なぜ戦後日本演劇作品に描かれた「朝鮮人・韓国人」に注目するのか?
*筆者が戦後日本演劇作品に描かれた〈朝鮮人・韓国人〉の分析を行うようになった経緯をご紹介
韓国演劇との出会い
筆者が演劇を分析の対象として考えるようになったきっかけは韓国演劇との出会いにある。
筆者と韓国演劇との出会いは、筆者が韓国語を学ぶために三か月の日程でソウルに滞在した1986年の夏にまで遡る。当時は延世大学校韓国語学堂の初級に入学した時だったので、じつは韓国語をまともに聞くことも話すこともできなかった。それでも「話のタネ」にと思って新村サヌリム劇場で朴正子(パク・チョンヂャ)の一人芝居『危機の女』(ボーボワール作/林英雄演出)を見たり、あるいは鍾路区の空間舎廊で奇國敍(キ・グクソ)率いる劇団「76(チリュク)」の『観客冒涜(日本では観客罵倒)』(Pハントケ作/奇國敍演出)などいくつかの作品を観た。
翌1987年夏にも三か月の韓国語学留学を行ったが、このときは韓国語学習よりも芝居見物に精を出した。当時韓国では劇団「教室」が上演したイタリア作品『돈내지 맙시다(金を払うな)』(日本では『払わない?払えないのよ!』)や、「トンドン企画」が『金色夜叉』を1930年代風に弁士付きの連鎖劇としてアレンジした『순애 내 사랑(スネ、ネサラン)』、つかこうへい(1948~2010)が韓国人演技者を演出した『뜨거운 바다(熱い海)』(邦題は『熱海殺人事件』)などが好評だった。
1986年と87年はいずれも三か月の長逗留だったことから、あっちの小屋こっちの小屋と熱心に顔を出して多くの韓国演劇人たちと出会った。この頃に出会った若い韓国演劇人たちとの会話では、日本演劇が話題によくあがった。韓国の友人たちは日本演劇の年間公演回数やそのなかに占める翻訳劇の割合、あるいは創作劇に対する社会的関心、日本における演劇人の社会的地位などを知りたがった。韓国では「芝居好き」であれば演劇全般に関する知識を持っていると理解されるようだ。しかし当時の筆者はテント芝居しか観たことのない「単なる芝居好き」に過ぎなかったので、韓国演劇人たちの疑問に答えることができなかった。筆者が演劇全般に対する関心を持つようになったのはソウルへ移住してからのことだ。
86年と87年の2回の語学留学を終えた翌1988年からは観光と芝居見物を兼ねて、年に二度あるいは三度ほど韓国を訪問するのが習わしとなった。90年代はソウルでの芝居見物と韓国演劇人たちとの交流を続けながら過ごした。この間に日本社会は大きく変化した。筆者が「韓国詣で」を始めたころはバブル真っ盛りだったが、90年代に入ると景気はどんどん冷めていった。日本での暮らしに危機感を感じた筆者は韓国への移住を計画した。筆者は1983年から16年のあいだ籍を置いた法政大学文学部史学科通信教育課程を中退し、2000年3月にソウル市所在の西江(ソガン)大学新聞放送学科3学年に編入した。この時から筆者の20年間におよぶ韓国生活が始まる。
演劇を研究の対象に
韓国に居を移してすぐに筆者は「ソウル市劇団」による『セールスマンの死』を観劇し、このような静かな作品もまた筆者の肌に大いに合うことを発見した。東京に暮らした頃は炎が舞い上がり水が奔流するスペクタクルな舞台を好んだが…。筆者はこの経験からもっと幅広く演劇に接してみようという気になった。学部を卒業して西江大学大学院新聞放送学科修士課程に進学した2002年春、筆者は「一週間に一回演劇観よう運動推進本部長」を自称して、毎週一度はなにかしら演劇作品を観る作業を続けた。一年間にわたったこの作業を通じて、筆者は数十作の韓国創作劇と韓国語翻訳劇に接することができた。そして2008年に博士課程に進学したときは専攻のメディア分析と並行して、文学部の「韓国演劇史」や「韓国戯曲研究」など演劇関連の講義も受講した。これらの講義を通じて筆者は韓国演劇史を学び、また50編ちかくの韓国近現代の戯曲を分析するなど、研究の対象として演劇に接することを経験した。
