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現代の日本人は「満足しきったお坊ちゃん」以下の代物、「傲岸不遜でしかないお客」

現在ではいささか肩身の狭いらしい「所有」ということに強いこだわりをもち、そのことに慣れきっている私。
自分にいっさい所有権がない何かを「使用」することに、根本的な信頼を抱かない人間。そんなものはいつか自分の知らないあいだになくなったり姿を変えたりする、そんなことに虚しさを感じる私。
だから配信サービスやサブスクに価値を認めはするが、感じはしない。
一時的な使用権にだけお金を支払うシステムはよい。ただしそれを継続的に繰り返すことには、そもそも不信しかない。自分がいっさい決定権を行使できないなにかに、継続的にお金だけで依存するのにはやはり危うさを感じる。

考えることを放棄して生きることと、自身の(権利と行動の)無制限な拡張を疑いもしないことが「大衆」の特徴なのだとすれば、現在の日本はもっとひどい状態にあるのかもしれない。上記のような依存は、大衆かそれより酷い代物がマジョリティである社会を前提として提供されたものによって社会にひろくみられる、まさに現代的現象だ。
だからなのか、そこに得体のしれない恐怖を感じもする。力の大きさだけがあって、みずからはその方向を規定しない存在、そのようなまったく手に負えない代物が日々増大し、ひたすら拡張する先にあるものを想像しようとするのはすこし苦痛だ。
「満足しきったお坊ちゃん」以下のそのような代物に言葉をあてるとしたら、「傲岸不遜でしかないお客」だ。自身の無制限な拡張や欲求達成のために犠牲になるものを常に必要としながら、それらを感じも考えもせず、ただ力を振るうだけの存在は社会にとって必要だろうか。

なにも人類の行く末に思いをいたしているのではない。自分のコントロールできないなにかに、そこまで拘泥することはない。ただ自分と世界とに思いをいたし幸運に感謝し、楽しむ。そして私を制限し、私に危害を加えようとする者に対し抗議する。
抗議はするが、現代人の特徴は、自分が認知する物理的変化には敏感だが、自分が認知しないいかなる変化に対してもとことん鈍感で、かつその自覚がないこと、そして自分より優れた者の存在を認めようとしないことだ。現代日本の恩恵のなかで生きることを選ぶ以上、このような現代日本のことごとく厄介な代物の影響も引き受けるほかはない。

もしあなたも複数の特徴によりマイノリティであるならば、存在するだけで圧力であるその代物に対処することに対するコストもその分高いが、引き受けられるだけ引きうけるとよい。だって自分の何かを放棄して迎合するより、自分自身を変えない方が楽しいからね。厄介なのは、彼らが彼ら自身よりも優れた存在を認める能力をおおむねもたないことだ。この彼ら特有の非論理性のせいでよくひどい目にあわされる。

別に確固としたものである必要はないが、価値観の軸は誰にでもあってほしい。言うまでもないが、価値観である以上それはかならず独自のものだ。
しかし少なくとも社会全体でみれば、より劣る原理原則はより優れた原理原則にとって代わられるべきである、というのはおおむね同意があるだろう。
では、なんの原理原則にもよらず生きる人間に対しては、原理原則をもって生きる人間は、それを超えるものがない程度までは何でも一方的に押し通すことができるというのは誤りか否か。

自分の意志とやり方で生きる人間と、無自覚に無制限に自己拡張を図るだけの人間とが同調することはない。私は同調しない人間とともに生きることは受け入れるが、同調と共同・協調を区別しない人間、つまり誰に対しても同調を求めるような人間もたくさんいる。
私は私に対する侵害や加害がないかぎりかれらを放置するが、彼らが繰り返し示すことのひとつは、「私」から「あなた」に対する権利侵害や加害には目をつぶれ、「私」を制限するものが「あなた」であるはずはないのだからという非論理性。そこに同居するのは恣意的な危害性だ。厄介なのはその加害がおそらくほんとうに無自覚であることだ。いのちは大切だとか、「私」に対するいかなる「接触」すらも許さないという人間が、そのまま無自覚で無制限な加害者なのである。まずなぜ「私」の行為が制限されるのか見当もついていない。だから、「加害行為をやめよ」という言葉が通用しないのだ。「私」が間違いを犯し、他人に危害を加えていることを理解することを拒否する、つまり理解する能力がないのである。
したがってある程度有効な方策は、はなから行動だけ改めさせることである。こちらの実害がなくなれば、彼らの内面など知ったことではない。そもそも各々がやるべきことに、こちらの時間を浪費することもない。
その加害行為が継続した場合にこちらが被る可能性のある害を上まわらない程度の変化を相手にもたらすことは通常ゆるされる。

あらためて同じ問いを。
なんの原理原則にもよらず生きる人間に対しては、原理原則をもって生きる人間は、それを超えるものがない程度までは何でも一方的に押し通すことができるというのは誤りか否か。
もちろんより劣る原理原則はより優れた原理原則にとって代わられるべきである。

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