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伊勢神宮と敗戦後皇室との関係構築,祭主に女性皇族を据えた新しい伝統の創造(後編)

 ※-1 「生のための神社」が伊勢神宮,「死のための神社」が靖国神社,そのうしろで皇居に控え,総元締めのつもりで構えているのが宮中三殿

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 ♥ なお「本稿(前編)」の住所(リンク先)は以下である ♥

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【断わり】
 本日の記述も,本ブログ筆者の「書いた段落」と「引用した段落」とこれに「補注を記した段落」などが,まぎらわしく混在したかたちで記述されている。学術論文ではないゆえ,途中に記してあるその旨の補注などは,気にせずに,一連に続く文章とみなし,読んでもらえると好都合である。
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【本文はここから】

 a) 表題に出ていた名称「宮中三殿」とは,東京都の皇居内にある。「賢所⇔皇霊殿⇔神殿」からなり,明治4〔1871〕年に建造された皇室神道用の宗教施設である。

 皇室神道用の「賢所」と「皇霊殿」の意味はひとまずさておき,皇居を囲む内堀の外縁に存在する「あらゆる」=「その他すべての民俗神道・神社神道・教派神道」は,一括したかたちでもって,残るその「神殿」のなかに収納してみた(放りこめた)つもりでいるのが,この「皇室専用の神道神社」の真骨頂である。

皇居内の宮中三殿
 
宮中三殿・実像

 皇居内に建造されている宮中三殿は,皇室神道を物的・具象的に表現する施設である。国家とその国民たちを象徴すると憲法で謳われている天皇家がこのような神道式の宗教施設を,いわば私的な所有物であるかのごとき体裁で,それこそいつも真剣に「国家・国民たちのために祈祷する舞台」に使用している。

 日本国内には神道以外に仏教・キリスト教・イスラム教など,ほかの諸宗教を信仰する人びとが大勢いる。ところが,この人びとの頭ごなしというか,その上方から(上から目線という意味になるが)憲法までも盾に使ったかたちで,なにやら神道式の諸行事を人びとに強要(実質的にという意味で)している。

 以上の指摘がわかりにくいと感じる人には,たとえば,イスラム教でも厳格な信仰が普及している国々において,それ以外の諸宗教の教派の人びとのに対するイスラム教の存在感は,特定の意味でいつに完全に否定的・抑圧的である。

 日本の政治体の一部分として存在する天皇・天皇制の問題が,元号の使用という論点からはじまり,社会のすみずみまで天皇の威厳:権威を浸透せしまる国家体制が現実に体現されているとなれば,信教の自由だとか思想,言論,結社,出版の自由だとかいった民主主義の基本理念が,「異教徒である人びとの立場」には全然保障されていない現状を意味するほかなくなる。

 b) 明治以来に日本が近代化・産業化を開始するにあたり,とくに伊藤博文は西欧の精神:国家路線にまったく歯が立たなかった日本の国家体質創りのためにと考え,つぎのように国家を設計した。この点を振り返ってだが,日本のキリスト教徒は,その伊藤博文のもくろみをつぎのように解説している。

     ★明治政府は,西洋からなにを取り入れたのか ★

 明治国家を形成する責任を担った政治指導者たちは,欧米列強に対して日本が独立した主権国であることを認めてもらおうとし,日本が憲法によって治められている近代法治国家だとアピールすることを急務としていました。そこで明治政府は岩倉使節団〔明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日〕を欧米諸国に派遣し,欧米各国が国をどのように統合しているのか,その形態を学ばせたのです。

 そのとき岩倉使節団は,政府機関や制度の仕組みだけでなく,欧米各国が国民を統合している大きな要素に気づきました。それは,機関や制度を超えた一つの宗教,一つの信仰,つまりはキリスト教信仰でした。岩倉使節団の副使として参加した伊藤博文は,1888年5月,枢密院における憲法案審議の開始にあたって,「憲法制定の大前提は,我が国の機軸を確定することにあり」と指摘しています。

