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家族弾乱図

私は日の当たらない部屋のベッドで横になり、隣の雑居ビルから聞こえるエアーコンディショナーの室外機の唸りを聞いていた。ずいぶん古い機械のようで、唸りのなかにときどき、ぶうんぶうんという大きな音が混じる。ファンを固定するねじが緩んでいるのではないだろうか。管理人を通じて苦情を言うべきだろうか。ベッドは比較的快適だった。一人暮らしを始めた大学生が使うような安物のスチールベッドで、寝返りを打つたびにギシギシ鳴るのには閉口したが、マットレスのスプリングは程よい固さで長く横になっていても疲れないし、化繊のマットレスカバーも汗を乾かしやすく蒸し暑い夜でもさらりとした肌触りを保っていた。

 

医院からの帰り、銀行に寄って妻名義の家族用口座に金を振り込んだ。給料日だったのだ。そして高速道路の高架下にある小さな公園で、処方薬を缶ビールで流し込もうとした。缶ビールはコンビニエンスストアで購入し、ビニール袋にぶら下げて移動した。プルタブを開けると泡が飛び出し、驚いて胸元にビールをこぼしてしまった。

男が、向かいのベンチで歯を磨いていた。よく茂った常緑樹の木陰だった。黄金色の木漏れ日が男をまだら色に染めていた。男は口をOの字に開き、勢いよく歯ブラシを動かしていた。そのあいだぎょろぎょろと、前髪のあいだから陰気な目を光らせ、警戒するように周囲を見回していた。私と一度目が合ったように思った。しかし男は私に興味はないようだった。まだ若そうに見えた。が、意外に私と変わらない年齢かもしれない。男は濃い紺色の背広姿だった。おろしたてのような、皺ひとつないスーツだ。ネクタイもきちんと締め、黒い革靴もピカピカに磨き上げられている。足元には厚みのあるビジネスバッグが置いてある。書類とノートパソコンを一緒に運ぶことができるタイプだ。営業先に顔を出す前に、身だしなみを整えているように思える。しかし何か妙だった。男はいつまでも歯を磨き続けていたのだ。

一休みするつもりで座った公園のベンチだった。私はひどい疲れを覚えていた。

心療内科は隣町の住宅街のなかに埋れるようにして建っていた。急な坂道の途中にあり、もう少し歩けば頂に出ることができた。頂では暗い灰色のアスファルトと青い空が直に接していた。私はそこからの眺めに興味を持っていたが、一度も坂を上りきったことはなかった。診察のまえはいつも、帰りにちょっと覗いてみようと思うのだが、診療が終わるとつい、忘れてしまうのだった。その日も医院を退出すると、坂を下ってバス停に向かった。

私はその心療内科に週に一度、バスを二路線乗り継いで通っていた。しかし今日は天候も快適だったし、ここのところ心身の状態も良好だったので、乗り換えのバス停で次のバスを待たずに、ついぶらぶらと歩いてしまった。それがいけなかった。爽やかな秋晴れの陽気は私の体力を容赦なく奪った。私は早めに休むべきだと判断した。これ以上のアルコールの摂取は活力の低下を招くだけなのは明白だった。半分残ったビールを慎重に流した。ビールは砂の上で軽く膨らんだあと、ゆっくりと地面に染み込んでいった。高い声の鳥の鳴き声がした。蟻が近寄ってきたが、ビールには無関心なようだった。左右からやってきた蟻が向かい合って触角を絡めあったように見えた。餌のありかを伝える合図かもしれない。私にはその行動がなにかエロチックなものに思えた。私はベンチから立ちあがった。向かいのベンチの男は、いつのまにかいなくなっていた。

 

カツラの広告が背もたれに描かれた小汚いベンチに座ってバスを待つ間、深い眠りに落ちていた。男が私の肩を叩いて起こしてくれなければ、二十分に一度しか来ないバスを危うく乗り過ごすところだった。私を起こしてくれたのは、先ほどの公園で歯を磨いていた男だった。

「もうすぐバスが着きますよ」

歯磨き男は消え入るような小さな声で言うと、顔をさっと赤らめた。私たちはバスの後ろのほうに、並んで座った。私は歯磨き男に、起こしてくれた礼を言った。

「いや、そんなことはぜんぜん……却って悪いことをしてしまったかと。あまりにも気持ち良さそうに眠っていたもので……しかしあのままだと、バスに乗り遅れるし、風邪をひいてしまうかもしれないし、掏摸に財布を奪われてしまったかもしれない」

歯磨き男は俯いたまま、だいたいそういうことを言った。男の声があまりにも小さかったのと、車内に響くエンジン音のせいで、途切れ途切れにしか聞こえなかったのだ。近くに座っていても、男の年齢は今一つはっきりしなかった。若く見えるときもあれば、私と同年配の中年男に見えることもあった。しっかり見ようとすると、窓枠に切り取られた日差しが明滅し、私の視界を遮るのだ。私たちは会話をしなかった。歯磨き男は落ち着きなく指を揉んだり、窓の外を見たりしていた。会話のタネを探しているのかもしれなかった。ときどき、照れたような笑顔を浮かべていた。先ほどの公園での異様な行動を私に見られていたことを今になって気付き、恥じているのかもしれない。私は降りるべきバス停が近付いたので、ちょっと失礼、と言って歯磨き男の顔のまえに腕を伸ばし、停車ボタンを押した。しかし歯磨き男も同じバス停で降りた。大通りから一本入ったところで歯磨き男は右に曲がった。私は男にもう一度礼を言った。

「やめてください、そんな……。私はそんなたいしたことをしたわけじゃないんですよ……」

歯磨き男は足早に立ち去った。私は目のまえにある公園を横切った。振り返ったが、歯磨き男の姿はもうなかった。

 

マンションは縦長に一キロほど伸びる古い大きな商店街の裏手にあった。最近は少し寂れているが、かつては市でも指折りの繁華街だった。商店街と並行して走る地下鉄のちょうど真上に伸びる細長い公園があって、ほとんどすべてのマンションの入り口やベランダはそちらに面している。裏手は商店街なのだが、あいだの細い路地は風俗店がひしめき合っており、景観が良いとは言えないのが理由と思われた。

公園は地下鉄の一駅分の長さがあった。よく整備された公園だった。黄葉し始めた落葉樹が初秋の日差しを受けて穏やかに輝いている。のんびりと散歩している老夫婦やボール遊びをしている小さな子どもたち、休憩中のサラリーマン。もう少し駅に近付くと浮浪者の姿が目立ち始める。一つの公園でこれだけ様々な人生模様を見ることができるのも一興だ。

辺りにはここ数十年で建設されたと思われるこぎれいなマンションが並んでいるが、私が居候している室田のマンションはだいぶ古びていた。おそらく八十年代の建築だろう。明るいオレンジ色のタイル貼りの外装はいささか時代遅れだった。近隣のマンションには当たり前にあるオートロックも、宅配ボックスもない。エントランスに飾ってある原色をちりばめた幾何学模様のモザイク画はところどころ欠落しており、ひどく間が抜けていた。管理人がそのエントランスの掃除をしていた。グレーの上っ張りに、濃紺のスラックスというのが管理人の制服だ。床は少し濡れており、ひんやりとした空気が私を包んだ。私たちは軽く会釈を交わした。管理人はモップを持った手を止め、私に笑顔を向けていた。モップの柄はくすんだ焦げ茶色で、先の毛の部分は薄汚れたまだら模様の灰色だった。

管理人はなにか話したそうにしているように見えた。管理人室の小窓に、小さな鉢植えが置いてあった。ポトスだった。朝、ここを通ったときにあったかどうかわからない。ひょろひょろと伸びた茎から生えた葉は非常に鮮やかな色をしていて、薄暗いエントランスに興を添えていた。管理人はひょっとして、その鉢植えのことを褒めてほしいのかもしれない。しかし私はなにを話す気にもなれなかった。とにかく疲れていたのだ。私はあいまいに笑っていた。エレベーターの到着を待つあいだ、気づまりだった。こういう時に限って、エレベーターの到着は遅れるのだ。きっと四階に住む中国人の女の子たちが、仲間が揃うまでボタンを押しっぱなしにしてエレベーターの運行を止めているに違いない。私は額に汗が滲むのを感じた。そして逃げるように、エレベーターに飛び乗った。エレベーターは無人だった。そしてガタガタと揺れた。最上階の八階まで上がると、廊下まで塩素系洗剤の匂いが漂っていた。室田が雇っている家政婦が帰った直後らしかった。風呂場にはかすかに、湿り気が残っていた。

 

シャツとジーンズを脱いでさっそくベッドに横になると、うつらうつらし始めた。私はふだん自分に昼寝を禁じていた。生活が不規則になることを恐れていたのだ。処方薬を飲んだ後はいつも眠くなる。眠気との闘いだ。しかし今日は特別だった。私は自分に睡眠を許可した。だが、眠ってもよいと思った今日のような日に限って、眠れなかった。まことに自分のからだは自分の思うままにならない。自分とは他者であるとはよく言ったものだ。それにしても処方薬の効きが悪いと思った。体力を消費しすぎたのかもしれない。体力の回復が最優先となり、処方薬の消化吸収が後回しになっている可能性がある。私は目を瞑り、力をできるだけ抜いて血液の流れや臓器の動きを感じようとした。意識を集中することで、それらの活動を活性化せしめようとしたのだ。しかし隣の物音が気になった。このマンションは日中も家にいる世帯が多いようだ。繁華街が近いからかもしれない。夜間に労働をしているのだ。ちょうど今頃の時間に目覚めて、活動を始めるのかもしれない。

枕元を小さな蟻が歩いていた。私が公園から連れ帰ったのかもしれないし、長い時間をかけて階段か外壁を上ってきたのかもしれない。雑居ビルの非常階段で、誰かがタバコを吸っていた。窓を閉めていても、臭いはどこからか忍び込んでくるのだった。私は結婚時にタバコを止めていた。それが結婚の、唯一の条件だった。保険適用の診療を受け、服薬しながら禁煙し、成功した。喫煙習慣はおよそ二十年だった。大学受験浪人時代に吸い始めたのだ。以前一度だけ禁煙しようとしたことがあったが、誘惑に勝てず、二週間ほどで挫折した。服薬による禁煙は、意志の力がほとんど必要なかった。あれほど強力な効果を持ちながら、副作用も感じられなかった。まさに針の穴を通すようなコントロールで、私の快楽中枢を抑制したのだ。私はあらためて、人間というものが物質的な存在であることを思い知った。化学薬品の作用で、全く別の人間のようになれるのだ。以来一度もタバコを吸っていないし、吸いたいとも思わない。喫煙者の匂いに顔を顰めるほどだった。

尿意がしてきた。尿意は短時間で増幅した。これも眠気と同様、処方薬の副作用のような気がする。いままで経験したことがないのだ。私は入眠の試みを一度中断し、トイレに向かった。放尿は軽い射精と同質の悦楽を私に与えた。私は床や便器に跳ね散った飛沫をトイレットペーパーで拭い取った。

リビングルームには強い西日が差し込んでいた。リビングは、ソファ、ローテーブル、テレビなど最低限の家具と、濃い緑色の大きな葉を広げた観葉植物があるだけだった。週に三回、家政婦が掃除に来るので、チリ一つ落ちていない。まるでモデルルームかビジネスホテルのようだった。ほんとうにこの部屋に住人はいるのだろうか。室田の存在そのものが、幻のように思うこともある。長く伸びた西日が私の影を、殺風景な白壁に写していた。私自身はと言うと、強い光のなかで消えてしまいそうだった。

 

帰宅した室田は私の部屋のまえに立っていた。白い縦じまが入ったグレーのスーツに、薄黄色のシャツ。臙脂色のネクタイ。室田は市役所の財務関係の部署で、課長をしている。メタルフレームのメガネの奥には鋭い目が光っている。猛禽類を思わせる顔つきだった。髪はポマードをべったりつけたリーゼントスタイル。地方公務員というよりは、バブル時代の不動産屋という感じだ。おそらく室田がもっとも生き生きしていたのが八十年代後半で、室田の時間はそのころで止まっているのかもしれない。室田はほぼ毎日、定時で退庁する。

「外で飯を食うか」

室田は週の半分以上、ひょっとしたらほぼ毎日、商店街の裏道にあるスナックで晩飯を食べる。ポエムという店名だ。看板のくたびれ具合から察するに、開店してから二、三十年は経っているだろう。室田がいつからポエムに通い始めたのか、聞いたことはない。室田はもう五十代も半ばだ。開店当初からの馴染みだとしてもおかしくはない。室田の部屋に転がり込むまえにも何度か、ポエムで一緒に晩飯を食べていた。

息子が産まれてから、外食の機会は激減していた。しかし妻の産休が終わり、息子を保育園に預けるようになってからは、妻とは交代で、家事や息子のお迎えから解放される日を週一日作る取り決めをしていた。私の番の日は外食した。室田と一緒のことが多かった。そしてそれはたいてい、ポエムだった。女主人は室田の注文を聞いて、近所の定食屋に電話をかける。出前が運ばれてくるまでのあいだ、私たちはビールを飲む。

 

室田に声をかけられた私はのっそりとベッドから起き上がり、床に広げたままだったジーンズとシャツをまた着た。頭が少し張ったような感じはするもの、気分はすっかり良くなっていた。ひと眠りしているあいだに、処方薬が働いたようだった。さっきビールをこぼしたあたりが、乾いてパリッとなっていた。室田の部屋に来てから、一緒にポエムに行くのは初めてだった。室田の部屋に来て、一週間が経とうとしていた。

部屋を出るときも、室田はスーツのままだった。エレベーターで、出勤前の中国人の女たちと一緒になった。かび臭いエレベーターは人が乗るとぐらりと揺れる。中国人が大げさに笑った。長いさらさらした黒髪だった。スタイルがよくて、いつも魅力的な笑顔を私に向けてくれる。遊びに来てよ、と袖を掴まれることもある。中国人は複数いるが、私には見分けがつかない。どの女も陶器人形のようにすべすべした光沢のある肌を持っていた。まさにチャイナドールだ。この辺りで働く中国人の女が何人か集まって暮らしている部屋が、いくつかあるようだった。ときどき、夜中まで笑い声や音楽が聞こえていることがある。窓を開け放って、ダンスをしているようだ。動画を撮影してウェブサイトに投稿しているのかもしれない。掲示板にも、中国語を併記している貼紙があった。騒音注意とか、ゴミ出しの曜日を守れとか、廊下で唾を吐くなとか。そういう威圧的な警告文のみ、中国語のフォントが日本語のフォントよりも大きなサイズで印刷されていた。

 

「こ奴、別居中なんだよ」

「うそ?まじで?まあ、そういうこともあるか」

ツグミちゃんは言った。

四人掛けのボックスで、向かいに室田とツグミちゃんが座っている。私たちがポエムに来るときはたいてい、この定位置となる。カウンターに座ることもある。そのときツグミちゃんは、カウンターのなかにいる。

ツグミちゃんには中学三年生の娘と小学五年生の息子がいる。夫はいない。一人で子どもを育てている。二度目の結婚で、二度目の離婚だった。最初の夫との間に生まれた息子は成人し、すでに働いている。遠方に住んでいるが、たまにメールが来る。鳶職をしたり、不動産の営業をしたり、ホストをしたり、なかなか職が定まらないらしいが、写真を見る限りは爽やかな好青年だった。短期労働で貯めた金で一年間海外放浪をするなど、気ままに暮らしているようだ。ツグミちゃんは、他人様に迷惑をかけなければそれだけでいい、と口癖のように言っていた。二番目の夫との子どもたち、つまり一緒に暮らしている子どものうち中学生の娘は軟式テニス部で、小学生の息子は野球チームに所属している。娘が小学校に上がったときに夫は出ていって、しばらくして戻ってきて息子を作ったあと、また出ていった。娘は高校に行ったらバンドをやりたいと言っている。息子は中学に行ったらジュニアユースに所属したいと言っている。音楽も運動も得意ではない私からアドバイスできることは何一つない。

私は瓶ビールを傾けて室田のグラスに注いでやり、腰を曲げて麻婆丼を食べる。花椒の風味が程よく、食欲を増進させてくれる。室田は室田で、五目中華の皿に顔をうずめている。臙脂色のネクタイはボタンのあいだからシャツのなかにしまい込まれている。スナックのテーブルは、ソファに座った私たちの膝よりも低い位置にある。二人の頭がもう少しでぶつかりそうだったし、目線をずらせばツグミちゃんの短いスカートの奥が見えそうだった。

「こ奴、別居したショックで精神を病んで一か月のバカンス許可証をもらってるのよ」

「それでムロちゃんちに転がり込んだって?だからラフな格好なのね。そっちの方がいいわよ、スーツより」

私が妻子と住む部屋を飛び出した翌日に、ディスカウントストアで買ったシャツだった。白い地に薄い格子柄が入っていて、仕事でもプライベートでも使えると思ったのだ。シャツについたビールの染みに目を落とした。幸い、スナックの店内は薄暗く、染みは目につかなかった。

「それにしても、せっかくのバカンスを男二人で過ごすなんてもったいない。旅行にでも行きなさいよ。一か月あったらどこにでも行けるわあ」

ツグミちゃんは旅行の思い出話を始める。OLをしていたころは、温泉巡りが趣味だった。週末になると友人たちと連れ立って、車で各地の温泉に出かけた。みんなでお金を出し合って、ワンボックスカーを借りる。楽しい思い出だ。山道でスピードを出し過ぎて、片輪が浮いたこともあった。浮いたほうに太った子がいたから横転せずに助かった。子どもができてからは、旅行も思うようにできない。子どもが行きたいところが優先になる。一度だけ温泉街に行ったが、子どもはその良さがわからない。退屈そうにしている。子どもは、ディズニーランドとか、ユニバーサルスタジオジャパンのような色彩豊かな娯楽施設が好きなのだ。自分もそういった施設が好きだが、本音を言えばもっとゆっくり過ごしたい。年のせいか、非常に疲れる。だから早く子育てから解放されて、思う存分温泉を楽しみたいと思う。ツグミちゃんはそんなことを話した。私は小学生のころ、家族旅行である島に行った話をする。港でフェリーを待つあいだ、ガラの悪い大学生たちがラジカセでサザンオールスターズの曲を大音量で流していて怖かった、という話。ツグミちゃんがちょっと変な顔をする。

私は会話が上手ではない。ツグミちゃんの話をほとんど無視するような格好で、自分の話、それもたいして面白くない話をしてしまう。私のなかでは会話が繋がっているのだが、ほとんどの人には二歩、三歩先まで飛んで行ってしまっているように感じるみたいだった。精神の状態が良好な時は気を付けることもできる。ひと呼吸おいて、会話の流れや話し手の意図を整理するのだ。その余裕がないときは、話し手の言葉を鸚鵡返しに繰り返し、頷いておけばいい。しかし最近はそれも難しかった。頭のなかがピンと張りつめ、動かなくなるのだ。そんな私を茶化していたツグミちゃんたちも、最近ではあまり気にしないようになっていた。話はサザンオールスターズで好きな歌は何か、というテーマに移った。

「スキップ・ビート」

「それはクワタバンドなのよ」

室田が「真夏の果実」と言い、私が、高校生のころでした、と言い、ツグミちゃんが、うそ?まじで?まあ、そういうこともあるか、と言う。ツグミちゃんは私より年上だったようだ。温泉旅行に行く車中のFM放送で頻繁に流れていたということだった。室田は、私が怖がっていたガラの悪い大学生たちの世代に該当する。ひょっとして室田もあの場所にいたかもしれない。室田が「真夏の果実」をカラオケで歌い始める。室田がカラオケを歌うのは、ほかに客がいないときに限られる。上手とも下手とも言えない。音程は取れているが、歌向きの声ではない。とにかく聞き苦しい。普段の会話での室田の声は低音で、どちらかと言うと美声だった。女性職員にも好評だった。それが歌を歌うとなると、獲物を狙う猛禽類のような声になる。キーが合っていないのかもしれない。よくわからない。もっと低い声の歌手の唄を歌えばいいのかもしれない。しかしカラオケはそういうものではない。歌いたい歌を歌えばいいのだ。間奏中、室田は残っていたビールを一気に流し込んで喉を潤した。

「ねえなんか飲む?カティサークでいい?」

 ツグミちゃんは私の空のグラスを目ざとく見つけ、テーブル越しに顔を寄せて叫ぶ。ちょうど「真夏の果実」がサビに入ったところで、室田の声が大きくなっていたのだ。

 

室田に連れられて初めてポエムに来たのは昨年のいまごろだ。室田は私が勤める市の外郭団体に出向してきていた。当時はまだ係長だった。私の職場には必ず一人、管理職として市の職員が出向してきていた。慣例だった。

ちょっとした事件があって珍しく残業した夜で、室田は私を飲みに誘った。初めてのことだった。室田はいつも、定時になるとさっさと帰宅してしまうのだ。室田は五十を超えていたが、整った顔立ちをしていた。若い女性職員によると、「イケオジ」というそうだ。きっと美しい愛人がいるのだと、皆で言い合っていた。室田に連れられて、商店街の居酒屋を二、三軒回った。ちょっと裏通りにある、小さな店ばかりだった。室田はどの店でも馴染みのようだった。店主や客たちは穏やかな笑顔で私たちを迎えた。ぽつぽつとしか会話はなかった。私は子育ての真っ最中で、家庭のことしか頭になかったが、室田は独身だった。共通の趣味もなかった。どちらかが一方的に話をして、片方が頷くだけということが繰り返された。私は息子や保育園のパパ友の話をしたと思う。週末は息子の相手であっという間に終わってしまう。二人で何時間もレゴブロックで遊んでいるのだ。息子にはなかなか、色彩と造形のセンスがあった。室田は週末は釣りに出かけることが多いと言っていた。車で渓流や湖まで出かけるのだ。室田の車はBMWだった。中古だが7シリーズだと言っていた。私は反応に困った。私は釣りに興味がなかった。車の運転も苦手だった。しかし室田の話を聞くのは面白かった。人気のない山奥でじっと釣り糸を垂れることで日常の煩わしさを忘れ、本当の自分と向き合うことができる。そういうことは言わない。室田はそんなありふれた言い回しを慎重に避けながら、言葉少なに話をした。

