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【小説】マスコット〜アイドルと1つになる物語〜

 第3話「前兆」

翌日、朝から鏡の前で苦戦していた。
禿をどうにかして隠すのに必死だった。
ヘアスプレーで何度も固めては髪を結び確認した。今度は大丈夫そうだと髪の長さに感謝すると同時に急に不安になり会社に行くのが嫌になった。
 パンを齧りながら、それでもとりあえず今日は頑張ろうと昴の写真にキスをする。ポニーテールの髪を指で撫でるように再度確認する。
「よし! 大丈夫そう」かばんにヘアスプレーを忍ばせると昨日スーパーで色々買った惣菜の鶏の唐揚げを半分白米が入ったタッパに詰めると卵焼きの空いてるスペースにウインナーを3本落とすと5分でタッパの隙間がなくなった。仕上げにプチトマトを添えて完成した。
 風呂敷で包むとかばんに水筒と一緒に入れた。隣の部屋のクローゼットから窮屈な会社の制服を着ると深いため息を吐いて玄関に向かった。
 車のドアを開けようとした時、自分の顔が一瞬窓ガラスに映ったその顔は鬼のように歪んでいる。それもそのはずでなんの変化もない毎日に嫌気がさしている人生の追い打ちとして禿げた頭で出勤しているのだからまだトドメを刺されていないだけマシだと思いアクセルを踏んだ。
 
 職場に着くと机の並びが昔から背中合わせで座っているため見られるリスクは皆無ではない。そんな事を思い階段を上がっていくと背後から声がした! その声に思わず肩を震わせると後輩達が挨拶もなしに雅美の脇を通り過ぎる。会話の内容を聞きした雅美はふとアクリルスタンドを思い出した。
 会話の内容がアクリルスタンドが届いたとか手のひらサイズでライブにも使いやすそうだとかそういう類の内容に耳を傾けたまま事務所には入らず右折してトイレに向かった。便器に座ると鞄の中に手を入れスマホを取り出すと直ちにサイトを確認する「SOLD OUT」これを見るのは2回目だとうんざりした。
 しかもファンクラブのショップだったので余計に目眩がした。最近はもっぱらストレスを感じっぱなしで息苦しさを感じていた。
 ミーティングの時間が迫っていたので自分のデスクに向かうと時間ギリギリで菓子パンを口に頬張る者、大きな声で雑談をする2人組、まるで株でも見ているかのようにスマホの画面にくぎ付けの者、私の背後を煙草の臭いが漂った。通り過ぎると自分の席に鎮座するやいなや両手を左右に広げて『セーフ』と口パクでちょける者、各々の自由時間を見渡していると課長と目が合った。
「喜多川君、早く座り給え」課長のメガネが光った。
その瞬間一気に注目を浴びた! 長考したせいで棒立ちになっていたのに今更気づくと素早く席に着いた。
「よぅし! 全員揃ったな。定刻になったのでミーティングを始める」課長の号令で皆が立ち上がり一斉に「おはようございます!」と課長めがけて挨拶が響く。
 課長が呪文のように連絡事項を伝えるが、きっと私以外には伝わってないのだろうと気を引き締めていると課長が順番に後輩を褒めている。最後は私だろうと構えていると私だけが叱られた。
「喜多川! お前は最近ミスが多いぞ! ベテランなんだから頼むぞ」肩に手を置くと大袈裟な咳払いのあと踵を返した。課長の後ろ姿を見つめているとクスクスと笑い声がしたので声の主を探すとショートカットの後輩が口元に手を当て笑い声を抑えているのを見つけると少しだけ殺意が湧いたが、ミスをしたのは私だと思い仕方なくパソコンを起動した。
 この事務所は私と課長を合わせると8人いるのだが、最初こそは皆それぞれ個性があって面白かったのだが、ここ数年は違った。その個性に苛立ちを感じていた。この職場は辞める人間はそうそういないので今のメンバーになってかなり長い。
 それもそのはずでこの職場は課長も含めてかなり緩いので入社してくる人間はそれに慣れたら他の会社などに行こうとはしない。
 仕事の内容も現場が加工した製品に対して図面を引いたり注文書の作成、確認のハンコを押したり部品の発注その他諸々とパソコンさえ扱えればチョロい内容なのだが、私はそのチョロい仕事をミスしたのだから笑われても自業自得だった。あとは課長がぼやく前に動けば問題ない。
 そんな私は20年もこの会社の事務で働いている。若い子達からしてみれば「事務員のおばさん」なんだろうがとヘアスプレーを振っている頭がかゆくなり人差し指で後頭部を搔いた。
 しばらくすると後ろから「あっ!」と短い言葉がつんざいた。この声はショートカットのいけ好かないヤツだがペアの片割れと何やら小声で話している。話す内容が面白いのか笑い声に変わると課長の怒声が飛んできた。
高梨たかなし佐藤さとう静かにしろ!」ショートカットの高梨が叱られている。ざまあみろと内心ガッツポーズで勝利の余韻に浸っていたとき高梨の第一声で我に返る。
「だって課長、喜多川先輩の後頭部が……」
ギクリとした私が振り返ると含み笑いで指をさしている姿を捉えた。
 わざわざ言葉にするなんて非常識な人間なんだろうと思った矢先、課長やその他の人間も笑いを堪えるの必死だった。自身の顔が紅潮していくのを感じた。私は孤独を感じながらその苦痛に耐えると長い1日が終わった。
 その帰りの車で私は無力感に胸が締め付けられハンドルに寄り掛かると泣いた。車内で流れる音楽が唯一の救いだった。

