それは、きっと「なんとなく」の向こう側にある
自分が人やモノを好きになったり、嫌いになるのに、実は明確な理由なんてないのかもしれない。
少なくとも今の僕はその理由を過不足なく説明する自信はない。
だから、自分がなんとなく好きだったり、なんとなく嫌いなものに対して安易に理由づけしようとする人たちを見ると、なんかまたダセエことしてんなあ、としか思えない。
我ながら性格悪いよね(笑)
かといって、自分の好き嫌いの感情をただ野放しにしているのももったないな、とも考えている。
そう、浅薄な結論さえ出さなければ、それは自分の思索を深めるとても重要なきっかけ、糸口になるものでもあるはずだからだ。
たとえば、昨日、お笑い芸人が大喜利で競い合うテレビ特番に、自分が何となく嫌いだったある芸人さんが出ていたのだけど、彼のある発言を聞いて、その嫌いな理由の一端が少しだけクリアになったような気持ちになった。
彼はネタではあるけど、執拗に若者世代を見下したりバカにする発言を繰り返していた。
さも、おまえらは幼稚で浅いんだよ、とでも言いたげに。
そのどこか高みから相手を見下す姿を見ながら、
ああ、(一見、物分かりがいいふりしてる)彼のこーゆーゴーマンに見えるところがきっと僕は嫌いだったんだなあ
と妙に納得したのだった。もちろん他にも嫌いな理由はきっとあるんだろうけど、少なくともこれをきっかけに、
僕の嫌いな人間のタイプには
ゴーマンな人間がいる
ことに気がつくことが出来た。
そして、おそらく冒頭に話した、自分の単なる好き嫌いに、人間性とか生き様とか大袈裟な理由をつけたがる人たちに僕の心がざわつくのも、少なくとも僕には
彼、彼女たちが
ゴーマンな人間に見えたから
なのだろう(本当にその人たちがゴーマンなのかはもちろん分からないけど)
しかし、そんなnoteを覗いていると割と頻繁に出くわす人々、すなわち、たかだか気の利いた文章が書けることにどうやら必要以上の価値を置いているような人たち(←我ながらひどいこと言うよね笑)のおかげで、自分が綴りたい文章の輪郭みたいなものがどんどん明瞭になってきているのも事実だから、むしろ彼ら彼女らの存在には感謝すらしている。
とりあえず、きっと僕はまだまだ何もわかってないんだろうなあ、という実感だけは強くあって、だからこそ、これからも
自分の
なんとなく好き
や
なんとなく嫌い
に向き合って
それらの向こう側にあるものを
あきらめずにじっくりと
たとえ永遠に答えなど見つからなくても
考え続けていきたい。
という風に
今の僕は
考えている。
まあ要するにそれだけの話だ。
了
こちらはそんな僕の何となく好きな音楽リスト
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