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優しさの連鎖

1週間程前の出来事。
仕事が休みの日。学校から帰宅する小1の娘を家で待っていました。
学校から家までは歩いて30分の距離。

45分経っても帰ってこない・・・。

心配になり、通学路を車で走らせると
もうすぐ家に着く地点で、娘はゆっくりと一人で歩いていました。

脇道に車を停めて娘を乗せたと同時に、
「お友達と走って転んだの!そしたら、前を歩いてた中学生の女の子が、急いで私のところに来て、血をティッシュで拭いてくれて、絆創膏も貼ってくれたの!」
興奮冷めやらぬといった様子で話してくれました。

娘のズボンの膝は豪快に破けており、かなり激しく転んだのでしょう。

「中学生の女の子が、大丈夫?おうちに帰ったら消毒してね。って言ってたの!だから消毒する!」
と言い、傷口を自分で消毒していました。

その後も、「中学生の女の子」がどれほど優しくしてくれたかを何度も聞かせてくれました。
夫、学校の先生にもその日の出来事をすぐに話したようです。

それから何日か後の話し。
娘が学校から帰宅するや否や、「今日一緒に帰ってる時○○ちゃんが転んだの!私はすぐに血を拭いて絆創膏を貼ってあげたの!」

それはとても良いことをしたね。と娘を褒めました。

人に親切にしてもらって嬉しかったことを、今度は自分が誰かにしてあげる。こんな経験を幼少期から積むことで、相手を思いやれる大人になってくれたらなと、願ってやみません。

娘にとって、優しい、可愛いお姉さんは、とてもまぶしい存在のよう。
「私もあんなお姉さんになれるかな・・・」
という言葉を時々口にします。

「あなたならなれるよ」

産まれてすぐ「育てにくさ」を感じていた娘。
「家以外」の場所、幼稚園や小学校では、先生の手を煩わせることもなく、お友達とのコミュニケーションも困ることはなかった。
幼稚園の卒園式では、クラスを代表して、答辞を読むことを任されました。
「家」では、よく癇癪を起こし、出掛けることもままならず、外食なんてもってのほか。日常生活が成り立たない。
電車で寝ころびながら泣いたこともあった。

「家の娘」と「外の娘」
違いの差に戸惑い、どうしてよいかわからず、年中から療育に通い始めました。
初めての療育の日。
「お母さん今まで大変だったね。よく頑張ったね。これからは理解者を見つけなくてはいけない。お母さんだけで背負うのは大変すぎる」
先生にこれまでの苦悩を打ち明け、言われた言葉。必死に涙をこらえた。

私は、誰かに共感して欲しかった。わかってほしかった。
頑張ってるって認めてほしかったのかもしれない。

いつでも相談できる場所ができたことで、本当に救われました。
療育は私にとっても学びの場となっています。
専門の先生の考察力は、当たり前だけど、本当にすごい。

そんな先生が言うのは「お母さんたち見ていて、話しを聞いて、すごいなと思うし、尊敬します」と。
私が通っている療育の保護者の方々、本当に熱心で、子供ときちんと向き合っている方ばかり。
触発されます。

相談される側、する側、双方への尊敬の意があることで、相乗効果が生まれ子供にもよい影響があるように思います。

どう接してよいかわからなくて、娘と一緒に泣いたり、朝起きるのが怖かった日も、今日の娘と私の成長に繋がり、前向きな未来を考えられる今となった。

たくさん泣いて、夫とも何度も険悪になったけれど、目を背けないで向き合った。夫は、私の、娘の手を絶対に離さなかった。
仕事以外の全てのエネルギーを家庭に向けてくれた。
それは、結婚してから今でもずっと続いている。
夫が少しでも違う所を見ていたら、壊れていたかもしれない。

人からの優しさを受け止め、言葉にし、次は自分が行動する。
そんな娘に育っていることに感謝です。



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