このころから漠然とだが、日・韓間の現代演劇交流史を書いてみたいと思うようになった。そこで筆者は日本と韓国の劇団による交流実践をデータベース化する作業を始めた。新聞記事や雑誌記事の検索サービスを利用して「韓国&演劇」や「朝鮮&演劇」をキーワードに検索を行い、ヒットした広範な記事のなかから演劇関連の記事をピックアップする。収集したこれらの記事から日本あるいは韓国のなんという劇団が、いつ相手国を訪問して公演をおこなったのか、あるいは相手国のなんという戯曲をいつ上演したのか等々…記事から交流実践の情報を抽出するわけである。
検索で得た情報を分類するために筆者は「舞台交換」と「戯曲交換」および「共同作業」という3つのカテゴリーを設定した。「舞台交換」は相手国を訪問して公演を行ったケースを分類するカテゴリーだ。たとえば日本の劇団「状況劇場」が1972年3月に西江大学で『二都物語』を公演したことはこのカテゴリーに該当する。「戯曲交換」は相手国の戯曲を翻訳上演したケースを分類するカテゴリーだ。たとえば日本の劇団「文化座」が韓国の古典の名作『春香伝』(1947、1972)を日本で上演したケースや、同じく劇団「民藝」が金芝河(キム・ヂハ)の作品『銅の李舜臣』(1972)を日本国内で上演したケースはこのカテゴリーに分類される。そして「共同作業」カテゴリーは日・韓の演劇人による作業を分類するためのカテゴリーだ。たとえば韓国の劇作・演出家の呉泰錫(オ・テソク)が来日し、日本人演技者を演出した『草墳』(1980)の東京上演はこのケースだ。このようにカテゴリー(操作的概念定義)を設定して演劇実践を分類することで、演劇交流を量的・質的に扱えるようにするわけである。
ところがこのサンプリング作業を進めていくなかで、筆者は韓国との交流とは異なる演劇実践のあることに気が付いた。たとえば前述した劇団状況劇場のソウル公演は韓国訪問公演なので「舞台交換」に分類される。しかし同年4月の『二都物語』東京公演は「舞台交換」でも「戯曲交換」でも「共同作業」でもない。つまりこれら3つのカテゴリーでは「分類不能」というわけである。そこで筆者は「関心事」というカテゴリーを新たに設定した。つまり「『二都物語』という作品は日本と韓国との関係に対する関心から〈朝鮮人・韓国人〉を登場させた作品である」と定義したわけである。そして「日本人劇作家の執筆した朝鮮人の登場する作品」であり、かつ「日本でのみ上演された作品」をこのカテゴリーに分類することにした。驚いたことに、実際に収集を行うとこの「関心事」に分類できる作品は敗戦直後から存在した。そしてこのカテゴリーに分類される演劇作品ははきわめて重要な意味を持つことに筆者は気が付いた。
「関心事」カテゴリーの重要性
「関心事」カテゴリーに分類される作品は前述したように「日本人劇作家が執筆し、日本国内で上演された朝鮮人・韓国人の登場する作品」である。より正確には「かつて植民者であった日本人(劇作家)が、被植民者だった朝鮮人・韓国人を登場させた作品」である。近・現代における日本と朝鮮・韓国との非対称な歴史的関係から、日本演劇に登場する〈朝鮮人・韓国人〉は「単なる外国人登場人物」ではあり得ないであろう。しかも「関心事」に分類される作品は、日本人劇作家が自身の創造した〈朝鮮人・韓国人〉登場人物に台詞を与えた作品である。はたして作品の中の〈朝鮮人・韓国人〉の台詞は実在する朝鮮人・韓国人が日本人に対して言いたいと望んでいる言葉なのだろうか?