「魚が食いついて竿にくっと力が入るとな、辺りがざわつき始めるんだ。それがいい」

表情の微妙な変化や声のトーンで、室田がいかに釣りやドライブを楽しんでいるかが理解できた。使い古された言葉は聞き手の共感を容易く惹起するかもしれないが、話し手の体験の固有性が奪い取られてしまうのだ。仲間とワイワイ話をしたいときはそれでいいが、一対一で話すときは室田のやり方の方が好ましい。

私たちに唯一、共通の話題があった。二人とも、禁煙に成功していたのだ。私は保険適用の処方薬を服用していたことを告白した。室田は、そういったものを使わずに、タバコを止めた。強いて言えば、酢昆布だ。タバコを吸いたくなったら、酢昆布を舐めて我慢した。高校生のころから、一日二箱は吸っていた。ある日突然思い立ち、半分以上残っていたタバコをトイレのゴミ箱に投げ捨てた。それも、大事な会議に向かって廊下を急ぎ足で歩く途中だった。

二人で並んで夜の商店街を歩いているとき、室田はコンビニにでも立ち寄るかのような口ぶりで、ちょっとだけ寄っていくか、と言った。行き先はポエムだった。私たちは騒がしく会話をすることもなく酒や料理の味をじっくり堪能していたので、心地よく酔っていた。ポエムは商店街裏手の、雑居ビルの一階にあった。壁は薄緑色に塗られ、扉に白い縁取りがしてある。高原のペンションをイメージしているのかもしれなかった。近隣には、風俗店が所狭しと立ち並んでいた。雑居ビルの隣はL字型の駐車場になっていたが、一部が隣のビルの陰に隠れていた。本当の暗闇だった。奥に古い木造アパートが見えたが、明かりはついていない。非常に恐ろしい暗闇だった。

私は室田が風俗店に入ろうと言うのではないかと恐れていた。私は過去にひどい失敗をやらかして、そういう類の店にはできるだけ、近寄らないようにしていたのだ。それに私は、強引な客引きの呼びかけに弱かった。なんだか申し訳ない気分になるし、なにより、あとでなんらかの報復を受けるのではないかと恐ろしくなるのだ。私の生まれた寂れた地方都市には不良と呼ばれる若者が多かった。誰それが校門前でたむろしているという情報が駆け巡ると、私たちは校舎裏のフェンスを乗り越えて帰宅した。馬鹿正直に正門を通過すると、通行税を徴収されるのだ。それは通常現金だったが、不良たちの気分次第でゲンコツやキックを頂戴した。前夜にプロレス中継があった日などはたいてい後者だった。フェンスを乗り越えているところが見つかろうものなら、恐ろしい報復を覚悟しなければならなかった。当然のことながら、教師たちは頼りにならなかった。客引きたちの風貌は、街の不良たちを思い出させた。しかし室田は客引きたちを恐れていなかった。室田は呼びかけを無視して、先に進んだ。

私たちは水割りを頼んだ。かなり薄くして、と言って。私と室田はカウンターに並んで座っていた。ボックス席は満席だった。室田の隣には初老の男がいた。きれいな禿げ頭だった。

「薄いなんて言ったらこばちゃんが怒るわよ。ねえ?」

初老の男はきれいな禿げ頭を撫ぜながら、こちらを見て笑う。私は思わず大きな声で笑ってしまった。こばちゃんと呼ばれた常連は、却って機嫌がよくなった。

気が付くと室田はカウンターに突っ伏して眠っていた。メガネをかけたままだった。室田が何事か呻くたびに、メガネのフレームがカチカチ鳴った。

「いつもこうなのよ。帰って寝ればいいのに」

「客引きに声を掛けられなくて済みそうですね」

ツグミちゃんと女主人が変な顔をした。私は、またやってしまった、と思った。私は店のまえにいた客引きたちに強い印象を持っていた。つまり私は、酔いつぶれた室田に肩を貸して歩けば、さすがに客引きたちも声をかけてこないだろう、と思ったのだ。それでそのような発言となった。しかしもちろんツグミちゃんたちに私の思考の流れがわかっているわけがない。説明するのもなんだか間が抜けている。私はあいまいに笑い、ツグミちゃんたちもあいまいに笑った。私は急いで話を変えた。

「ウイスキーって、なにがあるのですか?」

私が言うと、ツグミちゃんは、

「オールド。ウイスキーって言われたらオールド出すのよ。その水割りもオールド」

「ほかには?」

「ジョニ黒とか。なにかお好みあるの?」

私はウイスキーの銘柄に拘りを持っているわけでも詳しいわけでもなかったが、先刻の失態のため落ち着きを失くしており、無意味に言葉を重ねてしまっていた。顔面が紅潮するのがわかった。

「っていうかムロちゃんのボトルあるよ。飲んじゃう?」

ツグミちゃんがいたずらっ子のように言った。とても魅力的な笑顔だった。

「せっかくお友達を連れてきたのにほったらかして寝ちゃってる罰よ」

「そうしよう」

とつぜん遠くから声が聞こえた。室田の薄くなり始めた後頭部の向こうから、その完成形とも言える見事な禿げ頭を光らせて、こばちゃんが言ったのだった。うんしょ、と言ってツグミちゃんが背伸びして、カウンターの後ろの棚からボトルを一本取った。

ツグミちゃんは少し垂れた大きな目の、愛嬌のある女性だった。初対面の私に対しても、年来の馴染み客のように接してくれる。私はこのような類の店に数回入店したことがあるが、たいていは愛想程度の笑顔を向けられるだけで、警戒心を持った探るような眼でじろじろと見つめられるのだ。それだけで辟易してしまう。私はツグミちゃんと話していると心が解放されるような気がした。ほかの男たちもそのようだった。ツグミちゃんはしょっちゅう、あちこちのボックス席から呼ばれていた。それこそ野鳥のツグミのように、ちょんちょんとスナックのなかを跳ねまわるのだ。職場で噂されていた室田の愛人というのはこの人ではないのかと思った。

「これ。船の奴。カティサーク。ムロちゃんは船乗りになりたかったんだって」

「初めて聞いた」

「この街で働いてるのも、海が近いからだって言ってたような。なんか、アツく語ってたよね?忘れちゃったけど」

ツグミちゃんは女主人を振り返り、だはは、と笑った。

その後も私は、室田から船乗りの夢の話を聞いていない。

 

興が乗ったらしい室田は「真夏の果実」に続けて「スキップビート」を歌った。サビの部分がスケベスケベと聞こえると、小学生の私たちはいつも面白がっていた。室田はそれを拒絶するように、スキップの「キ」を強調しているように思った。歌い終わると室田は眠ってしまった。口を半開きにして眉をしかめ、壁に顔を押し付けるようにして眠っている。ヤクザの襲撃に巻き込まれて撃たれた一般人みたいだ。五目中華はまだ三分の一ほど残っている。なにかの本で、食事に迷ったら五目中華を食べればいいと書いてあったのを読んだ記憶がある。栄養のバランスがいいようだった。

私と室田のほかに、客はいなかった。まだ七時半だった。

「カワちゃんは、何で別居しちゃったの?」

つぐみちゃんカティーサークのラベルをしげしげと見つめながら言った。ロックにしたカティサークの一口目は、はちみつのような甘さがあって私は好きだった。半分ぐらいからは、アルコール臭さが気になった。飲み過ぎた翌朝口中に感じる、あの不快な感じだ。二日酔いの朝も、一口目の甘さが残っていればよいのに、と思う。

私がなにも言わず黙っているので、ツグミちゃんはちょっと困ったようだった。

「言いたくなければ言わなくていいけど」

室田の鼾が聞こえた。もごもごと、はっきりしない寝言が続く。まるで私の代わりに弁明しようとしているかのようだった。

「僕が古い歯ブラシでサッシの掃除をするのが、妻の気に入らなかったみたいだ」

「そんなの、みんなしてるわあ。もちろん使用中のじゃないわよね」

「もちろん。使い古しの、毛先が広がってる奴」

「そこは好みの問題だと思うわ。カティーサークをロックで飲むか、水割りとかソーダ割にするか。あとなんだっけ、トワイスアップ?」

歯ブラシの話は嘘だ。いつかそういう理由でケンカしてしまった夫婦の話をテレビ放送で見たのだ。昼間出会ったた歯磨き男の印象が、過去の記憶を呼び寄せたらしかった。そのとき私と妻は、古い歯ブラシでサッシを掃除するのは好ましくないと同意に至ったはずだ。しかし今は、古い歯ブラシでサッシを掃除をするのはそれほど悪いことではないと思っていた。

私は、妻と別居した理由の核心部分を忘れていた。忘れていたというより、記憶にアクセスできないと言った方がいいかもしれない。記憶が脳のどこかにあるのは確かなのだ。ちょうど、書き慣れているはずの漢字がとつぜん思い出せなくなるのに似ていた。主治医は理由を知っているようだった。おそらく妻とも話をしている。初診時は妻も同行したのだ。私たちは別々に、主治医と長い話をした。私が家を飛び出したあと、主治医と妻が連絡を取っていないとは考えにくい。主治医は妻の話を私に告げるのは、まだ時期尚早と考えていたようだ。

「かわいそう」

「誰が?」

「みんな。みんなかわいそう」

私はたまに、息子の写真をツグミちゃんに見せていた。息子の写真は、スマートフォンの画像フォルダにある「家族」というサブフォルダに保存されていた。四歳。いや、いま五歳。私は家を飛び出してから一度しか、そのフォルダを開いていない。

「いいパパだと思ってたんだけどなあ」

ツグミちゃんの目が光った。

「あの動画、最高よ。イクメンファイブ!」

ツグミちゃんは戦隊ヒーローの決めポーズをした。

 

保育園で寸劇を披露したのだ。子育て戦隊イクメンファイブ!正義の味方イクメンファイブが、家事を妻ばかりに押し付ける悪者を退治するという内容だ。発起人の山際氏に誘われた私は当初乗り気ではなかった。当時私は四十歳だった。パパ友たちより少し年上だった。妻は三十八歳だった。ママ友たちのなかで、妻が孤立しているように思えた。妻はただでさえ、人見知りで引っ込み思案なのだ。私がイクメンファイブに参加すれば、会話のネタぐらいにはなるだろう。私は少しでも、妻の力になりたかった。それは本当だ。

頭がでかく、なで肩で腹がぽっこり出ていて、足も短いくせに身長だけは高い私の見栄えの悪さは、戦隊スーツを着るとより際立った。ほかのメンバーは、スポーツで鍛えた見事なスタイルを維持していた。年齢も、四、五歳下だった。まだ二十代の者もいた。私は彼らにお父さんと呼ばれていた。じっさい、最年少のメンバーの父親は私と二つしか違わなかった。

イクメンファイブの寸劇は好評のうちに回を重ねた。園児の親以外の人たちも評判を聞きつけて見に来た。狭い保育園の教室は、観客で一杯だった。一度だけ、公民館のステージに立った。好評だった。ほかの保育園からもお呼びがかかった。私の週末はイクメンファイブ一色に染まっていた。逆説的だが、家事は妻に任せきりになった。とにかくイクメンファイブは好評だった。しかし同時にマンネリ化も避けられなかった。観る側ばかりでなく、演じる側にも飽きが生まれるのだ。演者の動きにキレがなくなり、観客も周りの顔色を伺いながら笑う。マンネリがえも言われぬ滋味を生み出すには、何年にも及び熟成期間が必要だ。そのあいだに保育園児は大人になってしまうし、私などは還暦を迎えてしまうかもしれない。要するに、変化が必要だった。そこで私は、いじられ役になった。そもそも当初から私はメンバーのなかで浮いていた。二枚目揃いのイクメンファイブのなかで、一人だけヒーローらしくない人間が混じっていれば、誰もが違和感を感じるのは当然だ。戦隊ヒーローは、役割分担が重要なのだ。世の中がそうであるように。熱血漢で努力家の主人公、クールな頭脳派、お人よしで怪力の持ち主、変わり者ですばしっこい小男、紅一点の勝気な女性、等々。演劇や小説などというものは、私たちがふだんその渦中にある混沌とした世の中というものの姿を抽象化して私たちのまえに披露するものだ。

私の役割は、弱いくせに目立ちたがりのお調子者に決まった。悪者が現れると他を差し置き勇んで先陣をきるものの、一撃で呆気なく倒されてしまう。仲間たちが反撃を開始し、悪者が息も絶え絶えになったころ、復活した私は地面に倒れた悪者をぽこっと一発、殴るのだ。園児たちから、笑いとブーイング。ときどき悪者が息を吹き返したりすると、私は尻餅をついて這いつくばるようにして逃げ回り、仲間の後ろに隠れてしまう。道化を演じると言えばなんだか格好がいいが、私の場合はこれが私自身だという確信があった。私という人間が持つベクトルを、少し先まで伸ばしただけだ。先ほどの私の持論で言えば、私というパーソナリティを極度に抽象化したまでの話だ。もちろん、中学生のころに不良の若者たちに絡まれた苦い経験も役に立った。彼らは私がおどけて次郎さ踊りをすると、腹を抱えて笑い、見逃してくれることもあったのだ。ちなみに次郎さ踊りとは私の故郷に伝わる伝統芸能の一つで、ガニ股で両手をあげぐるぐる回る仕草が印象的なお座敷芸として親しまれていた。不良たちの郷土愛をくすぐることにも成功したというわけだ。

イクメンファイブの寸劇は動画サイトにアップされ、タウン誌にも取り上げられた。同じようなグループは各地にあったが、イクメンファイブがとりわけ高評価を得ていたのは、私の演技によるところが大きいと、いまでも自負している。

「才能があると思うわ、カワちゃん。芸人さんになってもよかったのに」

ツグミちゃんだけでなく、ママやほかの常連客達も絶賛してくれた。私は少し得意になっていた。しかし妻は悲しい顔をしていた。

「リョウくんが保育園でケンカしたんだって」

「本当に?珍しい。怪我はないの」

「怪我はないわ、ただ」

「ただ?」

「イクメンファイブのことで、お友達にからかわれたらしいの。リュウくんは、パパは本当は強いだって言って」

 

私の荷物はほとんどなかった。室田の部屋に腰を落ち着けた翌々日、段ボール箱二つ分の荷物が妻から送られてきた。衣服とノートパソコン、預金通帳と銀行印だった。私が判を押すだけの離婚届も探したが、見当たらなかった。送り状には、見慣れた妻の文字があった。さっと走り書きをしたようだが、一文字一文字のバランスに優れているので読みやすいと評判だった。妻の特技と言ってよかった。年賀状の宛名も全て手書きで書いていた。私の母は壽子という名前なのだが、父の名の横に小さく書かれた壽という字が一画一画丁寧に書かれ、一か所すら重なる部分がなかったので、母は感嘆していた。衣服は洗濯され、きちんと畳んであった。下着と靴下は新品だった。値札や靴下を止める小さな金具もきちんと外されていた。お守りも入っていた。病気平癒のお守りだった。しかしそこから妻が託したメッセージを読み取ることはできなかった。

室田に宛がわれた部屋は玄関を入ってすぐ右手にある六畳の洋室だった。薄茶色のフローリングはところどころワックスが禿げていたし、壁紙もくすんでいたが、清潔だった。

妻子と暮らしていた賃貸マンションを飛び出た私は、ビジネスホテルや職場近くのウィークリーマンションを転々としていた。すぐに自宅に戻るのであろうと楽観している部分はあったが、私の足はなかなかそちらに向かおうとしなかった。比較的調子が良い日など、家に帰ろうと思い立ち外には出るものの、近隣のドラッグストアやスーパーマーケットをうろついてしまい、日が落ちるころにとぼとぼと仮住まいに戻るのだ。そういうことを噛んどか繰り返した。歯ブラシやタオル、胃腸薬など細々した日用品が増えていくだけだった。そのうちに精神状態がひどくなり、仕事も休みがちになった。部屋に一人でいるときでも、あたかも重大な面接試験の順番を控室で待っているような緊張感が何時間も持続することがあった。眠れない夜も一度や二度ではなかった。テレビ放送も映画も小説も漫画も、私の気を紛らわせてはくれなかった。登場人物の微笑みや涙が、いままで経験したことのない角度で私を突き刺すのだ。心療内科で処方された薬の効果は、すぐには現れなかった。とにかく少しでも刺激を避けるよう、カーテンを閉め切った部屋で布団を頭からかぶっているしかなかったのだ。

失敗もやらかした。まだ症状がそれほど重症化していなかったころだ。市の若い女性職員が来て打ち合わせをした。打ち合わせは長引いた。途中で休憩となったとき、女性職員はお手洗いに行く、と席を立った。私は、大便ですか小便ですか、と尋ねた。大便ならばそれなりに時間がかかるから、自席に戻ってメールをチェックする時間があると思ったのだ。しょっちゅう仕事を休んだり遅刻したりしていた私には、やり残した仕事がかなり残っていた。女性職員は私の言葉を無視し、数分で戻ってきた。打ち合わせは何事もなく順調に進んだ。女性職員は私の冗談に笑いさえした。夕方、上司の永井に呼ばれた。あなた最近おかしいよ、と言われた。女性職員の上司から、苦情の連絡が入ったのだった。私からセクシャルハラスメントを受けたという趣旨だった。

「仕事中も居眠りしてるし。それになんだか臭いよ。カワダサン。ちゃんと風呂入ってる?そのワイシャツ、昨日も一昨日も着てなかった?」

私は夜遅くまで残って謝罪文を書いた。永井も付き合ってくれた。謝罪文と、担当を変えることで先方はとりあえず矛を収めてくれた。

仕事場に顔を出す気がなくなった。怖くなったのだ。あのような失敗を犯すのが。そして次に、どうでもよくなった。仕事どころか、人間一般に対する興味も失いつつあった。コンビニエンスストア店員の不遜な態度にも、私を押しのけて列車の座席に座ろうとする中年サラリーマンにも、よちよち歩きの幼児にも、その母親である美しい女性にも、一切の関心を持たなくなった。主治医にそのことを話すと、休養を命じる診断が出た。私は職場に連絡を入れ、診断書の写しを書留で郵送すると、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。一日中、暗い部屋にこもって過ごした。

そんな時、室田が私の仮住まいを訪ねてきた。今すぐ荷物をまとめて一緒に来るように言った。外には室田のBMWがエンジンをかけたまま停車していた。乏しい街灯のもとでも非常に美しい車だとわかった。乗り心地は快適だった。窓の外の繁華街の賑わいが嘘のように静かだった。

その部屋にはベッドが一つと、書き物机があった。誰かを住まわせるために、わざわざ用意したような部屋だった。それは私なのかもしれない。しかしそれならば家具はもっと新しいはずだった。誰か別の人物が住んでいたのかもしれなかった。あるいは、民泊のようなことをやって一儲けを企んでいたのかもしれない。

私は室田と並んでエレベーターに揺られた。最上階に着いたとき、奇妙な安堵を覚えたのだった。ようやく腰を落ち着ける場所を見つけることができた、というわけではない。これだけの高さなら、いつでも飛び降りて死ぬことができる、と思ったのだ。当時の私は死ぬ方法を模索していた。娯楽映画でも漫画本でも癒されない私が唯一、気分が落ち着く作業だった。死ぬ方法、とネットで検索すると、いつでも一番上位に、自殺予防の相談ダイアルの案内が表示される。よくできた仕組みだった。しかし心理カウンセラーの共感や傾聴より、自殺未遂をして失敗した人の手記のほうが、私を生に繋ぎ止める纜となった。それから、グロテスクな映像をインターネットで漁った。戦場やテロ事件の現場、交通事故、砂浜に上がった水死体、四肢が変形する奇病。人間の肉体はいとも簡単に傷つき、破壊されるものだ。肉体が受けた物理的なダメージを見せつけられると、生への渇望が死への願望を上回った。おそらく人間はそういう風にプログラムされているのだ。有史以来人間が開発してきた幾多の残虐な兵器や拷問器具は、人間の生への渇望の裏返しなのだ。

窓を開けると手を伸ばせば届きそうな距離に隣の雑居ビルの白い壁があり、一日中日が当たらない。しかしそれを除けば、まずまず満足のいく部屋だった。それから、室田が家政婦を雇っていたのも私にとっては好都合だった。ホテルやウィークリーマンションでは、ともすればカーテンを閉め切った暗い部屋で横になったまま一日終えることも多かったのだが、家政婦が来る時間に家を出るようにすると生活にリズムが生まれた。別に部屋にいてもかまわなかったのだが、私は家政婦と顔を会わせるのが苦痛だった。家政婦は三十代半ばの、齧歯類を思わせる小柄な女性だった。彼女のてきぱきとした動きや親しみやすい笑顔が、私の神経を刺激した。そして私を嘲笑しているようにさえ思えたのだ。

しかしそれが逆に良い効果を生んだ。私のような精神を病んだ人間になにより必要なのは日光と適度な運動だ。私は人気の少ない、多少饐えた匂いのする昼間の繁華街をぶらつき、マンションのまえの細長い公園や古い喫茶店で時間を費やした。すると私の精神状態はだいぶよくなった。ビジネスホテルやウィークリーマンション時代はその効果を疑いもした処方薬も、俄然威力を発揮し始めた。あれほど付きまとっていた自殺願望も嘘のように消えた。私は生きる歓びに溢れていた。ポエムではツグミちゃんたちとふつうに会話ができていた。ツグミちゃんは、本当に病気なの?と聞いたぐらいだった。この部屋に来て私は、順調に恢復への道を歩んでいると思い始めた。

「じゃあ、あと少しで奥さんとリョウくんのところに戻れるね」

ツグミちゃんは言った。私はぼんやりと、ツグミちゃんの顔を見つめるだけだった。

 

