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異能β-3   テキサスの白い怪鳥-7   これもChaparral

Chevrolet Corvette
 
1963年頃、J-HはChevrolet Corvetteを購入し、自身やチームで活動。64年3月のSebring 12hはJ-H・R-P組がNo.4のCorvetteで参加したがDNF。
 64年9月のUSRRCの最終戦Road America 500で、J-H・H-S・R-Pの3人がChaparral 2とCorvetteの2台に名を刻み其々を交代で駆ったのが特筆される(結果はChaparral:DNF、Corvette:3位)。

1/43 両車TSM製、左J-H・H-S・R-Pが2台の車でエントリーし、No.67のCorvetteが3位
右J-HとR-Pが組んでSebrihg 12hにエントリーした車

 64年11月のGTで行われるNassau Tourist TrophyではR-PがCorvetteで優勝している。

1/43 TSM製、Penske Racingと書かれている、実際このNassauの後、R-Pは独立し
SUNOCOのスポンサーでチームオーナーとなり、最終的に米国1の大立者となる

Chaparral Camaro
 J-Hは2Jで自由な発想が否定されCan Amから手を引いたが、レースに対する情熱は残っていた。1970年以降、J-HはTrans-Am(1966年に始まったアメリカの市販GT/ツーリングカーによるレース)に手を染めた。自らが開発した車ではなく、市販の車での戦い。GMは最初R-Pのチームで戦っていたが、70年にそれまで低迷していたAMCが Penskeチームを引き抜いたことで、GMと関係のあったJ-Hに白羽の矢が立った。70年のレースはJ-HとEd Leslie(E-L)の二人が出場(途中でJ-HからV-Eに交代)、結果は6位と10位であった。この年、加熱する争いを危惧したBig3がワークスから手を引き、彼らも1年だけで撤退しる。
 TSMからNo.1のChaparral Camaroが発売された時購入。その後ある店のHPを見て、Chaparral CamaroのNo.2を発見、メーカーは異なるが買わなければJ-Hフリークの名が廃る。No.1との大きな違いはテールのスポイラーの有無しかない。No.2はE-Lという名前、写真がないのは当然であろう。

1/43 左はTSM製、右はMC製、両車の違いはNo.の他はテールのスポイラーの有無

Indy Car
 
1973年、J-HはCarl Haasと共同でF-5000のオーナーとなり、市販のLolaでアメリカン・オープンホイール・レースカテゴリ(後のインディ・レーシング・リーグ 〈IRL〉)に参戦。
 1978年、J-HはCarl HaasとIndyにも参戦。Lola T500(エンジンはCosworth DFX)を購入、79年にHaasと別れ独自の体制となりノーズにChaparralの名を記し、Al Unserの操縦で優勝した。

1/18 REPLICARZ製、(1/43はこのメーカー及び他のメーカーからも発売されていない)
Chaparral本にもJ-Hと共にAl Unserの名前が
ノーズにChaparralの文字

 79年、J-Hは9年振りにChaparral 2KでIndy参戦。残念なことに、この車はJ-Hの設計ではなく、John Barnardの設計で、色もスポンサーのオイルメーカーである、Pennzoilの黄色が塗られた。そのためカナリア・シャパラルとも言われ、本来のChaparralとは一線を画している。しかし、この車は80年のIndy 500で予選1位からスタートし、圧倒的な速さで優勝を飾っている。この年は5勝を挙げ、シリーズチャンピオンにも輝いている。

1/43 左はFormula Models製、右はSP製、長さを測るとSPの方が僅かに長い

 J-Hは現在完全にレースから離れている、しかし、これらの車の一部は彼の博物館で見ることができる。
 1人の人間が現在の自動車にも影響するメカニズムを作り出し、あるいはルールブックの不具合を指摘したりと、異能βの本領発揮がこの話を書こうとした動機である。J-H関連の書籍は米国では当然、本邦を含めた世界の至る所で出版されていると思われる、関心のある方は是非ご一読をお勧めする。

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