 家に着くと自分は職場から排除されたんだと思い込み食欲もなくやる気もない。ただ自然とコンポの電源を押しただけで自室に籠もった。

 流れるメロディーの中。
カリ……カリカリ……
(私の髪で会社のみんなが笑った)
カリカリ……カリカリ……
(結局鞄に入れたヘアスプレーなんてなんの意味もなかった)
カリカリ……
(私は無力だ。生きていても苦しいだけ)
カリカリカリカリカリカリ……プッ
口から何かを吐き出すと床に転げ落ちた爪の欠片を見つめながら視界がグニャリと歪んだ。
(明日から仕事に行くのは止めよう)
(あんなところに行っていたらこちらの身がもたない)
薄暗い部屋で写真立ての昴も悲しんでくれている。やっぱりいい男。リピートされる曲のサビは何度聴いてもグッとくる歌詞だ。特に『僕が君の瞳にダイブして独り占めしてあげるからおいで〜♪』ここが一番好きで女子はこういう歌詞に弱い事をよく熟知している曲だと思った。
 
 風呂も入らずに聴き入っていると朝になっていた。いつの間にか寝てしまっていたようで白い枕が真っ黒になっていたので後頭部を恐る恐る触ってみると明らかに広がっている感触がしたので日記に「鏡を見るまでもない広がっている」そう綴ると立ち上がったときスマホが鳴った! 枕元のスマホをゆっくり拾い上げると課長からの電話だった。
 時刻は午前9時30分を回っていた。髪を掻きながら舌打ちすると通話ボタンで応答した。
「もしもし?」
「何がもしもしだ! 今何時だと思っているんだ」
「ちょっと体調が悪くて……」
「だったら、連絡ぐらいはするように」
「す、すいません」髪が痒くて掻きむしりながら謝っていると右手に大量の髪の毛が絡まっていた。
「今日は仕方がないが明日からは気をつけるように寝坊なら寝坊と素直に言えないのか?お前はベテ……」課長の話の途中で通話を切るとスマホを投げ捨て鏡に向かった。
 合せ鏡で後頭部を見るとフリーズした。明らかに進行スピードが異常だった。
髪が抜け出すと早いとは聞いたことがあるが、もはやここまでとは想像の遥か上を行っていた。これは……この時、ショックのあまり思考回路が思うように働かなかった。
 鏡越しの自分の顔を見るとドンヨリと沈んみ落ち窪んだ眼窩とくっきり浮かび上がるほうれい線。顔の色を失ったゾンビのような顔面。右手に握りしめられた無数の大事な髪の毛を洗面所に流した。すぐに受け皿が真っ黒になり水分を含んで束になった髪の毛を持ち上げると何故か笑ってしまった。
 