商店街には古書店が何軒かある。強面の店主がいて、専門的な書籍ばかりがきれいに並んでいる書店がある一方、一見、通常の古書店と変わらない。背の高い棚に文庫本や数年前のベストセラー、漫画本が並んでいる書店もある。奥に黒い色の暖簾がある。暖簾の向こう側は、こちら側の何倍も広い。壁一面、アダルトビデオやエロ本で埋め尽くされているのだ。私が学生だったころは、こういう古書店がどの町にも一つはあったはずだ。私はこういった書店に漫画本を買うふりして入店し、廉価なエロ本を買ったものだ。購入した本の内容はほとんど覚えていないが、アダルトコーナーに入るときの高揚感や背徳感はいまでも鮮明に思い出す。しかし最近は、この手の書店を見かけることがあまりない。大型の古書店が各地に進出して、個人経営の店は駆逐されてしまったのかもしれない。そもそも古書の需要が減っているのかもしれない。しかしこの店は盛況だった。アダルトコーナーにはいつも、薄汚れた男たちが数人うろついていた。平日の昼間から、いったい何の仕事をしているのだろうか。しかし自分も他人のことを言えたものではない。ともかく、インターネットが主流になったいまでも、このあたりではディスクや本のようなモノに需要があるようだった。モノを所有するということに意味を見出す人たちがまだ大勢いるのだ。ネットの動画配信リストを増やすよりも、魅惑的な笑顔で微笑む美しい半裸の女性が印刷されたディスクを所有しているほうが、彼女との距離を縮められるような気がするのかもしれない。私の学生時代の友人にも、大量のアダルトビデオや漫画本を所有している者がいた。一面の壁を埋め尽くす棚に、それらは整然と整理されて並んでいた。大量のモノに囲まれていると、それだけで安らぎを得られるらしかった。

店番をしているのは、黒縁のメガネをかけた丸顔の男だった。まだ若かった。男は狭いカウンターのなかで縮こまるようにして、文庫本と睨めっこをしている。

私はアダルトコーナーを一通り見た。拒否感が先に立った。息子が生まれてからこのかた、性欲のようなものはほとんどなかった。年齢的なものかもしれない。妻との性交の機会は月におよそ二、三回だった。それでも多すぎるぐらいだった。射精の瞬間、快楽より恐怖が勝ることがあったほどだ。翌日はぐったりと疲れて、朝起きるのも一苦労だった。鬱病を治すには一億手に入れるか、いい女を抱くかしかない、と聞いたことがあった。マンションの周辺にはあらゆる性癖に対応した多種多様な風俗店が軒を連ねている。しかし私の足は一向に、そういった店には向かなかった。欲望はまだあるらしかったが、それは私の心の奥の奥でじっとしていた。DVDのパッケージに印刷された美女たちは私を誘っていた。しかしそれは私のなかで、欲望とうまくつながらなかった。水面近くの浅いところを掻いているだけで、水底には届かないのだ。どろどろと、ヘドロの溜まった水底には。

私は何も持たずに、黒い暖簾をくぐった。店番の男はちらっと私を見上げた。咎めるような目だった。私は一般書のコーナーを回り、目についた文庫本を何冊か、カウンターに置いた。少しまえに話題になった海外のミステリー小説だった。

「カバーをかけますね。しおりもつけておきます」

男は意外な愛想の良さで、要領よく文庫本にカバーをつけ、輪ゴムで縛ると私に差し出した。

店を出て数歩歩いた私は、とつぜん踵を返して再び古書店に入った。そして黒い暖簾をくぐり、当店の人気ナンバーワンと表示されたDVDディスクを数枚手に取った。店番にそれを差し出すと、店番は先ほどと同じ愛想の良さで万引き防止用のタグを外した。

「これ、サービスになっています」

店番は新作DVDのチラシ数枚と一緒に、使い切りのローションを紙袋に入れて、丁寧にテープ止めして私に手渡した。部屋に帰った私は、買ったばかりのアダルトDVDをリビングのテーブルに並べた。にわかに、無機質で生活感のない部屋がざわつき始めた。

 

家政婦が来ない日だった。私は珍しく、早くに目を覚ました。室田は出勤前で、トイレにこもっていた。室田のトイレはいつも長かった。水を流す音がしてもしばらく、出てこなかった。私に気を遣って、臭いが換気扇に吸い込まれ尽くすのを待っているのかもしれなかった。付き合い始めた当時の妻がそうだった。

ダイニングのテーブルの上は、きれいに片付けられていた。室田の朝食は簡潔だ。軽く焼いたトーストにバターを塗る。あとはバナナを一本と、牛乳を一杯。バナナは木製の器具にぶら下げてある。バナナハンガーとかバナナスタンドと言われる製品だ。私はその製品の存在については認識していたが、じっさいに使用している人を見るのは初めてだった。私はバナナを一ついただくことにした。

テレビの電源を入れた。電源ランプが点灯するだけで、画面は真っ黒いままだった。外部入力モードになったままだったのだ。室田はテレビ放送をあまり見ない。テレビは映画や配信動画を見るためのディスプレイなのだ。外部入力のスイッチを切り替えると、天気予報をしていた。今日も一日快晴だった。少し汗ばむ陽気になるでしょう。若く美しい女性が笑顔で告げた。出勤前のサラリーマンを意識しているのか、胸のかたちがはっきりわかるニットを着ていた。トイレから出てきた室田は、私の横を無言で通り過ぎ、寝室に戻ると、ジャケットを羽織って出てきた。今日はベージュのスーツだった。真っ青なシャツに、赤いアスコットタイを締めていた。息子が作るレゴブロックのロボットを思わせる色彩だった。室田は、じゃあな、と言った。あまり中身の入っていないごみ袋を手にしていた。私は処方された薬を牛乳で流し込んだ。私が先日リビングテーブルに置いたままにしておいたアダルトDVDは撤去され、いつのまにか私の部屋に置かれていた。

気持ちの良い天気だった。空には雲一つない。ベランダから、細長い公園を挟んで向かいにあるビルが見えた。ちょうど真向いの八階の窓が開いた。看板を見ると、法律事務所が入っているようだった。ビルの壁にしがみついた看板には白地に青い文字で、ポプラ法律事務所、と書いていある。男が歯を磨きながら、外に顔を出した。そしてぺっと、唾を吐き出した。私は米粒のような小さな落下物体を目で追った。一階は梱包資材を扱う会社が入っていて、半分は駐車場兼作業スペースになっている。いつもワゴン車が停まっている。八階の男が吐き出した唾は、ワゴン車の天井に落ちたようだった。男はにやりと笑った。私は彼が、先日公園で一緒になった歯磨き男なのではないかと、ふと思った。しかしあの控えめで、おどおどした男の印象は、窓から平気で唾を吐き出す行為と上手く重ならなかった。作業服を着崩した体格のいい男が二人、タバコを吸っている。片方が身振り手振りで何かを伝えようとし、もう片方は穏やかに微笑んでいる。天から降ってきた粘液には気づいていないようだった。スーツ姿の若い男が、スマートフォンを見つめながら前のめりに横切った。

斜め下の部屋から強い刺激臭がした。おそらく外国製の柔軟剤を使っているのだ。私も一度使用したことがあるが、クセのある匂いに閉口してすべて排水口から捨ててしまった。そのせいで二、三日、洗面所に立つたびにその匂いを嗅ぐ羽目になった。柔軟剤のささやかな復讐だった。室田は洗濯も家事代行サービスに任せていた。所定のかごに入れておくと、家政婦が持ち帰るのだ。代わりに、洗濯済みの衣類が箪笥やクローゼットにきちんと収納される。掃除も洗濯もしなくていいとなると、本当になにもすることがない。

テレビがつけっぱなしになっていた。男性アイドルグループが、新曲の宣伝をしていた。なぜ眉目麗しい若い男女たちは、歌い踊るのだろうか。ただ立って微笑むだけでもよさそうなものだ。しかしそれでは物足りないのだ。彼ら彼女らが歌い、踊りだせば人々は俄然熱狂する。夜の街でも、ダンスや歌は呼び物になる。ところで保育園でも、園児たちの歌や踊りは人々の心を和ませる。息子の保育園では月に数回、近所の老人施設を訪れて歌や踊りを披露し、大変な好評を得ているそうだ。それが一番の楽しみだというご老人もいるという。

歌や踊りにはどういう意味があるのか。動物の求愛行動と同じものなのか。眉目麗しい男女たちが歌い踊ると、自分たちに求愛していると錯覚するのか。錯覚だとしても幸福感を感じればそれでいいのか。それでは園児たちの踊りは何の意味があるのか。まさか園児がご老人たちに求愛するわけではあるまい。恋愛の感情と和みやくつろぎの感情は基本的に同じ働きなのか。常識から逸脱した行為が精神の弛緩を呼び、笑いを生むという説がある。幼児の歌や踊りにはそのような効果があるのか。まだ年端のいかない幼児たちが、精いっぱい背伸びして求愛行動の真似事をしていることが微笑ましいのか。取り留めのない思考を思いつくままに弄んでいるあいだ、私は画面のなかで歌い踊る美少年たちを夢中で見つめていた。私の脳のなかで化学反応が起こっていた。それは恋愛に近い感情だったかもしれない。私が美少年たちと自分を同一化していたのかもしれない。思えばテレビを見るのも久しぶりだった。私は彼らの動きを真似てみた。運動神経は鈍いくせに、他人の物真似などは比較的得意だった。しかし胴長短足の私の体形では、踊りが完璧に近づけば近づくほど、滑稽さも増す。思えば街の不良たちに一番受けたのは、当時大人気だった光ゲンジの物真似だった。かーくんこと諸星和巳を真似て、足を高く蹴り上げたあとしゃがんで決めポーズをするのだ。それは大いに受けた。不良たちの溜まり場である薄汚いアパートの一室に招待されたほどだ。私はある程度、美少年グループの踊りをマスターした。これをイクメンファイブの寸劇で披露すれば、より好評を得ることができるだろう。妻子の悲しみと引き換えではあるが。私は心地よい疲れを覚えた。

ふと思い立って、昼食を自炊することにした。私は上機嫌だったのだ。さっそくキッチンの戸棚を確かめた。調理器具や食器、塩コショウなど簡単な調味料は一通りそろっているが、室田がそれを使った形跡はほとんどない。私が知る限り、室田が家で食事をするのは朝のみだった。使うのはプレートとグラス、それからトースターだ。私は朝と昼を兼ねた食事も夕食も外で食べていた。とにかく、この部屋で料理はしない。室田から、家で調理をすることを禁じられているわけではない。作ろうという発想が私になかったのだ。自炊をしよう。これは私が恢復したという一つの兆候ではないか。そう思うと、何としても自炊をしなければならないと思った。

 

他人の靴を履いていた。食材の買い物から帰って気付いた。この靴は前回通院したときの帰りから履いている。病院で会計を終えて、スリッパを靴箱にしまったところまでは覚えている。私はナイキのスニーカーを履いていた。新品だった。家を飛び出したとき、革靴しか持っていなかったのだ。ちょっとした外出も、すべてスーツと革靴で行っていた。それも間が抜けていた。それで私はディスカウントショップでスニーカーやジーンズなど日常用の衣類を買い求めることにした。スニーカーは黒のエアマックスだ。病院の玄関で、同じような靴があるなと思ったような気もする。それが他人の靴だった。同色のナイキのエアマックスだったが、明らかに古びていたし、靴底には元の持ち主の歩き癖が残っていた。右足の外側が著しくすり減っているのだ。私と同じ癖だった。胸を張って堂々と歩かないからそのようなことになるのだ、と父は私に苦言を呈した。抑鬱気質の人間には同様の傾向があるのかもしれない。靴は意外に、馴染んだ。病院からの連絡はなかった。私の靴を履いている精神病患者も、私の靴を気に入ってくれていればよいがと思う。ドアにぶら下がっていたのは回覧板だった。

魚介のパスタを作ることにした。一人暮らしのころによく作っていたのだ。一人暮らしの男性の場合、魚介類の摂取が不足しがちになる。といって、グリルを使って魚を焼くのも、後片付けが面倒だ。それで辿り着いたのが、シーフードパスタだったというわけだ。生パスタに冷凍のシーフードミックス、乾燥ニンニク、白ワインを買ってきた。シーフードミックスはできるだけ多めの食塩水で解凍すること、パスタの茹で汁を使ってよく乳化させることがポイントだ。乳化させることによって、ソースとパスタがよく馴染むようになる。妻もこの料理を気に入ってくれていた。オリーブオイルがニンニクを焦がす匂いがし出すと、ノイズまみれの音声に混じってときどき鮮明に聞こえるラジオ放送のように、健康だった過去の感覚が途切れ途切れに甦ってきた。これは悪くないと思った。パスタは満足のいく出来だった。近いうち、室田に振る舞ってやろうと思った。今度の休日は、ベランダにテーブルと椅子を出し、公園でくつろぐ人々を見下ろしながら昼食を楽しもうではないか。私は処方薬を飲み忘れていたことに気付いた。余ったワインでそれを流し込むと、リビングのソファに腰を据えた。そしてワインをボトルのまま飲んだ。回覧板を開いてみた。振込詐欺に注意。町内会慰安旅行のお知らせ。小中学校の学校だより。回覧板に挟まれている記事に、中国語の記載はなかった。あの中国娘たちは、この回覧板をどのように扱っているのか。

学校だよりを一通り読み終えた。ボトルは空になっていた。少し頭痛がした。小学校の校長先生が、長い文章を綴っていた。学校の校長先生はいつでも、長い文章を綴り長い話をするものだ。夏休みが終わり、一段と成長した子どもたちの姿を見ることができたのは嬉しい限りである。子どもたちの個性もより際立つようになった。十人の子どもがいれば十通りのまったく異なる個性がある。百人いれば百通り。千人いれば……。私はこの説の信憑性を疑っている。教師はせいぜい、子どもを三通りにしか見ていない。良い子、悪い子、ふつうの子。理性が未成熟な人間未満の生物を効率的に管理するにはそれが一番なのだ。教師が何より嫌うのは、その三つのカテゴリーからの逸脱だ。それも下方向への逸脱だ。「ふつうの子」に属していた鈴木君がある日髪を脱色してくると、教師たちは目の色を変えて彼を責め立てた。「悪い子」たちが髪を何色にしようと、知らぬ存ぜぬを決め込んでいるくせに。私は自分がどのカテゴリーに所属しているかを自覚し、注意深く行動するよう自分に命じた。もちろん私は小学校中学校を通じて「ふつうの子」だった。「ふつうの子」から逸脱することがないよう、慎重に行動した。

中学校の部活動の報告があった。夏の大会で優秀な成績を収めたのはバスケットボール部。市でベスト四に進んだ。それと剣道部は、個人の部でベスト八。ほかの部活の成果も報告されていた。私はじっくりと活動報告を読んだ。ツグミちゃんの娘がひょっとしたら載っているかもしれないと思ったのだ。しかし軟式テニス部について、どこにも触れられていなかった。そして私は息子のことを少しも考えなかったことに気付いた。

息子は来年には小学校に上がる。そうなれば、もっと熱心に、こういうものにも目を通すようになるのかもしれない。私は息子を愛しているのだろうか。愛している。いや、わからない。

私の息子は私に似ていなかった。とても愛想の良い子どもで、いつもニコニコ愛嬌をふりまき、誰からも可愛がられていた。マンションの住人たちにもきちんと挨拶ができた。保育園でも、保育士の方々に褒められた。賢い。しっかりしている。いつも笑顔。友だち想い。保護者から離れて寂しそうにしている仲間がいると、いつのまにかそっと寄り添っているのだという。おもちゃを独り占めすることもない。物覚えもよくて、三歳にして多くの言葉を文字にすることができた。アンパンマンからも早々卒業した。私の記憶の限りでは、ぐずることもほとんどなかった。あれが欲しいこれが欲しいと、デパートの床に寝転んで泣き叫ぶこともなかった。保健所で行われる健診の長い待ち時間も、退屈した乳幼児たちの激しい泣き声にまったく同調することなく、絵本にじっと見入っていた。自慢の息子だった。そして私の幼いころとはまったく似ていなかった。

イクメンファイブのメンバーたちからも、そのことでよくからかわれたものだ。彼らの娘たちがこぞって、私の息子と結婚すると言っていたのだ。イクメンファイブの発起人かつリーダーで、外資系保険会社に勤める山際氏が、種が違うんじゃないの、と言った。托卵というそうだ。夫との生活と並行して、妻が外見や運動能力に秀でた別の男性の遺伝子を仕込んでおく。夫には経済力があり、子どもには見た目の美しさ、人を引き付ける活力がある。完全な家族だ。現実に、そう噂されている家族が保育園にいた。一流メーカーの研究職である戸田氏だ。戸田氏は私より一つ上だが、二十代なかばの妻を娶っていた。娘と言ってもいいぐらい年が離れていた。戸田氏自身は穏やかで好感の持てる人物だったが、どす黒い肌に平べったい顔で、アジの開きを連想させた。そのような体臭さえした。その息子はというと、父親には似ても似つかない、色白の整った顔立ちの、可愛らしい子どもだった。お遊戯会では白鳥の王子を演じていた。惚れ惚れするほどの姿だった。私の息子と、女の子たちの人気を二分していた。妻は整った顔立ちではあったが、飛び抜けて美しかったわけでもない。クラスで五、六番目の美人というところだ。無口で、他のママ友たちとはほとんど交流を持たなかった。イクメンファイブの劇を見ても、くすりとも笑わなかった。あの人はなにを考えているかわからない、と皆から言われていた。それで托卵などと、ひどい噂を立てられるようになった。

息子について妻は、四月生まれだからほかの子より成長が早いだけだと言った。

「あなたは早生まれだから」

大人しく聞き分けがいいのは、自分に似たのだ、と。なんにせよ、息子が健やかに育ってくれているのは有難いことではないか。

しかし私にはわかっていた。息子は我が一族の血を正当に受け継いだのだ。

 

私の生家は地方都市の旧家で、戦前までは代議士や医者などを多数輩出していた。映画俳優もいた。寂れた地方都市ではあったが、一族は不動産業、運送業、建設業、観光業などの企業を幅広く展開していた。私の弟は父が経営する不動産会社で役員をしており、数年後にあとを継ぐのは明らかだった。ところで私は一族の落ちこぼれだった。父は私に人の上に立つ才はないと見て取り、早くから弟に英才教育を施していた。弟はそれに応えて、どこに出しても恥ずかしくない立派な男になった。学力人物容姿に秀で、東京の一流私大経済学部に推薦入学した。私はというと、四流の私大に三年かけて合格したのち、父の知己である代議士を通じてこの街の団体職員としての職を紹介されただけだった。私はそれを、故郷からの追放処分と受け取った。父のコネクションを使えば、地元の公共団体を紹介することなど造作もないことのはずだし、第一、一族のグループ企業のどこにも所属させないというのは妙だ。父の行動により、ふだんはニコニコと接している親族たちのあいだでの私の評判を、推し量ることができた。しかしだからと言って私は、そのことに不満を覚えているわけではない。私は自分の分を弁えているつもりだ。むしろ私の適性に合った職業に導いてくれた父には感謝さえしていた。競争のない、ぼんやりと小春日和のような日々に私は満足していたのだ。

しかし息子の誕生は、私の心をぐらつかせた。私のなかではついに発現することのなかった一族の優秀な遺伝型が、息子においては見事に開花したのだった。故郷を離れ、久しく忘れていた劣等感や僻み根性を、息子は無邪気な笑顔で私の眼前に突き出して見せたのだった。

私は成長した息子の姿を想像してみた。私のような、陰気で、僻みっぽく、劣等感を抱えた人間にはおそらくならない。街の不良たちからも一目置かれる存在になるかもしれない。弟がそうだった。弟は空手部の主将で全国大会に出場するほどの達人だった。不良たちは弟を避けていた。正門の通行税は免除されていた。息子はいつ、私を追い越すだろうか。すでに追い越しているのだろうか。頭のなかがぐるぐると回り始めた。私はとつぜん眠りに落ちた。脳がセーフモードに切り替わったようだった。

室田が帰宅した。

「なにか匂うな」

室田は言った。九時を過ぎていた。室田にしては珍しく、帰宅が遅かった。私が魚介パスタを昼に作った旨を説明すると、そうか、と呟く。

「晩飯はまだか」

私は頷いた。二人でポエムに出かけた。私はまだワインの余韻が残っていたので、ビールは辞退した。

 

日課の散歩をしているときに、ツグミちゃんとばったり出くわした。ディスカウントの酒屋だ。滅多に頼みごとをしない室田が、ウイスキーと日持ちのするつまみをいくつか買っておくように、私に言いつけたのだ。室田は一万円札を一枚、テーブルに置いた。部屋代や電気ガス代はもちろん、室田と食べる夕食のときも、私が支払うことはない。もちろん私は支払いを申し出ていた。しかし室田は断固として拒否した。室田は独身税だ、と言った。

それで私はいつもの散歩コースを外れて、酒屋に行った。銘柄を聞いていなかった。カティサークでいいのだろうか。迷っているとツグミちゃんに会った。

「うそ?まじで?まあ、そういうこともあるか」

ディスカウント酒屋の店主とツグミちゃんは顔見知りだった。ポエムはこの店から酒を仕入れているらしかった。私が室田の使いで来ているが銘柄を聞いておくことを失念していたことを告げると、ツグミちゃんは店主と相談し始めた。

「いつもカティサークを飲んでる人なの。船乗りになるのが夢だったって」

店主は同じような傾向の酒を何本か、見繕った。私はそのあいだつまみを選んでいた。ビーフジャーキー、チーズ鱈、ピスタチオ、等々。

昼前だった。ツグミちゃんは買い物の途中だったが、あとでいい、と言った。それよりご飯を食べたいと。そのままツグミちゃんと一緒に飯屋を探した。近くのラーメン屋には、長蛇の列ができていた。こってりとしたスープと山盛りのニンニクが特徴の、熱狂的な信者が多数いる事で有名な店だ。

「あそこで食べたことある?」

「十年ぐらい前に一回だけ」

「あたし、ないんだあ」

「一回食べてみる?」

「うーん、やめておく。お腹にもたれそう。仕事に響いても困るし」

けっきょく私たちは、路地にある蕎麦屋に入った。昼時だったが、客席は半分も埋まっていなかった。季節野菜の天せいろを頼んだ。衣がびしょっとしていて、あまり美味くなかった。たぶん野菜も新鮮ではないのだろう。あまり流行っていなさそうなので、何日かまえに仕入れた食材なのかもしれない。蕎麦も、駅のホームで提供されるものとの違いが判らない。めんつゆは辛すぎる。ツグミちゃんは芋の天ぷらを一つつまんだ。

