MCUからポリコレを考える

昨今アメリカを中心に広まったポリコレという考え方。
性別や人種などの多様性を認め、すべての人に平等な機会を与えるという考え方であると認識している。近年の映画やゲームといったエンタメ作品では、ポリコレを意識した設定や展開が多く盛り込まれ、純粋な映画ファンやゲームファンからは顰蹙を買うことも多いと思う。もはや人類はどこを目指しているのか見失っている感さえあるように感じる。
MCUは、2008年に公開された「アイアンマン」から世界観が広がり続け、いまだに世界中の人を虜にし続ける映画フランチャイズであり、ディズニー傘下ということも含め世界的に絶大な影響力を持つコンテンツと言えるだろう。そんな影響力を持つMCUでもポリコレの考え方は導入されており、時に成功を、時に失敗をもたらしていると思う。
私はポリコレを否定するつもりはさらさらないし、素晴らしい考えだとさえ思っていることを初めに記しておく。
また、私はMCUは全作鑑賞済みであるが、原作であるマーベルコミックは読んだことがないので、ここで述べるキャラクターや世界観の設定は映画版、MCU版のものに準拠することを留意願いたい。

MCU、ポリコレという2単語を聞くと、多くの人は「エターナルズ(2021)」を思い浮かべるのではないだろうか。公開からまだ日も浅く、露骨なポリコレを盛り込んだ設定で話題になったのは記憶に新しい。何せエターナルズのメンバー10人のうち7人はいわゆる「白人」の演者ではなく、聴覚障がいやLGBTなどといったマイノリティに属している設定のキャラクターである。しかも作中足を引っ張ったり自己主張が激しかったりするキャラクターは何故か白人である。この露骨なポリコレを意識しすぎたキャラクター設定についてかなり物議を醸した。

私は別にセクシャルマイノリティのキャラクターや、何かしらの障がいを持たれているキャラクターを登場させるなと言いたいわけではない。これは私個人の意見だが、体の性別と性自認との乖離、障がいなどといったものはその人個人の持つ個性の一つにすぎないと考えている。誤解を恐れずにいうと、いわば朝ご飯は米を食べるかパンを食べるか麺を食べるか程度のことにすぎないと思っている。もちろん当人たちにとってはもっと深刻な問題であることも理解している。と同時に私は、このようなマイノリティが、"朝食の炭水化物を何食べるか程度の問題”の問題へ昇華されることが真の平等が達成されることなのではないかと思えてならない。私はLGBTの友人がいるし、軽度とはいえ障害を持った友人もいる。しかしその人たちのことを特別視したことは一度もないし、おそらく向こうも特別視されたいとは思っていないだろう。ただ体と心の性別が違うだけ。ただ人より歩きにくいだけ。ただ人より目が見えないだけ…。

しかしその個性を、”必要のない場面で”、”露骨に"作中で提示する必要があるのだろうか。もちろん多様性というものは認められて然るべきだと思う(そもそも多様性を"認める"とは何目線なんだと問いたいが)。だがしかし、その多様性、つまりそのキャラクターの"個性"に作中で示す意味がなければ、その設定はただのノイズでしかない。観客に与える不必要な情報は作品そのもののテーマをブレさせてしまい、観客を飽きさせ、伝えたいものが伝わらなくなってしまう。エターナルズはそんな失敗を犯した代表的な作品と言えるだろう。エターナルズはセレスティアルズという種族に作られたいわばロボットのようなもの、という設定があるのでとりわけ多様性はノイズになる。むしろ10人全員が全員性格や能力、価値観が酷似している設定の方が、人工的に作られたということが映画中盤で明かされても納得できるし、その後の道を違える展開も深みが増したのではないだろうか。「スターウォーズ/最後のジェダイ(2017)」のローズもそうだが、マイノリティをただ出せばいいという雑な取り組み方なら、初めからポリコレなんか気にしないほうがよっぽどいい。

とはいえ、MCUでポリコレを配慮した作品がすべて失敗だったわけではないだろう。「ブラックパンサー(2018)」や「シャン・チー/テン・リングスの伝説(2021)」などは、特定の人種(黒人、黄色人種)のヒーローが主人公であり、彼らの劇中での活躍で、その人種の世界進出を暗に示しているのだ。実際これらの作品は世界的に見ても、日本国内で見てもかなり人気と評価の高い作品である。それは単純にこれらの作品が"面白かった"からである。面白い作品だが、登場人物は白人ではない。しかし世界的に大ヒットしている。この状況こそが、某差別主義者の前アメリカ大統領が作り出してしまった白人至上主義に一石を投じようというアメリカの一大エンタメ会社ディズニーの功績であると思う。「ファルコンアンドウィンターソルジャー(2021)」は露骨に作中で黒人差別に触れている。日本人にとってはあまり実感が湧かないかもしれないが、アメリカ国内では深刻な問題なのだろうと思わされるし、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(2014)」からずっと追いかけてきたサム・ウィルソンが語ることで胸に刺さるシーンもあった。これらの作品が素晴らしいと評価されることは、人類の文化がひとつ進歩することにつながるのだろう。

しかし私は、先述の作品たちがポリコレを含む作品で最も成功した作品たちであるとは思っていない。私が最もポリコレを成功的に導入したMCU作品は、あまり指摘している人を見かけないが、「ガーディアンズオブギャラクシー(2014)」だと思っている。種族が異なる宇宙人だっているし、人体改造されて人間ですらないキャラもいるし、女性もいるし、「I am Groot.」しか喋れないキャラもいる。なのにその設定がしっかり作品の中で生きていた。たくさんの濃すぎるとも形容できる"個性たち"が、しっかり作品の中で共存しているのである。そこに何の違和感を覚えることもなく、である。しかしこれらの個性は、映画の枠の外、つまり現実のわたしたちの世界で見かけるものではないだろう。だからこそこの作品を多様性を取り入れた作品であると思って鑑賞する人はほとんどいない。しかし私は、このような作品こそポリコレの完成形ではないかと思う。
本当に平等なものに対し、人々は「平等だなあ」なんていちいち思わない。
既に達成された目標を、わざわざ高く掲げる人はいない。
LGBTや聴覚障がい、黒人や黄色人種といった、こういっては何だが"わかりやすい"マイノリティは確かに扱いやすいし、事実扱わなければならない状況が悲しいことに存在してしまっている。だがマイノリティをただ出せばいいと思っているのであればそれは大間違いである。アカデミー賞ノミネートの条件が変更され、一定のマイノリティが絡んでいるストーリーやキャラクターであることや、スタッフや配給会社にマイノリティが絡んでいることなどが条件になったようだが、ポリコレの根幹にあるのは「強制的にマイノリティを出す」ことでなく、「全員に平等な機会を与えること」なのではないのか。真の平等とは何なのか、我々はどこを目指すべきなのか、今一度ガーディアンズオブギャラクシーに学ぶべきだと私は思う。



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