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和山やま先生の漫画『ファミレス行こ。』考察

 この記事は、私の勝手な考えで想像しながら書いているのでご注意ください。作者様の意図とは異なり、私の妄想が盛りだくさんです。
ただ、考察しないと頭の中で二人の関係に整理ができないので、作成しました。
それでもいいよという方、読んでいただければ光栄です。

•はじめに

和山先生作品『ファミレス行こ。』を拝読し、二人の関係性は、どちらに転ぶかわからない迷宮へ進んでいます。そこが、この作品の素晴らしい魅力であり、読者に想像を膨らませる機会を与えてくださりました。そこで、私なりに物語を噛み砕いて解釈し、二人の愛の形について考察していきたいと思います。



•1.to be or not to be

『ファミレス行こ。』について、思考をまとめるにあたり、私の中でかなり助けられた言葉があります。(あくまで""なので、ご注意!)

 それは、シェイクスピアの著作『ハムレット』の著作に登場する「to be or not to be.」。

 平たく訳すと「あるか、ないか」。しかし、ハムレットが言ったこの言葉の真の意味は、ただ単に「あるか、ないか」ではありません。



〜ハムレットのあらすじ〜

主人公ハムレットは王である父の急死のため、急いで留学先から故郷へと戻ってきました。しかしそこの王の座に座っていたのは、父の弟であるクローディアスでした。母は、あろうことか叔父と結婚したのです。
居場所の無くなった孤独なハムレットの前に現れたのが亡くなったはずの父の亡霊でした。父の亡霊は、自分を殺した犯人はクローディアスであることをハムレットに伝えます。
クローディアスに復讐(殺害)をすることを誓ったハムレット。しかし復讐を実現すれば、恋人のオフィーリアや母親との幸せな生活は崩れることになります。


その時にハムレットが発した言葉が「tobe ornot to be.」なのです。
to be or not to be」とは直訳で「あるか、ないか」→「自分があるか、自分がないか」→「生きるべきか、死ぬべきか」 



to be=復讐のことを無かったことにし、父の弟クローディアスを、義父として、母や恋人共に、安定した日常を生きていく。→生きる選択

not to be=復讐を遂げるためクローディアスを殺す。しかしそれをすれば、現在の王を殺し、母や恋人を裏切ることになる。自分自身も死ぬ可能性が大いにある。
死ぬ選択



この言葉にハムレットの葛藤が現れています。

※〈to be or not to be〉の解釈について、NHK番組、河合祥一郎教授の『100分de名著 ハムレット 第一回「理性」と「熱情」のはざまで 第二回 「生きるべきか、死ぬべきか」』を参考にしました。

しかしこの悩みは、ハムレットに限った話ではありません。

現代の私達も、ハムレットとと同じように「to be or not to be」の問題に葛藤しているのです。

to be」=自分の心の望みを我慢して、安定的に生命としての命を持続させること。

not to be」=平穏な幸せを得られなくなるかもしれないが、自分のやりたいことに向かっていく。


例①

to be=夢を捨てて、つまらなくとも辛くとも安定的な収入が得られる仕事をするか

not to be=もしかしたら失敗し、食べていけなくなるかもしれないが、夢を叶えるために動く。

例②

to be=お金がないからと、愛する恋人と別れて、好きでもない金持ちの男と結婚し、安定した生活を手にする。

not to be=お金がなくとも愛する恋人を選び、極貧生活になるかもしれないが愛し合って暮らす。

そこでこの言葉を、『 ファミレス行こ。』の物語に当てはめてみます。


①マサノリ

先にお伝えすると、マサノリはnot to beを実現した男です。ヤクザのドンの息子である自身の生い立ちに抗い、漫画家という夢を実現した男なのです。



to be=父の言いなりとなり、ヤクザのドンの後を継ぐ。マサノリとして生きる。

not to be=家を出て、家族と絶縁してでも漫画を描く夢を実現する。マサノリは死ぬが、北条麗子として生きる。



to beの生き方を捨てたために、マサノリとして生きることをやめ、not to beの生き方を選択した。
マサノリは死ぬが、北条麗子という新しい人生を手に入れた男です。
物語の中で麗子という実家の猫がいることが描写されていますが、もしかしたら猫がただ好きだったからだけではなく、
何にも囚われない猫の自由さに憧れ、自分もそんな風になりたくて名前を借りたのかもしれませんね。

