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“週休4日”君と過ごした日を思い返す度、君が欲しくなってまた珈琲を啜る。


肌を刺すような寒気に無理矢理身体を起こす1月の朝。中々、目が開かずに辺りを手探る。ようやく見つけたレンズの厚い黒縁の眼鏡を乱雑に掛ける。


正月気分も抜けて妙な気分に包まれるのが最近の習慣になっている。妙な気分の正体は恐らく”あの子“の事だ。


これまで約1年間、“あの子”に勉強を教えてきた。それは1階の喫茶店の珈琲豆をどうしても手に入れたいだとか、沸る慈善思考の持ち主だとか、そういう事では無い。
甚だそういう事では無いのだ。


誰にも打ち明ける事なく秘めてきた。ただ“あの子”の笑顔を誰よりも傍で独占したいだなんて、言えるわけもないだろう。けれどたったそれだけを思っていた。


そんな“あの子”の表情は最近、硬い。それは明らかに緊張からくるものである事だと至極容易に汲み取れた。
僕の大学入試当時は緊張による下痢が酷く、ろくな記憶が無い。
周りの人間に「大丈夫」と励まされる度に他人事な応援が憎くなった事をふいに思い出す。
そんな過去の記憶を巡らせながら例の喫茶店に向かう。


○   大丈夫かどうかなんて誰にも分からないもんな。


独り呟いて馴染みの戸をくぐる。
木造の重厚感の塊のような扉を開くとカウンターで新聞に目を通す店主の姿があった。
ちらとこちらを覗いたので礼儀よく会釈をして見慣れた急階段を1段ずつ登る。
息を整えて玄関の戸を静かに開く。


○   お邪魔します。

飛 あ、いらっしゃい。

○   調子はどう?

飛 なにその質問。

○    受験前って気を付けても体調崩しがちだから。

飛 大丈夫、ちゃんと手洗いしてるから。

○    そっか。なら心配要らないね。

飛 ここまで来たんだもん。自分の体調なんかに邪魔されたくない。

○    大丈夫だよ。きっと大丈夫。

飛 先生は?受験の時に体調崩したの?

○    僕は緊張でずっとお腹下してたかな。

飛 ふふ、先生らしいね。


そう言って悪戯に笑う君は毎度のようにインスタントの珈琲を淹れに立った。
先刻の心配をよそに彼女のふわりとした笑顔に安堵の息をつく。
彼女の言葉通りである。ここまで来たのならば後は本番に全力を尽くすのみだ。


○   はい、今日はここまでかな。

飛 ありがとうございました。

○    試験までの補習は今日で終わりだね。

飛 うん。

○    緊張、、してるよね。

飛 そりゃね。

○    さっきも言ったけど飛鳥さんなら大丈夫。

飛 はい。

○   復習も概ね問題ないし抜けてる所もない。

飛 、、、

○    なんだか、ようやく分かった気がする。

飛 何を?

