ただ君の笑顔がみたい、それだけ
noteを始める5年位前に書いた文章。今、読み返すと、この頃からみんなと出会うことを何となく予感していたような感じがするから面白い。とりあえず、こんなBGMでも聴きながら、読んでくださいな。
私が大好きなマンガに大島弓子の「つるばら つるばら」という作品がある。特に好きなのがラスト直前、今際の際(実はそうではなかったのだが)の主人公が走馬灯のように、かつて出会ったさまざまな人達の笑顔を思い浮かべながら「ずっと追い求め続けながら結局出会えなかった理想のものに、もしかしたら私はすでに出会っていたのかもしれない。あいつもそうだ、こいつもそうだ」と回想するシーンである。
そのシーンは友人もおらず一人部屋でうずくまっていた高校時代の私に言いようのない多幸感をもたらしてくれた。そして今の私にとっては目標とすべき理想のハッピーエンドだったりもする。
しかし、縁は異なもの味なもの、とはよく言ったもので、確かに人との出会いはなかなか一筋縄ではいかない。皆大なり小なりそういった感想なのではなかろうか。私も例外ではなく、まさにいい出会いもあれば不味い出会いもあった。
その中で最も強烈だったのが高校時代のいじめっ子たちとの出会いである。思春期特有の自意識過剰が災いして対人恐怖症になり他人とまともに会話ができず、そのくせやることがなくて勉強ばかりしたせいか成績だけは良かった私は、進学校の落ちこぼれ達からの反感をまさに一身に背負い、毎日虫けらのような扱いを受けた。
やがてこれだけ全力で人に嫌われる自分には生きる価値がないと絶望した私は、当時はまだそんな言葉もなかったが、いわゆる引きこもりになってしまったのだった(そんな自分を"引きこもり界の先駆者"と今では少し誇らしかったりする)。
挙げ句の果てに物騒な話だが、自殺未遂まがいのことをしたこともある。夜に近所の公園の池に入水したのだ。しかし、どうしても首から上を池に潜らせる勇気が持てず(なにしろ藻が繁殖してとても汚ない池だった)、数十分間、首だけ出した状態でただ池の中をウロチョロしていた。このときもし犬の散歩をしている人でもいたら、河童に間違われたに違いない。
そんな風に鬱屈とした引きこもりの日々を過ごしながらも、どこかで人との出会いに飢えていたのかもしれない。
冒頭のマンガもそうだが、とにかく本をたくさん読むようになった。そして、古今東西いろんな人達と知り合えた、ような気がした。
そんな一方的で二次元のコミュニケーションを出会いと呼べるか!というお叱りの声も聞こえてきそうだが、当時の自分にとって彼、彼女たちは紛れもなくかけがえのない友人だった。なんて落ちこぼれの私が言うにはおこがましいくらい立派な人達(作家)ばっかりだったけども。
そんな世間知らずで自信のかけらもなかった自分も大学を卒業して社会人になり早いもので約20年が経つ。
当然ながらあれだけ怖がっていたナマモノの人々との出会いも数多くあった。しんどい出会いも数多くしてきたが、気づいたら、こんなダメな自分を面白がってくれて一緒に腹をかかえてゲラゲラと笑いあったり、朝まで真剣に人生について語り合う友人にも巡り会えた。
中にはその強烈な個性で興味深いエピソード(ネタ)に事欠かない友人たちもいる。彼、彼女たちには本当に感謝の言葉しかない。
しかし、一方で誰か一人には絞りきれない自分がいるのも事実だ。うまく言えないが、これまでの彼らとの出会いが絡まり合ってそれがひとつの集合体のように自分を包み込む感覚になっている、と言ったら分かってもらえるだろうか。
そんな感覚を私がはっきり自覚するようになったのは今から数年前、初めての海外出張の帰路の飛行機の中でのことだった。
何とか大役を果たしたという充実感と疲労感がやんわりと全身を包む中、突然、あの「つるばら つるばら」の主人公と同じような感覚に襲われたのだ。
本当に走馬灯のように、今まで出会った人達の笑顔が次々と目の前に浮かんできた。
まさにこれまでの出会いが1つの塊となってドッと押し寄せてくるような感覚。
そして、このとき私を包み込んだ多幸感はページ越しに感じた高校時代のそれよりもはるかにリアルで力強かった。私は感動のあまり真っ暗の機内で一人すすり泣き、「今ここで飛行機が墜落して死んでも本望だ」などという不穏な思いが脳裏をかすめたほどだった。
そして、そんな特異な体験をした後も当たり前のように私の日常は続いている。
しかし、確実に変わったこともある。
それは以前よりもひとつひとつの出会いを大切にするようになったことだ。そして、新たな出会いを怖がりながらも積極的に求めるようにもなった。
そんな私のささやかな願いは、まだ見ぬ未来のあなたの笑顔を見たいということ。
そして、今際の際、これまで出会えたみんなの笑顔と一緒にあなたのとびきりの笑顔をもう一度リピートして極上のハッピーエンドを迎えたいということだ。
それこそが私にとっての希望であり、生きるための強い推進力になっている。
かつて引きこもりだった私がこんな風に未来の出会いに胸高鳴らせるなんてなんだかおかしな感じだが、それは間違いなく嬉しい誤算であり、あの頃の自分にもし出会えたならば大丈夫だよとそっとハグしてあげたいと思うのだった。
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