僕らはすべからく今を生きているのだ
どんなにうまく人間に化けたつもりでも、所詮、この世は狐と狸だらけの水泳大会。
だから、今日も僕たちは、澄ました顔をしながら、仕事と名付けられた
『ママゴト』
に精を出す。
実際、肚の底では自分たちが今作っているのは食べれない泥団子だって自覚している人は多いだろう。
でも、その狐と狸のまごうことなき末裔である僕は、周りの人たちほどうまくは出来ない作り笑いを浮かべながらも、ときどきその化けの皮を剥ぎたくなる衝動にかられる。
そして、そんなときはいつだって、神様なのか、昔の自分なのか分からないけど、そいつの胸ぐらを掴んでぐらぐらと揺さぶりながら
「なんでこんなことになっちまったんだよ!」
と厳しく問い詰めたくなってしまう。
でも、こーなってしまったのはもはや紛れもない事実なのだから、そんなことしても一銭の得にもならないし、何より体力の無駄使いだ。
だから、僕は急に黙りこくって、じゃあどうすっぺ緊急会議を一人で開く。
出席者が一人だからなのか、それとも一人の割には、なのか、割とすんなりと妙案が出てきた。
まあ、実行に移すことはなかなかハードだろうけど、詰まるところそれしかないよなあ、と独り言ちる自分がいる。
それは平たく言うと、こーゆー案というか、こーゆー腹のくくり方だ。
それは、
たとえこの世が、自分や他人の気持ちをごまかして生きてる狐と狸ばかりだとしても、そんな僕たちでもお互いに手と手を取り合って目の前の課題の解決に取り組み、ちゃんと結果を出しさえすれば(どんな小さなものだとしても)、その地道な活動の繰り返しの中で、いつしか、僕らの心には、他人を、いや自分自身を信じる勇気が芽生えてくるだろう、というものだ。
そして、畢竟、化かし合うことの虚しさに気付いた僕たちは、今、こうやって生きていることの奇跡を噛みしめることができる。
そうなったら、もう何も心配はいらない。
子どもたちの未来の笑顔はもはや約束されたようなものだ。
だから、僕は今日もそのために自分の出来ることをただひたすらガムシャラにやるだけだ。
それは言い方を変えれば、
自分の目の前にある
「どこでもドア」
をずっと叩き続ける行為と呼べるかもしれない。
そして、その「どこでもドア」の持ち主の多くは
いつしかカタチあるものしか信じられなくなった頑固親父たちだったりする。
そして、そんな彼らから見れば、僕などはそれこそ姿かたちが見えない
no where man
に過ぎなかったりもする。
でも、僕はそんなことなどお構いなしにまた性懲りもなくドアを叩き続けるだろう。
何故なら、活き活きとした美しい生命が宿るのは、カタチではなくて、ナカミの方だってことを僕は知っているからだ。
そんな僕はかつてカタチばかりに執着する人達のことを、
「まるで死体を愛するネクロフィリア(屍体愛好家)みたいだな」
と思っていたけれど、今はそうじゃない。
カタチがなければ、ナカミは保てないし、自分以外の人にきちんと認識されもしないことにもちゃんと気づいたからだ。
だったら、ナカミを作るのが得意な僕のような人間とカタチを維持するのが得意な彼らのような人間(ドアの持ち主に多い)がお互いに補完し合って物事を進めていかないといけないのは、もはや火を見るよりも明らかな話である。
だから、もはや相手がどう思うとか、無視したり迫害するとか、んなことはどーでもよかよか、なんである。
そう、要するに「分かっている」側が諦めずに働きかけ続ければいいだけの話なのだ(というか、彼らが頑な理由もなんとなく察しはついているしね)
だからこそ
僕は昨日も今日も明日も諦めずに開かずの
どこでもドア
を叩き続ける。
というわけで、先進国で最低レベルのこの国の生産性を上げる唯一の方法とは、
すなわち
自分たちがいかに不完全で非生産的な存在かということを僕ら一人ひとりがしっかりと自覚することだ。
そして、それは同時にこの世に生きとし生けるあらゆる人は、それこそ生まれたての赤ちゃんだって、徘徊老人だって、等しく生産的であり創造の源泉なのだと認めることでもある。
うん、だって僕もあなたも、誰がなんと言おうと、本当は、みんな今を生きている
now here man
なのだから。
分かるかなあ
分からないかなあ
でも、あなたにも分かってもらえたらこんなに嬉しいことはないよなあ。
追伸
狸さんと狐さん、比喩とはいえ、ひどいこと言ってごめんね。君らがそーゆーヤツじゃないことはもちろん分かってるよ。
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