筆者が「関心事」カテゴリーに分類される作品を重視する理由を、いくつか例を挙げてご説明しよう。
朝鮮人の「日本の仲間」
劇団民芸が1954年6月に上演した『常磐炭田』は、労働運動に対する関心喚起を目的にした作品である。敗戦直後の1945年10月に関東地方に所在する常磐炭鉱で起きた朝鮮人鉱夫による争議に触発された作品である。作者の伊藤貞助(1901~47)は戦前から活躍したプロレタリア劇作家で、争議のあった常磐炭鉱に取材して翌1946年1月に戯曲を脱稿した。この作品は幕が開いてまもなく、若い朝鮮人鉱夫〈朴世哲〉が登場する。〈朴世哲〉は祖国解放で帰国することになり、世話になった日本人古参鉱夫に挨拶するために登場した。〈朴世哲〉は日本人鉱夫に向かって「もう軍閥官僚にいじめられないでもすむ…。ボク等、たしかに日本の支配階級にくんでます。けど、日本の仲間にくんでない。日本の仲間も、彼等にいじめられてたんです(戯曲p53)」と語る。さらに「仲間達みんなてを握って戦って、日本も朝鮮も支那も立派な国になって、兄弟のように仲良くなる(同p53)」などと、日本人労働者と朝鮮人労働者の連帯を促して帰国の途に就く。
このように『常磐炭田』の朝鮮人登場人物は軍部・指導層以外の日本人一般を加害責任から免責する役割を与えられた。〈朴世哲〉の言う「日本の仲間」とは炭鉱で働く日本人鉱夫のみならず、軍閥官僚や支配階級に「いじめられ」た「日本人一般」のことでもある。つまり朝鮮人と「日本の仲間(日本人一般)」はともに日本の軍閥官僚・支配階級と対立する側に配置され、軍部批判と階級闘争で連帯することを促されているのである。しかし戦時中に労働の現場で朝鮮人鉱夫に対する搾取と虐待を行ったのは軍閥官僚や支配階級だけではない。実際には「労務係」などの日本人労働者もまた朝鮮人に対する搾取と虐待と酷薄な労働管理を行っていた(朴慶植、1965)。しかし『常磐炭田』は日本人と朝鮮人の良好な関係を提示することを目的にしたことから、朝鮮人労働者に対する日本人労働者の加害には言及しなかった。したがって日本人観客を含めた日本人一般の朝鮮人に対する差別や虐待は不可視のままに置かれたのである。
「祖国建設に積極参与する労働者」
1958年夏に始まった在日朝鮮人の「帰国運動」に刺戟されて、1960年を前後して「帰国朝鮮人」の登場する作品がいくつも上演された。東京芸術座が村山知義の演出で上演した『京浜の虹』(1959)を皮切りに、川崎市に本拠を構える「川崎協同劇団」の上演した『炉あかり』(1960)、岐阜市に本拠を置く劇団「はぐるま」が上演した『かわいた湿地』(1961)、大阪を本拠地とする「関西芸術座」の『キューポラのある街』と『湿地帯』(いずれも1962)などである。「帰国運動」に刺戟を受けたこれらの作品はそれぞれ朝鮮人の描き方に多少の違いはあるが、総じて帰国を選択した朝鮮人を「祖国建設に積極参与する覚醒した労働者」として描いた。いっぽう、日本人労働者らは朝鮮人の帰国に刺戟されて社会変革の主体になろうとする姿に描かれる。
たとえば『炉あかり』を例にして構造を見てみよう。失業対策事業でその日の生活を支える日本人労働者〈堀井太一〉は「スト破り」に利用されるお人よしだが、彼の娘の〈澄子〉は組合運動のリーダー〈橋田順吉〉に惹かれていることもあって、工場での組合活動に熱心だ。一方、〈太一〉の向かいに小さな飲み屋をかまえる朝鮮人〈鄭賛根〉は日本で商売に成功したので朝鮮への帰国にはまったく関心がない。帰国を薦める朝鮮人学校の若い教員〈尹〉の話に耳を貸すのは、もっぱら〈賛根〉の娘〈春子〉だ。〈春子〉は日本社会の朝鮮人に対する差別によって、日本での生活に希望を持てないでいるからだ。つまり日本人側と朝鮮人側ともに既成世代は祖国建設や社会変革に関心はないが、朝鮮人の若い世代は帰国を通じて祖国建設に、日本人の若い世代は組合活動を通じた労働者の権利獲得に積極的な姿として描かれている。
