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より自由に生きたいのなら

自由というのは、法で保障されて初めて存在するようなあやういものでは決してない。
個というものが存在としてそもそも自由なのだ。自由であることが個として本質的なことなのだ。
生物で個として自由に生きていないものは、本質からずれている。

ひとを自由でなくしているものは概念だ。自分を縛りつけ、自らを抑圧する概念を自分から取り払えば、その分だけ人は自由になれる。
人間の自由な外面のために絶対に必要なものは内面の自由。
たとえ不可避的に物理的な制約下や強制下にあるとしても、絶対に放棄してはならないのが内面の自由。自分の世界、自分の魂の唯一の主人は自分自身であるという強い意志だ。
もし内面の自由を一時的にでも放棄して安息や安堵を得たとしても、その存在の奥底に刻まれたものは、その存在が終わるまで消えることはないと信じる。

なかには自由に生きるということが性質であるような人もいるのだが、多くはそうでないように思う。
いざという時に選べるか、どのような選択を積み重ねて生きていけるのか。
必要なのは本人の覚悟。
本人の覚悟はやはり必要だ。より自由な生のためには。

自分がなにかをしたことで、思わぬ批判を受ける、攻撃にさらされる。
そんなことの覚悟もできないのなら、何もしないほうがましだ。誰かがそれをなすのをただ傍観していればいい。
自分が何かを言ったりしたりしたことで自分になにが起ろうとも、それを全て引き受けるという覚悟をもって明確にことを選べば、後悔しないですむ、堂々と生きていられる、楽しめる。誰かのせいにして自分の人生を無駄にせずにすむ。
そうした覚悟をできる人間こそが自由に生きられる、自分自身であり続けることができる。
自分の意思にしたがって生きるからこそ自由であれる。
自分のなかに明確な軸をもって生き続けることが自由であり続けるということなのだ。

最後に。
生きているふりをするだけか。生きたいというふりをするだけか。ただ死にたくないだけか。死んでいるふりをするな。ちゃんと生きないと、せっかく人間に生まれついた運を活かせない。
内面の自由を模索するなら、かろうじて生きているといえる。
内面が自由であるなら、間違いなく生きている。
どんなに富を得、名を成したとして、自由でない瞬間は生きているとはいえない。
どんなに苦しく惨めな境遇であっても、内面の自由を放棄しない者は生きている。
自分で選べる能力と機会と権限があるのなら、誰だってちゃんと生きられる。
自分で切り拓く者の前にしか新しい道は現れない。運命を切り拓くんじゃない。自分で作り出したものが運命なんだ。

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