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炎の仏師 松本明慶 かぜ耕士 檜山季樹:著

自分が半端な人間のくせに、いや半端な人間だからこそ、私は一流の人間の生き方に惹かれる。しかし、悲しいかな一流の人間は殆どいない。一流のフリをしている人間は五万といるが、本物は限りなく少ない。ある雑誌のインタビューで松本明慶氏のことを知り、間違いなくこの人は一流であるという感じがして、この本を買い求めた。仏像の良し悪しは正直なところ分からない。だから、実際の作品を見てもよく分からないだろう。しかし、この人の生き方は紛れもなく、超一流であり、本物である。松本氏の原点には、弟の理不尽な死がある。一体、この世に神も仏もあるのかという悲しみとも怒りともいえる感情が彼を突き動かし、2年間で300体もの仏像を彼に彫らせたのである。そこから、野崎宗慶師という生涯唯一の師との出会いがあり、仏師松本明慶が形作られていく。徹頭徹尾、彼の生き方・哲学には一本筋が通っており、正直言って圧倒され放しだった。伝統の世界ではあるが、彼は権威というものを嫌う。

ある先生の自伝を読んだんですよ。仏師という仕事を60年続けて、やっと仏様にこれで鑿を置いてよろしゅうございますか、と聞けるようになったというんですよ。読んだ人はその言葉に全員感動するんですよ。じゃあ、聞きたいんだけど、お前、30歳の時に何を売ってたんや。カス売ってたんか、ってね。60年やってキチンと到達する力を持っていた人なら、30歳でも人に訴えかける、光る何かを持っていたと思うんですよ。(後略)

また、最善を求めることに躊躇いがない。

冗談じゃない、と思いますね。その時代時代の一番良いものを使ってこそ芸術になるんですよ。運慶さんの時代にチェーンソーがあれば絶対、使ったと思うし、動物の骨や皮を煮沸して作る膠なんかより、何万年もかかってできた石油の方が物質的に安定してるに決まってるじゃないですか。膠は虫も食べるし、水に弱いので将来に残すものを作るのにその時代の一番良いものを使うのは当たり前なんですよ

自分の仕事を極めわようとすると結局人は権威や慣習と対峙せなる得ないことを超一流の人達は教えてくれる。孤独といかに向き合えるか?自らの妥協をいかに捨て去れるか?問われるものはあまりに多く、そして過酷である。この世に本物が殆どいないのも納得せざる得ない。

僕らもよく「無心で彫ってるんですか」って訊かれるので、何か答えなアカンな、って思って、言葉を考えようとするんですけど、明快な答えがないんですよ。ただ、無心になるためには、仏像彫刻に関する英知を全部持ってない限りはなれないでしょうね。やっぱり、知ってるから無心になれるわけで、夢中と無心も違うと思うんですよ。

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