「あんまり美味しくないね」

ツグミちゃんは言った。

「インターネットの情報を鵜呑みにするのはよくないな」

ツグミちゃんはきょとんとした顔で私を見た。

「ネットで評判いいの、ここ?」

「いや、知らない」

「は?」

つまりこういうことだ。この蕎麦屋に入店するまえにインターネットのウェブサイトでどんな店か調べておけばよかったと私は思ったのだが、そういう情報は意外と正しくない、とすぐに否定した。というのも、半年前に妻子と出かけた鍋料理店が、ウェブサイトでは五つ星ながら、接客も味も最悪だったのだ。私はまた自分勝手に会話を進めてしまっていた。ツグミちゃんは私のいつもの癖に気づいたらしく、かまわず話を進めた。私も気を付けるようにした。

「でもいいのよ。あたしはこういう店のほうが」

「なぜ?」

「気取らなくていいじゃない。それにきっと、夜がメインのお店なのよ。それも二軒目三軒目の。たくさんお酒飲んだときは、こういうびしゃっとした揚げ物のほうが美味しく感じない?そう考えると、この店もこの街らしいわ」

たしかにそうだ。私は思った。友人の結婚式でビールやワインなどを飲み過ぎて酔っ払ったときなど、提供されるフレンチだのイタリアンだののコース料理が少しも旨く感じないことがある。その代わり、余興や挨拶周りに心を奪われているあいだに手を付けるのをすっかり忘れ、冷めて固くなったパスタが妙に旨く感じたりするのだ。

「結婚式でそんなに酔っ払うのはおかしいわ」

ツグミちゃんは笑った。ポエムでも、パスタや焼きそばなど簡単な料理を出すことがあるが、客の酔い具合で油の加減や味付けなどを調節しているということだった。私はいつも室田に付き合って定食屋の出前を食べているし、夜遅くなったときはカワキモノしか頼まない。

「じゃあ今度、試してみて」

たまにポエムで調理を行っているのは知っていた。しかし私は、そのあと狭い店内に充満する安い油の匂いに辟易していたのだ。それでもツグミちゃんがそう言うなら、今度試してみようと、そう思った。

ツグミちゃんは、あ、急に思い出した、と、ポン、と手を叩いた。

「結婚式で酔っ払う人、いたわあ」

ツグミちゃんは自分の最初の結婚式で親戚の叔父さんが酔っ払って大変だったという話をした。新婦の両親を差し置いて、ビール瓶を何本も抱えてテーブルを回り、途中で足がもつれて倒れ全身びしょ濡れになった。都内の有名ホテルを使った盛大な式だった。披露宴の会場は学校の体育館二つ分ぐらいの広さだったという。叔父さんはそれで舞い上がってしまったのだ。司会は民放の元アナウンサー。それから、全く面識のない男性俳優からお祝いのビデオメッセージがあった。元夫の友人に芸能事務所の関係者がいて、何とか頼み込んだらしい。東映だか日活だかのヤクザ映画によく出ていた、強面のベテラン俳優だった。とにかく派手な結婚式だった。

「見栄っ張りなのよ」

ツグミちゃんは少し寂しそうな顔をしていた。

私は自分の結婚式を思い出していた。おそらく規模という点では、ツグミちゃんの式にも匹敵するだろう。故郷の街一番のホテルを貸切って行われた式には、会ったこともない親戚や地方議員、商工会の重鎮らが多数参加し、次々に私にお祝いを述べた。私は当惑するばかりだった。それをごまかすために、勧められるままに酒を飲んだ。地元の酒蔵が制作し、近々県を挙げて売り出す予定という度数の高い日本酒をしこたま飲んだ。泥酔したのは私だった。悪酔いが頂点に達したとき、父が招いた次郎さ踊り保存会が見事な演舞を披露し始めたのだ。私はげらげらと笑った。笑いは私の脳を鷲掴みにし、グラグラと揺すった。私はトイレに駆け込んだ。新婚初夜は、妻をほったらかしにして吐いていた。

「じろーさー じろーおーさー じろさが水くみゃ ねこがとびだし こしぬかす」

私は次郎さ踊りの歌詞を披露した。ツグミちゃんはしばらく笑いが止まらなかった。

「カワちゃんてほんと楽しいね」

私が披露したのは、ほんのさわりだった。その場の雰囲気に合わせて、歌詞はアレンジされた。もっと卑猥な内容であることが大半だ。いまでは滑稽なお座敷芸として郷土の老若男女問わず愛されている次郎さ踊りだが、もともとは農家の次男坊の悲哀を表現したものと言われていた。次男坊の多くは結婚も許されず、奉公に出されるか、実家に寄生する作男として一生を終えたのだった。

 

ツグミちゃんは、ムロちゃんたちの部屋が見たい、と言った。私が、室田の部屋には生活感というものがないという話をしたのだ。それで興味を持ったようだった。私たちは並んで大通りを歩いた。ラーメン屋の行列に並んでいるのは、青白い顔をした若者ばかりだった。ほぼすべての若者が、スマートフォンに目を落としていた。

管理人は私たちに、管理人室のなかから笑顔で会釈をした。ポトスはまえに見たときよりも葉が増えている気がした。

「素敵なマンションねえ」

ごとごとと揺れるエレベーターの中でツグミちゃんは言った。私は同意できなかった。周りの秀麗なマンションに比べれば、ワンランクもツーランクも格下であることは一目瞭然だった。

「同じ会社が作ったマンションにいたのよ、あたし。作りがだいたい一緒。懐かしくなっちゃう。もう売っちゃったけどね。周りは工場ばっかりで。空気は悪いし、うるさいし」

家政婦が、ちょうど部屋の鍵を閉めたところだった。大きなバッグの中には、室田や私の洗い物が入っているはずだった。家政婦はピンク色のポロシャツに、ベージュのジーンズという格好だった。それが制服なのだ。ポロシャツの胸のあたりに、エプロンをしたアライグマの絵が描いていある。家政婦は大きな胸をしていたので、それが際立った。家政婦は私に会釈して、帰って行った。家政婦の表情が、以前よりも険しくなっているような気がした。私が勝手に料理などを始めたからかもしれない。仕事を増やすなということだ。

ツグミちゃんは、リビングのソファに座った。その気になれば三人座れる、大きめのソファだ。ツグミちゃんによると、有名なメーカーのソファだという。ツグミちゃんはインテリア雑誌を見ながら、理想の部屋についてあれこれと想像するのが好きだと言った。だから家具メーカーにはある程度詳しい。いまは狭い部屋に、子どもたちの荷物がぎっしりで足の踏み場もないけど。子育てがひと段落したら、理想の空間を作って快適に過ごすのが夢だった。

「おそらく、この家具はコーディネーターが選んだのね」

間取りや広さに合うように、家具を一式揃えてくれるサービスがあるという。それなら私も知っている。妻と何度か、ショールームに出かけたのだ。まだ新居を買う余裕もないので冷やかし半分ではあったが。

この部屋はたしかに統一感があって居心地も悪くないと言えるが、室田の趣味ではない。室田の趣味に合わせるなら、カーテンは紫、ソファは真っ赤、ローテーブルはガラス張りになるはずだ。それから、毛の長いもこもこのラグ。ツグミちゃんはそう結論付けた。ツグミちゃんは羽織っていた長袖シャツを脱いだ。ノースリーブのシャツだけになった。

「ごめん、気が付かなくて」

私はエアーコンディショナーのスイッチを探した。部屋のなかはたしかに少し暑かった。私はふだん室田に遠慮して、エアーコンディショナーをあまり使用していなかった。この初秋の季節でも夏を思い出したように高温となる日が稀にあるが、熱気は大きな建物の谷間にこもるのか、この部屋ではまだそれほどの暑さを感じたことがなかった。

「いいよいいよ、エアコンかえって調子悪くなるから。冷え性なの」

ツグミちゃんは大きく手を振った。丁寧に手入れされた脇の下が見えた。とつぜん私は下半身が熱くなるのを感じた。中古書店でアダルトビデオやエロ本に囲まれていても何も感じなかった私が、ノースリーブのツグミちゃんに性欲を覚えている。これは恢復の兆しかもしれなかった。年齢は私より上かもしれないが、ツグミちゃんが妻よりも肉体的な魅力を持っているのはたしかだった。私はたじろいだ。ツグミちゃんに私の下心を見抜かれないよう、ひと呼吸おくためにトイレに行った。陰茎は激しく勃起し、小便をすることができなかった。トイレから戻った私は、ダイニングテーブルに座った。ひとまず距離を置こうと思ったのだ。膨らんだ股間に気付かれるのも間が抜けている。こういう場合、どのようにして円滑に性交を始めることができるのか、私には知識も経験もなかった。

「じつはね、ここに来るのは初めてじゃないの」

ツグミちゃんがとつぜん呟くように言った。

「え?」

私の頭のなかを一瞬で様々な思念が駆け巡った。ツグミちゃんの別れた夫というのは、じつは室田なのではないか?そう思うと、あれほど魅力的に見えたツグミちゃんの肉体がにわかに醜く思われ始めた。股間に張りつめていた力がすうっと抜けた。それならば、室田は別れた妻が勤めるスナックの常連だということか。すっぱり諦めることができず、妻を監視し続けるようなものだ。正気の沙汰ではない。偏執狂だ。それとも、別れた妻が他の男と親し気に会話するところを間近に見ることに喜びを覚えるという特殊な性癖の持ち主なのか。それならば私がツグミちゃんと性交したと知れば、室田は喜ぶのではないか。

私の顔が私が思う以上におかしかったようで、ツグミちゃんは大げさに吹き出した。

「違うわよ。あたしムロちゃんとそんな関係じゃないわ。そういうことじゃなくて、むかしね、ムロちゃんがママとかお店の常連さんとか呼んでパーティーしてたのよ。十年ぐらいまえかな。ムロちゃんが手料理を作ってね。なかなかのものだったわよ。そういうのが、月に一、二回あったかな」

私は室田の意外な一面を聞き、素直に驚いた。

「ウチのお店以外にもいくつか行きつけがあって、何度もやってたらしいわ。掛け持ちしてる人もいたから。またやってるの?って。毎週末パーティーよ。今風にいうと、パリピー?」

ツグミちゃんは自分の言葉に笑った。

「部屋も、あのころとぜんぜん違うから驚いた。あたしさっき、紫のカーテンとか言ったでしょ。あれ、そのころの部屋のことだから。壁にも大きな、おしゃれな絵が飾ってあったり」

ツグミちゃんはテレビがまえに置かれた真っ白い壁を指さした。そこには有名なアメリカ人の抽象画家のレプリカがかかっていたという。私は実家の居間に飾られた大きな絵のことを思い出した。家族が一堂に会した油絵の肖像画だった。とうぜん中学生の私も描き込まれていた。それが絶妙に男前に描かれていて、誰が見ても私だとわかるものの、誰も納得はしなかった。画家の絵心というはなるほどこういうところにあるのかと感心したものだ。

私はまたいつもの癖で自分の話をべらべら始めそうになった。しかし口に出す前に止めることができたのは、先ほどの心理的動揺の名残があったからかもしれない。私は黙って頷いただけだった。まだ、ツグミちゃんと室田の仲を疑っていた。ツグミちゃんは喋り続けた。楽しそうだった。

「壁紙も違ったし、床も白黒の、チェス盤みたいだったのよ。部屋のなかももっとゴタゴタしてたわ。あの辺にでっかいオーディオセットがあって。CDが床に散らかってたわ。それから季節外れの服とか、お酒の空瓶がそこらじゅうに置きっぱなしになってたり。普通、お客さんが来るって言ったらちょっとは片付けるじゃない。ムロちゃんそういうのがなくて。あの辺にはすごく大きな赤いソファがあって、ムロちゃん、あの頃から酔いつぶれるのが早かったから、気が付いたら鼾かいて寝てるの。だからあたしたちで掃除してあげたり。朝まで麻雀してたこともあるわ。だからカワちゃんから生活感がないって聞いて、驚いたのよ」

すっかり片付いて必要最低限なモノしかないこの部屋が雑然としている様子を想像するのは難しかった。私と知り合う前の室田と、いまの室田のあいだの変化について私は考えた。年をとって人との関りがだんだん煩わしくなったのか。人だけではなく、モノとの関りも。それは室田が突然思い立って禁煙した時期と一致するのか。思い出してみると、室田の仕事机はいつもきちんと整理整頓されていた。資料の類も、用済みと判断すれば迷いなく捨ててしまう。ほかの職員はというと、何年も前の書類を綴じたファイルが机の上に出しっぱなしになっているのはもちろん、ペットボトルやお菓子、ぬいぐるみやアイドルのブロマイドさえ置いている者までいて、非常に賑やかだったのだ。室田の机だけが、ぽっかり空いた穴のようだった。

「同じ職場の若い女の子もいたわよ。いつも違う子なの。あんまり、私たちには馴染めなかったみたいだけど。タイプは同じなのよ。すらっとして、黒髪で、頭が良さそうな子。ひょっとして、カワちゃんも知ってる子かもよ」

「室田さんは僕の職場に出向してきていただけで、違う組織なんだ」

「ああ、そういえばそんなこと言ってたね」

ツグミちゃんはつと立ちあがると、レースのカーテンを開けた。強い西日が一気に入り込んできた。

「このマンションが建ったときね、ここから海が見えたんだって」

私はツグミちゃんと並んで窓の外を見た。背の高いビルやマンションがいくつも見えるだけの、いつもの光景だった。

「どんどん新しい建物が立ってた頃だったけど、八階なら大丈夫だろうってタカをくくってたらこのザマって、よく言ってたわ」

「もっと海に近いあたりのマンションを買えばよかったのに」

「あの辺は埋め立て地だから地盤が悪いって言ってたわ。むかしは線路のあたりまで海だったんだから。もちろんあたしはそのころを知らないけどね。チョンマゲ時代の話よ」

ツグミちゃんはカーテンを閉めた。向かいのビルの八階に、人影があったように見えた。私はその印象に捕えられた。ツグミちゃんはまたソファに座り、まだ窓の外を見ている私を見上げた。

「海が見えたら、素敵だったね」

「まあ、そうだね」

私は海のことなど興味はなかった。気になったのは法律事務所のある八階の人影だ。人影は私たちをじっと見つめていた気がする。私はひょっとして、監視されているのではないかと思った。法律事務所の人間が、室田の留守中の私の行動を監視しているのだ。依頼主は主治医だろうか、妻だろうか、あるいは室田だろうか。しかしガラス窓は傾いた日差しを反射し、思うように人影の正体を見定めることができなかった。私は諦めて、ソファに座った。ツグミちゃんとは半人分、あいだを開けた。ツグミちゃんと性交する気はもちろん失せていた。私はひどくそわそわし始めた。

「じつはムロちゃんのこと、あんまり知らない?」

とつぜん声を掛けられ、私は、え?と聞き返した。ツグミちゃんはもう一度同じことを言った。

「プライベートなことはあまり、話さないから」

「プライベートのど真ん中にいるのに。変な話ね。今度聞いてみたら。これ以上はあたしの口からは言えないけど、きっと面白い話があるわよ」

私は湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れた。戸棚の中にはペアのコーヒーカップがあった。カーテンに濾された西日が、私とツグミちゃんの影を白い壁に写していた。

「ムロちゃんとカワちゃんって、年どれぐらい離れてるんだっけ」

「十歳ぐらいだと思う」

「思ったより近いな。なんかね、父子みたいって言ってたのよ。ママとあたしで」

帰宅した室田は、女の匂いがする、と言った。私は何も答えなかった。私の鼻の奥に、ツグミちゃんが発する甘い匂いが甦り、いつまでも粘り強く貼りついていた。店のなかでは爽やかな匂いの香水をつけていた。そのベールの下にある、生身の人間が発する、汗や脂の混じった匂いだった。

いつものように私たちはポエムに行き、近くの定食屋が作った飯を食べ、女主人やツグミちゃんと他愛のない話をした。ツグミちゃんは部屋を訪れたことを言わなかった。その話が出れば、私も合わせるつもりだった。八時には店を出た。

室田は帰宅してもすぐに眠らず、リビングでウイスキーを傾けながら古い映画を見ていた。私が買ってきたカティサークを、ロックで飲んでいた。カティーサークは千円ちょっとだった。私はもう一本、店主の勧めでマッカランを買って、おつりと一緒にテーブルのうえに置いておいた。室田はマッカランには手を付けなかった。私は室田に断って、それをグラスに注いだ。私はダイニングテーブルから、室田の薄くなり始めた後頭部が割り込んだモノクロの映画を見ていた。華やかな舞踏会のシーンだった。この部屋の、賑やかだった過去を想像した。しかし室田の過去のことを聞く気はなかった。グラスが空になるとリビングのカーテンを半分開き、向かいの雑居ビルを見た。八階の明かりはまだついていた。室田はチラッと私を見たが、唐突な行動を疑問に思う様子はなかった。私は部屋に戻り、先日古書店で買ったままになっていた小説を読み始めた。しかしなかなか集中できず、中途で放り出した。

 

室田の仕事が忙しくなったようだった。帰宅が十時を回ることも多くなった。なにか重要な案件を抱えているようだった。休日出勤も多かった。いつも八時か九時には眠っていた室田は、さぞ辛いだろうと思った。主治医が当初指定した休暇期間は半分を過ぎていた。私は昼食を自炊することを、自分に課していた。キッチンは油や水はねで薄汚くなったが、家政婦が帰ったあとはいつも新品のようにリセットされていた。しかし生活の匂いは少しずつ、この部屋に染み込んでいくようだった。もはや私と家政婦の戦闘が始まったと言ってよかった。現在のところ、我が軍はやや優勢に思われた。

上司の永井が部屋を訪ねてきた。私は朝早く起きて髭を剃った。前日に散髪も済ませておいた。永井も室田と同じ市からの出向組で、室田とは顔見知りだった。

「顔色はだいぶよさそうじゃない?」

永井は私より少し年下で、馬のような顔をしていた。デスクマットの下に、誕生日に三人の息子たちが描いた似顔絵を挟んでいた。一番下の子どもが描いた絵は人間としての形態を探り出す方が難しかったが、上の二人はさすがにあるべき位置にあるべきものを配置していた。どれも馬には似ていなかった。子どもなりに気を遣っているのかもしれない。永井は電車で一時間ほど離れた住宅地に、外国メーカーの大きな家を建てていた。宅地開発が始まったばかりの土地で、駅からもかなり離れていた。自家用車での送り迎えは永井の妻の役割だった。しかし子どもたちにとってはいい環境のようだった。雑木林や池、川などが手つかずのまま残っていた。タヌキだかハクビシンだかが、庭に出現することもあると言っていた。巣箱を作ると、シジュウカラが住み着くようになった。私に、同じメーカーの家を購入することをしきりに勧めていた。友人を紹介するとなにか特典があるのかもしれない。妻も、家を買うなら戸建てがいいと言っていた。検討の余地はあった。

永井は殺風景なリビングを物珍しそうに眺めまわしていた。

「なにもないな。独身貴族ここに極まるって感じだな。どうせ夜も飲み歩いてるんでしょ」

「どこかで食べて帰るようですが、就寝時間は遅くとも九時でした」

私はポエムの話はしなかった。

「室田課長も年には勝てないのかねえ」

永井は、室田が若いころはずいぶんモテたという話をしていた。どんなに仕事が忙しくても、必ず飲み歩いていたという。飲み明かして仕事に来ても、疲れたそぶりは少しも見せなかった。永井は、あれは超人だ、と言っていた。ツグミちゃんの話と、だいたい同じイメージだった。

室田はトラブルに巻き込まれているのではなく、部内であった急な人事異動の煽りを受けてほかの課の課長を兼務しているようだった。急な人事異動という妙な言い方が、少し引っかかった。おそらく精神の不調で休職した課長がいるのだろう。私は、体調がだいぶ恢復していること、次の診断次第では薬の量を減らせるかもしれないことを話した。いずれにせよ、順調に職場復帰できる見通しであることを強調した。散髪してさっぱりとこぎれいになった私の姿は私の言葉は説得力があるように思った。しかしじっさいのところ、主治医は病気休暇の延長を強く勧めていたのだった。

「まあそんなに、無理はしないでよ。いまのところみんなで回せてるからさ」

私が担当してた仕事の八割がたは、永井がやっていた。永井は自分の事務処理能力の高さを、少し鼻にかけているようだった。私がいなくても職場は回っているということを伝えるのは私に悪い影響を与えると思ったのだろう。たまたま優れた事務処理能力を持った管理職がいたおかげで、なんとかなっている。たまたまだ。やはり君は必要な存在なのだ。

しかしじっさい、私の職場は人員がだぶつき気味だった。定型的な業務ばかりだから、職員も管理職も暇を持て余していた。なにか問題ごとが起こると、担当外の者もみんな集まって、だらだらと詮議を始めるのだった。それで一日終わることもあった。室田の前任は、三十分に一度喫煙所に行き、十五分は帰ってこなかった。客観的に考えて、私一人いなくてもどうとでもなりそうではあった。

永井は就任当初、私たちの職場に様々な改革を行った。職務中はスマートフォンをしまうこと、私語や間食の禁止など、まるで中学生扱いだった。朝礼ではその日の予定を順番に発表し、終礼で進捗状況を報告した。永井はそれらをこまめに記録していた。前任の室田はどちらかと言うと放任主義だったから、反発も大きかった。しかし私は、永井のそのような積極的な姿勢を評価していた。就職してからこの方、このような厳しい環境を経験したことのなかったため、新鮮な感動を覚えていたのだった。私がとくに楽しみにしていたのは、毎週水曜の三分間スピーチだった。職員が交代で、趣味や家族のことなど自由に三分間、話すのだ。同僚の意外な一面を知り、親近感を覚えることで、いままでよりいっそう職場の団結を深め、業務連携の円滑化を図るのが狙いだった。中年の女性職員が男性アイドルグループの話を長々するのには辟易したが、物静かな若手女性職員がサバイバルゲームを趣味とし毎週末雑木林で銃撃戦に勤しんでいること、同年配の陽気な男性職員が昆虫の生態について専門家顔負けの知識を持っていることなどを知るのは誠に有意義だった。私はもちろん、イクメンファイブの話を披露し、動画を公開さえした。次の回は次郎さ踊りのさわりを踊って、皆の喝采を浴びた。しかし私の精神状態が悪化するにつれ、三分間スピーチの時間は苦痛でしかなくなった。他人の話に少しも興味を持てないばかりか、苛立ちさえ覚えるようになっていたのだ。私は理由をつけて水曜の仕事を休んだ。

