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「エントシャイデン/entscheiden」閑話

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< 世界の動悸、刹那の動機 >

――時は戻って、女が渦に完全に呑まれた後の話

「あ!」
「あ゛?」

 男性的だがやや高い声に血を這う治安の悪さが重なる。

「あー、いや、えーっと」

 絲は言葉を選ぶために刹那から視線を外す。しかし、見ようによっては何か隠したいことがあるように取られてしまう行動だった。
 刹那と凪の目つきがより鋭くなる。

「いま気がついたので、責めないでくださいよ」

 探りを入れることを早々に諦め、目つきの悪い二人の視線から逃げるように絲は早口で断りを入れる。

「多分、その渦、出られます」

 ジリジリと忍び寄る渦(よりも、どちらかというより凪や刹那)から距離を取るために、絲はまた一歩後退する。そのぶん、声を張り、現時点で考えつく可能性を伝える。

「見た映像は、渦に中途半端に飲まれている女の人でした」

 絲はオフィスで見た映像を思い浮かべる。

「つまり」

 絲の『予知』は、自分が未来に見る景色を一時的に視覚をジャックして見せる能力。

「僕が見たのは、あの人が渦から出る姿です」
「渦から出られるものなの?」

 渦は時空の歪み。世界の綻び。扉ではなく、壁でもない。ただの空間。故に、常人は出入りもできなければ、壊すこともできない。

「事実、這い出てました」

 渦をテレビに見立てれば貞子のようでなかなか、と言いかけて機嫌の悪い刹那にこの手の話は悪手だったと口を閉じる。

「その後はどうするのよ。出られたとして、大元が死亡しないと渦は残るでしょうに」
「さあ?」

 我関せずと肩をすくめわざわざ遠くから叫ぶ絲に苛立ちが沸点に達しそうな凪は、握りたい拳にクリスタルのペーパーウエイトを噛ませる。

「やってみるしかない、ね」
「え?」

 身の危険を感じ引き攣らせた顔で一歩後退する様子に満足げな笑みを浮かべ、凪はクリスタルごしに渦を見透かし、そのペーパーウエイトを渦に落とした。
 床に落ちたはずのペーパーウエイトは音もなく黒く染まった床にめり込み、じっくりと飲まれている。

「絲」
「いやいや、僕は知りませんって」
「なんで司書以外が渦に侵入できるのよ」
「だからなんで僕に聞くんですか」

 凪は先ほどから黙りこくっている刹那に視線を移した。男は林檎から受け取った拳銃をガチャガチャと片手で弄びながら何かをためらっている様子だった。

「どうするの?」
「いつも通り。収束する気配もない。入って殺して解決だ」
「……そのわりには、まだ考えてるみたいだけど」
「『予知』は覆らない」
「殺し屋が救助なんて」

 とんだご都合主義のハッピーエンド志向ね、と凪は自嘲した。

「卵にならない時点で、処刑対象ですよ」
「ねー、林檎。なのに、こいつはまた甘っちょろいことを」

 女性陣が諦観の中、刹那は絲の予知につながる道を模索していた。
 殺さなくていいのなら、渦の中に入らなくても済むのなら、悪夢を見るだけ損だ。あれは、精神衛生に汚物をぶちまけるようなもの。金曜日の真っ昼間から鑑賞したいタイプの映画ではない。
 ビブリオテーカーは渦に入ることができる。
 ただ、入ったら最後、発生源を殺すまで出ることができない。その間一方的に上映されるレイトショーは何度やっても慣れが来ない。
 刹那はしゃがみ、渦を覗き込んでおもむろに右腕を漆黒に突っ込んだ。

「ちょ、刹那?!」
「リーダー、何やって……」

 凪と林檎がストップをかけるのを歯牙にかけず、渦は刹那を自分の中へと引っ張る。
 左手でマスクを外した。

『生きたければ、手を掴め』

 届くかもわからない、命令ですらない音の揺れ。

『蹲っていたって、誰も助けてはくれない。他者には他者の人生がある』

 どぷっと一際強く渦が手を引く。

『手は貸せる。お前次第だ』

 分厚いガラス越しに誰もがじっと観察しては見なかったフリをした。
 目線が半分もなかった世界に差し伸べられた手が、今に続いているのなら。
 この手だけは、容赦も情けもなくただ誰にでも向けていこう。
 望むなら、今度は俺が。

「リーダー、諦めましょうよ」
「予知も外れることはあるわ、刹那。観念して……」

 物音ひとつたたない。
 退き際か、と林檎に声をかけるために振り返った体勢はぐっと前に引かれた。
 右手を体温が掴む。
 刹那は儚げな口元を開いて歯をむき出しに口角を上げる。手すりに体重を預け、肘まで浸かった右腕を思い切り引っ張った。
 ずるりと渦は抵抗することなく腹の中のものを吐き出した。
 史上初の信じがたい光景、渦からの生還者。
 女は刹那に引き上げられた半身から腕を伸ばして地面を掴み、貞子も真っ青の這いずり方で渦から抜け出した。

「大丈夫か?」

 マスクを着けて刹那が話しかけるが、応答がない。

『意識ある? どこか痛い?』

 凪がベルグリフを使用しても、応答はない。

「意識ないわね。昏倒してる」
「潜在能力で這い出てきたのか。すげー」

 凪は純粋に興味を惹かれている刹那を見て、呆れたようにため息をついた。

「どうするのよ、これ」
「持ち帰るだろ」
「そういう話じゃないわ。わかってるでしょ」

 凪と刹那には同じ光景が映っている。神と崇められる存在の実態を、白い繭で永久機関に取り込まれた同胞を。

「杞憂かもしれない」
「本気?」
「そう願ってる」
「貴方の脳内は、きっとシナプスまで花冠に飾られているのでしょうね」
「冗談はさておき」

 刹那は収束していく渦を背に林檎と絲の方を向いた。

「緘口令を敷く。今起きた一切、俺以外が情報を漏らすことを禁じる。特に林檎」
「いーませんよー。私より、絲先輩じゃないですか」
「こいつはもう仕方ない」
「えー、エコヒイキだー」
「信じてるだけだ。一度でも助けた人間を態々殺させるような、そんな意味のない事を絲はしない。な、絲」
「詰められたあっさり漏らしますけど、それ以外ならその限りではありません」

 刹那はふわりと綺麗に笑んで、足元に転がるジャージ姿の女を担ぐ。

「戻るぞ、庁舎に」

 世界の拍動が聞こえる。
 何が、動く。


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