 欧米には宗教なるものがあって,これが国家の機軸をなし,深く人の心に浸潤して国民全体を帰一させている。日本にもそのような「機軸が必要だ」という指摘です。そして,日本において「国家の機軸」として機能しうるものはなにかと考えます。プロイセンの法学者ルドルフ・フォン・グナイストは「日本は仏教をもって国教となすべき」と進言をしますが,伊藤は「我が国にあって機軸となるべきは独り皇室であるのみ」と決断したのです。

 ここで注目してほしいのは,伊藤博文をはじめとする使節団は,ただ憲法を作り,政治機関や制度を整えるだけでは,欧米のような民衆の内面の求心力はえられないと理解していたことです。国民がひとりの神-キリスト教の神に仕えていることが,社会制度の維持,国民統合の重要な要素となっていると,しっかりと見抜いていたのです。

 しかし悲しいかな,「では私たちもキリスト教信仰を学ぼう」とはなりませんでした。むしろ,「国民を統合するという目的のために,キリスト教に代わる神をつくろう」と考えたのです。まさにこれは,本当の神を知らない異教国ならではの発想です。仏教か,いや天皇にしよう……。その結果,行き着いたのが “国家神道” の始まりでした。日本の近代天皇制は,明治政府が国民の統合のために自家製の神をつくろうとした異教の発想ゆえのものなのです。

 註記)「これって何が論点?! 第3回 天皇ってどういう存在なの?」『月刊いのちのことば』2013年11月号,https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2016/04/26/これって何が論点-第3回-天皇ってどういう存在な/

岩倉使節団

 c) 要は,現在も皇居のなかにしつらえられている宮中三殿は,明治期の日本が出立するにさいして,西欧諸国に対抗できる政治精神的な支柱をもとめた伊藤博文などが創造した皇室神道⇒国家神道の具現体であった。

 日本全体のなかに古くから歴史的に風土に根付いてきた宗教精神である「民俗神道・神社神道・教派神道」の上部構造に,いきなり載せられるかたちで,国家そのもののための必要不可欠の宗教的な根本精神として組織してみた以降が,その宮中三殿であった。

 本ブログのこの記述は「前編」において,皇室にとってみれば,もともとは江戸時代までは特別に深いといえる関係:付きあいなど全然なかった伊勢神宮を,ともかく皇室の傘下にとりこむ努力・工夫をしてきた事実史に言及してみた。

 21世紀の現段階になっても依然,まず皇居内の宮中三殿=「賢所と皇霊殿と神殿」のうちに,「賢所(天照大神)⇒皇霊殿(神武天皇以来の歴代天皇)」⇒「神殿(そのほかもろもろ:すべての民間神道)」という「上下関係」にもとづく秩序・系列が構成されている事実に,なんら変化は起きていない。

 そうした皇室神道の発想形態には,つぎのような神道流の宗教観念が抱かれているからであった。

 つまり賢所とは,日本の天皇が居住する宮中において「三種の神器」の一つ,天照大神の御霊代(神体)とする神鏡(八咫鏡)を祀る場所とされるように,架空の概念である天照大神を祀る皇室専用の神殿であり,しかもこれを天皇家の人びとはこの賢所に鎮座すると「信じる神」として本気で信心する。

 d) その天皇家の家督者が「日本国憲法の第1条から第8条」までにとりあげられるかっこうで,しかも「象徴の地位」に置かれていながら,日本の政治に対してあれこれ関与する立場に置かれている。外国の要人のなかには日本では天皇が元首だと勘違いする場合がたびたび発生するが,そのような間違いをするのは当然がすぎた現象として,必然的な出来事である。

 その種の誤解が容易に生まれうる日本国憲法の仕組みは,まさにマッカーサーが,敗戦した旧大日本帝国を「生かさず・殺さずの状態」に押しとどめておくために,アクロバット的に製造し,押しつけてくれたものであった。

