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どうしようもなく海を眺めてたいときがあった

18の年まで自分が自由に出来ることは何一つなかった。大人を説得するだけの交渉術も福祉へ手を伸ばせるだけの頼り方も、何もかもを全て取り上げられて後から振り返れば、あぁ、あれは立派な虐待で、わたしは現時点でサバイバーなのだと。助けてとあげた声は日常に紛れてしまって、しばらく経って、助け方を伝えられない抽象的な助けてでは、大半の人は助けてを受け取ることも出来ないのだと知った。

それから6年、奨学金の口座を握られながらも、ご機嫌を損ねなければ、仕送りはもらえるというシステムで、家の外で過ごした。

24の春
概ね自立も進み、自分で家の家賃を払いその他諸々も払い、わたしはわたしを以前より殺さなくて良くなった。

せっかく新しい人生をわたしが手に入れてくれたんだもの、親が気にいるもので自分を構成する必要もないわけで。もう好きを否定するのは親の言いなりになってしまった私自身だけで。

それでも変える勇気も気力もなかったけど、せっかくごろごろしてるんだから、これを機に愛するが何かを学ぼうと

埃の被ったわたしの小さな城を快適にしてみようかなって

車の免許は取ったけど、運転は致命的に向いていないのは自覚しているので立派なペーパー。
家具を買っても持ち帰ることができないので、これを機にネットショッピングに挑戦してみたいと画策中

本を結構持っていて、たぶん300冊以上は。
小説も漫画も専門書も、本だけは、買っていいって言われたら自由に選んで良かったもので、本は結構持っている。本棚と椅子が欲しい。

それでも18の終わりの方はもう本も助けにはならない時期があった。ひたすら自分の内側と対話する。内側を除き続ける。何もかもぐしゃぐしゃで、何もかも曖昧になって靄がかかり続ける。

たまに海を眺めに行った
何もなかった。大学に入るまでパソコンや携帯は使えなかった。
どうしようもなく気がまぎれることがなかった

自分が敵わないなって思うものをずっと眺めてると少し落ち着いた。広くて広大でそれを感じている自分がちゃんとここにいると確認できた。

なので山から見下ろす景色でも、砂浜から眺める海原でも、あなたがあなたであることを確認できる景色を探してみることをお勧めします。そこに在ることを肯定も否定もしない。そんな環境がわたしには必要でした。道端に咲いている紫陽花や鳥の囀りでも、なんでも良いです。ただ非日常であることも最初は大切かもしれません。

その時は、何も感じないかもしれない。でも、少し経って振り返ってみると、あの時間は紛れもなくわたしを勝手に癒してくれていた。

行きたいと思った時に行ってみましょう。
やりたいと思った時にやってみましょう。
その感情より優先すべきことはないように感じます。可能な限り身軽に自由でいたいと、そう願います。

そしてごろごろしたい時はごろごろしましょう。
わたしは今人生でごろごろしてたい期間です。

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