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自殺,自死に関する私論

まず「自殺,自死」という言葉に違和感がある。というのも,私の感覚として,自殺は「I am killing myself.(私が自分を殺している)」というより「Something is killing myself(何かが私を殺している)」という感覚に近い。Somethingの中には,Past(過去)やEnvironments(場)やTraumaなどがあると思う。自殺には必ずプロセスがあるのに,そのプロセスを考えずして,自死や自殺に自己責任という観点を入れて,支援をごまかしていないか,という視点は必要である。 「誰が」何を言うかという視点がとても重要である。「死にたい」と訴える方にとって最も大事なのは,何を言うか,ではなく,まず「誰が言うか」であると思っている。例えば,これまで虐待的であった親に「生きてほしい」とか「死なないで」と言われても何の説得力も言霊も感じないだろう。これまで自分との「つながり」を大切にしてこなかった人は,その場しのぎの言葉で,究極的には,私は「死なないで」と言ったという既成事実を作るために発言する。 しかし,今この瞬間に「自分には何の手綱もつながりもない」という状況で死にたいと思っている人も存在する。そんな人に,私は安易に「死なないでほしい」と言えるほど,私は彼らのこれまでの人生を知らない。だけれど,彼らにとって死とは,最後の最後のコーピングであり,対処手段ではあるという認識の基,私がどこかで暇を持て余している時に,誰かが死にそうになっているということは非常に悔しい。そういう個人的な感情でしか通用しない時があるのだ。 だから,対人支援職を目指す授業で(私の場合は心理職だが),自殺を止めること一辺倒の話は非常につまらない。そこには非常に強迫的な死を扱うことに対する恐怖感が内在しているのだ。しかしそのプロセスで,相手の魂を殺してはないだろうか?と思うのだ。大事なのは,相手がこれまで,どんな体験をして,どんな感情でサバイブしてきたのかという全生活史的な理解とつながりなのである。

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