永井は家族のことを聞かずに帰った。昼時だった。どこか旨い飯屋はあるか、と聞かれて、ツグミちゃんと行った蕎麦屋のことを教えておいた。

恢復しているのは間違いなかった。無気力状態も、消そうとしても消えない自殺願望もまったく顔を出さなくなった。外出も問題なかった。処方薬の効果は、この部屋に来て本来の威力を発揮し始めた。やはり私たちは物質的な存在なのだ。

しかし恢復したように見えた私は、妻や子のことをほとんど考えずに過ごしていた。彼らを愛おしいと思ったことは一度もなかった。薬の効用は、以前の状態への回帰ではなかった。病気の原因となった状況についての認識をわきに追いやることによって、安定を得ているようだった。私の精神状態が見かけ上正常になるよう、処方薬が脳内を整理しているのかもしれない。室田の部屋を訪れる家政婦のように、余計なモノを手早く取り去るのだ。処方薬にそこまでの機能があるのか、ネットで調べた限りではわからない。次回診察時に主治医に尋ねてみようと思った。

 

私は室田がいなくても、一人でポエムに通った。

ツグミちゃんと女主人は、ボックス席で他の常連たちと飲んでいた。この店には珍しい、若いサラリーマンたちだった。ツグミちゃんたちの声も、心なしか弾んでいるように思えた。私は室田のボトルを傍らに置いて、すっかり氷が溶けてしまったグラスに酒を注ぎ続けた。だいぶ酔っていたが、楽し気なサラリーマンたちに割り込んでツグミちゃんに新し氷を頼むのは躊躇われた。

カウンターの片隅に、男が一人で座っていた。いつの間に入店したのか、私より先にいたのか、いま一つはっきりしない。薄暗い店内で、私は男の姿をちらちらと横目で探った。私はトイレに行くついでに、意を決して、男の肩越しに声をかけた。振り向いた男の顔は、先日公園で出会った親切な歯磨き男に間違いなかった。

「ええ、覚えていますよ……」

男は金森と名乗った。水割りのグラスを握る金森の手は少し震えているように見えた。

「ひょっとしてあなたは、ポプラ法律事務所に勤めていませんか?」

「ええ、そうですよ……それがなにか?」

「いや、私のマンションがちょうど真向いにあって、あなたに似た人を窓のなかに見かけたので、ひょっとしたらと思いまして」

「そうですよ、きっとその人は私なんでしょう」

「あなたの席は窓際に近いところなのですか?」

「そうです。夕方になると西日がきついんですよ!夏のあいだはほんとうに耐え難かった!しかしなぜそんなことを聞くのです?そんな話はやめにしませんか?私は少しだけ、気晴らしにここに来ただけなんです!仕事のことなんか考えたくないことは、あなたにだってあるでしょう?」

金森の声は相変わらず、消え入るように小さかった。疲れ切っているようにも、怯えているようにも見えた。ほんとうに仕事に疲れているのかもしれなかった。しかしやはり誰かに頼まれて、私を監視していたと考えるのが適当だと思われた。金森はうなだれるようにして、じっとグラスを見つめていた。私は徐々に、金森を追い詰めているという手応えを感じていた。

「それは申し訳なかった。ゆっくりしていってください。私の友人のボトルがある。ほらそこの、船の絵が描いてある奴だ。カティサーク。あれを飲んでもいい」

私はボトルを金森のまえに置いた。金森は頷いて、室田のボトルをじっと見つめた。金森のグラスにはまだ半分ぐらい、水割りが残っていた。

「実は……。あまり酒が強くないのです。ですがせっかくのことですから、これが空いたら一杯だけ。……お言葉に甘えて」

金森は落ち着きを取り戻しつつあるようだった。私は自分のペースに金森を巻き込んだことを確信した。もともと、人懐っこい男なのだ。おそらく。少し引っ込み思案なだけで。私はこのまま会話を続け、機会を得て、毅然と、監視をやめるよう、警告する決意をした。しかしそのあとの長い議論を予想して、先に膀胱を空にしておいた方が適当だと考えた。尿意はまた急激に増幅していたのだ。トイレのなかで戦略を練った。金森のおどおどした様子からして、あくまで寛容かつ穏やかな態度で、自尊心をくすぐるようなかたちで、彼の破廉恥な行動を戒めてやるのが適当だと思われた。居丈高に脅すよりは断然、効果があるはずだ。まずは金森の趣味や故郷の話などを聞いて、気持ちをほぐしてやるのがよいだろう。三分間スピーチの応用だ。なんなら、次郎さ踊りを見せてやってもいい。私は鏡のまえで柔和な笑顔の練習をし、トイレの扉を開けた。

トイレから戻ると、金森はいなかった。グラスの輪染みだけが、カウンターに残っていた。ボックス席では女主人とツグミちゃんと若いサラリーマンたちが嬌声を上げていた。何かゲームをしているらしかった。

 

主治医との話はほぼ雑談に終始した。私は最近の出来事を、委細漏らさず話した。私は毎日、詳細な日記をつけていた。それをプリントアウトして、主治医のまえで要約して話した。初めての試みだった。私が休暇中でも、以前と変わらないように活発な活動をしていることを印象付けるためだ。中古書店で買った本を読み始めたが、途中で中断していることを話した。主治医はそれがどんな内容で、何ページぐらい進んだのかということまで聞いた。私は公園で見かけた、歯磨き男のことも話した。主治医は少し興味を持ったようだった。他人の靴を履いて帰ったこと。自炊を始めたこと。人間は物質的な存在であること。室田が過去にパーティーピープルだったということ、それから、ツグミちゃんに性欲を抱いた話までした。歯磨き男こと法律事務所の金森に監視されているかもしれないということは隠しておいた。事実であれ、それが典型的な狂人の妄想であり、私に対する診断に不利に働くであろうことは容易に想像できたからだ。私は主観的には以前の状態にほぼ戻りつつあることを強調した。主治医は大きく頷いた。しかし、もう少し休暇を延長したほうがいいと言った。主治医はじっと私の目を見ていた。薬の量が増えた。私は帰りのバスの中で、泥のように眠った。何度も寝過ごした。

私はポエムにボトルを入れた。カティサークだ。室田のボトルと並んで置かれた。「ムロタ」「カワイ」と、ぶら下げたプラスティックのタグだけが違ってあとは見分けのつかないボトルが並んでいた。私は室田の流儀に反して、ポエムに長居した。閉店まで粘ることもあった。ポエムに毎日出勤しているのは女主人とツグミちゃんしかいない。たまに手伝いに来る女が何人かいた。そのころ、ミツコという若い女がよく来ていた。北国の小動物を思わせる精悍で美しい顔をしていたが、私のまえに立つと途端に愛想がなくなるので、私も相手をしなかった。感性が動物に近いのだ。嫌悪感を感じる対象を徹底して遠ざける。余計なお世話かもしれないが、こういう仕事には向いていないと思う。客が増え始めると、私は一人でぼんやりカウンターに座っていた。あの日以来、金森の姿をポエムで見ることはなかった。

ときに常連たちとも多少、話をすることもあった。その中に偶然一人、同郷の者がいた。私の叔父が経営するタクシー会社で、弟が働いているというのだ。私はうっかり、それが叔父の会社であることを話してしまった。

「カワダサンって言ったら資産家のカワダサンだよ。あんたあそこの息子か!」

そのときから私は放蕩息子というキャラクターを与えられ、それを演じた。妻子と別居して精神を病んだ男でいるよりも、親の金で遊び暮らす中年男であるほうがずっと楽だった。私は饒舌になった。みんなに酒を振る舞いさえした。ボトルをまとめて入れてやった。良い気分だった。

「カワちゃん、ほどほどにしときなよ」

ツグミちゃんが隣のボックス席から首を伸ばし、私に耳打ちした。

私の悪い癖だった。先述した通り、私の一族は地方都市でいくつかの企業を経営しており、父は駅前の雑居ビル数件の管理と賃貸物件仲介を主な生業とする不動産会社の社長だった。幼いころから家に金は溢れていた。私は友人たちの歓心を買うため、そして不良たちの暴力から逃れるために、たびたび金の力を使った。地元の不良たちが私からせしめた金銭は、軽く見積もっても数十万円に及ぶだろう。父は私を叱った。しかしそれほど厳しく叱らなかった。父は私を諭した。

「自分を守るために金を使うのは悪いことではない。しかしいつでもというわけではないのだ。金を使うことによって自分が相手より下の立場になってしまうのなら、金は使うな。殴られても蹴られても耐えなければならない」

私は父の言葉を肝に銘じた。幸い私には、道化者の才能があった。十回に三回は、不良たちから逃れることもできた。しかし私の悪癖はなかなか治らなかった。父が私より弟を選んだ理由は、おそらくそれだった。大学でも同様の行為を繰り返し、父に金の無心をした。風俗店の女性に入れ込み、彼女が悪質な金融会社からしていた借金の肩代わりをしたこともあった。もちろん父の金だ。大学卒業時、私は念書を書かされた。今後一切、金銭の要求をしないこと。ただし冠婚葬祭など特殊な事例は除く。

 

夜十一時を過ぎると、客層はがらりと変わった。ツグミちゃんは、少々ガラの悪い連中について、ボックス席に座っていた。私たちと話すときよりも大きな声で話していた。男たちの肩を叩き、笑っていた。私は少し嫉妬を覚えた。

客のなかには、風俗店の客引きもいた。キネオ、と呼ばれていた。二十代半ばぐらいだろうか。挑戦的な目つきの男だった。キネオは私の隣に座った。

「いつもお世話になっています」

キネオは言った。私は恐怖を感じた。と同時に、キネオに話しかけられたことを喜ぶ気持ちもあった。キネオは街の不良たちと同じ目をしていた。私たちにとって恐怖の対象でしかなかった不良たちはしかし、教師や同級生の女子たちから人気があった。彼らの行動は支離滅裂で、一貫性がなく、暴力的だった。しかし内部の矛盾をさらけ出しても、その矛盾と共に生き続けられる能力、それが人を引き付けるのだ。彼らの遺伝子の持つ冒険志向、リスクを快感に感じる思考回路が、人類の発展に大きく寄与したのは言を俟たない。私もまた、彼ら不良少年たちを恐れ、嫌悪する一方、彼らに強い憧れの気持ちを抱いていたのだった。

「やだカワちゃん、ここで一杯やってから行ってるのね」

女主人が言った。

「いや、一度も」

「そうそう。そうなの。この方、俺がどんなに誠意を尽くしても、ピクリとも動かないのよ」

「この人、奥さんいるのよ」

「奥さんとか関係なくないですか?いくらラーメン好きでもたまには違うもの食いたくなるでしょ。こっちはより取り見どりだから。頼みますよ。たまにはさ」

「ねえ、ここで営業はダメよ」

「わかっますって」

キネオは最初の印象よりも、悪い奴ではなかった。話は要領を得なかったが、一応、私を年上として尊重しようとしている姿勢は随所に垣間見れた。これは不良たちに特有の性質だった。品詞に含まれる敬語の割合はおよそ三十パーセントだった。キネオは、ゆくゆくは音楽で身を立てていくつもりだと言っていた。

「ここの商店街で路上ライブして成り上がった奴らがいるじゃないですか。だから俺、ここに来たんだ」

「路上ライブをしてるんですか」

「してないね。俺、ギターとか弾けないんですよ」

「じゃあ、相方がいるの」

「それがいないんだな」

キネオはカラカラと笑った。

「高校のときにさ、ギター上手い奴に片っ端から声かけたの。俺とビッグになろうって。でもみんな首を縦に振らないんです」

首を縦に振らない、という言葉に私は引っ掛かりを覚えた。酒席でのくだけた会話にはあまり馴染まない言葉だ。キネオにとっては少し難しい文語的な言い回しも、敬語の部類の入るのかもしれなかった。

「歌に自信があるんだね」

「ねえ、歌ってあげたら?」

キネオはゆずの「栄光の架橋」を歌った。キネオの歌は、それはひどいものだった。音程もダメなら、声もダメだった。素直に客引きを続け、風俗店の経営者を目指したほうが、まだ芽が出そうだった。ボックス席にいた連中がひどいヤジを浴びせた。ツグミちゃんは手を叩いて笑った。うるせえ、と言いながらもキネオの顔は笑っていた。キネオはボックス席に割り込むようにして座り、ワイワイと賑やかに話し始めた。しかし数分後、キネオと彼らの間でケンカが始まった。キネオがとつぜん思い出したように、失礼なヤジを飛ばした男の胸倉を掴んだのだ。キネオは、おまえ俺の歌をバカにしただろう、と叫んだ。

「外でやんなよ」

女主人がうんざりしたように言うと、一応ケンカは収まった。

 

日曜、ツグミちゃんの子どもと一緒に買い物に出かけた。室田は出勤だった。

ツグミちゃんが前日の夜、メールで私を誘ったのだ。たまには賑やかなところに行くのもいいんじゃない、と。ツグミちゃんについてきたのは姉のリンだった。リンは一度私に会ってみたいと言っていたようだった。リンはイクメンファイブの動画が気に入っていたのだ。

リンは腰まで伸びた長い髪を一部ピンク色に染めていた。全体は淡い栗色だった。学校でも、ずいぶん目立つだろうと思った。しかしこの界隈では、大人のようなメイクをし、若い果実のような太ももを惜しげもなく晒して歩く女子学生を多数見かける。リンの中学校ではそれがスタンダードなのかもしれない。

リンは色白で、目が大きかった。少し前歯が出ていた。それを気にしているのは明らかだった。笑顔を見せてもすぐに、口を噤むのだ。しかし全体として、人目を引く容姿であることは間違いなかった。身長も高かった。もう少しでツグミちゃんに並びそうだった。ツグミちゃんも美人だが、あまり似ていなかった。きっと父親が美男子なのだろう。たいていの人間のなかでは、遺伝形は着実に発現しているのだ。私と違って。ターミナル駅に着くと私たちは西洋料理店に入った。私はビールを頼んだ。

話をしているうちに、リンのほうがツグミちゃんよりもだいぶしっかりしているような印象を受けた。ツグミちゃんはポテトと緑黄色野菜のグラタンを頼んだ。熱くなっているので気を付けてください、とウェイトレスに言われたのに、皿の縁を掴んで私のほうに押し出したのだ。カワちゃんも食べなよ、と言いながら。

「熱っ」

ツグミちゃんが顔をしかめて手を引っ込めるとリンは、

「ママ、さっきの人の言うこと聞いてた?」

と呆れた顔で言った。まるでツグミちゃんの母親のようだった。ツグミちゃんが働いているあいだ、弟の面倒を見てきたのだから普通の中学生よりも大人びているのかもしれない。夕食も、リンが作っているようだった。揚げ物もできると胸を張った。

「家に帰ると山盛りのポテトフライがあったりするのよ」

ツグミちゃんは嬉しそうに言った。

「ねえママのところばっかり行ってないでさ、今度、ウチに食べに来なよ。美味しすぎてびっくりするから」

「もちろん、喜んで」

リンは人懐っこい笑顔で笑い、すぐに口を噤んだ。ツグミちゃんに似て、人見知りをしない素直な娘のようだった。

私はリンにシーフードパスタの作り方を教えた。リンは、今度作ってみる、と言った。リンが私に好意を持っていることは明白だった。ときどき、イクメンファイブを演じる私の物真似をした。なかなか鋭い観察眼だった。リンは胸元が大きく空いたシャツを着ていた。片方の肩が出ていた。黒いタンクトップが見えた。そういうファッションなのだが、目のやり場に困った。ときどき、ツグミちゃんが襟元を直した。食事を終えると私たちは地下街をうろつき、リンは髪留めやTシャツを買った。Tシャツは黒地に蛍光ピンクで、半裸の女性が瓶ビールをラッパ飲みしている絵柄だった。妻ならば視界にすら入らないであろうデザインだった。二人は姉妹のようにはしゃいでいた。

私は人込みの中で、少し疲れを感じていた。行き交う人々は私に肉弾の波状攻撃を仕掛けているようだった。店から店に移るだけで、ひどく精神を消耗した。あちらの店からこちらの店、そしてまたあちらの店に戻る。私は二人について歩いているうちに、方向感覚をまったく見失ってしまった。まるで地下迷宮に迷い込んだようだった。しかし二人は現在位置をしっかり把握している。妻にも同じような傾向があったが、二人はそれを圧倒的に凌駕していた。それだけではない。

「さっきの店、もう一回行ってもいい?」

「いいよ」

それだけで、迷うことなく「さっきの店」に辿り着くのだ。私には「さっきの店」とやらがどの「さっきの店」なのか、皆目見当がつかない。この小一時間で、地下街にあるほとんどすべての女性向け衣料品店や雑貨店に足を踏み入れたと言っても過言ではないのだ。しかし二人には「さっきの店」がどの店か、わかるのだ。それが不思議だった。おそらく手にした商品の形状、色彩、質感、あるいは全体の印象について、二人は言葉を交わすことなく共通の認識を持ち、他の商品と比較しているのだ。また、リンの価値判断は、「かわいい」「かわいくない」の二分法だった。「かわいい」と気に入っていたものよりもっと「かわいい」ものが見つかると、さっきのは「かわいくない」になってしまう。リンの「かわいい」は絶対的な排他性を持っていた。しかしひょっとすると、ツグミちゃんの家庭の経済的な事情が、リンにそのような思考を強いているのかもしれない。

ツグミちゃんがときどき私を振り返り、ちょっと休む?と聞いた。

「顔色が、あんまり良くないようよ」

私は断った。地下街には喫茶店や、ベンチ付きの自動販売機コーナーがあった。しかしどこも満席だった。ベンチでは、妻子の買い物に付き合うことを放棄したらしい中年期の男性たちが顔を顰めて舟を漕いでいた。私はほんの数か月前の自身の姿をそこに見出していた。そして私は彼らの姿を憐れんだ。妻子が楽しく買い物しているあいだうたた寝しているとは、なんと不幸なことか。父親ならば、妻子の少し後ろに立って、彼女らが楽し気に時を過ごしているのを穏やかに微笑んで見守っているべきなのだ。

リンが楽器を見たいと言った。楽器店は幸い、繁華街の外れにあった。どちらかと言うと、オフィスビルが多い地帯だ。道は広いし、人の流れはだいぶ穏やかになっていた。ちょっとした公園もあり、よく茂った常緑樹は私の目を楽しませた。ツグミちゃんとリンが二人並び、私はそのあとをついて歩いた。私の足取りは軽かった。三人で楽器店に入った。

「ねえ、これかわいくない?」

リンは壁にかかったピンク色のギターを指さした。すぐに店員が寄ってきて、壁から降ろした。リンはアンプにつないだギターを試奏した。ドレミファソラシドレミファソラシド。学校の友達に借りて、練習しているらしかった。たどたどしい指使いで、「きらきら星」を弾いてみせた。

「ムスタングというモデルで」

楽器屋の店員は、小さくて女の子向きのギターだと言った。有名なミュージシャンも使っているらしかった。店員は、若者に人気のある曲のイントロの弾き方をリンに教えた。私もツグミちゃんも知らない曲だった。店員は器用に指先を動かしていた。そして軽くチューニングを直し、リンにギターを手渡した。リンは熱心に繰り返した。細いからだの美少女が小型といえど武骨なギターを抱える姿は非常に絵になった。店員は、リンはまだ始めたばかりだが、リズム感があるし、音もきれいだと言っていた。私にはよくわからなかった。どう考えてもヘタクソだった。きちんと弦を抑えられないから、気持ちの悪い不協和音が店中に響き渡っていた。ギター弾きを探している音痴のキネオと組めば、ちょうどいいのではないかと思った。しかしリンは楽しそうだった。難所を越えると、

「できた!」

 と私に顔を向け、目を輝かせるのだ。私の頬も自然と緩んだ。本来、親子とはこうあるべきなのだ。

リンのお気に入りのギターは初心者向けモデルで、六万円ほどだった。いまならミニアンプとマルチエフェクター、ピックを十枚つけると言われた。私はリンからギターを受け取り、しげしげと眺めた。なかなかいい色だった。私はギターを構えて、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフを弾いた。高校のころ、バンドをやっていた友達に教えてもらったのだ。誰でも弾けるから、と。三十年ぶりだが、覚えていた。

「お父さん、すごいじゃないですか」

店員はにやりと笑った。すごいすごい、とツグミちゃんは言った。

「そんな特技があったのね?」

特技なんかではない。音を出しただけだ。店員もバカにしている。人差し指一本で言を抑えて横に動かすだけだ。誰でも弾ける曲なのだ。しかし店員はリンのことは気に入ったみたいだった。弾き方の指導をしているときに、やたらにからだに触れていた。私がギターを奪い取ったのも、そのためだった。

私はそのギターを買ってやると言った。

「だめよ、そんなの」ツグミちゃんは言った。「高校に合格したら、ママが買ってあげるから」

「いいんだよ。とにかくいいんだ。買わせてくれよ」

私はやや気色ばんでいた。

「だめよカワちゃん、そういうのは」

「いまから練習しておけば、高校でみんなを驚かせることができるよ」

「やったあ」

「カワちゃん、甘やかさないで」

わたしはツグミちゃんを無視して、財布からクレジットカードを出して、店員に押し付けた。

「ちょっと、」

「いいんだ」

ツグミちゃんは困った顔をしていた。私はなぜか、怒りに近い感情を覚えていた。私はすっかり、リンの父親になった気になっていた。なぜ父親のすることを止めるのか、ツグミちゃんの心情が理解できなかったほどだ。

リンは喜んで、さっそく練習がしたいと言い、私たちを置いて家に帰ってしまった。家で弾くときは、あまり大きな音を出しちゃだめよ、とツグミちゃんは言った。

「ありがとう、カワちゃん」

ツグミちゃんは私の手を握って、言った。私の心臓がどくんと打った。

私に下心があったわけではない。私はほんとうに、ツグミちゃんには感謝していたのだった。どん底状態の私を救ってくれた第一の恩人は室田だが、ツグミちゃんに対してはそれ以上の恩義を感じていた。ツグミちゃんがいなければ、私はマンション周辺を歩き回り、週に一度バスを乗り継いで心療内科に通うだけの味気ない生活を送っていたところだった。このように、人込みの繁華街に買い物に出かける気にもならなかっただろう。六万円ぐらい安いものだった。

