自分をさらけだす勇気
乗っけから、まるでアドラー心理学のベストセラー本のパクリみたいなタイトルですまん。
ちなみに、この記事は、note公式とネットアンケートでおなじみのマクロミルさん主催の企画「誰かの役に立てたこと」への参加記事となる。
どんなささやかことでもいいから、誰かのお役に立ったと思えたことを語ることで、書く人の自己肯定感や社会に対する参加意識を高められるはずだから、これはお世辞抜きで、とても良い企画だと思った。
だから、参加したわけだけど…。
いざ、このテーマで書こうとしたら、何も書けない自分がいる。
何故かを考えたとき、2つの原因に思い至った。
ひとつは、単純に、誰かの役に立つようなエピソードが自分にはそもそも乏しいということ。
そして、もうひとつは「誰かの役に立っている」と自分で思うこと自体に、人としての驕りの匂いをかすかに嗅ぎ取って、違和感を払拭できない自分がいることだ。
というか、人であれ、会社であれ、自然環境であれ、そういったいわば、自分以外の他者への貢献度を、自己肯定感の拠り所にするのは、他者は決してコントロールできない、という前提に立つと、実はとても危うい手法だとも考えている。
きっと、こいつ何ワケワカメなこと言っているんだ、と思われているだろうけど、そんな私でも、もしかしたら誰かの役に立っているかも、と思えるエピソードをようやくひとつだけ思い出したので、それを今から紹介したい。
私には今年、小3になる息子がいる。
彼は一学期が始まった一週間後に、同級生にいきなり胸を叩かれたのがきっかけで吐き気が収まらなくなり、それ以来、学校どころか外出もほとんどままならない状態である。
苦しみ続ける彼の笑顔をなんとか取り戻したくて、私も妻も、この4ヶ月、いろんな手を尽くした、つもりだ。
でも、どれも駄目だった。
そして、先月、ようやく予約が取れた児童精神科のクリニックに診てもらって、現在に至る。
そこには、もともと予約を取っていた総合病院を受診するまでのいわば繋ぎ的にお世話になるつもりにしていた。
実際、先週、ようやく受診できた総合病院の医師からも、来月からは自分たちの病院に移るように指示された。
だから、先日、その旨をクリニックの先生に伝えに言ったのだが、彼のリアクションは私の想定外のものだった。
おそらく今までの先生と同じように、彼もまた、じゃあそちらで診てもらってください、と事務的に別れを告げられると思ったのだけど、彼はすごく真剣な眼差しで私を見つめながら、こう力強く言ってくれたのだ。
「総合病院は一人一人の患者をきめ細かく見てくれないから、できれば僕が引き続き診たい。○○くんは、必ず僕が治してみせますよ。」
その総合病院はその領域では全国でもトップクラスの評判を誇る病院だったし、正直、彼に診てもらってから劇的に症状が改善したわけではなかったけど、ほぼ反射的に私は
「よろしくお願いいたします!」
と彼に頭を下げていた。その後、薬をもらいに行った薬剤師からも、いつものようにすごく親身なアドバイスをもらった。
家族が難治性の病気にかかった方ならご理解いただけるかもしれないが、私たち家族3人はまるでこの世界の大海原で自分たち家族だけが筏で漂流しているような心もとなさをずっと感じていた。
この医者や薬剤師の存在は間違いなくそんな孤独感を和らげてくれている。
本当にいい人たちに出会ったと思う。
そして、もちろん元々いい人なのだろうと思う一方で、彼らが私たちにこれほど親身になってくれているのは、私たちの「おかげ」でもあるかもしれない、とも考えている。
いったいどういうことか?
初めて彼らに会ったとき、私も妻も憔悴しきっていた。でも、なんとかしたい、という強い意志は諦めずに持ち続けていた。
そんな弱りきった姿をさらけ出すことで、彼らの「なんとかしたい」というやる気スイッチが押された、そんな気もするのだ。
そして、もしそうだとすれば
私たちの持つ弱さは彼らの持つ強さを引き出すのに一役買った
そんなふうにも言えやしないだろうか。
何を図々しいこと言っているんだと思われるかもしれないけど、私たちは必ずしも誰かにとって価値があったり、有益な存在じゃなくても、そう
ただあるがままの姿をさらけ出す
それだけでも
誰かの役に立てるのかもしれない
もしそういう可能性があるのだとしたら、それってとても素晴らしいことなのではないだろうか。
少なくともそう思えた瞬間、私の気持ちはたしかに少し軽くなったような気がした。
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