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闘うことと闘わないこと

闘わないことは弱いことだろうか。

もしそうだというのならそれでもいい。闘うことはとても大変なことだ。頑張らないといけないし、頑張ることはいつまでも続けられることではない。
危害を加えられる、自由や権利を侵害される。それに対して闘わないことはそれを容認することだと、あなたは言うかもしれない。それはたぶん間違ってはいない。
大切なものを守りたいなら闘えと、誰もが口をそろえる。モニターとスピーカーからも「闘え」があふれてくる。

闘うことはとても大変なことだ。ほんとうに闘おうとするなら、自分の行動様式、つまり性格とよばれるものも変えて、臨まなければならない。目つきも顔つきもかわってしまう。それは自分の周りの人たちを自分の決めた闘いに巻きこむことだ。彼らは必ずしもそれを望んではいない。彼らとの関係も以前とはちがってしまう。
それでも、だれもが闘えと言う。あなたの大切なものを守るためにそうしろと。そして自分が大切なものを犠牲にして闘っていることにだれも気づかない。それでも闘うことは必要だろうか。

起こりうる最大の犠牲や損失を最小化するために行動を選択する。
いっけん正しいことのようにも見える。確かに有用で、しばしば有効でもある。しかし正しさとは別のものだ。限定的な条件下でだけ「正しい」と言える。

闘うことも闘わないことも選択肢にすぎない。しかしいちど闘いを始めれば、やめるのは難しくなる。闘ったという事実も消えはしない。

もういちど問う。
闘わないことは弱いことだろうか。

闘わないことは大変な選択だ。強い人間でなくては、闘わないことを選び続けることはできない。
しかし、闘わないことを選び続ける人間にとって、自分が強いか弱いかなどどうでもいいことで、だれかが自分をどう認識するかなんてなんの価値もない。自分でない誰かが自分になにをするか、まだしもその方が大事だ。

たぶん、ほんとうに大切なことのひとつは、自分の望む世界になるように自分が行動するかどうかだ。自分が望まない闘いをすれば、それは自分が望まない世界を自分でつくりだしていることだ。自分の望む世界のためには望まない闘いも必要だと、あなたも言うかもしれない。そのときはどの選択が自分の望む世界に最も近いか、それはたぶん有効な戦略だ。そして瞬時に選びとるためには確固たる軸が必要だ。
それは行動原理、あるいはプリンシプルといわれるものでいい。

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