 というしだいで,明治謹製であった日本国の皇室神道は,皇居内の特定の1カ所「宮中三殿」をもって,日本中の神道的なる伝統・文化を意味する宗教施設のすべてを「統合的に集約させえる象徴的地位に定めた」つもりでいられる。

 大日本帝国憲法は,以下に引用する条項などで民主主義の根幹をなす規定を下していたが,民主主義に対して手かせと足かせを課しておき,その根幹を萎縮させるどころか,基本から生半可(つまり半殺し状態)にさせておく路線を歩んできた。 

 第28条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

 第29条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

大日本帝国憲法・第28条 第29条

 いうところの「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限は,権力者側からみれば「打ち出の小槌」的な文言部分であった。それは,なににでも適用可能な条項であった。なかんずく,明治憲法の基本精神は当初から「半・封建主義国家体制」「前近代的政治機構」の構築を企図していた。

 ところが,旧日帝があの大戦争に敗北したさい,この国を支配・統治したGHQ:マッカーサーは,明治以来の日本政治の特質を「生かさず・殺さず」に利用した。そのカナメの存在になっていたのが昭和天皇の地位であった。

 e) 「本稿(後編)」はもちろん「前編」の続きものであるから,つぎのような問題関心をこめて議論している。

 21世紀の靖国神社は誰がために存在するのか,A級戦犯が合祀されているかぎり天皇家は親拝に出向かない,靖国側に妥協はあっても皇室側に妥協はない。というか,天皇家側は靖国にいきたくともいけない。

 そうした天皇家との歴史的な関係推移のなかで,ただ歯ぎしりするばかりである靖国神社の立場は,いまではただの民間宗教法人になっているならば,そもそも「天皇一族」との特別に親密な関係を要求することには,どだい無理がある

 もっとも伊勢神宮では現在,黒田清子が祭主の地位に就いており,皇室神道を頂点に日本の神道界を統御しようとする天皇家の意図に変わりはない。

 すなわち,

       「宮中三殿(天皇家のための神廟)」が

伊勢神宮(生ける者たちのための表・廟)」
               
            「靖国神社(死んだ者たちのための裏・廟)」

といった関係(=意味)づけでもって,この「三角関係の構図の頂点:上位」に位置させられた「日本の神道界」全体の意味づけは,

 それじたいとしてはいちおう,神道まがいの宗教政治的な意向を包しながらも,ともかく皇室神道を「それらすべての」頂点に位置づけたうえで,伊勢神宮と靖国神社に対する天皇家の私設「宮中三殿」側の「宗教権威的な絶対性」,いいかえれば,前者に対する後者の「上下関係-支配構造」を前提している。

 しかしながら問題が残ったものである。それは,靖国神社がA級戦犯を合祀している状態が現在も継続しているが,これは天皇家の神道信仰体系にとっては「喉に刺さったトゲ」となっており,しかもとうてい飲みこむことなどできはしない「永久の靖国的な難義」になっていた。

 f) 靖国神社は本来,旧大日本帝国時代,天皇家のための戦争勝利・督戦神社であったゆえ,A級戦犯合祀が続くかぎり両者間に和解はありえない。なぜかというまでもなく,A級戦犯は負けいくさとなった旧日帝の軍人の大将や政府の高官たちであったからである。

 だから,ある意味ではA級戦犯が合祀された瞬間から,靖国神社の本来的な使命・役割は空中分解したとみなしてよい。

 靖国神社側はA級戦犯の合祀状態を,たとえば分祀することなど,できるはずもない措置だと断定している。もっとも,この靖国神社側のいいぶんは融通無碍もいいところであった。

 敗戦時においてとりわけ,海外の植民地国や支配地域に付設していた神道神社の祭神たちは,いとも簡単に移動させ:引き揚げさせえた事実に目をつむってのそうした〈屁理屈の開陳〉になっていた。

