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Web小説が書籍化されても同じ小説とは限らない 第三章第二話

第二話 Web小説と文学の融合は共倒れ


 紙媒体での読書は、後頭葉が知覚した『文字』を、後頭葉から前頭葉に伝達→前頭葉が受理して考える⇔感情喚起

 といったように、文学がWeb小説と異なる点は、文学では『考える』が先で、『感情の喚起』は、そのあとになります。

 紙で読む場合、後頭葉では情報が『何なのか』という認知がスルーされるので、前頭葉では、最初にそれを処理する必要が出てきます。
 上記の⇔の思考と感情の間は一方通行ではなく、行き来していると捉えて下さい。

 そして、それぞれの分担のパーセンテージは、
文字の認知(後頭葉10%)→思考と推察(前頭葉50%)⇔ 感情の起伏(40%)

 ぐらいというのが、主観です。
 文学を読んでいる時も、もちろん感情の起伏はあるけれど、Web小説に比べると、かなりセーブされている。

 それは前頭葉で思考し、理解し、判断する時、ヒトは『理性』という抑制装置を、自動的に起動させるからだと思います。

 ケガなどで前頭葉を損傷すると、喜怒哀楽の感情をコントロールできなくなってしまいます。目の前の相手が見ず知らずの他人だろうと、会社の上司だろうと、腹が立ったらぶん殴る。
 乱暴な言い方ですが、前頭葉が機能低下すると、そうなります。
 認知症でも、そうなりやすい。

 ですから、紙書籍で本を読む。
 
 文学を読む時の感情の起伏は、Web小説ほど強烈ではないにしろ、理性という蓋があるせいで、上にではなく下降して、静かで深くなっていく。

 つまり、Web小説を読む目的は『あがる』こと。
 文学を読む目的は『沈む』こと。

 感情が向かう方向性が、真逆です。

 その、何となくセーブされてしまう感覚が、読み手と文学の間に、微妙な距離感を生むのかもしれません。
 主にWeb小説、ライトノベルを読む人には、文学全般に、よそよそしさを感じる場合もあるでしょう。こっちが盛り上がってハイタッチしようとしてるのに、文学は答えようとしませんし。

 せっかく、皆で感情を共有し合っている。
 なのに、ひとりだけ輪の中に入ろうともせず、冷めた目でこっちを見てやがる。
 なんかノリが悪い奴。

 Web小説にしてみれば、それが文学の立ち位置なんじゃないでしょうか。

 文学、嫌いな人は『生理的』に、嫌いなんだろうと思います。
 Web小説が嫌いだという人が、そうであるように。

 Web小説は、喜怒哀楽の振れ幅を楽しむためのアトラクション。
 文学は、思索の海に潜水していくダイビング。
 
 ツールとして用いる目的の方向性が真逆です。ベクトルが真逆であると同時に、感情と思考は『相殺し合う関係』です。

 たとえば、カウンセリングルームで臨床心理士が、躁うつ病の躁状態のクライアントとカウンセリングを行うと、仮定します。

 躁のクライアントは、喜怒哀楽の感情の針が極端から極端に、振り切れてしまいやすい。ワーッと歓喜したと思ったら、何かの拍子に怒り出し、その激高が悲しみにシフトチェンジすると、今度は、自殺衝動にかられるほどに滅入ってしまう。

 普通に何事もなく、フラットな状態ではいられないというのが、特徴です。

 子供の頃、いつも家の中で両親が言い争っていたなど、一日の中で平和で穏やかな時間の方が、少なかったという場合、その人にとって平穏無事な状態が、むしろ不安に直結する。
 その和やかさを、嵐の前の静けさのように恐怖する。

 躁のクライアントと面談するうち、感情が激高し始めたなと感じたら、カウンセラーは、「相手があなたに、そんなことをしたのはどうしてだと思う?」など、思考しなければ答えられない質問を投げかける。

 考える、という行為が前頭葉を活性化させ、理性という『ストッパー』を、機能回復させるからです。
 そうして理由を考えるうちに、クライアントは自然に落ち着きを取り戻す。

 逆に、感情鈍麻に陥った、鬱傾向のクライアントとの面談では、カウンセラーは「そんな風にされて、あなたはどんな風に感じたの?」など、感情へのコンタクトを促す質問を少しずつ重ねます。

 というのも、抑うつ傾向のクライアントは、自分の身に起きたことを、感情を交えることなく『説明』する。

 会社で上司にパワハラされたが、言い返せずにうつ病を発症した。子供は泣いたり甘えてきたりと、うっとうしいとから、幼少期は親から鉄製の犬小屋に押し込められた。

 とても知的に、ごく冷静に言い述べる。
 耳を塞ぎたくなるような虐待の体験も、他人事のように話すことができてしまいます。

 ですが、躁とは対照的に、理性で感情を抑圧しすぎているために、傾聴する側には、それをされた本人の喜怒哀楽の感情が、ほとんど見えない。伝わってこないのです。

 そのため、鬱のクライアントには、物事を説明するために考える、という行為そのものをストップさせ、理性の蓋を少しずつ開けながら、自分が感じたことにコンタクトできるような質問を、カウンセラーは投げかける。

 考える行為そのものをストップさせる目的は、人は何かをそんな風に『考え出す』と『感じなくなって』しまうから。
 極端な話、セックスしている最中に、「明日、会社に行ったら朝イチで営業先にメールして」なんて考えてたら、絶頂なんて感じられるわけがない。

 筆者はBL畑の人間なので、エロな例え話しか浮かびません。すみません。
 ですが、こんな風に、クライアントの感情の起伏をセーブさせたい場面では、考えてもらうようにする。
 逆に鬱傾向にあり、理屈っぽくて頭でっかちになり過ぎてるなと思ったら、情動を揺り動かすような質問を投げかけて、水を向ける。

 カウンセラーは躁うつ双方、それぞれの傾向に欠けた方向性を取り戻させる。それが役割のひとつです。

 しかしながら、上記したように、人は何かをものすごく感じている時、何も考えることができません。
 そして、何かしら思考している最中は、感情の起伏はセーブされる。

 私は、Web小説は、喜怒哀楽の振れ幅を楽しむため。
 文学は知りたいから、考えたいから読むのだと、書きました。

 つまり、Web小説に文学的要素を持ち込むと、読み手は感情体験をセーブされ、だんだん白けてしまうでしょう。
 同様に純文学に、やたらハイなWeb小説要素を持ち込めば、読者には作品が『幼稚』に思えて興醒めがする。
 感情と思考が相殺しあう関係にある以上、Web小説と文学は、相容れません。

 結論を言うなら、まずムリです。
 Web小説は、Web小説。文学は、あくまでも文学です。

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