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公費をつかって訪問することに対する違和感。

毎週させてもらっているしごと。
公費を使って、障がいや生きづらさを感じて暮らしている市民の方の
定期訪問をする。

今日訪ねたのは、
十年以上前から昼夜逆転している50代の男性。
睡眠薬を飲んでも眠りにつくのは毎日朝6時だという。

以前は仕事をしていたものの、現在は仕事はせず、母親の残してくれた預金で生活している。
たとえ正月であっても決して贅沢はせず、細々と生活している。
幼少期から家の手伝いに精を出し、友達のような野球道具は買ってもらえず、山から採ってきた丸太を削りバットにしていたという。
苦労に堪えない暮らしであったが、人波に結婚もし子供ももうけた。

しかし、いつの頃からか夫婦の間には溝ができる。
さらに子供の死や離婚という耐え難い体験をされている。
 
それがきっかけになったのかは定かではないが、
現在は朝寝て昼過ぎに起きるという生活。
自転車で食料品の買い出し、数か月に一回の精神科受診以外には、
人とのかかわりはほとんどない。

天気のいい日には庭に出て畑仕事に精を出し、
近所の人が通りかかれば挨拶もする。
体力もあり、お金に関する知識にも富んでいる。

しかし定職には就かず、公費で市の職員の定期的な訪問を受けている。
生活保護や障がい者年金の支給は受けていない。

私が訪問に行くようになり約一年。
自分でもよくわからない違和感を感じるようになっていた。

(訪問に行っている本人が言うのもおかしいが)
公費を使って、つまり国民の税金を使って、
わざわざ訪問に行く必要のある人なのか。という疑問が
私の中にずっと渦巻いていることを、私は以前から気が付いていたにもかかわらず、そのままにしていた。
 
当の本人は、今のところ特に困っていることはないし、働くつもりもないと言う。
ではなぜわざわざ訪問に行く必要があるのか。
この仕事に意味はあるんだろうか。
何の役に立っているのだろう。


訪問に行く際は、常に二人一組。
他人を守ること以前にまずは自分自身を守ることが大切であるからである。

今日は、保育園の元園長先生と二人で訪問した。
いつもと同じように、その男性の思い出話と、社会に対する不満を傾聴し帰った。

前もって帰る時間を伝えていても、その方の話に花が咲き、
たいてい時間をオーバーしてしまう。

 
私は帰り道、何のための訪問なのかいよいよわからなくなり、
その元園長先生に愚痴をこぼした。

「働けるのに働かず、
世の中とのつながりを持とうと思えば持てるのに自分からは行動せず、
世の中に対する愚痴ばかり言って、
税金を使って訪問に来てもらって、
私はよくわからなくなってきました。
この訪問意味ありますかね?」

元園長先生はこう言った。
「確かにね。でも世の中解決できることばかりじゃない。
解決したり答えを見つけるのは医療であったり専門家の役目。
私たちは、解決はできないかもしれないけど、
解消はできる。」

元園長先生はこんなたとえ話もした。
「便秘を治してしまうことはできないかもしれないが、便を出してあげることはできる。」

なるほど。
私は妙に納得してしまい、それにより自分の仕事の意味を
改めて考え直すきっかけになったのだった。

しかし違和感は消えない。
私たちはみんな、自分の望む人間関係ばかりではない。
当然関わりたくない人ともかかわりを持たなくてはならないし、
したくない人付き合いもしなければならない。

それを避けられることなら避けて通りたいと思うことも多々ある。
逃げてしまいたいと思うこともある。

その人がどんな人生をこれまで歩んできて
どんなつらいことがあったかは、その人自身にしかわからないが、
これでいいのかな、とは常々思う。

魚を与えるのではない、
魚の釣り方を教えなければ物事は解決しない。
とはよく言ったものだが、
私たちの仕事は釣り方を教えるのではなく、
いつも焼き魚の家庭に、時々お刺身や煮魚、竜田揚げなんかもいいよ!と
提案しに行く、といったところか。
 
それが、そんな方々の何かを支えているのであればいいのだけれど、
でもなあ・・・。
このモヤモヤを言語化出来たら、また書こうと思う。


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