マサノリは漫画家という職業をしているキャラクターということですから、和山先生自身をモデルにしている可能性が高いと思います。

そういう意味で、和山先生が物語を通じて伝えたいメソッドを知る鍵になるキャラクターといえます。


②バイトの先輩の森田
森田は、聡実のバイト先の先輩であり、バンドマンとして一部にコアなファンがいるほど人気な一面ももつ。彼も、to be not to beに無理矢理かと思いますが当てはめていきます。



to be=夢を捨てて、安定的な昼職の正社員として生活する。

not to be=深夜バイト生活だが、夢を実現し、バンドでみんなを喜ばせながら生きる。


この点では森田という人物は、マサノリ同様に〈to be〉を捨てて〈not to be〉を生きる男だ。

詳しくは後述するが、〈to be〉として生きることに迷いが生じている聡実の気持ちを歌を介して代弁してくれる。

物語の中で、聡実くんの〈not to be〉の発露を促してくれる存在だ。



③聡実

 聡実は、静と動の差が激しい特徴をもつ主人公です。冷静に判断しているようで、心の内側から湧き出る願いや欲、感情がコントロール出来なくなって行動に出てしまう所があります。
200万円の腕時計をお湯に入れたり、ヤクザ達に啖呵を切ったり。

そこが彼の非常にカッコよくて魅力的な一面なのです。

そんな彼には、放って置けない相手がいます。成田狂児、筋金入りの40代のヤクザです。前作『カラオケ行こ!』での運命的な出会いを得て、彼との間に絆が生まれました。

しかし、中学生までは許されたヤクザとの不思議な絆は、聡実が大学生になり大人へと進むことで、変化しなければならなくなりました。

ヤクザは反社会勢力です。この社会で穏やかに平和に生きるうえで、あってはならない存在なのです。



to be=狂児とはもう二度と会うことなく別れ、公務員として安定的で平穏な人生を生きる

not to be=公務員の志望も、法学部としての学びも全て捨て去り、ヤクザの世界に入り、狂児と共に愛を分かち合って生きる。


これが、聡実のto be or not to beの選択なのです。前述で、to be or not to be は「生きるべきか、死ぬべきか」を意味すると書きましたが、聡実くんにとっては「社会的に生きるか、社会的に死ぬか」。ヤクザも死に近い存在ですから、本当に「生きるべきかor死ぬべきか」の究極の選択を聡実は迫られているのです。

•2.聡実のto beとして行為

 聡実は、聡い果実なので、このことを十分理解して、「to be」として生きようと、大学では法学部を選び、公務員を志望し(やる気なさそう)、狂児の「聡実」刺青除去のための貯金をしています。

 一方で、苛烈なハートを持った彼は、刺青除去の資金集めが時間がかかるせいではあるが、現在までファミレスで会食するほどの関係を続けてしまっており、LINEがくれば嬉しさが隠せていない。常に狂児のことを考え、悩まされている。
それは、恋愛感情に似たものであり、聡実の心の代弁者の象徴として出てくるロックバンド森田の曲の歌詞が全て悲恋の歌詞であったりします。

彼は「to be」として動くべきだと頭でわかっていても、内なる想いはそうでなはないのです。その矛盾が彼の複雑な言動へとつ繋がります。


3.聡実の「not to be」としての行為

聡実がはっきりと「not to be」としての情動が現れたのが、ラストの狂児へのバックハグです。
狂児も聡実も、自分達の関係を「叔父」と「甥」の関係と他人に言っているが、バックハグは明らかにその関係性を逸脱しています。

バックハグは、「私は貴方に恋しています」という意思を持つ者がハグしないと成立しないと言えるでしょう。

そして、いつも本心を隠すポーカーフェイスの狂児は珍しく驚いた表情を見せます。
いままで「叔父と甥の関係」という程で聡実と了解しあっていたのが、バックハグという行為でもってその関係性に亀裂が生まれます。

聡実にある「not to be」としてのバックハグが、狂児に「違いますよ、私は貴方を叔父のようだなんて思っていない。恋をしている」という意思表示になっているのです。

もちろん、聡実が意図的であったか、無意識であったかは、不明だが、"彼の本心"として「貴方とずっと、共にいたい」というnot to beがここに現れているのです。

そして余談だが、聡実が「to be or not to be」、「生きるべきか死ぬべきか」で、悩んでいたと伺える描写がある。
狂児の言葉に対し、まるで図星かのように固まるシーンである。

「就活失敗して絶望して死にたくなっても絶対にこっちにきたらあかんよ」(p105)

「冗談でも死にたくなったらって言わんでほしいねん。僕にも明るい未来があるから。」(p106)

『ファミレス行こ。』和山やま先生

狂児から、聡実くんは「to be」でありなさい、というメッセージが受け取られる。しかし、そこにははっきりとヤクザと一般人との間に一線を引かれた拒絶の言葉。

恐らく狂児は聡実くんの気持ちに気づいてないだろうが、not to be<死>を人一倍考えている聡実にとって、本心を突かれた言葉であった。

「僕にも明るい未来があるから」の言葉の背景には、虚勢にも似た空しさがあるように窺える。

明るい未来があるかどうか自信がなく、

聡実くんが幸せと思える生き方とは何なのかが、

聡実くん自身がわからず戸惑っているように感じてならない。

聡実くんの幸せが、〈to be〉なのか?〈not to be〉なのか?