 私の名前は喜多川雅美。
自分が自分じゃなくなって別の怪物になってしまいそうで怖かった。歯がぶつかり合うほど手足が震えその場に崩れ落ちた。

 一体……いつまでこうしていたのだろうか? 警報のように止まない耳鳴りが時間が経つ毎に大きくなり、あまりの五月蠅さに床に突っ伏した両手の爪がいびつな形をしていた。すると、ふいに鳴り止むと静寂が訪れピーッという甲高い音の後で思考回路が停止した。脳に霧がかかった瞬間だった。
 ぼやけた視界の中その場から立ち上がるとフラフラとおぼつかない足取りで壁の力を借りてリビングまで歩くと昴が心配そうな顔でこちらを見つめていた。
「昴、私は大丈夫だよ。セカンドシングル楽しみに待ってるから」隣の和室からニット帽を片手にキッチンへと向かい冷蔵庫である物で朝昼兼用の朝食を2人分作ると白米の上に目玉焼きとウインナーが2本乗った丼が湯気を立てていた。
「今日は手抜き」と舌をペロリとだした。
雅美は丼の上からマヨネーズとウスターソースをたっぷりかけるとそれらを一気に胃の中へ押し込んだ。勢いよく駆け込んでくる固形物に驚いた胃が癇癪かんしゃくを上げゲップが出た。喉からウインナーの味がした。

 今日は待ちに待ったジャッカルフォーカスのセカンドシングル『君のハートをロックオン』の発売日だ。
昨日調べるとシングルの中に低確率で封入されている【訪問お喋り券】をゲットするためにネットで300枚購入した。私はもう結婚を諦めた女性。アイドルとの夢を叶えるため大事に貯蓄していたお金を切り崩した。鏡に映った自分の容姿に愕然とした。以前の自分はどこに行ってしまったのか、部分的に残った髪の毛と歪んだ表情がより化け物のような自分自身を嫌悪した。
 しかし、セカンドシングルから早くも握手券を飛ばして訪問お喋り券とは、かなり攻めているが、ファンからすれば粋なはからいである。当たらなければ追加で200枚は購入する予定だが、果たして……
 再びスマホの画面に目を落としたとき、インターホンが鳴った。午前9時。私はニット帽を被り玄関まで足早に移動してドアを開けた。そこに立っていたのは険しい顔つきの課長だった。
「喜多川君、連絡くらいしてくれないと」軽く咳払いをしてたっぷり間をあけてから「会社のみんなも心配している。もう、これ以上無断欠勤が続くとだな『辞めます!』えっ? な、なんだって」課長の言葉を遮るように割って入ると唖然とした課長の表情が次第に曇っていく。目線が私の頭に向いている事で理解したように「わっ、分かった」そういうとあっさり去っていった。
 引き止めるでもなくバツが悪そうな顔をしてそそくさと姿を消した課長にストレスで訴えようとか、会社から金をせびろうとかそんなことは1ミリも思ってないのだ。 むしろ私の頭を見て察してくれた課長には感謝をしなくてはならないと思いつつインターホンが配達業者なら良かったのにと心の底から思うほど心は昴に向いていた。
 
 誰からも干渉されたくない。私を1人にしてほしい。孤独が親友となった私のそばに居てほしいのはやはり昴なのだ。まるで配達業者を旦那の帰りを心待ちにしているみたいに閉まった玄関の内側でその時が来るまでじっと待っていた。
 
 何時間くらい立っているだろうか?
頭が蒸れて痒くなったのでニット帽を脱ごうとしたときインターホンが鳴らされた。その音に歓喜するとすかさず玄関を開けるとあまりの早さに待ち伏せされているかと思わせる挙動に配達業者は体を少し引いた。
 引きつった表情を浮かべる業者の両手からダンボールを引き取ると認印を捺して玄関を強く閉めると嵐が去ったように静けさだけが残った。配達業者は帽子のつばを下げるとトラックにむかった。

 リビングで300枚ものセカンドシングルのシュリンクをむしっていると未だに当たらない苛立ちを隠しながらその1枚をコンポに入れた。
 ピリピリとシュリンクのめくれる音を止めたのは激しめのイントロが流れると胸がときめいた。しばらく聴いているとサビが流れた途端に鼓膜が震え上がった。
昴に会いたい気持ちが貪欲なまでに目の前のCDに執着した。
 残り10枚を切ったところで初めて焦燥感に駆られた。「そろそろ出てくれないと追加になっちゃうじゃない!」と声量を抑えることなく吐き出すと残り3枚になったとき歌詞カードの間からハラリと何かが床に落ちた。
 鼓動が加速する。気持ち悪いほど素早く拾い上げるとライブの予定が書かれた紙切れだった……激昂が右手に憑依すると震える右手を左手で制するように優しく手首を包みこんだ。
その後、プラスティックが割れる音がしばらく続いた。

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