関西芸術座が上演した『湿地帯』では朝鮮人の「帰国運動」と日本人の「組合運動」が等価に描かれる。帰国運動に刺戟された一連の演劇作品は、概して朝鮮人労働者を日本人労働者に先行して主体的行動を起こす登場人物として描く傾向にある。しかし『湿地帯』は少し異なる。主人公の朝鮮人〈金村〉は帰国には消極的だったが、同じ職場の日本人労働者〈山野〉たちの組合運動に接して帰国を真剣に考えるようになる。在日朝鮮人たちに帰国を促す〈総連の朴〉は組合作りを推進する〈山野〉に向かって帰国を「人間の革命です。朝鮮民族の自覚をもって闘うこと」であり、「山野さんと私と同じ目的で同じ仕事しているんです」と語る(戯曲p127)。つまり〈総連の朴〉は〈山野〉たち日本人労働者の労働運動もまた「人間の革命」であるとし、日本人労働者たちの組合運動を遠回しに鼓舞するのである。
しかし帰国運動が契機となって日本社会が在日朝鮮人に大きな関心を払った時期だったにも拘わらず、これら一連の「帰国作品」は在日朝鮮人が日本で生活することになった歴史的経緯や、帰国を選択する背景にあった日本社会の在日朝鮮人に対する組織的で構造化された差別にはほとんど言及しなかった。日本社会で朝鮮人と日本人の共生を語る日本人登場人物もまた、ただの一人も描かれなかったのである。
日本と韓国の視点の違い
映画『キューポラのある街』(日活、1962)が人気を呼んでいたころ、映画評論家の佐藤忠男(1930~2022)は日本を訪問したある韓国人映画プロデューサーと出会う。その韓国映画人は『キューポラのある街』を高く評価する佐藤に向かって、「あのひとたちは日本にいて仕合わせになれないから北朝鮮に帰る。それを日本人が見て、帰国するのはいいことだと感動しているのはどういうわけですか。日本人は彼らが日本にいて仕合わせになれるように努めるべきではないですか!彼らを日本にとどめることができなかったことを恥じるべきではないですか!」(「月刊総評」343号p87)と憤慨したという。佐藤はこのエピソードに「韓国人と日本人の視点の違い」と小見出しを付けたが、まさに日本と韓国の非対称性を肌で感じた瞬間だったのだろう。
劇作家の大橋喜一(1917~2012)もまた日・韓の「視点の違い」に関する興味深い回想を残している。大橋は「わたしたち日本人から朝鮮人―韓国人の心を描くことはじつにむずかしい。それは歴史的に日本と朝鮮の問題が、対等ではなくて、加害・被害、抑圧・被抑圧、の関係にあったので、ものごとを見る位相が逆になっている場合が多い」からだという(『光よ!甦れ』ブレーンセンター、1987)。大橋は専門劇作家として活動を開始した1950年代の後半から『禿山の夜』(1958)や『ゼロの記録』(1968)など5作品に朝鮮人を登場させており、在日朝鮮人なら書けるという自信があった(前掲書)。しかし日・韓間のアクチュアルな問題を扱った『燕よ、お前はなぜ来ないのだ』(1977)を書いたときに、「天皇とか君が代とかいったものに対する意識のちがいなどは、とても想像の外に出てしまう。[…]こういうことは日韓関係を素材にしてみるまでは、ほとんど意識できなかったことだった」(前掲書)と回想した。
日本と韓国の「戦争の犠牲者」
日本と韓国の「視点の違い」は戦争批判にも表れる。
筆者は資料を整理していて、2008年の「春川国際演劇祭」に劇団はぐるまが『夜空の下に降る花は』(こばやしひろし作)で招請されたことを知った。筆者はまだ戯曲を読んでいないのだが、チラシなどからこの作品は戦争の悲惨さを描いて反戦を訴え平和を希求する作品だと理解した。しかし、なぜ「加害国」の劇団が「侵略戦争を遂行する過程で被った被害」を「被害国」に来て上演したのか?不思議に思った筆者は春川を訪問し、演劇祭を運営した黄雲基(ファン・ウンギ)氏にインタビューを試みた。同氏は日本を訪問した際に当該の作品に接して日本人も戦争の被害者だったことを知って共感し、当該の作品を春川に招請したと語った。筆者は劇団側がこの作品を訪韓公演に選択したと考えていたので、この話を聞いて大いに驚いた。「戦争の犠牲者」は加害と被害という非対称性を超えて共感できるものなのだろうか?