「そう言ってくれるのはうれしいけど、でも、こういうのはあまりよくないと思うの」

ツグミちゃんは財布から、一万円札を六枚出した。私は拒否した。ツグミちゃんはそれを三枚に減らした。私はまた拒否した。

「受け取ってくれなかったら、お店を出禁にするよ」

ツグミちゃんは涙ぐんでいるように見えた。私は少し折れ目のついた一万円札を受け取って、ジーンズのポケットに入れた。

私たちは、手をつないで歩いた。私が手を握っても、ツグミちゃんは拒否しなかったのだ。私の気分は高揚していた。リンの心遣いに感謝した。私はツグミちゃんと家庭を築くことを想像していた。そしてそれは上手く行くと、確信していた。自然と二人の足は、西口の外れのホテル街に向かっていた。

私は妻と息子のことを考えずに過ごしていた。その結果、いまでは別居以前の精神状態をほぼ取り戻すところまできていた。主治医の許可さえ出れば、いつでも仕事に復帰することは可能に思われた。私と妻のあいだに起こったことの核心部分について、まだ思い出すことはできない。しかし思い出すことのないまま、新しい生活に踏み出すことも可能なのではないか。私というものが自他の記憶の総体だと考えるならば、私は発症前の私とは別の人間になっているのだ。私はその時の考えを、無責任だとか、身勝手だとは思わなかった。熟慮したうえでそのような結論に至ったわけではなかった。妻と息子のことを忘れてこれからの生活を進めることが、私にとっても彼らにとっても最良なのではないかと、ただ思っただけだった。おそらくツグミちゃんの元夫たちも、別れた妻子のことなど考えずに新しい生活を始めているのだろう。私だけが特別ではないのだ。

狭い路地に入ったところで、ツグミちゃんの足取りが鈍くなったように感じた。私は強く手を引いた。

「カワちゃん、痛いって」

ツグミちゃんが悲鳴を上げた。私は思わず足を止めた。ツグミちゃんの悲鳴に驚いたのではない。男の影が、路地のあいだに消えたのが見えたのだった。あれは金森だ。あの陰気な、おどおどした顔を一瞬私に向けたのだ。間違いなかった。しかも金森の口元は、いやらしく歪んでいたのだ。私は顔が紅潮するのがわかった。私はツグミちゃんの手を離し、駆け出した。決定的な証拠を掴んだのだ。もう逃がしはしない。

その時、男と肩がぶつかった。男はスマートフォンを見ながら歩いていた。男は立ち止まって、私を見下ろした。大きな男だった。私も身長は高い方だが、その私が見上げるほどだった。おっさんなにしてんの?そう言って、私の胸を自分の分厚い胸板で押した。私は後ろによろけた。足が震え、うまく体を支えられなかった。思わず地面に尻餅をついた。

「ちょっとなにしてんのよ?お互い様でしょ?」

ツグミちゃんが言った。ツグミちゃんは一歩も引かない様子だった。

「うるせーばばあ」

「は?調子乗ってんじゃねーぞ、このガキ」

ツグミちゃんが低い声で言うと、男は少し驚いた顔をした。私も驚いた。二人はしばらく睨み合っていた。ツグミちゃんは見たことのない表情をしていた。少し垂れた大きな目が、異様な光を放っていた。男は大きな声で笑った。不自然だった。男がツグミちゃんに対して、恐怖心に近いものを感じていることが読み取れた。こういった手合いは、本能的に自分より強い相手を察知する。ツグミちゃんは繁華街の片隅のスナックで荒っぽい連中相手に商売を続けるうちに、この程度の半端者などは鼻にもかけない度胸を身に付けたのだろう。

私はなんとか二人の間に割って入った。いくら度胸があると言っても女性なのだ。相手が激昂して怪我などしてはいけない。ツグミちゃんは未来の私の妻なのだ。私には守る義務がある。私はポケットから折り畳んだ一万円札を取り出し、男に差し出した。男はそれをひったくると、地面に唾を吐いた。

「だっせーな。おっさん」

男はそう言い捨て、大股で歩いていった。

「ちょっとカワちゃん、大丈夫?ケガしなかった」

私は自分でも気づかぬうちに泣いていた。子どものように泣いていた。私は不思議だった。私は未来の妻を救ったのだ。ヒーローだ。それなのに泣いている。ひどく混乱していた。どこかで金森が見ているはずだった。私を見て笑っているに違いなかった。私は何とかして、泣いている自分を否定しなければならなかった。

「嘘、嘘。泣いてないよ」

私は顔を歪めて笑おうとしたが、涙を止めることができなかった。

「あっはっは、こりゃ楽しいぞ」

私は大きな声を上げて、手を振り回した。

「愉快、痛快!そんなことあるかい!」

「ちょっとカワちゃん、やめてってば」

たくさんの人が見ていた。ツグミちゃんは私の手を強く引いて、早足で歩きだした。私たちは近くにあったラブホテルに入った。

 

ホテルリネンの乾いた糊の匂いは、室田の部屋を思い出させた。私の気分は徐々に落ち着いてきた。先刻の私はまごうことなき狂人だった。私は羞恥心に苛まれ、思わず立ち上がって部屋のなかをぐるぐると歩き始めた。

ツグミちゃんはベッドに座り、缶ビールを飲み始めた。一口飲むと、私にも差し出した。私はようやく、ツグミちゃんの隣に腰を落ち着けた。

「ごめんね、連れ出したりして。こんな目に遭わせて」

「いや、そんなことは」

「たまには外出るのもいいかな、と思ったんだけど。やっぱりまだカワちゃん、ふつうじゃないと思うんだ。楽器屋にいたときとか、目つきが変だったもん。正直、ちょっと怖かった」

「……」

「ごめんね、カワちゃん」

そう言って、ツグミちゃんは私を抱きしめた。しかしすぐに体を離した。甘い匂いだけが私に残った。ツグミちゃんは、ふっと溜息をついた。

「カワちゃんの奥さんはどんな人なの?」

ビールを啜りながら、ツグミちゃんが言った。私はツグミちゃんからビールを受け取り、ぐっと飲んだ。

「なんで」

「別に。ちょっとお話しようかなと思って」

「図書館の司書をしている。大人しくて、目立つのが嫌いで」

「似たもの同士ね」

「僕も似ていると思った。満員電車で席が空いても、慌てて座ろうとしない、とか。車の運転が好きじゃない、とか」

ツグミちゃんは笑った。

「そっか。早く戻れるといいね」

ツグミちゃんはポンと私の肩を叩いた。

「もう戻れないよ」

私は即座に否定した。妻子の元に戻るなど、考えられなかった。第一、私は欲情していたのだ。ツグミちゃんに抱きしめられたことで、私のからだは素直に反応していた。性交がしたかった。ツグミちゃんはそれを察知して、とつぜん妻の話を持ち出したのかもしれない。しかしその効果はなかった。私は欲情していることを素直にツグミちゃんに告白した。

「そんな気分には、とてもなれないわ」

ツグミちゃんは言った。

「それなら、僕と結婚してください」

ツグミちゃんは驚いた顔をしたが、ぷっと吹き出した。

「なによ急に。って、話が飛ぶのはいつものカワちゃんね。結婚したらいつでもセックスできるってこと?」

「そうじゃない」

咄嗟に否定したが、私の思考の筋道はおおよそツグミちゃんの指摘通りだった。しかし結婚は性交の手段とばかりはいえなかった。私はツグミちゃんと結婚したかった。もちろん性交もしたかった。要するに私は混乱していた。

「病気が治ったら、考えてあげるわ」

「治す。絶対に」

「治ったら、私のことなんか見向きもしなくなるくせに」

ツグミちゃんはそう言って笑うと、ビールをまた飲んだ。スナックで接客するときと同じ調子だ。軽くあしらわれたようで、私は怒りを覚えた。

私は突然立ち上がると、ベルトを外し、ズボンと下着を降ろした。破裂しそうなほど勃起した赤黒い陰茎が、ツグミちゃんの目の前に晒された。ツグミちゃんは退屈そうな顔つきで、私の股間をじっと見つめていた。

「そんなの見せられたって、なんとも思わないよ。男と女は違うんだから」

「違う。病気になってから、こんな風になったことは一度もなかったんだ。だから僕自身、驚いているんだ。さっきからずっとだ。一度も小さくなっていない。苦しいぐらいだ。僕はもう八割以上、回復している。あと少しなんだ。それを知ってほしいから」

硬くなった陰茎を震わせながら私が一気にまくしたてると、ツグミちゃんはまた笑いだした。

「おかしいの?おかしくなんかないよ」

私はまた泣き出しそうだった。

「ごめんね。うちの子のこと思い出したの。お風呂上りにさ、ママ!ちんちんがこんなんなってる!って見せに来たの。もうあたし、笑っちゃって。大人になるまで、他人には見せちゃだめよ、って言っておいたわ」

「本当に好きなんだ」

ツグミちゃんの息子の話など、私の耳に入るはずはなかった。ツグミちゃんは急に立ちあがると、先に帰っていい?ご飯の準備しなきゃ、と言った。

「みんなそう言うのよ。自分の都合のいいときだけ」

ツグミちゃんは千円札を数枚、サイドテーブルの上に置いていた。私はベッドに横になり、ホテルリネンの匂いを嗅ぎながら薄暗い天井を見上げた。私は熱くなった下半身を持て余していた。スマートフォンで検索し、デリバリーヘルスの女性を呼んだ。電話を取次いだ男の陰気な声は、金森のそれと瓜二つだった。私の陰茎はだらりと下がった。女が部屋に来てもそのままだった。

「もうけっこうです。お帰りください」

私はツグミちゃんが置いていった数千円を女性に手渡した。

「足りないんですけど」

女性は言った。前歯のあいだに大きな隙間がある女性だった。

私はツグミちゃんにメールを送ろうと思った。何度か文章を綴っては消した。そしてついに、スマートフォンをベッドの上に投げ出した。するとメールの着信があった。ツグミちゃんだった。

ちょっと驚いたけど、嬉しかった。カワちゃんのことは好きだよ。でもいまは病気を治すことを考えてね。健康第一!

そんなことが書いてあった。薄っぺらい、表層的な言葉だと思った。

「所詮水商売の女だ」

私は呟いた。この手の女の「好き」は、億万長者の一万円と同じなのだ。何の価値もない。こういう言葉を口にすることに何の躊躇いもない、破廉恥極まりない女だ。私は口汚く罵った。するとまた、頬を涙が伝った。私は自分の混乱が収束し始めているのを感じた。

 

テレビをぼんやり見ていた。雨が降っていたので、日課の散歩は取りやめにした。テレビのチャンネルを一つずつ切り替えた。午前中の情報番組はどこも同じ内容をやっていた。ローカル放送では、韓国の時代劇と、昔の日本のドラマを放映していた。ドラマを見ていた。最後まで見たが、結局なんのドラマかよくわからなかった。恋愛劇と推理劇の要素が混在していた。私は混乱しただけだった。ドラマが終わると、短いニュースがあった。昼前だった。室田が映っていた。三人並んで、頭を下げていた。

記者の質問に答えているのは室田だった。見慣れない、地味な紺色のスーツを着ていた。ポマードを付けたリーゼントスタイルは、いつもより控えめだった。不正な経理があったようだった。横領ではなく、見積もり誤りか何かの事務処理ミスを隠蔽しようとしたらしかった。金額は一億程度だった。取引相手の業者が狡賢い手合いだったのかもしれない。私の一族も、公共事業に絡んでずいぶんといい思いをしていたのは知っている。

室田の帰宅は遅かった。私はすでに眠っていたが、室田が帰る音で目が覚めた。珍しいことだった。レンジフードのランプだけついたキッチンに立った室田はカティサークをグラスに注ぐと、ストレートのまま一気に飲んだ。雨に濡れたレインコートから、滴がぽたぽたと落ちていた。後ろで見ていた私に気付くと、明日も早いんだ、と言って自分の部屋に戻った。私は室田の真似をして、ウイスキーを一気に飲み干した。喉が焼けるようで、胃がぎゅうッと締まった。腹を抱えて、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。バスタオルを抱え下着姿で部屋から出てきた室田が、なにしてんだよ、と笑った。

翌日、永井が来た。私はまだ眠っていた。私が身支度を整えるまで、永井はすっかり寛いだ様子でソファに深々と座っていた。ローテーブルの上には、チェーンの喫茶店で買ってきたコーヒーとワッフルがあった。お土産のつもりらしい。

私は永井に断って、朝食をとりながら話すことにした。永井は不正経理の話をし出した。私はバナナの皮を剥きながら、初耳だと言った。永井は、ニュースぐらいチェックしておきなよ、と言い、その内容を説明し始めた。だいたい、私の想像通りだった。もともと、室田が関わっていない部署での話だった。そこの課長が急な休みに入ったので、室田が兼務していたところ、不正が見つかった。室田にはまったく非がないということだった。むしろ室田は告発者なのだった。

「だからいくら謝っても、室田さん自身はダメージゼロなわけ」

私は永井の言葉に反発を覚えた。毎晩のように日付が変わるころに帰宅し、休暇もろくに取っていなかった室田がダメージゼロなわけがない。しかし私はそれを口に出さなかった。私は牛乳を飲み干した。

主治医の診断書を見せると、永井はちょっと口を歪めただけで、まあゆっくり休みなよ、仕事のほうは大丈夫だから、といつもと同じことを言った。休暇は延長された。規定によると、あと二月弱は病気休暇が認められるはずだった。しかしその先の見通しは全く立たなかった。ひょっとしたら、仕事を失うかもしれない。なんの技術も資格もない四十代の男に、再就職先などあるはずがなかった。故郷に戻るという選択肢が浮かんだ。弟の下でご機嫌をうかがいながら働くのもまたよかろう。グループの建設会社では、私を搾取した不良が数人働いている。また連中に小突かれながら働くのも、私らしくていいかもしれない。しかしすべて実のない空想だった。第一、父は許さないだろう。私はふと考えた。ひょっとして、金森に私の監視を依頼しているのは父なのではないか。それは大いにありうることに思えた。

 

ポエムでも、室田の話題が出た。テレビで見たのは私だけで、女主人は地方新聞の記事で会見の写真を見たと言っていた。中心に映り、名前が出ているのは部長と局長で、室田は隅っこにいるだけだった。名前も載っていなかった。

「最近顔出さないと思ったら、大変なことになってたのね」

女主人の話によると室田は、三日ここに顔を出さなかったら管理人に頼んで、マンションの鍵を開けるよう頼んでいた。老人の孤独死が話題になっていたときだった。酔っぱらいの戯言かと思っていたら、次の週に実印を押した委任状を持ってきた。それは今でも店に保管してある。女主人が委任状を持ってマンションに来なかったのは、私が仕事が忙しいようだということを伝えていたからだった。

「カワちゃんはトラブルのこと、なにも知らなかったの?」

「仕事の話はしないんだ」

「こういうときこそ、来てほしいわよねえ。今日明日じゃムリだろうけど。辛いでしょうねえ」

女主人は本当にそう思ってるらしかった。ちょっと涙ぐんでいた。ツグミちゃんもだった。私はなんだか、除け者になったような気分だった。永井ですら、永井なりのやり方で室田に対する感情を定めていた。あの時は、永井の心情を察するに及ばなかった。ダメージゼロなどと、ずいぶんひどい言い方をした、ということを話すと、

「その人だって、いつかムロちゃんと同じ場所に立つかもしれないし、それにたぶんカワちゃんに、心配をさせないようにそう言ったのよ」

とツグミちゃんは言った。たしかにそうかもしれなかった。私は自分に彼らほどの共感能力や想像力がないことを悔やんだ。

一週間しないうちに、室田の仕事は落ち着いたようだった。以前のように夕方には帰ってきて、私を誘ってポエムに行って、出前の夕食を食べ、そのままボックス席で眠ってしまう。私は以前ツグミちゃんが話していた、ポエム自前の料理を頼んでみた。女主人の気分でメニューは変わるようだった。その日はナポリタンだった。ピーマンと玉ねぎ、ウインナーが入っていた。普通のナポリタンだ。ビール一本だけだったので酔っぱらいの口に合うかどうかはわからなかったが、非常に旨かった。その日は、油の匂いがずっとポエムに充満していた。匂いに誘われて、ほかの客もナポリタンを頼んだ。材料が足りなくなった。私は買い出しを買って出た。歩いて三分ほどのところに、古びたスーパーマーケットがあった。キネオに声を掛けられ、少し立ち話した。私は材料費として女主人から一万円を渡されていた。私は女主人から用を預かっていること、所持金がその一万円しかないことを伝えた。

「今日だけ特別。一万円でいいですよ」

キネオは言った。キネオは今夜出勤している嬢の写真を見せた。ツグミちゃんに似ている子がいた。少し心が動いたが、私はあいまいに笑って、キネオに別れを告げた。後ろのほうで大きな音がした。キネオがなにかを蹴ったようだった。相変わらず短気な男だ。帰り道は風俗店のまえを避けた。

 

室田に誘われて、渓流釣りに行った。室田の車は、マンションから歩いて五分ほどの場所にある屋内駐車場に停まっていた。車中、ずっとサザンオールスターズの曲を流していた。相変わらず会話は少なかった。室田の車は快適だった。加速はスムーズだし、外の音は完全に遮断されていた。私は何度か眠りに落ちた。朝五時に出発したのだ。

室田が釣りをしているあいだ、私は山道を歩いたり、近くのキャンプ場を冷かしたりしていた。キャンプ場には親子連れがたくさんいた。妻と息子は今、なにをしているのだろう、と思った。そして私はいま、ここで何をしているのだろう、と思った。しかし妻と息子の元に戻ろうという強い気持ちは起こらなかった。美しい自然に囲まれ解放感を味わえば考え方も変わるかもしれないと少しは思っていたが、ムダだった。豊かな自然は逆に、私に惨めな少年時代を想起させた。過去の断片が私の脳裏に去来し、ガラスの破片のように舞い踊った。私は川のなかに頭を突っ込んだ。そばにいた幼子が驚いて泣き出した。私は一目散に逃げた。

私の一族について、ある噂があった。小学校の頃に悪友から聞いたのだ。今では父がすっかり近代風に建て替えてしまったが、私が産まれる以前は旧式の日本家屋だった。そこに座敷牢というものがあったらしい。私の一族には何代かに一人、必ず狂人が産まれる。遠い先祖が近隣の人たちを騙して富を築いた報いを受けているというのだ。その狂人は、座敷牢に閉じ込められた。これはもちろん根も葉もない噂話だった。私たち一族を羨み妬む醜い気持ちが、そのような伝承を生み出したのだろう。急に財を成した者たちを巡っては、様々な憶測が産まれる。花咲じいさんやこぶとり爺さんの類の、正直者が正当な報いを受けるといった内容の昔話は、富める者たちが自己防衛のために流布した言説なのかもしれない。とにかく私は恐れていた。いつか父が、その座敷牢を復活させ、私を閉じ込めてしまうのではないかと。その条件は整っていた。

私は思春期のころ、本当の私は数分、数日、あるいは数年未来を生きているという観念にとらわれていた。風呂に入るまえに靴下を片方脱ぐ。すると私の脳裏に、シャワーの温度を調節しながら手のひらをひっくり返している私の姿がありありと浮かぶのだ。そうするともう、行動を止めることはできなかった。中学の授業中、卒業式で証書を受け取りに上がった舞台で転ぶ姿がふいに浮かんだことがあった。果たして私は卒業室当日舞台で派手に転んで、全学生の失笑を買った。私はすでに生を生きてしまっていて、私自身はそれを追いかけているだけなのだ。そして永遠に、追いつくことはできない。

一度だけ私は、自分の運命に抗おうとしたことがある。高校卒業のときだ。大学受験に失敗した私は、浪人して大学医学部に合格し、医者になると周囲に宣言した。父は地元の公立大学を出て、公務員か教師になることを勧めていた。私も高校生のあいだはそう思っていた。しかし私は突如反抗した。社会的地位や名誉を得ることができれば、きっと一族の者たちも私を見直すだろう。私は医師になった自分の姿が脳裏に浮かぶのを待った。それはついに現れなかった。しかし父は私の決意を認め、東京の全寮制大学受験予備校への入校を許可した。とうぜん、私の成績は芳しくなかった。地元の公立大学さえ、望みがないと言われていたのだ。模擬試験の成績はいつも最低だった。医学部など夢のまた夢だった。私は二年、諦めなかった。東京の有名私大で大学生活を始めていた弟は、たまに私の寮を訪れて激励してくれた。兄さんなら必ず受かるよ。嫌味でも皮肉でもなく、本心なのだ。まことによくできた弟だった。三年目、父に再挑戦を申し出ると、父の表情は変わった。私はそのとき、父が私を狂人として認定し、座敷牢に閉じ込めるつもりなのだと思った。父は三月末でもまだ入学試験が受験可能な大学のリストを私に手渡し、今年度どこにも合格できなければ、進学は許さないと命じた。

室田は釣った魚を居酒屋に持ち込んだ。初めて行く店だった。マンションから歩いて十分ぐらいの、小さな料理店だった。駐車場からのほうが近かった。室田はこのために、わざわざ遠くの駐車場を借りているのではないかとさえ思った。ほかにも持ち込みの客がいて、室田は彼らと釣果について楽しそうに語り合っていた。私は魚のフライや煮物をつつきながら、室田たちの話をぼんやり聞いていた。誰も私に興味を持っていないようだった。

翌日、室田は居酒屋から密閉容器に入れて持ち帰ったフライや煮魚をポエムに持っていった。フライは霧吹きをかけてからオーブントースターで焼くといい、と私は言った。美味しい、と言ってフライは、ほとんどツグミちゃんが食べてしまった。珍しく、早い時間にキネオが来ていた。キネオは車が好きらしく、室田としばらくBMWについて語り合っていた。

 