これが、『ファミレス行こ。』の大きなテーマなのではないかと思います。

4.聡実の「確認」について。

そんな彼が狂児に「何?」と聞かれてバックハグのことを「確認」と言ったのはどういう事か。

端的に言うと、聡実自身に向けての「確認」なのではないでしょうか。

上巻ラストは、「to be」か「not to be」で揺れる自分の気持ちについて、決断の時がせまっていた。

怪しいライター岡田の存在は、狂児と聡実の今までの関係に終わりを告げる象徴として出てくる。
もうこのままダラダラと決断を先伸ばす事が出来なくなった。

「to be」として狂児と別れるか
「not to be」、狂児以外の全てを捨てるか

「to be」か「not to be」で揺れる自分の気持ちに、決断の時がせまっていた。

聡実の理性としての頭の中ではすでに答えは出ていた。 

「それ受け取ってもらったらもう会わん方がええんちゃうんかなって思ってて」(p182)

『ファミレス行こ。』和山やま先生

「to be」が、常識的な彼の判断だった。

このまま、順調にプレゼントを渡して、安定的な公務員を目指し、平穏な生き方が実現する計画が彼にあったはずだった。

しかし、彼はこの言葉の直後に「to be」とは正反対な行動をとったのだ。

彼は狂児を抱きしめてしまった。

そう、彼はやはりまだ、決められていないのだ。
理性としての頭では、「離れないといけない」とわかっているのに、肝心の聡実の本心は「愛している、離れたくない」のである。

自分はどっちに生きるべきなのか?

チグハグな頭と心が、チグハグな言葉と行動を彼に取らせ、彼が非常に悩み混乱していることがわかる。
そして、狂児に「何?」と聞かれた時に、彼はこう思ったのではないだろか。


・狂児と共にいる可能性もありえたんじゃないか?
(not to be的確認)

行ったり来たりするtobeとnot tobeの思考の中で、衝動的に動いた「確認」は、
やはり、「狂児を、どうしようもなく愛している」証拠なのだ。

そしてそのことによって、ハグさえしなければ順調にいった「tobe」の計画が崩れて、物語は予測不能になる。ある種の「to be破壊」だ。つまり狂児といよいよ別れる時が間近に迫り、今まで我慢していた"離れるの反対!"抗議運動が聡実の中に繰り広げられたのだ。


•5.狂児の心はどこにある?

わざとらしく親のような接し方をする狂児。その狂児の対応は、"私は貴方を恋愛対象として見ていない"と主張するようなもの。

恋愛に似た感情を狂児に向ける聡実にとって、これほど腹立つものはないだろう。

聡実は「to be or not to be」つまり、「生きるか死ぬか」で悩んでいるのに、のらりくらりと悠長に子供扱いしてくる狂児に苛立ち、200万円の時計だって煮詰めてしまうほどだ。

五百円狂児貯金と200万円時計の落差は、なにも金銭の違いの落差ではない。

聡実は「離れなければならない、いいや、離れたくない」との間に揺れ、決断を先送りにする葛藤の現れが、五百円貯金なのである。

五百円をちまちま貯めることで無意識に少しでも長くいようとしていた。

一方で狂児は、200万円の時計をポンと簡単に他者に渡せる。

この行為の中に、狂児の性格が現れている。
狂児は、悩まないのだ。すぐに決断をすることができる人なのだ。そして、普通の人が執着するものを簡単に切り離せる人なのだ。「to be or not to be」で揺れることのない狂児は、悩み葛藤し続ける聡実にとっては、悔しいことこの上ない。

それが、200万円の時計を煮込む驚くべき行為につながるのだ。


しかし、ここで注意してほしいのは、
狂児が「to be or not to be」で悩まないからと言って、聡実に対する想いが薄い訳ではないということです。

むしろ、狂児は、聡実が狂児を想うのと同じくらい、もしくはそれ以上に、聡実のことを愛しています。

それでは、なぜ好きと言わないのか?

なぜ、聡実くんのように「離れるor離れない問題」で悩まないのか?
なぜ、親子のような扱いをわざとするのか?