韓国人が「戦争の犠牲者」と言うときの戦争は「どの」戦争だろうか?筆者が韓国人から「戦争」という言葉を聞いたときは「アジア太平洋戦争」をまず頭に浮かべる。しかし相手は「韓国戦争」のことを語っていたという経験がある。あるいは筆者がこれまで韓国人との会話で「戦後」という言葉を使ったとき、相手は1953年の韓国戦争の休戦後の話をしていると理解する場合が多かった。ある韓国人友人からは「あなたの言う戦後とは、どの戦争を意味するのか」と質問されたこともある。そこで複数の韓国人に質問して確認したところ、韓国人の多くは韓国戦争を「戦争」として記憶しており、「戦後」と言えば1953年の休戦後を想起すると説明された。したがって韓国人が「戦争の犠牲者」と言うときの戦争は「韓国戦争」のことだと考えるのが妥当であろう。ところで周知のとおり韓国戦争は骨肉相食む内戦で、いっぽう日本の経験した戦争は侵略の手段としての対外戦争である。日本人と韓国人が「戦争の被害者」で共感できたとしても、その被害者を生み出した「戦争」は本質的に異なることを常に意識する必要は無いだろうか。
「戦後」という言葉のイデオロギー性を論じた韓国人研究者の高英蘭(コ・ヨンナン)は、日本で初めて過ごした1994年夏の衝撃をこう語る。「家族を軍隊に送らなければならなかった、引き上げの悲惨な経験をした、空襲に堪えなければならなかった、かけがえのない肉親を失った〈日本国民〉の悲しみに満ちた声だけが聞こえる」だけで、「韓国の八月に召喚されるような〈残虐な日本軍人〉は何処にもいない」(『「戦後」というイデオロギー』藤原書店、2010、p9)。このように日本と韓国では「戦後」に大きな違いがある。日韓関係史を専攻する韓・聖公会大学の権赫泰(クォン・ヒョクテ)は、日本の「戦後」は「朝鮮」などの旧植民地を消去することで成り立っているとした(『戦後の誕生』新泉社、2017、pII)。筆者もまた「戦後」という言葉にはとても危険な落とし穴があるのではないかと考えている。
「反戦平和」の落とし穴
筆者がこの間に戯曲を入手した「関心事」97作品のうちでは「反戦平和(戦争を批判し平和を希求する)」を主題にした作品が最も多くて約30%(33作品)を占める。そしてこれらの「反戦平和」作品に登場する〈朝鮮人・韓国人〉は、作品が執筆された時期によって役割が少しずつ異なる。敗戦直後は日本軍部の暴力性や非合理性を批判し、1950年代から60年代は「逆コース」以降の再軍備や、戦争体験の風化による戦前回帰などにみられる日本社会の「右傾化」を批判した。1980年代に入ってからは朝鮮人を戦争の犠牲者として描いた作品が登場したが、1990年代には日本人と朝鮮人をともに「戦争の犠牲者」として描く作品が多くなった。とくに90年代の「反戦平和」作品における「加害者」は日本や日本軍部ではなく、戦争という状況であったことが特徴である。いくつか作品をご紹介しよう。
