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藤子F不二雄先生の異色短編SFの魅力について

 私は、小学生の頃に、初めて「ミノタウロスの皿」を読んだ時の衝撃を、忘れない。
 多くの子どもたちがそうであるように、私も「ドラえもん」の愛好者だった。私の父親は、「ドラえもん」だけでなく、「パーマン」も「オバQ」も「21エモン」も、買ってきてくれた。与えられるものならどんなものでもどん欲に読んでしまう子どもだった私のために。ある日、父がそれまでと同じように、藤子F不二雄のコミックスを買ってきた。「藤子F不二雄 異色短編集」という、彼が大人を意識し創作した作品に限定したセレクション集の、一つだった。
 一読して、衝撃を受けた。
 それまで私が読んでいた、F先生が子ども向けに書いていたドラえもんの世界とは、全く異質の世界が、そこにはあったからだ。それを読んだ後の私は、それこそ「ミノタウロスの皿」の主人公のように、あるいは「気楽に殺ろうよ」の主人公のように、それまで当たり前だと信じて疑っていなかった価値観が完全に崩壊した異世界に来てしまったような読後感を、味わった。あの日以来、私の住む世界は、おそらく変わってしまった。
 それからも私は、父が与えてくれる「藤子F不二雄のSF短編集」を、むさぼるように読んだ。今にして思えば、「定年退食」や「カンビュセスの籤」や「ころりころげた木の根っこ」や「気楽に殺ろうよ」や「ミノタウロスの皿」や「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」を子どもが読める環境に放置する父の教育方針には、いささかの疑念もなくはない。おそらくは父は、内容をよくわかっていなかったのではないだろうか。小学生の時期に、F先生の漫画作品を多く読んだことは、今の私の人格や世界観、思想の根幹に深い影響を与えていると思う。それがよいことか、悪いことかはわからないが。
 F先生のSF短編の持つ魅力、それはロジックだ。もし私が、F先生の短編作品から、ただ一つ最高傑作を選ぶとするならば、迷うことなく、「ある日……」を選ぶ。この漫画は、F先生のロジックという魅力が、最も凝縮された漫画だからだ。わかりやすい残虐さや、心震わす泣けるような要素がないことが、かえってロジックの美しさを際立たせている漫画だ。「同志少女よ、敵を撃て」を書いた逢坂冬馬先生も、SFマガジンのF先生特集号で、「ある日・・・」を褒めていた。
 「ある日…」の結末に至るプロセスにロジックを持たせるために、F先生はどれほど考えられただろう。「ある日」は二重構造になっている。一見すると、ラストは、佐久間の主張を肯定しているように読める。しかしよく読めば、佐久間の作品と彼自身の主張は、「ある日」の結末に対する伏線であり、結末に説得力を与え、その「唐突さ」と唐突だと感じなくさせる効果を果たしている。「ある日…」の結末自体は佐久間の主張の正しさを証明しているが、結末に至るプロセスは、むしろ佐久間の主張へのアンチテーゼとなっているのだ。このねじれこそ、実は「ある日…」の最大の魅力ではあるまいか。
 ネットを検索してみると、「ある日…」を、作品が発表された冷戦下という時代背景と絡め、核戦争の恐怖を主題にしたとみる向きが多いようだ。確かに、そういう側面もあるだろう。しかし、佐久間の語る「ある日は伏線も説得力もなく、唐突にやってくる」という主張それ自体は、何も核戦争に限らず、マクロでは大震災、ミクロでは交通事故に至るまで、あらゆる事態に当てはまるものである。2011年3月11日の14時45分の一分前まで、大震災が起きるなどと想像していた日本人など一人もいなかった。311もまた、唐突で、伏線も説得力もない「ある日」であった。ただし、それを作品として作る場合には、話は別である。311をもし映画の結末として描けば、歴史的事実としての東日本大震災を知らない人にとって、佐久間の映画を見た三人と同じ感想を抱くしかないものになるだろう。
 佐久間と、あの三人の考えの食い違い、それは「リアル」と「リアリティ」の対立という、普遍的な命題に基づくものだ。佐久間は「リアルな」映画を作ったが、それは他の三人にしてみれば、「リアリティの無い」映画であったということだ。
 私個人の感想としては「ある日…」の主題は、創作論である。少なくとも、F先生の意図としては、創作論も主題として大きなウェイトを占めていたはずだ。
 私は、みどりが丘シネマサークルの四人には、どうしてもトキワ壮のメンバーがちらつく。もしかしたらトキワ壮のメンバーの中にも、佐久間のような創作論を語ったものがいたかもしれない。もしかしたらF先生自身が一度は「暇人の遊びではない、問題意識と作家の主張に込められた漫画を描くべきだ」と主張したことがあるのかもしれない。もっともいずれにしても、「ある日…」を描いたころのF先生自身は、佐久間の主張の完全な同意者ではなかったであろう。もし同意していたならば、「ある日」の作中作である「世界を駆ける男」「スター・ウォーク」を、思いつけるわけがない。