○    僕の受験前って皆、口を揃えて「大丈夫」って言ってくれたんだ。

飛 それは私も同じ。

○    でもさ、そんな他人事な応援を貰うたびに嫌気がさしてた。

飛 まぁ少しだけ分かる。

○    でも「大丈夫」って言う側になって今、分かった。

飛 、、、

○    全然他人事じゃない。自分の事みたいに緊張する。

飛 なんで先生が緊張してるの。

○    だって見てきたから。今まで飛鳥さんが頑張ってきた事。他人事な訳ないもん。

飛 、、ありがとう。

○    でもさどれだけ応援してもやっぱりどうにか出来るのは本人だけなんだよ。

飛 うん。

○   だから逆に言えばその人の周りの人達は応援する事しか出来ないんだよ。
  「大丈夫」って曖昧な言葉しか掛けてあげられないんだよ。

飛 ありがとう、先生。

○   伝わっただろうか、僕の言いたい事。

飛 うん、充分すぎる程伝わったよ。

○    良かった。

飛 でも私、先生の「大丈夫」って応援を他人事だって感じた事ないよ。

○    そっか。それなら今の説明というか演説は不要だったかな。

飛 ううん。勇気が湧いた、、気がする。

○    気か、まぁいいのか。

飛 先生。

○    はい。

飛 私、頑張る。

○    うん、応援してます。ご武運を。


1週間後、飛鳥さんは大学の入学試験を迎えた。
その日は淀んだ黒に近い灰色の雲が空全体を覆っていた。
こういう時、人間は何処か不吉な予感とやらを感じざるを得ない。
朝から落ち着かない1日を過ごした。
家庭教師として雇用主の店主に頂いた珈琲豆を引いて珈琲を淹れる。
その作業を4回程繰り返した所で着信が入った。
画面には飛鳥さんの文字。時刻は夕方の16時だった。


○    もしもし。

飛 終わった。

○    お疲れ様です。

飛 疲れた。

○    どうだった?

飛 大丈夫だと思う。多分。

○    うん、僕も大丈夫だと思う。

飛 先生、今何処に居るの?

○    今は家だよ。

飛 ふーん。迎えにきてくれてもいいよ?

○    喜んで行きますとも。

飛 苦しゅうない、待ってるね。


飛鳥さんの受験会場は幸い自宅の最寄駅から4駅程であった為に直ぐに待ち合わせ場所に到着した。
向かう途中、飛鳥さんと電話出来た事、これから会える事に喜びを隠せずどうしようも無くなって口元が緩んでしまう。
あくまでこれから飛鳥さんに会いに行くのは迎えに行く事、直接「お疲れ様」と声を掛けてやる事が目的であると心に念じる。
反省と心を落ち着かせる為に敢えて怖い顔をして見せるが車窓に反射する僕の顔はまるで腑抜けていた。
無理もない。これから会いに行くのは自分の生徒であり、密かに想いを寄せる人なのだからと独りごちた。


飛 あ、先生。

○    飛鳥さん!

飛 疲れた。

○    お疲れ様。本当に今日までよく頑張った。

飛 ありがとう。

○    お腹空いてる?

飛 めっちゃ空いてる。

○    何か食べようか。

飛 甘いの食べたい。

○    今日こそはこれでもかってくらい贅沢しよう!

飛 先生の奢りで?

○    もちろん。僕にはこんな事しか出来ないし。

飛 ううん、1番嬉しい。

○    それはようござんした。

飛 ねぇ先生?

○   どうした?

飛 私、頑張ったよね?

○    うん、君は誰よりも頑張った。飛鳥さんの努力は必ず実る。
  ちゃんと見てきたから。飛鳥さんの苦労も努力も。

飛 ありがとう、、、先生ありがとう。


そう言うと飛鳥さんは綺麗で大きな瞳から大粒の涙を流した。
張り詰めていた気がまるで風船の空気が抜けるようにして脱力したのだろう。
気丈に振る舞っていた姿から寄りかかるようにして僕に抱きつく彼女の頭を優しく撫でる。
自分の手のひらにすっぽりと収まる頭はじんわりと暖かった。
既に辺りは暗がりに電灯の灯りが等間隔に広がっていた。


それから2週間後、飛鳥さんは無事に志望大学から合格通知が届いたとの連絡があった。
人目も憚らずに独りで握り拳をぐっと下げて喜んだ。けれど途端に最早、家庭教師として週に3日の飛鳥さんに会う口実が無くなったとも思った。嬉しくも寂しくもあるこの感情の名前があるのだろうか。
考えても答えなど無いだろうからすぐにやめた。


3月上旬の冷えた気温に強い風が僕の身体を吹く。
これから新しい環境に自ら脚を踏み入れる少女に僕のような者が想いを伝えるのは多少、気が引ける行為ではあるものの今吹かれている風に「当たって砕けろ」と背中を押されている様な感覚さえ覚えた。
どちらにせよ清々しく春を迎える為、決心して冷たい風に晒された身体を強く前に進めた。

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