 「極東国際軍事裁判(東京裁判史観)」に反対し,その歴史の事実を認容したくなかったA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳は,元軍人(旧海軍軍人で敗戦後は陸上自衛隊勤務)という軍歴を有する人物であったが,「自国の敗戦」という事実をすなおに認められない精神構造の持主であった。

 昭和天皇は旧日帝の敗北を認めて戦後日本を器用に生き延びてきた。だが,松平永芳の軍人のクセに〈負けいくさの事実〉が認められずに,その天皇の敗戦後的な生き方に釘を刺したつもりであった。永芳の「暴投」に祟られたかようにして,裕仁のみならず「孫の代」までも,靖国神社には参拝にいけないでいる。

 「本稿(前編)」でも触れてみたように,靖国神社は英霊たちの合祀という祭祀の方法を強調していながら,皇族2名の御霊はだけは別に1柱として祭祀の対象にしている。すなわち,その神社本殿のなかあっては,英霊であっても「庶民・平民のそれ」と「皇族のそれ」とが,別々の意味づけを背負って「分祀された」かのようなかたちで,同じ本殿の屋根の下に共存している。

 ※-2「靖国神社トップに天皇批判報道 背景に厳しい “台所事情” か」『日刊ゲンダイ』2018年10月30日,https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/238636

 〔これは〕靖国神社トップの衝撃発言報道だ。今週発売の『週刊ポスト』〔10月1日発売〕10 / 12・19合併号によると,今〔2018〕年3月に第12代靖国神社宮司に就任した小堀邦夫氏(68歳)が

 「陛下が一生懸命,慰霊の旅をすればするほど,靖国神社は遠ざかっていくんだよ」
 「今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ,分かるか?」

と,驚きの天皇批判を展開したというのだ。  

 問題の発言は6月20日,靖国神社が来年迎える創立150年に向け,今後を話しあう会議で飛び出したようだ。靖国神社の広報担当者に小堀宮司の発言について問いあわせたところ,「発言の一部が切りとられた可能性もあるため,現時点で回答は調整している」と答えた。発言の真偽はともかく,背景には靖国神社の深刻な “台所事情” があるのかもしれない。

 靖国には神社を支える「氏子」がいないため,運営資金は戦没者遺族が中心となっている「崇敬奉賛会」なる会員組織が担っている。2002年に9万3000人だった会員数は現在,7万人以下に減少。それに伴って会員が支払う1口3千~5万円の年会費からえていた収入も,10年前の約2億円から現在は1億5千万円に減っている。

〔以下しばらく『日刊ゲンダイ』から離れて補注の議論が進む〕

 補注)ところで,明治神宮の祭神は「明治天皇と--実(!)はその母親に相当するはずだが,本当は女房だ(?)と説明されている--昭憲皇太后である。この事実はさておいて,以下につづく記述をしていく。

 ふつうの神社であれば,靖国神社のように祭神が246万余柱もの,ものすごい数に達するところは,絶対にありえない。それほどに靖国神社は,きわめつけ的に,非常に不自然な「日本の神社のひとつ」である。つまり,日本古代史から連綿と継続されてきた一般の神社史からは「完全に脱線した」,いいかえれば,古来の神社群とはまったく無関係の〈新顔の無頼的な神社〉であった。

 補注)ところでまた,神社の祭神はとても多彩である。神話・伝説の神あったり,天皇や偉大な業績を残した武人・文人が神格化され祀られたりもしている。個々の神さまによって,由来,祀られ方(稲荷様・八幡様・天神様などの分霊や勧請),性格(荒魂・和魂),働き(霊力・神徳)など,それぞれに特徴をもっている。それぞれの土地に土着した神々(氏神様)を祀っている神社も多い。

 だが,靖国神社はそうした多種多様である「日本の古来からの神社」に照らして判断するに,きわめて異彩を放っているだけでなく,極端にまで畸型というか,その番外地に位置する国営神社であった。