「地人会」の上演した『夢は果てず』(1991)は敗戦後に連合軍の裁判によって捕虜虐待の罪で死刑に処された朝鮮人軍属の〈男〉を主人公にした作品である。この〈男〉は日本軍による徴兵や労働徴用を逃れるために自らすすんで「軍属」を志願した。そして南方へ送られて連合軍捕虜の監視を行っていたが、敗戦時に捕虜虐待という理由で戦犯として裁判にかけられて死刑に処される。しかし作品ではこの朝鮮人を捕虜監視要員として軍属に仕立て上げた日本の植民地支配に対する言及は行われない。あるいは軍属の〈男〉に対して連合軍捕虜への暴力を強要した上官の〈タニ憲兵曹長〉は、暴力の強要を密かに〈男〉に謝罪する。ところが〈男〉は〈タニ憲兵曹長〉に軍事法廷でそのことを証言するように要求しない。そして〈男〉が自ら絞首刑を受け入れることで、日本人と朝鮮人のいびつな「和解」が演出される。
劇団「俳優座」が上演した『とりあえずの死-日本棄民伝』(1992)は「満州国」で敗戦を迎えたが日本に戻ることができず、「残留日本人」として戦後を中国の養老施設で暮らす老いた4人の日本女性を描いた作品である。この作品の基底にあるものは日本政府の「棄民政策」に対する批判である。しかし残留日本人の悲しみを描くことにとどまり、日本の侵略によって朝鮮や中国に夥しい数の「離散家族」や「残留民」が生まれたことにはまったく言及しない。この作品には〈楓〉という名の「朝鮮人慰安婦」が描かれたが「慰安婦問題」には言及することなく、コロス的役割にとどまった。
荒牧瑞枝の演ずる一人芝居『千年の祈り』(1994)には一人息子を兵隊にとられた〈日本の母〉と、同じく一人息子を労働徴用で日本に連行された〈朝鮮の母〉が登場する。「戦争に翻弄された日本人と朝鮮人のエピソードを並立する形で構成」(荒牧瑞枝『星逢い』p142)した作品で、〈日本の母〉と〈朝鮮の母〉がそれぞれ息子の無事を祈ってお百度参りをする姿を、一人の演技者が交互に語り分ける形式で舞台は進行する。このときに「加害者」として描かれるのは戦争を遂行する日本軍部や日本警察などの抑圧者である。一方で〈朝鮮の母〉と〈日本の母〉はともに戦争によって息子を失った「被害者」として形象化されており、〈朝鮮の母〉の一人息子を日本に連れ去った日本の植民地主義に対する言及はまったくない。
このように90年代に上演された「反戦平和」作品の多くは日本人と朝鮮人を共に「戦争の被害者」として形象化しており、日本人の戦争加害責任あるいは植民地支配責任に対してはきわめて鈍感だったと言わざるを得ない。
その台詞は誰のものか?
日本人劇作家の書いた作品に登場する〈朝鮮人・韓国人〉の「台詞」はいったい誰のものだろうか?はたして実在する朝鮮人・韓国人が本心から日本人に言いたいと望んでいる言葉だろうか?ことによるとその「台詞」は日本人が朝鮮人・韓国人から聞きたいと望んでいる言葉ではないだろうか?もしそうであったならば、演劇作品を通じた侵略の歴史に対する反省と批判、植民地支配に対する責任の追及と補償、「慰安婦」に対する謝罪と名誉回復を語る「台詞」はいったいどれほどの説得力を持つことができるだろうか?このような「台詞」は日本人にとってむしろ「免罪符」として機能し、結果的に「戦前日本」が「戦後日本」のなかに生き続けることを許してしまうのではないだろうか。筆者が〈朝鮮人・韓国人〉の登場する日本演劇作品に注目する理由である。
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