私の状況にほとんど変化はなかった。処方薬を飲み始めしばらくした頃の成果は目覚ましかったが、いまは低いところで安定している感じだった。主治医に慣らし運転的な職場復帰の可否について尋ねたが、色よい返事はなかった。主治医を変えるべきなのではないか、と思った。問診だけでなにがわかるのですか、MRI検査で画像診断したり、脳波を調べたりするべきではないですか、と多少気色ばんで主治医に迫ったが、とにかくいまの環境で、恢復を待つことです、と言われた。会計を済ませた私は納得がいかず、もう一度診察室に入ろうとした。受付係が私を止めたが、主治医は平然とした顔をしていた。

「まあ、座りなさい」

主治医は私が先ほどの問診で話した、室田との渓流釣りの話を持ち出した。自分も釣りが趣味だと言った。室田と同じように、釣った魚を居酒屋に持ち込み超知りてもらっていたが、店主が高齢のため店を畳んでしまった。できれば室田が言っている店を紹介してほしい、などということを話していた。

しばらく雑談したことで、ようやく気持ちが落ち着いた。私は受付の女性に頭を下げ、医院を出た。

私は日課の散歩をし、部屋で読書をし、夜はポエムに行った。何度か、永井から電話があった。ファイルの場所を尋ねるとか、発注先の業者で物分かりがいいのはどこかとか、そういう些細なことだった。私は詳細に説明した。なんなら、職場に出向いてもいいと言ったが、永井は断った。

私の気持ちに、焦りが生まれ始めていたのは明白だった。皆がグルになって、私を職場から、家庭から、あるいはこの世界から、追い出そうとしているのではないかと思い始めた。私はしょっちゅうベランダに出て、向かいの法律事務所を見つめていた。人影は見えなかった。気が付くと日中ずっと、ベランダにいる事もあった。外気に晒されて肌は荒れ、ひどい喉の痛みが生じた。金森の姿は見えなかった。

私はポエムで、いつものように室田が眠ってしまったあとで、金森は最近来ていないのか、と聞いてみた。女主人もツグミちゃんも首を捻った。金森などという名前はおろか、弁護士の客は心当たりがないという。

「一回来たぐらいじゃ、名前も仕事も言わないしね」

「こんな場末のスナックに弁護士先生は来ないよ」

常連客の一人が言った。禿げのこばちゃんだ。

「あら失礼ね。むかしは国会議員の先生が入り浸っていたこともあったのよ」

私が先日カウンター席で会話していたところを見ていなかったか聞いても、二人とも記憶にないと言った。私はこばちゃんを金森がいた位置に座らせ、その時の状況を再現してみた。

「カワちゃんがそんな顔で迫ってきたから、きっと怖くなっちゃったのよ」

「あーあ。お客さん一人減っちゃった。ほんとうにその人が弁護士先生だとしたら、こちらとしては大損害ですぞ」

無邪気な二人の会話を聴いていると、正常な思考が戻ってきた。私は妄想に取りつかれている。誰かに監視されているという妄想を抱くのは、統合失調症の典型的な症状だ。私はひどく落ち込んだ。私の精神状態は退潮していることを認めざるをえなかった。しかし私は、金森に監視されているという事実を、そして金森の存在を、私の脳裏から完全に消し去ることはできなかった。何が正常で何が異常なのか、いったい誰が判断できるというのだ。

 

室田が帰ってこなかった。翌朝目を覚ましても、室田はいなかった。昼過ぎに、携帯電話をかけてみたがつながらなかった。二日経っても、音沙汰がなかった。夕方になって、永井から連絡が入った。室田が仕事中に倒れたという。幸い、職場の目と鼻の先に大きな病院があり、適切な処置を受けたおかげで大事には至らなかった。しかし二、三週間の入院が必要だった。

室田の同僚がたまたま、永井の知り合いだった。お見舞いを贈ろうという話が伝わってきて、永井も室田の入院を知ったのだった。

永井から入院先の病院名を知らされたが、病人が病人を見舞っても仕方ないと思い、なかなか足が動かなかった。

室田が不在となった部屋は、私から活力を奪った。私は家政婦が来ても、外出しなかった。家政婦が私の部屋を掃除しているあいだ、私はリビングでテレビ放送を見ていた。たまに、新曲宣伝で出演するアイドルグループのダンスを真似していた。家政婦は一通り仕事を済ませると、まるで私など存在しないかのように鍵を閉めて出ていくのだった。家政婦は間違いなく、私を嫌っていた。

室田が不在のあいだも私は昼食の自炊を続けた。炊飯器を購入しさえした。そして汚れた食器をそのままにしておいた。買ってきたスナック菓子の袋や総菜パンの食べ残しをあたりに置きっぱなしにしておいた。イチゴジャムを塗ったトーストを床に落としたりもした。家政婦が来るとそれらはきれいに片付けられていた。家政婦は涼しい顔で帰っていくのだった。私はリビングの壁に醤油をぶちまけた。これはかなり効果的だった。醤油は壁紙とよく馴染んだ。家政婦は茶色い地図のような染みのまえで、腕組みをしていた。私は笑いを押し殺した。家政婦はさまざまな洗剤や器具を使い、染みに戦いを挑んだ。家政婦は善戦した。しかし最終的には私の勝利だった。染みは八割がた消えていたが、縁のあたりが拭い切れていなかった。夕方の西日に照らされると、地図は鮮やかに浮かび上がった。海に浮かぶ孤島のようだった。私は満足した。

孤島のような染みを見つめていて、ツグミちゃんが、かつてこの壁にはおしゃれな絵画が飾ってあったと言っていたのを思い出した。あのとき口に出さなかったが、私の実家の応接間には、古臭い油絵が飾ってあった。地元の画家に描かせた、家族の肖像画だ。応接間でくつろいだ様子の祖父母、父母、私、弟、それから飼い犬のタロウが描かれている。美術用語では、カンバセーション・ピースというらしい。家族団欒図。昨年の正月に帰省した際、その家族団欒図が入れ替わっていることに気付いた。描かれていたのは父母、弟夫婦、弟の息子だった。同じ画家が描いたのか、人間の首の上以外は以前あった絵画とまったく同じで、私はそれが入れ替わっていることに就寝前ようやく気付いたほどだった。祖父母の顔は父母となり、私の顔は弟の息子の顔となり、弟の顔は、あろうことか、私の一人息子の顔とすげ替えられていた。そして最も衝撃的だったのは、飼い犬のタロウの顔が妻の顔と変わっていたことだ。これには驚いた。妻も衝撃を受けるだろう。私は滞在中、妻子が居間に入らぬよう、細心の注意を払った。予定を一日繰り上げて帰宅したほどだった。

私はツグミちゃんとリン、それからツグミちゃんの息子と私が描かれた肖像画が必要だと思った。この壁に直接描きこんでやるのがよい。絵筆と油絵の具が必要だった。私に絵心はないが、本気になれば人間、絵の一つや二つぐらい、立派に描くことができるだろう。じっさい、私は確信に満ち溢れていた。商店街に美術用品店があったはずだった。私は外出の準備を始めた。

呼び鈴が鳴った。家政婦が、さらに強力な洗剤や器具を用意して、再度戦いを挑むつもりかもしれなかった。なにを聞かれても、すっかりきれいですよ、と答えるつもりだった。いや、この際家政婦のやりたいようにやらせておくのもいいと思った。真っ新なキャンバスに、私たちの幸福な肖像画を描くのだ。想像するだけで爽快な気分だった。しかし玄関には、男が立っていた。おろしたてのようなスーツを着て、大きなビジネスバッグを持っていた。黒い革靴はピカピカに磨き上げられていた。金森だった。

「ご無沙汰しております」

「ああ……」

「今日は室田さんの代理で来ました」金森は言った。「入院はまだ長引きそうなので」。

私の知っている金森の、陰気な、おどおどした口調ではなかった。じつに爽やかで、きっぱりしていた。まさに頼りになる、敏腕弁護士と言ったところだ。私の手を取り、力強く握りしめたほどだった。しかし私はそれほど驚かなかった。ふだん控え目で、物静かで、妙におどおどしている人間が、仕事となると俄然やる気を出し、人が変わったように饒舌に、鋭い意見を次々に表明することは珍しくないのだ。金森はおおかた、そのタイプなのだろう。

私は金森をとりあえず部屋に招き入れ、話を聞くことにした。室田が弁護士を雇っているなど、聞いたことがない。なにを企んでいるのか知らないが、おおかた室田の噂をポエムで聞きつけ、のこのことやってきたのだろう。私が一人なら、与し易いと考えたのかもしれない。しかし私からすれば、金森は羽をもがれた鳥のようなものだ。なんと言っても、ここは私の部屋なのだ。隙を見て、金森を追及してやるつもりだった。

金森はソファに座るのを待ちきれないように、リビングルームを横切りながら話し始めた。身振り手振りを交えて。

室田は幸い一命をとりとめたが、じつは脳梗塞だった。後遺症が残る可能性が高い。最悪の場合、一人で生活することが困難になる場合もある。その場合、もちろん仕事を続けるわけにもいかない。幸い故郷には母親と二世帯住宅を構えた弟がいるので、そちらで面倒を見ることもできる。そうなれば、この部屋についてもなんらかの対応をする必要がある。

「処分が前提ですが。もちろん、あなたが住み続けることも可能だと、室田さんは言っていました。その場合、家賃の支払い義務は生じると思っておいた方がいいですね。あとあとのことを考えて」

ようやく辿り着いたソファに深々と腰かけた金森は小指で耳の垢をほじくり、ふっと息を吹きかけた。小さな爆発が起こったように、白い粉が散った。そして、ビジネスホテルかモデルルームのように生活感のない部屋を見回した。なんの匂いかはわからないが、少し苦みのあるような体臭を発散していた。

「中年男性の一人暮らしですから。いつ何が起こるかわからない。室田さんはこまごまごしたことまで、私に指示を与えていました」

私は黙って金森の次の言葉を待った。すぐに食いつけば、奴の思うつぼだった。こうなれば長期戦を覚悟してもよかった。しかし徐々に私の気力は萎えていった。とにかく、金森の体臭が不快なのだ。金森はふいに立ちあがると、レースのカーテンを勢い良く開いた。

「こうして自分の職場を別の角度から見るというのもよい経験ですね。あなたがときどきベランダに出ていることも、知っています。私たちの事務所をじっと見ていることもね」

金森は振り向いて笑った。私はその表情に、非常な苛立ちを覚えた。金森の体臭はもはや耐え難い程度になっていた。私は監視のことなどどうでもよくなってきた。

「見ることは同時に見られること、ですね。深淵を覗くとき、おまえもまた深淵から……」

「私が、」

私は金森の言葉を遮った。早くこの部屋から、出ていって欲しかったのだ。なにより、金森の匂いが耐え難かった。

「私がいまするべきことはあるのですか?それだけお伝えいただければ」

「今すぐ、ということはありません。ただ心積もりをしておいてほしい」

「心積もりとは」

「ここを出ていくか、それともここに居座り続けるか。ずっと。今後ずっと」

金森はにやにやと笑っていた。

「もちろん、いつまでもここにいるつもりはありません」

「出ていくのも辛いでしょう。最近のあなたはまたこの部屋に来る直前の状態に戻りつつあるようだ。死にたいとは思いませんか」

「なにをとつぜん」

「思うようですね」

「思いませんね」

「本当ですか?一瞬の決断で、楽になれるのですよ。退屈な仕事からも、失恋の痛手からも解放される」

「失恋?僕は結婚している」

「ツグミちゃんはあなたに失望しただろうなあ」

「やっぱりあのときの男はおまえだったのだな」

私は金森に掴みかかった。しかし金森はひょいと身軽に逃れた。気が付くとダイニングテーブルのうえでしゃがんでいる。そしてまた耳垢をほじり、息をかけて吹き飛ばした。

「私もかなりのワーカホリックでしてね。若いころはカウンセリングを受けながら、何とか正気を保って仕事を続けていたものです。今ではすっかり寛解しましたがね。昨今では誰もが皆、多かれ少なかれ精神を病んでいます。恥じることはなにもありません。さて、私は深夜まで仕事をし、そのままあの事務所で寝泊まりすることもかなりの頻度であるのです。最近は特にね。気分転換に窓の外を見るのです。美しい中国人女性たちが楽し気に踊っている影がカーテン越しに見える。それが何より、私の疲れた心を癒してくれます。ちなみに、この部屋の明かりが、夜遅くまでついているのも見えます」

「何かの間違いだ。僕も室田も、眠るのはかなり早い」

「あなたが自分で知らず、深夜に部屋の明かりを煌々と灯してうろついていたら?室田さんは落ち着いて眠ることもできないでしょう。ひょっとして今度の病気も、あなたに一因があるかもしれませんよ」

「そんなわけは、」

「人間に必要なのはなにより、十分な睡眠です。室田さんはそれを妨げられていた。あなたによって。言語障害!半身不随!これから室田さんを襲うかもしれない不幸の責任を、あなたは負うことができますか?」

「急にそんなことを言われても」

「あなたは何も知らない。知らないふりをしている。じゃあ、面白いものをお目にかけましょうか。これでもまだ知らぬ存ぜぬでいられるか」

金森はにやにやと笑いながら、スマートフォンをスクロールした。私のスマートフォンだった。いつのまに手にしたのか。私は防戦一方だった。スマートフォンにはロックが掛かっているはずだった。しかし金森はそれを容易く解除した。

「これじゃこれじゃ」

金森は楽しそうに笑うと、スマートフォンの画面を私の目の前に突き出した。そしてすぐにそれを後ろ向きにした。

「ほれほれ、もっと見たければ私に追いつけ」

金森は手足をくねくねさせながら、リビング中を走り回った。ソファやテーブルに飛び乗り、とんぼ返りさえした。私はソファに座ったまま、呆然とまえを見ていた。画像は、青黒く腫れた瞼をした女性の顔だった。私の妻だった。私が殴ったのだ。いや、私が殴ったと、妻が主張しているのだ。

金森は私を煽るように、ときどき目のまえで手をひらひらさせ、舌まで出した。そしてなにやら踊りを踊り始めた。私がテレビ放送で見て真似ていた、男性アイドルグループの振り付けだった。やはり私のことを監視していたのだ。それにしても金森の踊りは、ひどいものだった。観るものを不快にさせるだけで、恋愛に似た高揚感も、安らぎやくつろぎの感情も生まれなかった。驚いたことに金森は次郎さ踊りまで踊り始めた。見事な節つきで。私にはなぜか金森の顔が、成長した息子の顔に見えた。

「とにかく私だって病人なんだ。いい加減、からかうのはよしてくれないか」

私はぐったりとうなだれ、両手で顔を覆った。部屋は妙に静かだった。顔を上げると、金森の姿はどこにもない。私のスマートフォンがぽつりと、ダイニングテーブルの上に置かれている。

 

午前中、室田が帰宅した。少しやつれているし、顔色も冴えなかったが、あとは以前とほぼ同じ状態だった。どこで整えたのか、ポマードをべったりつけたリーゼントスタイルもいつも通りだった。

「迷惑かけたな」

室田はいつもの調子で呟くと、部屋に入ってドアを閉めた。

室田の快気祝いをポエムで開くことになっていた。室田は病院から帰るタクシーのなかで、女主人に電話を掛けた。

「そんな、もっと落ち着いてからでいいのに」

女主人は言ったが、室田は退屈なベッドのなかでみんなと飲むことだけを考えて過ごしていた、と笑った。

室田は眠っていた。私は家を出た。管理人がいつものように会釈をした。ポトスの葉は増え、以前よりいっそう鮮やかな色になっていた。

ポプラ法律事務所の表示は確認できた。しかし八階に行くと、人の気配がしなかった。私は重い鉄製のドアのまえに立ち、なかの様子をうかがった。物音ひとつしない。試しにドアノブをひねると、呆気なく開いた。事務所のなかはがらんどうだった。ただ、事務机が一揃えと、黒い革張りのソファが置いてあるだけだった。私は事務所に足を踏み入れた。窓からは、室田の部屋がよく見えた。カーテンが少し開いたままだった。

法律事務所の夜逃げなどということがあるのだろうか。私は前日まで、ポプラ法律事務所の窓が朝開かれ、金森らしき人物がうろつく姿を確認していたのだ。一度など、金森は私に手を振って見せた。あのいやらしい笑顔で。

しかし、こういった繁華街に隣接した法律事務所であるならば、危ない筋の仕事を請け負っていないとも限らない。とくに金森はああいう男だ。暴力団関係の人間をうまく騙して大金をせしめ、一晩のうちに逃げ去ったのかもしれない。あるいは何かへまをやらかし、消されてしまったのかもしれない。

「そんな事実はございません」

とつぜんの声に振り返ると、入り口に金森が立っていた。金森は歯ブラシを口のなかに突っ込み、ごしごしと歯を磨いた。そして窓からペッと、唾を吐き出した。

「室田さんのシンプルな部屋のスタイルに感銘を受けましてね、さっそくこのように、一切の無駄を省いた次第なのです」

私は黙ったまま、金森の姿を上から下まで見回した。昨日と同じ、おろしたてのようなスーツに、ピカピカの革靴。

「わざわざお越しいただいたということは、何かご相談でも?」

「室田は退院しました。後遺症もなさそうで、元気です。いまは寝ていますが」

「存じておりますよ。それにしてもよかった。健康が、なにより一番」

金森は両腕をまっすぐ上に上げ、からだを左右に曲げた。

「最近肩こり、眼精疲労がひどくてね。肩こりに効くのは脇のストレッチなのです。肩をぐいぐい揉むのは逆効果ですよ」

「そんなことより、昨日の話は嘘だったのですね」

「おっと、ここからのご相談は料金が発生しますが、よろしいですか?我々弁護士というのも因果な種族でしてね。ちょっとしたお話でも、一時間三万、四万、五万、場合によっては六万かかるのです。六万です。初心者用のギターが買えるほどですよ!」

「とんだ詐欺師だ。室田に言って契約を解除させてやる」

「どうぞご自由に。あの方はすべて承知していますよ」

カラカラと笑う金森をあとに残して、私は事務所を出ようとした。

「エレベーターは突き当りの右です。もっとも、この窓から飛び降りたほうがよほど早いですがね!」

金森は窓をぐっと引いた。ばしんと大きな音がして、強い風が吹き込んだ。

「あなたもよくご存じのとおり。あなたはなにも知らない。まったくどうしようもなく無知な男だが、一つだけよく知っていることがある。人間の肉体が破壊されるとどうなるか。脳味噌や贓物をあたりに撒き散らし、手足は不適切な方向に折れ曲がり、飛び出した目玉が不思議そうに通行人を眺めているんだなあ」

「僕にはわかっている。僕は無知なんかではない。あなたは父に雇われたんだ。そして僕を狂人と決めつけ、座敷牢に入れる魂胆なのだ」

「それは興味深い話です!しかし先述した通り、これ以上のご相談は料金が発生しますので。あなたの頭のなかと同様、ご相談内容はだいぶ錯綜しているようなので、料金はぐんと跳ね上がりますぞ。一度始めたら後に引くわけにはいかない。完全解決を目指すなら、一千万、二千万いや一億、十億。あなたに払えますか?まさか父上に無心するわけにはいくまい!」

 帰宅した私はスマートフォンの画像フォルダを開いた。「家族」と題されたサブフォルダに、先日金森に見せられた画像が保存されているはずだった。しかし私はサブフォルダを開くことができなかった。

ベランダに出て、向かいの雑居ビルを眺めた。ポプラ法律事務所の看板は依然、ビルの壁にしがみついていた。しかし事務所のほうはしんと静まり、人気がない。窓が一つ、開け広げられたままだった。

 

ポエムでは珍しく、室田は遅くまで居残った。病院の飯のまずさやベッドで過ごす退屈な時間について、ぽつぽつと話していた。室田の口数は相変わらず少ない。しかし彼の話を、ツグミちゃんや女主人、ほかの常連客が勝手に膨らましてくれる。私は室田が羨ましかった。私はひたすら酒を飲んでいた。

夜中近くになって、ガラの悪い連中が入ってきた。キネオはいなかった。

「あいつ、飛んだよ。店の金持って」

恐ろしい連中がキネオを追いかけているという話だった。キネオを見つけたら、いくらかの報酬も出るらしかった。まえにも似たような若者がいた。意外にも、この街にいたらしい。女のところに隠れていたのだった。燈台下暗しというやつだ。

男たちが血生臭い制裁について語り始めた。

「そういう話はやめてよ。したいならよそでして」

ツグミちゃんが制した。私は聴き耳を立てて話の続きを興味深く待っていたので、ツグミちゃんの言葉に失望した。室田はカウンターに座り、ウイスキーのボトルが並んだ壁をぼんやりと見ていた。

「遺言状を作っておこうかな」

「やめてよ、縁起でもない」

室田と女主人はそんな会話をしていた。頭がぼんやりしていた。今日は室田ではなく、私が先に酔いつぶれてしまいそうだった。

私は尿意を感じていた。一つしかない店のトイレは、酔いつぶれた男が一人居眠りをしているらしく、ずっと扉を閉ざしたままだった。女主人に言えば無理にでも引きずり出してくれるかもしれないが、私は外に出ることにした。酔い覚ましも兼ねていた。角のコンビニエンスストアに行くか、あるいはいったん室田のマンションに戻ってもよかった。五分程度の我慢なのだ。

私は風俗店が居並ぶ暗い路地をふらふら歩いた。ひどく酔っていた。店は閉まり、客引きたちもいない。私はいったん、マンションに戻ることにした。そのままベッドに倒れ込むだろうと思った。その前に小便は済ませておかなければならない。私はスマートフォンのアラームを十分後にセットした。

私は主治医にすべて話そうと思っていた。妻を殴ったのは事実だろうか。しかし私には記憶がないのだ。

私は当時、深夜になると現れるある男と、際限のない会話をしていた。それは成長した息子だった。息子は父親がイクメンファイブの道化者であったことが原因でいじめに遭って不登校になり、高校にも通うことができなかった。一念発起して大学受験検定を受けたが、どこも不合格だった。息子は引きこもった。不規則な生活のために醜く肥え太っていた。すでに三十歳だ。私の言いつけを守り、道化者であることを自覚し、慎重に行動していればこのような結果は招かれなかったのだ。

