくなった事は口が裂けても言えまい。家庭教師の特権として心の隅に置いておいた。

〇   お疲れ様

飛   あれ、もうおしまいか

〇   今日はいつもより集中力が滾っていたね

飛   1ヶ月後には試験だし

〇   高校3年生とは言え1学期の成績は内申点に含まれるからこのまま気を抜かずにね

飛   分かってる

〇   勉強、楽しい?

飛   別に、嫌いではない

〇   僕の教え方、分かりにくいとかこうして欲しいとかない?

飛   ある

〇   教えて教えて

飛   年上だし、呼び捨てでいいよ

〇   いやいや、一応顧客さまだし、ね?

飛   意見を求めて応えたのに改善無し、充分解雇の理由に当てはまるね

〇   それだけは…勘弁して欲しいです飛鳥さん

飛   少しずつでいいから

〇   前向きに検討させて頂きます

飛   お願いします

〇   うん、次の時間までに復習と課題やっておいてね

飛   はーい

高ぶる気持ちを必死に抑えながらまた急な階段を1段ずつ降りて行く。出口の扉から1番近いカウンターに小さな紙袋が置かれている。無口な店主の好意で珈琲豆をお裾分けして頂けるのだ。行儀よく礼を伝えて店を出る。

外に出ればすっかり雨は止んで、水溜りに写し出された空が滲んでみえた。唇を噛み締めながら心の中の“あの子”を思い出す。腕に抱えた珈琲豆を紙袋の上から匂いながら幸せを唇と共に噛み締めた。

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