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言えないこと、知らないふり、そして「梟−フクロウ−」

食べごたえがある。というと、胃にどっしりというイメージがある。
見ごたえ。も然り。
心にずっしり、重めのイメージだ。
だからといって、もたれるイメージはない。
どーんと来たけれど、決して消化不良というわけではない。
いつまでも余韻が残り、ずっと考えていたくなる。
決してもやもやではない。
そんなわけで、久々に「見ごたえ」を感じた。
現在、上映中の韓国映画『梟ーフクロウー』だ。

話はいきなり飛ぶのだけれど。
先日、ホラー好きの友人と話した。
彼女曰く、なかなか「周りの人に言いにくい」らしい。
同じ席には、馬オタクの友人もいて、
彼女曰く、馬好きということもあまり「周りに言えない」らしい。
私自身も、アイドルをこよなく愛し、長年韓国ドラマを観続け、それらへの愛を今でこそ周りに言いまくっているけれど、相手によって、場所によって、「言えない」どころか、「知らぬふり」をすることもある。
「言わない」つまり「見ていないふり」「聞こえていないふり」「知らないふり」が、時と場合によって、うまく生き抜く方法だと思うからだ。

実は「梟」はそんな話でもある(そんな話だけではない)。

盲人の鍼師で、世の中の末端に生きる主人公は、強者から目をつけられないよう、静かに生き抜けるよう、「見えていないふり」「聞こえていないふり」「知らないふり」をしている。
では、「見えていないふり」が、幸せだろうか。
果たして……という物語だ。

童話でいえば、『裸の王様』を思い出す。
ある仕立て屋が「ばかには見えない布地」で作った服を、「見えているふり」をして、「着ているふり」でパレードに出た王様の話だ。
沿道で王様を見た1人の子どもが、さらっと口にする。
「王様は何も着ていないよ!」

『梟』は、こんな単純な話で片付けられないのだけれど、
とにもかくにも素晴らしかった。

劇中で、こんなセリフがあった。
「見えないふりをしていると、心の病になる」
「正しく見ようとするから、病になるんです」
相反することを言っているようだが、どちらも真実だと思う。

ホラー映画が好きなのに、そ知らぬふりをする。
アイドルが好きなのに、興味のないふりをする。
うちの子は引きこもりだとか、実は家庭に問題があるとか、同性が好きだとか、そういうことを言えない状況。
好きじゃないふり、関係ないふり、「そうじゃない」ふり。
「ふり」は自分の身を守るのに役立つときもあるが、
「ふり」は意外とストレスになるものじゃないか。

では、見えたまま、知っているまま、「そうであるまま」、振る舞ってみたら、どうだろう。
私、ホラー映画が好きなんです……とか。
もしかして、仲間が増えたりするんじゃないだろうか。
相手を傷つけまいとして「ふり」をしている場合も、
案外、相手は「ふり」をされないほうが楽になるんじゃないだろうか。

「見ざる、聞かざる、言わざる」ということわざがあるけれど、これは、
「悪しきものは、見ようとしない、聞こうとしない、言おうとしない。あえて遠ざけるべし」そんな意味だ。
見えて見えないふり、聞こえて聞こえないふり、知っていて知らないふりとは、また違うのだ。

そして、『梟ーフクロウー』だ。
陰謀渦巻く王宮のなかで、主人公はなにを見てしまうのか。
そもそも、人はなにを見ようとしないのか。
見ること、見えること、見ようとしないことの違いはなにか。
そもそも、人はなぜ「ふりをする」のか。
「ふりをせず」生きていくことのほうが、幸せではなかろうか。
「ふりをせず」生きていくことのほうが、楽ではなかろうか。
なんだか、そんなことを深く考えた映画だった。

もう一回、観たいなぁ。
ちなみに、世子役のキム・ソンチョル氏は私の密かな推しです、はい。

*サムネイルの写真は、「The Christmas Owl」より。












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