Web小説が書籍化されても同じ小説とは限らない 第一章第五話
第一章 第五話 サクサク読める
インターネットも初期の頃は、ビジネスなどでの『情報伝達ツール』として使われました。「明日、午後13時から会議ね」というメールが届き、「はい、わかりました」という感じです。
そのやりとりには、何の感情も含まれない。単なる情報の受け渡し。
郵便局も電話も介さず、瞬時に情報を伝達できてしまう。
「おおっ! これは便利!」
世界中の人々が歓喜しました。
現在のように小説や漫画や音楽、SNSのような『自己表現』の発信ツールではありません。
ビジネスライクなやりとりするのに手っ取り早いということで、活用されたツールでした。
だから脳は、情報を処理する『後頭葉』を起動させて対応した。
まさか、友人、恋人、家族のような親密な関係間での『コミュニケーション』に用いられるとまで、開発側は想定していたのかどうかに関して、私は疑念を抱きます。
誰も恋人との別れ話を、ラインのやりとりだけで済ませるなんて、想像していなかったんじゃないのか、と。
では、もし脳がまだ、文明の進化に対応できていないなら。
インターネットが登場した当初のままでいるのなら、Web上で発表された小説は、手紙と同じ意味合いをもつ小説ではなく、優先的に後頭葉で『情報(ニュース)』として受けとめられ、そのように処理されてしまっているのかもしれません。
ただし、これはあくまでも仮定です。
仮定ではありますが、ネットで目にした文章は、最初に後頭葉で『情報』として認知され、分別をされ、自分にとって必要な『情報』だけが前頭葉に送られる。
その後、前頭葉では『これは情報ではなく、メッセージ』だと認識し、前頭葉の特性の、好奇心や推察や喜怒哀楽の感情が動き出す。
もちろん、ヒトはそれを脳内で瞬時に行います。
ですが、Web小説の冒頭は『情報』として、サクッと後頭葉で分別される。
自分に必要か、そうでないかの観点で、小説が情報としてふるいに掛けられ、処理される。読み手に「これはいらないな」と、判断されてしまったら、さらっと後頭葉で受け流されてしまいます。
ブラウザバック。
紙書籍のように、冒頭から文章が前頭葉で受け止められ、書かれた内容が考える作業に直結する場合に対して、Web小説の冒頭は書き方ひとつで、読み手に続きを読んでもらえる確率に大差が出ます。
Web小説は、後頭葉でのそういったチェックが入る感じなんですよ。
今日はアメリカで竜巻の被害があり、推定50人以上が死亡した。
ネットでニュースを読んだ時、私達はそのニュースに続きは求めない。
へー、そうなんだ。……で、終わってしまう。かわいそう、気の毒だなと、心は痛むでしょうけれど。
これが後頭葉の情報処理です。
その竜巻の被害にあった当事者の感覚にはなりません。
小説を読む時と同じような臨場感を、ニュースを見るたびに感じたら、それこそえらいこっちゃです。
後頭葉での情報処理は、とってもビジネスライクです。
こんな風に、液晶画面から脳に伝わる視覚情報『文章』はインフォメーション。
自分がその場にいるような臨場感を感じさせる、ましてや、その先に続きが存在する小説などではありません。
私は、Web小説の冒頭の2、3ページぐらいまでは、こんな感じで後頭葉にインフォメーションとして処理されてしまっているのではと、思っています。
だとしたら、Web小説は『状況描写に関する文章は、最小限に』などと、言われるのも納得です。
ワーッとか、ダダダダ―ッとか、擬音で処理できてしまうなら、長ったらしい文章を読ませるよりも、そちらの方が読者には喜ばれます。
後頭葉での情報処理にかかる負担が、軽くなります。
ライン上で互いの気持ちをスタンプひとつで交し合う。
Web小説は、その感覚に似ています。思考することによる消費エネルギーの節約術です。
文学ではサクサク読める、という講評は批判寄りですが、Web小説では、褒め言葉です。
その辺の違いと、いってもいいかもしれません。
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