それはもちろん、自分がヤクザで四十代で、相手が法学部の18歳の男の子だから、年齢的にも立場的にも、そういう恋人の対象にすべきではない。と思ってるから、が簡単な結論でしょう。

しかし、それだけではないと私は考えます。

ここから、ホントに妄想の世界なのですが、

狂児は、聡実のことを、金や性から切り離した所で愛したいのではないでしょうか。

ヤクザな彼にとって、いわゆる性を纏った恋愛は、沢山してきたと考えられます。そして、その恋愛は、金や欲望を満たす不純な理由が主で、純粋な愛をした経験がなかったのではないでしょうか。

そんな彼にとって、利害や損得関係なく、心から愛する存在がようやく出来ました。それが聡実くんです。

恐らくヤクザですから、いままでの恋愛での愛し方、というのは性的刺激、金銭の授受等だった。
だから彼にとっては、このような愛は「偽物の愛」と思い、聡実くんには、ひたすら無償のモノを提供することで、「真実の愛」で関わりたかったのではないでしょうか。

何もあげないし(200万円時計はあくまで"貸す"だった。)、恋愛的な性的なモノを求めない(聡実に、ソレを感じていてもなんとかして隠す)。

それが狂児にとっての、最大の愛の表現で、聡実くんを一番に愛していることだと考える。そしてそれは、結婚もしたことなく子供もいない狂児にとって、"親心"に似たものということに無理矢理落とし込んだのではないでしょうか。※ただ、そこには、上で述べた、年齢や立場の差が邪魔をして、演じている部分も大いにある。

だからこそ、聡実くんが「会いたくない」と完全に拒否さらるまでは、「ただ、一緒に食べて会話するだけ」ということをし続けて愛したいのだと思います。

もし狂児が、聡実を欲望のまま、自分のモノにしようとした時、狂児であれば簡単に、指一本で狂児無しでは生きれない身体にすることだってできるでしょう。(すみません、私の妄想)

大学や無限の将来を捨てさせ、「not to be」の方へ強制的に選ばせる。そして狂児だけのものにすることだって彼の技術があれば恐らく可能です。

しかしそれをしない。

あえてそれをしない。聡実に精一杯悩んでもらって、自分で納得した生き方をしてくれることを望む。

ただ、自分は見守るだけで、その選択が決定されるまで一緒に寄り添う。

これが、彼の最上の愛なのです。

ヤクザという欲に塗れた職業の狂児が、利益も得も生み出さない相手に、時間を作って、わざわざ会うためだけに大阪から新幹線に乗って「ただ一緒に食べて会話する」ことがどれほど特殊でしょうか。

それほど、彼のことを愛しているのです。

だからこそ、彼は悩まない。

「to be or not to be」の思考は、(安定)をとるか、(内なる願い)をとるかの悩みだから。

すでに、相手と会話するだけで愛を満たしている彼は、今この瞬間、聡実くんを愛してるだけで充分なのです。

聡実くんは、大学生という「何者でもない」不安定な時期を過ごしています。あらゆる人生の選択が可能な中で、狂児という存在が、聡実自身の人生の中でどういう位置付けをすべきなのか、まだ判断できていません。
それに、大学生の男の子だから、
多感な時期ですし。狂児の慈愛じゃ物足りないと感じるでしょう。親のような言動に相手にされていないと感じ、「自分ばかり」と悩むのは当然のことです。

ただ、愛し方が違うだけで、二人とも、一番の愛を相手にぶつけ合ってるのです。

そして、聡実のこの、不安定な時期を超えた時に、きっと、その愛し方の違いが上手く噛み合うはずです。それが、この物語の終着点に繋がるのではないでしょうか。

6.最後に

 オタクは、妄想と空想を好む性格がありますから、とくに私はその傾向が強いです。
 なので、読んでいただいた方には、へぇ、こう考える人もいるのか、くらいに考えていただければと思います。
 いち狂聡オタクとしては、恋愛的に彼らが結ばれて欲しいという願いがありますが、一方で、彼らが、ずっとその後もお互いの一番の愛し方で幸せに末長く生きていってほしい。
 ときに情熱的で激しい恋愛は、時に身を滅ぼし、続かないことだってあります。
 もしかしたら、聡実は〈to be〉の生き方に徹し、狂児との思い出は彼の中の夢のような幻想の記憶になるかもしれない。もしくは、〈not to be〉へと自身を投げ出し、あらゆるものを犠牲にするがしれないが、狂児と一生涯夫婦のような愛に溢れた人生を生きるかもしれない。

はたまた、〈to be〉の生き方〈not to be〉生き方でもない、もしくはどちらも選んだ新しい関係性の構築をしていくかもしれません。

和山先生がどのような物語へと紡いでいくのか、とても楽しみで仕方ないです。一読者として、もう、ただ二人が幸せになって欲しいことを祈るばかりです。








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