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とんかつエレジー

家を出る前から、今日の夕飯はあの店で食べると決めていた。

昔、近所に住んでいた頃に、家族3人でたまに通っていたあのとんかつ屋さんのことだ。

東京の有名店ののれん分けのお店だから、味はもちろん間違いないけれど、それ以上にひたすらおいしいとんかつを揚げることに集中しているいかにも職人気質な無口のおやじさんとひとりひとりのお客さんの様子を見ながら本当に必要な時にだけ本当に絶妙なタイミングで声をかけてくれるホスピタリティのお化けみたいなおかあさんの息の合ったコンビプレイがとにかく気持ちのいいお店だった。

けど、ある日、いつものようにそのお店を訪れると、おかあさんのあの威勢のいい「いらっしゃいませ~」の声は聞こえてこず、お店の様子を見ると、どうやら今はおやじさんと若いアルバイトの女の子2人で切り盛りしているようだった。しかも、その女の子たちの接客が明らかに稚拙だった。しかし、何よりショックだったのはそんな彼女たちにイライラを隠せないおやじさんの姿だった。

彼の作るとんかつも千切りキャベツもお漬物も豚汁も前と変わらず美味しかったけれど、なんだかひとつの夢が終わってしまったような、そんな切ない気持ちになってしまった。

そして、それ以来、自然と僕らの足はそのお店から遠のき、そのまま遠くの街へと引っ越してしまったのだった。

でも、今日はどうしてもあのとんかつが食べたいと思った。

そもそも僕にとって、とんかつは、単なる食べ物以上の存在だったりするし・・・。

というのも、就職を機に上京して初めて一人で外食をしたのが上野にあるとんかつ屋さんだったからだ。

そのときカウンターで食べたとんかつがただ美味しいだけじゃなくて、食べていくうちにどんどん全身にエネルギーがみなぎってきて、気づいたら「ここでなんとか頑張って行こう!」という前向きな気持ちになっていた、そんなとんかつだったからだ。

そして、このとき僕は

「仕事をするなら、僕もこんな風に心許ない誰かを励ましたり、勇気づけられるような仕事をしたい」

と固く心に誓ったのだった。

だから、仕事で落ち込んだときなど自分にちょっとカツを入れたくなったときには、この時の気持ちを思い出すために僕は必ずとんかつを食べるのだ。

しかも、今日はたまたま用事があってあの店の近くまで来ていたしね。

あれからずいぶん経つから、もしかしたらおかあさんも復帰していて、あの最強コンビの華麗な連係プレイをまた拝見できるかもしれない。

そんな期待に胸を膨らませて、僕はまたあの懐かしいのれんをくぐったのだった。

「いっらっしゃいませ~!!」

入るなり、とても気持ちのいいあいさつが聞こえてきた。

でも、それはあのおかあさんの声ではなくて、30代くらいの背の高いお兄さんの声だった。

そっか~。

お二人とも高齢だから、もしかしたらおかあさんはすでに亡くなられたのかもしれない。

一瞬、感傷的な気持ちになりそうになったけど、とても切符のいいお兄さんの接客は素直に気持ちの良いものだったし、何よりあのおやじさんがまた昔みたいにすごくキビキビと楽しそうにとんかつを揚げている姿を見ていたら、僕までなんだかうれしくなってきた。

「ロースかつ定食ひとつください」

ちょうどいい熱さのてぬぐいで手をふきふきしながら注文する。

そして、カウンター越しに、こっそりと、おやじさんのひとつの無駄もない一連の所作を見ていると、その変わらぬ美しさに思わずうっとりしてしまう。

さらに、とんかつを油に通した時のじゅわ~という音や揚げたての厚めの衣を包丁でいさぎよく切っていくときのあのザクザクという音の破壊力といったら!

「お待たせしました!」

白木のテーブルの上にお兄さんがやさしく置いてくれた、

久しぶりに対面したその御姿のなんと美しいことか。

そして、今まで何度も食べたはずなのに、

「あれ?こんなに美味しかったっけ?」って思ってしまうくらい

今まで食べたここのとんかつで今日のがダンチで美味しかった。

それは、とんかつに励まされに来た僕の個人的な事情もさることながら、

最高で最愛のパートナーを失ったのに、新しい素敵なバディと一緒に、

再び活き活きと働いているおやじさんの雄姿

が何よりも最高の調味料になったからに違いない。

おあいそをしたとき、ちょうどお兄さんが奥のお座敷で接客中だったので、僕が彼が戻ってくるのを待っていると、なんとそのおやじさんが

「1700円です」

と声をかけてくれたのだった。

初めて聞くおやじさんの声は

とてもやさしい声だった。

そして、どことなくあのおかあさんの声に似ていた。

僕はおつりが出ないようにきっちり1700円をおやじさんに渡してから、店を出た。

おやじさんとお兄さんの

「ありがとうございました~!」

という最高のユニゾンを背中に浴びながら。

そして、音を立てないように入る時よりも慎重にゆっくりと引き戸を閉めた僕は、お店を出た後、真っ先に妻に電話したのだった。

「〇〇〇(とんかつ屋さんの名前)新体制で完全復活してたよ~!今度、みんなで食べに行こう!」

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