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石原なんでも通信 No.16 ”鳥居耀蔵と 丸亀”をお届けします。

今回は香川県にも馴染みの薄い、江戸の”妖怪”の鳥居耀蔵の話です。江戸時代末期に23年にもわたり、丸亀に幽閉状態で滞在していました。

鳥居耀蔵(1796-1873)、生まれも育ちも讃岐に関係ありません。
 幕末の歴史を辿ると彼は江戸市民を厳しく取り締まり、洋学者を次々と牢に送り込んだ憎き悪役として登場します。鳥居耀蔵の 「耀(よう)」と、 役職の「甲斐(かい)守」を重ねて「妖怪」(ようかい)とも呼ばれたとのこと。失脚後、どこにいたか? 実は「丸亀」に23年にもわたり幽閉されていました。

この「鳥居耀蔵」の「丸亀」時代を描いた小説が「宮部みゆき」の 「孤宿の人」 です。
 
1845年に失脚し、讃岐丸亀藩京極家による受け入れが決まった際に
 「金毘羅へ いやな鳥居を 奉納し」という川柳が詠まれた由、いかに
江戸の人達にとって“嫌がられていた”ことがわかります。
 
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼といい、この鳥居耀蔵といい、幕末期に引き続き徳川幕府の存続を信じ、新たな動きを封じた人たちは、
多くの場合、極悪非道の人間として描かれています。ただ、時代が大きく
変わる際には当然守旧派は存在するわけで、特にここに挙げた二人などは
強い信念を持ち、自身の生き方を全うしたわけで、彼らの思いがどこに
あったのか今一度調べてみることに意味があるように思います。
 
1.天保の改革
 
江戸三大改革の一つで水野忠邦による「天保の改革」があります。老中水野忠邦の下、耀蔵は目付や南町奉行として市中の取締りを行いました。
その市中取締りは非常に厳しく、かつ、おとり捜査を常套手段とするなど陰険極まりないものでした。

江戸時代末期の天保12年(1841)、12代将軍徳川家慶の信任を受けて老中に就任した水野忠邦は、綱紀粛正や経済改革などを基本とした天保の改革を 実施しました。その背景には一揆や打ちこわし、大塩平八郎の乱といった 国内不安やアヘン戦争などの対外的不安がありました。
この改革では、倹約令を施行して、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えるとともに、人返し令を施行し、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させようとしました。そして、水野は、これを腹心の鳥居耀蔵らに実行させます。

2.鳥居耀蔵と遠山金四郎

鳥居耀蔵
は、寛政8年(1796年)、幕府の昌平坂学問所の大学頭林述斉の
次男として生まれ、旗本鳥居家の養嗣子となり、後に忠耀(ただてる)と
名乗っています。学識が高かった反面、蘭学を嫌い、蛮社の獄では渡辺崋山ら洋学者を弾圧しました。
天保12年(1841)に 南町奉行となり、さらに勘定奉行も兼務してその権力は幕閣随一といわれました。
  
この鳥居耀蔵とライバル関係にあったのが、遠山金四郎こと遠山景元  (かげもと)です。腕に桜吹雪の入れ墨をした「遠山の金さん」として
浪曲・講談・ドラマのモデルなった人物です。北町奉行だった遠山は、江戸市中の改革をめぐって鳥居と意見が対立します。天保の改革を厳格に
実行しようとした鳥居に対して、遠山はそれを緩和して庶民の暮らしを守ろうとしました。  
例えば鳥居が風紀上よくないとして江戸中の舞台小屋を全て廃止しようと
した時、遠山は数軒を残せるように交渉し、江戸の人々に喝采されました。
 
3.鳥居耀蔵の失脚と丸亀藩での幽閉
 
水野忠邦の右腕であった鳥居耀蔵ですが、水野忠邦が計画した「上知令
(じょうちれい)」は  諸大名、旗本の猛反対を買った際、反対派に
寝返ります。
その後、水野忠邦は一旦失脚するのですが、再び幕政を委ねられるようになると今後は状況が一変し、耀蔵の方が失脚します。1844年のことでした。
 
復活した水野は自分を裏切り、改革を挫折させた鳥居耀蔵を許さず、
職務怠慢・不正を理由に奉行を解任し、身柄を丸亀藩お預けとします。
元大物でこのやっかいな人物の預かりをどの藩も嫌がりました。ただ、結果として丸亀藩が
押し付けられることになります。なんらかの、例えば、金銭的な代償があったものと思います。

丸亀藩は何か問題が起こると、幕府からお咎めを受けるため、耀蔵には昼夜兼行で6人の家臣が付き監視するとともに、屋敷外との交流を一切禁じて いました。1852年の彼の日記には 一年中話をしなかったという記述があります。
鳥居耀蔵が居た屋敷は、現在の丸亀城の西側、丸亀高校付近、当時の丸亀城郭内の六番丁にあったようです。 屋敷の大きさは約332坪(約1100平方メートル)で、その中の8畳の座敷牢に幽閉されていたそうです。


一の門から丸亀城天守の臨む


当初は全く身動きが取れなかったようですが、時間がたつにつれて、状況は徐々に変わって いったようです。
彼が残した日記などの記述を辿ると、若年からの漢方の心得を活かし幽閉 屋敷で薬草の栽培を行ったとの話もあります。自らの健康維持のみならず、領民への治療も行ったとのこと。また、林家の出身であったため学識が  豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、彼らから崇敬を受けていた
とのこと。このように、軟禁されていた時代の耀蔵は“妖怪”と渾名され  嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝  されていたようです。

3.幽閉からの解放
 
罪が許され幽閉が解かれるのは明治になってからです。鳥居耀蔵の丸亀での幽閉生活はじつに23年にも及びました。明治元年(1868)、鳥居は
許されて、郷里駿府 (静岡)へ帰ります。明治5年(1872年)に東京に移り、明治7年(1874年)10月に亡くなりました。
お墓は文京区の吉祥寺にあります。東京時代の拙宅から近かったので何度かお参りさせて頂きました。


ウィキペディアより


 許されて江戸に戻ってからの耀蔵をモデルにした小説もあります。
 『名残の花』 澤田瞳子作 新潮文庫 です。

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