 というのは,明治帝国主義路線を進行していった大日本帝国の侵略戦争のために動員され,戦場などで死んでいった無数の兵士たちが,しかもその遺骨そのものではなくて,その死んだ肉体からは恣意的に都合よく,ただ「《御霊》のみをとりだされて」は「祭神に祭り上げておき」手順を踏んで,まだ「生きている帝国臣民たち」が「信仰する対象」として,この靖国神社の合祀といった宗教的な処遇をほどこしていた。

 いわば「明治謹製の国家神道的な宗教精神の基本の仕組」が,九段北の地に新しく創られていたのである。

 敗戦以前,帝国臣民たちは国家のため,天皇陛下のためであれば,「命あっての物種」とか「死んで花実が咲くものか」などと考える余地すら抱いてはいけない,と徹底的に洗脳教育されてきた。『教育勅語』がその教書であった。この勅語は1890〔明治23〕年10月30日発布されたが,敗戦後の1948〔昭和23〕年6月19日廃止となっていた。

 「靖國神社の祭神たち」に黙示させるべき必要性が強くあった訴求対象は,なんであったか。その意味で考えてみると,靖国神社は「日本の伝統である古来(いにしえ)からの神社」とはかけ離れた地平に向かい創建された,それも陸海軍直営になる,つまり,完璧に軍国主義国家路線のためにだけ存在しえた「神道の一畸型」「国家的な奇種」であった。いうまでもなく,文句なしに軍国主義のために設立された「国立の神社:国家神道」路線に乗せられていた異端児的な神社であった。

 そして,その敷地の南側の位置には,天皇家がやはり明治以来,東京の「皇居」のど真ん中に造営した『宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)』が配置されていた事実にも注目したうえで,これら全体をまとめて形容するとなれば,

 「前者の靖国神社=陰」であり「後者の宮中三殿=陽」である相互補完の有機的関係性が,とりあえず理解できる。それぞれが “もちつもたれつ” であった「帝国日本の慰霊施設」と「天皇家の住居・祭殿」とであり,それでいて,いずれも本来より『天皇家のための2大神社』であった。

 ところが,明治帝政路線は敗戦によって完全に破砕された。昭和天皇は,米軍(GHQの主体・主勢力)が日本を占領・統治するさい,これに迎合するかたちでの「屈服」「追従」ぶりを,しかも自分の恭順を示すための一環として,陸海軍が管理・運営する「皇室のための《督戦神社》であった靖国神社」を,一宗教法人に変えて手放すほかなくなっていた。

 靖国神社にA級戦犯が合祀されたのは,1978〔昭和53〕年10月17日であった。それ以前において昭和天皇は,敗戦後から数年おきに8度,靖国神社へ〈親拝〉のために出向いていた。ところが,1975年11月21日の「参拝」を最後に,彼は「親拝」にはいけなくなった。息子の平成天皇も九段北の元国営神社には出向いたことがない。孫も同じである。その理由は,昭和天皇がA級戦犯の合祀に根強い不快感を抱きつづけていたためであり,息子もまた孫も父のその意思を受けついでいる。

 補注)ここで『親拝』とは,天皇が親しく靖国神社に参拝するという意味ではなく,「上から:親として」の彼が靖国神社に参拝してあげる,という真義があった。

 なぜなら,天皇陛下のために命を捧げた兵士たちの《御霊:みたま》を『英霊:えいれい』としてもちあげる関係のなかで,靖国の祭壇に彼らを合祀してきたのは,明治以来の大日本帝国による東アジア侵略戦争のために「犠牲となった兵士たち」の遺族を慰撫しつつ納得させ,さらには,今後においても帝国臣民たちが「兵士となるべき子孫」を,意欲をもって「産めよ・殖やせよ」と応えられる精神構造をいつも堅持させうる態勢を,靖国神社的な宗教精神によって支えていくためであった。

 靖国神社に昭和天皇が参拝しなくなるほどにまで,彼の心境のなかに大きな不快感が生まれた原因は,なんであったか。裕仁が大元帥であった戦争責任を身代わりになって,それも喜んで背負ってくれた(東條英機はその代表者であった)A級戦犯が,靖国神社に合祀されたのである。彼の気持としては当然,それこそ「身も蓋もない」ような事態,すなわち《明治以来の国家神道的な信仰》が破壊されたがごとき事態が「靖国の本殿(祭壇)という舞台」で発生したことになった。