「僕なんか生まれてこなければよかった」

「まあそう言うな。生きていればいいこともある」

「僕のような劣等種が存在することは、世の中にとって益にならない」

「世の中は様々な因子が複雑に絡み作用しあっているのだよ。劣等遺伝子が人類の進歩に役立つ大発明に欠かせない因子となるかもしれない。バタフライエフェクトという言葉を聞いたことぐらいはあるだろう。世の中の事象は複雑で決定不能なのだ。おまえはまだまだ、物事を単純化しすぎる」

「しかし人類の進歩などというものは、幻想にすぎないのではないでしょうか。石器時代の人間たちだって、いまの人間たちよりも幸せかもしれない。僕もドングリや貝を拾って生活していた方が、どれほど幸せだったことか」

「そんなことはない。人類の進歩によって、子を失う親の悲しみ、愛する人を失う悲しみは確実に減っているのだよ」

「悲しみなんてものは人間の化学反応の産物に過ぎない。自然淘汰の結果、近しい人を失うと悲しいと思う人間が生き残ったのではないですか。それだけの話です」

「仮にそうだとしても、悲しみを一つでも減らすのが、我々に与えられた使命なのだよ」

「お父さんはいつの間に宗教家になったのですか」

「私は宗教家ではない。しかしイエスが存在したという事実が、私を勇気づける。彼は一流の道化師だ」

「聖書などただの紙切です」

「紙は神だ」

 そのときとつぜん、肩を叩かれたのだ。妻だった。

「ねえ、ここのところ毎晩ずっとよ。大丈夫?」

妻は不眠に悩まされていた。私が原因だ。私が明け方近くまで、成長した息子と結論の出ることのない空疎な議論を楽しんでいたことが原因だ。妻は私に、心療内科の受診を強く勧めた。すでに予約をとってあった。妻は心療内科の場所と予約時間を私に知らせた。二日後、二人で出かけた。主治医は私の問診を終えたあと、妻と長く話していた。私は処方薬を朝晩飲むようになった。翌日から、成長した息子は現れなくなった。

私が家を飛び出したのは、それから一週間後のことだった。妻が朝食を作り洗濯を済ませ、息子を保育園に連れていく当番の日だった。朝の家事一切を当番制にすることによって、それ以外の日は少し朝寝ができるという寸法だった。しかし妻は頭から布団を被ったまま、起き上がってこようとしなかった。私が布団の上から肩を叩くと、より強く、布団を自分のからだに巻き付けるのだ。顔を見せようとしない。理由を問うても返事はない。私は苛立っていた。幼児を持つ両親の朝は、寸刻を争うのだ。朝食もできていないし、洗濯物も籠に入ったままだ。しかしそんなことをしている時間的余裕はない。私は妻を無視することにし、息子にロールパンとジャムを与え、処方薬を水で流し込むと、息子の手を引いて保育園に向かった。息子は饒舌だった。私の手をぎゅっと握り、保育園で習ったという歌を歌っていた。しかし何かにひどく脅えているようだった。

なんとか遅刻しないで済んだ。家事当番でない日は二本遅い列車に乗る習慣になっていたのだ。息子を保育園に連れていった時間のせいで、四本遅くなってしまった。息子がとつぜん、トイレに行きたいと言い出してコンビニエンスストアに立ち寄ったのもいけなかった。保育園まで我慢できないというのだ。こんなことは初めてだった。私は転びそうになりながら、勤務先まで走った。朝礼の時間に、妻からメールが届いた。島田氏が趣味の酒蔵巡りについてスピーチしている途中だった。

「吟醸酒と純米酒の違いは判りますか?」

皆が首を捻っているとき、着信音が職場に鳴り響いた。よくあることなのだ。息子が熱を出したとか、保育園からの連絡が。たしかに息子の様子はいつもと違った。私は同僚に断り職場を離れた。届いたのは、妻の自撮り写真だった。メッセージはなかった。私はその写真を、「家族」フォルダに保存すると、職場に戻った。

「妻が、体調が悪いので仕事を休む、ついては息子のお迎えと買い物を頼むという連絡をよこしてきたのです」

私は同僚に告げた。話を遮られた島田氏は、ひどく不愉快な顔をしていた。

 

向こうから若者が一人、歩いてきた。図体のでかい大男だった。大男は私目掛けてまっすぐに歩いてくる。そして私の前に立ちふさがった。

「ちょっと付き合ってよ」

「そういう気分ではないです。酔っ払っているし」

私は大男を客引きだと思った。大男は私の言葉を理解しかねて、首を捻った。しかし突然苛立たし気に、いいから来い、と私の腕を掴んでぐっと引いた。私はポエムのすぐ近くの、雑居ビルのあいだの暗がりに連れ込まれた。駐車場だ。駐車場はL字型になっていて、奥の方は通りから見えない。木造のアパートが一軒建っているが、明かりは点いていない。暗闇に目が慣れ始めると、そこに一人の男がいるのに気づいた。キネオだった。

「やっと出てきた」

「どうしたんだ?このあたりに近付かないほうがいいぞ。みんな君を探しているらしい」

「ご心配ありがとうございます。でも知ったような口を聞く必要はないですよ」

キネオはナイフをちらつかせた。大男はにやにや笑っている。

キネオは私に、裸になるように命じた。なにが起こっているのかわからなかった。しかし私は素直に従った。少年期からの習い性だった。ムダな抵抗はしないほうが良いのだ。しかし驚きと緊張のためか手が震え、うまくシャツのボタンを外すことができない。苛立ったキネオがナイフを振り回し、早くしろよ、と言った。最後の一枚となった下着を降ろし、きちんと畳んで、地面に置いた。さっと乾いた風が吹いて、私のからだは一回り小さくなったようだった。歯がガチガチと鳴った。二人は私をじっと見つめていた。しかしいったい私がなにをしたのか、皆目見当がつかない。とにかくこの場を逃れることだ。大声を出すか?しかし私はすでに全裸になってしまっている。それに酔っぱらいの嬌声など、この辺りでは日常茶飯事だ。誰も見向きもしない。

その時私の脳裏にひらめいたのは、学生時代の思い出だった。不良たちのまえで次郎さ踊りを踊って、通行税を免除された経験。それに賭けてみるのも悪くないかもしれない。

私は男性アイドルグループの振り付けを真似た。一通り踊り終えても、二人は口を開けて私を見つめているだけだった。まだ足りないのか。そこで私は両手を上げてひらひらさせ、ガニ股になってひょいひょいとその場で跳ねた。

「あ、そーれそれっと」

私はくるっと回った。

「じろーさー じろーおーさー ねこにおどろき どこへやら あァ どこへやら」

最後は裸の尻を二人のまえに突き出した。

「これで私たちはお知り合い」

私の独自なアレンジだった。

「なんだそれ」

キネオは醒めた声で言った。

「いいからこっち向いて立てよ」

失敗だった。しかしキネオの相棒は、腹を抱えて笑っていた。アハ、アハ、と間抜けな笑い声をあげていた。半分成功だ。キネオは相棒の頭を小突いた。

「静かにしてくださいよ」

相棒はキネオより年上らしかった。こういうときでも年上の人間に対する敬意を忘れないのはさすがだと思った。そのとき、とつぜんアラームが鳴り響いた。私のスマートフォンだ。キネオの相棒はとっさに逃げ出そうとした。キネオはすぐに音の発信源を突き止め、アラームを止めた。キネオは大男に私を見張っておくようにいい、路地に出て辺りをうかがうと、すぐに戻ってきた。キネオは私に詰め寄った。そして鋭利な刃先を私の陰茎に当てた。

「なにを企んでるの?返答次第じゃ、ちょん切っちゃうよ?」

私は、小便を我慢していること、しかし帰宅するとすぐに眠ってしまう恐れがあること、それを防ぐためにアラームを設定したことを説明した。他意はない旨を誠実に伝えた。第一、キネオたちに遭遇すること、そしてその時刻を正確に予測して警報を鳴らすなど、不可能な話だ。キネオはしばらく考え込んでいたが、了解したらしかった。

キネオは私の姿を私のスマートフォンで撮った。フラッシュの閃光に目が眩んだ。

「なんでこいつのスマホで撮るんだよ?」

「このほうが、こいつの知り合いに送信しやすいんですよ」

「そうかなるほど。おまえ、頭いいな!」

「それにおっさんの裸の写真なんて、自分のスマホに保存したくないでしょ?」

二人はそんなやり取りをしていた。そして私に服を着ることを許可した。服を着ただけで、だいぶ気分が落ち着いた。

「とりあえず、預金ぜんぶ降ろしてよ。お金持ちなんでしょ?」

恐らく常連の誰かに聞いたのだろう。私は放蕩息子を演じていたことを深く後悔したが、遅かった。聖書によると放蕩息子は最後には、父親に迎え入れられるのだ。私とは違った。私は放蕩息子ではないのだ。私はキネオに従った。とりあえず私の預金残高を確認したいからと、私たちは近くのコンビニエンスストアに向かうことにした。キネオは顔が割れているのでついてこなかった。この暗がりで待っているつもりだ。私を襲った主犯とはいえ、キネオとはいくらか気心が知れていた。全く面識のない男と二人きりになるのは少々心細かった。

「大人しくさせといてくださいよ」

路地の明かりが見える辺りで、キネオは大男に告げた。キネオはずっと、きょろきょろと辺りを見回していた。

「こいつ、頭おかしいから。なにするかわかんないです」

すると大男は突然、私の顔面を殴った。私は地面にあおむけに倒れた。キネオに頬を叩かれ、ムリヤリ起こされるまでの記憶が一切なかった。先ほどの暗がりにまた戻っていた。かなり乱暴に引きずられたらしく、靴が両方脱げかけていた。踵がひどく傷む。それにしても、少年時代から不良たちにさんざん打ちのめされ、打たれ強さには多少自信があった私だが、ここまでひどい打撃は経験したことがなかった。いったいどこを殴られたのか、わからないほどだった。脳が直接揺さぶられたようだった。頭のなかで点滅する光は当分消えそうになかった。

「なにしてんだよ、オイ」

キネオが腹を立てているのは、大男に対してだった。

「こんなんじゃ目立ちすぎるだろ」

私は自分の顔を見ることができない。しかし触れてみたところ、瞼が腫れあがってひどい熱を帯びていた。鼻血も出ていた。するとにわかに、鈍い痛みが顔面を襲い始めた。まるで心臓が瞼の辺りにあって、どくどくと脈打つようだった。私の眼球は無事だろうか。どこかに落ちていやしないか。私は震えながら、目をぐりぐりと押した。どうやら眼球はまだ正常な位置にあるようだった。安心すると、自分で与えた痛みに飛び上がらんばかりだった。

「大人しくさせとけって言ったのはおまえだろ?」

男はどもりながら言った。

「そういう意味じゃないっすよ。ああ、もう!」

これだけの大怪我をしている男がとつぜんコンビニエンスストアに入店したら、ひと騒ぎ起こるだろう。キネオはそれを恐れていた。そこで私は二人のあいだに仲裁に入ることにし、こう提案した。

「私がとつぜん暴漢に襲われ、この人に助けてもらったことにしてはどうだろう。コンビニエンスストアには、鼻血を拭うためのウェットティッシュペーパーと、顔を冷やすためのフェイスタオルを購入するために来たのだということにするんだ」

キネオはしばらく考えて、了解した。そして逃げようとすれば私の全裸写真をアドレス帳に記載されているすべての連絡先に送信すると念を押し、私と大男をコンビニエンスストアに向かわせた。私はキネオに頼んでシャツの裾をナイフで少し切ってもらい、丸めて鼻の穴に詰めた。

「あ、ちょっと待って」

とつぜんキネオが言った。

「もう一回脱いでもらえませんか?その顔で素っ裸のほうがインパクトでかいでしょ」

「そうだな、マジでそうだ」

大男が嬉しそうに何度も頷いた。失態を挽回できたと思っているようだ。キネオにその意図があるとしたら、なかなかの人心掌握術を心得ている男だと認めざるを得ない。油断できない相手だ。

私はキネオの指示に従い、もう一度衣服を脱いで裸になった。二度目なので、多少は円滑に服を脱ぐことができた。血に濡れたシャツはぬるっと私の手から滑り落ちた。

「さっきのやつ、もう一回やってください。あのヘンな踊りをさ」

私は男性アイドルグループの振り付けをした。それじゃない、とキネオが言った。次郎さ踊りのほうだ。

「ちんこよく見えるようにさ、もっとガニ股になって」

私はそのときになって初めて、羞恥心を覚えた。ツグミちゃんに見せつけた陰茎は、寒さのためか小さく縮こまっていた。

 

私たちはコンビニエンスストアに入店し、店内を歩いた。私のシャツは鼻血で真っ赤だった。客は数人いるだけだったが、誰もが私たちをじろじろ見ていた。店員は顔見知りだった。片目が塞がり鼻血を流した惨めな中年男と、ガラの悪い大男が一緒に歩いているのだ。どう考えてもおかしいではないか。しかし店員はレジの中で向こうを向いて、伝票か何かをめくったり、タバコの位置を直したりしている。このような事態には慣れているのかもしれない。できるだけ関りを持たないのが得策と心得ているのだろう。それは正しい。私も同じ判断をするだろう。私の死体がダムの底から浮かび上がって、警察が重い腰を上げたときになってようやく、防犯カメラの映像を提供するのだ。私の脳裏にふいに、水死体となった私の映像が浮かんだ。四肢はぱんぱんに膨れ上がり、目は糸のように細くなっている。私はにわかに、体内に活力が生まれるのを感じた。叫びたいほどだった。

店の奥にあるATMで金を引き出した。

「残高は一千万ほどあるが、一日に引き出せるのは五十万が限度だ。疑うならスマートフォンで銀行のウェブサイトを見ればいい」

私は大男に伝えた。大男は何度も頷くと、スマートフォンを覗き込み、なにやら不器用な手つきで入力し始めた。キネオにメッセージを送るつもりのようだった。男はふいに顔をあげた。情けない顔をしていた。

「え、と、何万円だっけ?」

「五十万円が限度」

「げんど……」

私はティッシュペーパーとフェイスタオルを籠に入れ、レジに向かった。

「ええ、ちょっとそこで酔漢に絡まれましてね。この方に助けていただいたのです。ちょっとお手洗いで、タオルに冷たい水を含ませていただければ。見ての通り、ひどく腫れてしまったもので」

私はべらべらと喋った。私の隣の大男は、私の言葉が理解できないのか、眉を顰め首を傾げていた。私たちはトイレを借りた。私はフェイスタオルで出来るだけ血を拭い取った。出血は止まっているようだった。痛みはまだひどかったが、耐えられないほどではなかった。むしろこざっぱりしたといっていい気分で、首尾よくコンビニエンスストアを出ることができた。そして私は小便をすることを忘れていたことに気付いた。慌てて戻ろうとしたところ、大男に腕を掴まれた。逃げようとしたわけではない、と弁明したが、大男は聴く耳を持たなかった。

私は公園のまえに停めてあったワンボックスカーに乗せられた。キネオは先に車に乗っていた。キネオは私を連れまわすつもりだった。大男はずいぶん乱暴に、私を後部座席に押し込んだ。キネオは助手席に陣取り、おろしたての紙幣を数えていた。運転席の相棒がそれを覗き込んだ。

「すげえな。楽勝だな」

「一日五十万か。でも印鑑と通帳があれば、もっと引き出せるでしょ」

「印鑑と通帳は家にある」

「じゃあ取りに行こう。そんで明日朝一で、引き出すんだ。あ、そうだ、ついでに室田さんの車の鍵も取ってきてよ。7シリーズなんでしょ?一回乗ってみたかったんだよなあ」

「わかった」

「じゃあ、Uターンしてください」

キネオは紙幣を尻ポケットにねじ込むと、発進を急かした。大男はアクセルを目いっぱい踏み込んだ。ものすごいエンジン音が響いたが、車は動かなかった。ギヤがパーキングのままなのだ。やっと見つかった相棒がこれでは、キネオもつくづくかわいそうな奴だと思った。私は後部座席にごろんと横になった。室田の車なんて使ったら、すぐに居場所がわかってしまうだろう。私はキネオの計画性のなさに同情した。この手の連中は、その時その時の欲求が満たされればそれでよいのだ。BMWを運転したいと思ったら、もうそれしかないのだ。それにキネオはおそらく、私の全裸写真が万能の杖と考えているのだろう。あれさえあれば警察には通報されないと。しかし室田は私の自尊心と自分の車と、どちらを選ぶだろうか。それはわからなかった。

私の持ち金が尽きたら、キネオに弟の連絡先を教えようと思った。キネオと相棒がしばらく遊んで暮らせるぐらいの金は用意できるだろう。しかしそれは、思ったほど愉快な想像ではなかった。右目がひどく痛んだ。尿意が急に甦ってきた。それはあっという間に増幅した。膀胱は破裂せんばかりだった。

運転席ではまだがやがやとやっていた。なにを揉めているのかよくわからないが、キネオはだいぶ苛立っていた。言葉の断片を繋ぎ合わせると、どうやら相棒は室田のBMWを使うことに消極的なようだった。この車は、大男が苦労して入手したらしかった。キネオのポケットの金では全然足りない額を使って。キネオがナイフを振り回しなにか叫ぶと、相棒はウインカーも出さずに、急発進した。後ろから、猛スピードの車が迫ってきていた。

私はそれに気付いていた。咄嗟にからだを丸めた。ひどい衝撃があった。跳ね飛ばされたワンボックスカーは歩道に乗り上げ、電信柱に激突した。私はシートのあいだに挟まれていたため、ほとんど衝撃を受けなかった。小便を漏らしていないか確認したが、股間は乾いていた。キネオは助手席でぐったりしたまま、呻いていた。頭から血を流していた。

「早く、早く出せよ」

キネオは譫言のように呟いていたが、運転席には誰もいなかった。相棒はとっくに逃げてしまっていたのだ。大破したのは助手席のあたりだけだったようだ。因果応報とはこのことだ。私はキネオのジーパンの尻ポケットから、五十万円を取り戻した。そしてフロントガラスの破片が飛び散った足元に落ちていた私のスマートフォンを拾い上げた。追突したほうの運転手も、エアバッグに顔をうずめたまま動かなかった。近くの飲食店から人が出てきた。私は暗闇に紛れて、その場を離れた。

ポエムに戻った私は、ボックス席の連中にキネオのことを伝えた。彼らは一斉に立ち上がり、店を出ていった。

「ちょっと、お勘定」

ツグミちゃんが言うと、少年のような顔の男が一万円札を数枚、投げ捨てた。

静かになった店のなかで、ようやく私は一息つくことができた。ツグミちゃんが瞼にオロナイン軟膏を塗った。

「すごい腫れてる。救急車呼ぶ?」

「明日でいい」

ツグミちゃんはおしぼりを氷水で冷やすと、固く絞って私に差し出した。トイレの扉が開いて、強面の男が一人、辺りをきょろきょろと見まわした。

「みんな行っちゃったわよ。キネオ君が見つかったって」

男は慌てて店を飛び出した。

「ちょっと、お勘定」

ツグミちゃんは叫んだが、男はすでに店の外に出ていた。私はようやくトイレに入ることができた。長時間我慢したのちの排尿は、尿道にひどい痛みを伴うものだった。

店のなかは静かだった。私は取り戻した五十万円の束をカウンターの上に置いていた。誰も見向きもしなかった。私はそれを置いて帰るつもりだった。室田はカティサークのボトルをじっと見つめていた。そして船乗りになる夢について、語り始めた。私は、塞がってしまった片目におしぼりを当てていた。それは室田が座っている側だった。室田の姿は見えず、声だけが聞こえていた。

ところで室田の部屋に連れられてくるまえ、自殺願望に苛まれてた私が生臭い写真をインターネットで漁っていたことを覚えておいでだろうか。なかでも特に印象深かったのは、南米の麻薬密売組織に絡む殺人事件現場の写真だった。おそらく夕食後のくつろいだ時間にとつぜん襲撃されたのだろう、趣味の良い居間のなかで、主人、妻、主人の両親、二人の子どもまでが、銃弾で滅多撃ちにされ倒れていた。カンバセーション・ピース、と皮肉めいたタイトルが付けられていた。美術用語で、家族団欒の姿を描いた集団肖像画のことだ。家族弾乱図、と日本語で訳注が付けられていた。上手いこと言ったものだ、と思った。

私はスマートフォンを操作し、私の全裸写真を「家族」フォルダに移した。片目が塞がれた地味な中年女の自撮り写真と、同じく片目を塞がれ、全裸で次郎さ踊りをするやせっぽっちで頭でっかちでなで肩の冴えない中年男、それから公園の滑り台で微笑むかわいらしい男児の写真が、サムネイルで並んだ。私はその画面を画面キャプチャ―した。素晴らしい家族写真が一枚できた。カンバセーション・ピース。家族弾乱図。私は妻から送られてきたメッセージを開いた。そして返信ボタンをタップし、家族弾乱図を添付ファイルに選んだ。

室田の話はだんだん熱を帯び始めた。幼少のころ、室田の家に一枚のダイレクトメールが届いた。差出人は、ある俳優だった。俳優が企画し、主演、監督した映画の招待状だった。個人情報という概念が希薄だった当時、懸賞応募者とか学校の名簿か何かをもとにそういったダイレクトメールが郵送されることはよくあった。私の家にも届いたことがあった。室田少年の元に届いたのは、倭寇という日本の海賊を描いた映画へ誘いだった。山間部の小さな街で生まれ育った室田は、海を見たことがなかった。

「その俳優って、ひょっとして××じゃない?」

ツグミちゃんが弾んだ声で言った。ツグミちゃんの結婚式にビデオメッセージを送った俳優だった。

室田のいつまでも終わりそうになかった。室田はいつになく饒舌だった。ツグミちゃんが私のまえにグラスを置いた。私はそれを口元で傾けた。大きめの氷がからんと揺れて、鼻の頭に当たった。明日、心療内科の予約が入っていたことを思い出した。腫れた瞼の診察もしてもらえるのだろうか。ひょっとしたら、骨が折れているかもしれない。まあ、ダメならば別の医院に行けばいい。しかし、そのあとはどうすればいいのだろうか。私はどこに行けばいいのだろう。室田が船乗りなら、私は朽ちかけた筏に乗った漂流者だった。

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