 私の貧弱な頭脳で推測するならば、「気軽に楽しめる作品も大好きだけど、重い主題の込められた創作物も、あった方が文化としては豊かだよね」ぐらいが、先生自身の考えではないだろうか。F先生のSF短編全体を見まわしてみても、「ミノタウロスの皿」や「カンビュセスの籤」のように重い主題を描いたものももちろんあるが、軽妙で、気軽に楽しめる漫画もたくさんあるのである。F先生自身としては、緑が丘シネサークルの三人のように、例え暇人の遊びといわれようとも楽しめる作品を目指す一方で、佐久間のような部分も心のどこかに持ちながら、漫画を描いていたのではないだろうか。ただ楽しめるだけではなく、読む人の心につきささるような、重い主題の漫画を描け……と。心の中に佐久間と、他の三人を同時に住まわせていたから、F先生はあれだけ多様な漫画を量産できたのではあるまいか。
 ぶっちゃうけいうなら、物語を作る人ならば誰だって、心の中に佐久間を住まわせていると思う。漫画であれ小説であれ、世の中の発表をしている人ならば誰である。ただ、佐久間の言うことばかりを聞いていたって誰も楽しめない作品が生まれるだけだから、佐久間の思想と読者の欲望で折り合いをつけながら作っている人たちが、きっと大半のはずだ。
 昨年、F先生のSF短編の数々が社会的に注目を集め、NHKでドラマ化されたり、改めて全短編が収録されたコンプリート・コミックスが発売された。私も改めて全作品を読み返してみたが、「価値観の逆転」「食べる/食べられるという行為の意味」「暴走する正義」という三つの要素が、頻繁に繰り返され、このうち二つが盛り込まれた作品さえあることに気づかされた。
「ミノタウロスの皿」「カンビュセスの籤」「間引き」「気楽に殺ろうよ」といった作品に、「価値観の逆転」「食べる/食べられるという行為の意味」という要素が盛り込まれている。
「流血鬼」には、「価値観の逆転」それに「暴走する正義」と読み取れなくもない要素が組み込まれている。
「カイケツ小池さん」「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」「我が子スーパーマン」には「暴走する正義(正義感を暴走させていくゆがんだ人物)」という要素がある。「カイケツ小池さん」と「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」の主人公は顔が同じだが、この顔は、F先生の作品では通例として「ラーメン大好き小池さん」として登場するキャラクターのそれだ。そういう意味では「食」とも結びついているといえるかもしれない。
 ここまで語っておきながらあれだが、私はF先生の人生に対して、熱心なファンの方のように詳しいわけではない。だからこれはあくまでも推測だが、上記の三要素の頻出は、先生のたどってきた人生やパーソナリティーに深くその根本があるのではないだろうか。
 wikiによれば、F先生は戦中派で、少年時代に日本の敗戦を経験した。つまり、思春期の始まりに、昨日までは「鬼畜米英。大日本帝国天皇陛下万歳。お国のために死んで来い」といっていた大人たちが「日本は侵略戦争をした。日本はこれから民主国家だ。反戦平和が大事だ」とまるで正反対のことを言い出した光景を、目撃したということだ。
 F先生は少年時代に「世の中の価値観がひっくり返った」経験をしているのである。その衝撃は、ある日我々が「許可証さえ得られれば合法的に殺人が実行可能であるパラレルワールド」に迷い込んでしまうのと、匹敵してしまうかもしれない。それはまた、「正義」という価値観へのどうしようもない疑念を脳裏に植え付けるのに、十分すぎる事件であったかもしれない。
 「敗戦」というインパクトこそが、「価値観の変容」や「正義を掲げながら暴走する人間」というモチーフを、F先生の作品に頻出させた原因なのではないか。そして人が、価値の相対性を考え始める時に、正義について考え始める時に、頭に浮かぶもの、それは倫理だ。倫理を考え始めた時に、人が考えるもの、それは多くの場合「食」という行為の倫理性ではあるまいか。
 山本七平が書くところによれば(「人間としてみた仏陀とキリスト」参照)アイヌの宗教では、彼らが狩って食べる熊が、神であるそうだ。神が熊の衣をまとって、人間に食べてもらうために天から山に下りてくるというアイヌの信仰は、山本は「食べるという行為への罪悪感が生んだものではないか」と推測し、「神が人のために犠牲になる」という点で、キリスト教と共通する要素(イエス・キリストは人類の罪を贖うために十字架にかかって死んだ)であることを指摘する。キリスト教もその母体たるユダヤ教も、元来が「狩猟採集民」の宗教であったことは言うまでもない。
 おそらく、人類は、「肉食」を始めてから、その行為が罪深いものではないかという疑念に取りつかれてきたし、それが宗教を産む原動力の一つになったのではないかと私は夢想している。イスラム教やヒンドゥー教など、「食」になんらかの制限を設ける宗教が少なくないのも、それとかかわりがあるのかもしれない。そういえば、F先生の「いけにえ」という短編は、どこかキリスト教を連想させた。
 F先生の創作を、その人生の一時期に起こった敗戦という出来事と結びつけることは、ややもすると安易であることは否定しない。作品というものを創作者の個人的な経験と結びつける行為は、現代においてはどちらかといえば否定的に語られやすいように感じられる。
 だから、上記の私の文章は、一種の妄想であると言われれば反論できない。しかし結局私には、人間というものは生まれた時代というものから自由になることはできないし、作家においても同じだとしか思えないのだ。

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