 簡明に表現する。天皇裕仁自身のかかえていた「大きな戦争責任(超のつくべきA級戦犯としての最高責任)」は,うまい具合に東條英機らのA級戦犯がすっかりきれいに代替してくれ,これが東京裁判の結果となり,巣鴨プリズン内において最終的に解消されたはずだと思っていたところへ突如,その「彼の身代わりになっていたはずの者たち:A級戦犯」が,靖国神社に〈英霊〉として合祀されて祭壇の上にいっしょに並んだとなれば,裕仁にとってみれば,心底から驚愕する事態が九段北の地で惹起されたことを意味した。

 そこに登壇した事態は,敗戦後史において天皇裕仁がひとまず安定できていた立場にとってみれば,それこそ「身も蓋もない」ものとなって襲来してきたのであある。いいかえると,1945年8月15日〔9月2日〕以降,裕仁自身をかこんできたはずの国際政治環境,つまり,なんとかであっても非常にうまく変転させられていった「敗戦後における事情の推移」が,この靖国神社へのA級戦犯合祀によって,まさしく「ちゃぶ台返し」の目に遭わされた。

〔ここでようやく,最初の『日刊ゲンダイ』記事に戻る ↓ 〕

 約10年前〔2018年の時点から数えて〕にはすでに会員の7割以上が70歳以上だったとの報道もあり,会員が死亡しても遺族が引きつぎに応じないケースが多いという。 ただでさえ,会費収入が減少している靖国神社にとって,創立150年の記念事業で発生する本殿や靖国会館の改装工事費用は相当な痛手だ。

 『週刊ポスト』は,小堀宮司がみずから宮内庁に出向いて,天皇陛下の参拝を実現させるための交渉をおこなってきたと伝えている。 “天皇の参拝” という奥の手で靖国神社の求心力をとり戻し,ジリ貧の収入を増やしたかったのだろうか。(『日刊ゲンダイ』引用,終わり

 以上,靖国神社の最高責任者である小堀邦夫宮司の宮内庁への交渉が,はたして期待するような結果を獲得できるかといえば,ほぼ100%無理である。A級戦犯合祀についていままで,靖国神社の幹部たちはA級戦犯の英霊だけを「分祀すること」など,絶対に不可能であると反論してきた。この事実から判断しても,この小堀宮司による宮内庁との交渉事は,まず実現不可能だとみなすほかない。

 靖国神社はいまや,天皇家の手から離れてしまった。いまさら,彼らの意のままに統御できる元国営神社ではなくなっていた。靖国神社側(松平永芳)がA級戦犯を合祀した事実は,東京裁判(極東国際軍事裁判)の結論を受け入れてこそ「天皇の地位」を守ることができた昭和天皇の基本的な意思を完全に否定していた(より正確に表現するとそのあたりの歴史的な経緯に無理解であった)。だから,天皇裕仁はその合祀に対して激怒していたのである。

 靖国神社側がA級戦犯合祀で意味させかったのは,安倍晋三流にたとえていえば「戦後レジームからの脱却」であった。だが,「戦前・戦中レジームからの脱皮」をA級戦犯の絞首刑「執行」を踏み台にしてこそ成就させえた天皇裕仁の「その後における立場」からすると,「敗戦後において安定させえていた〈彼の立場〉を全面的に否定する」ごときトンデモない行為が,この『A級戦犯合祀』という逸脱であった。

 靖国神社がなぜ,天皇裕仁のそうした感情を全然理解できていなかったかといえば,この神社じたいがGHQによって残された事実に関連していた。小堀邦夫宮司は,敗戦後史における靖国神社の歴史をまっとうに理解したうえで,今回のような宮内庁への働きかけをおこなったとは思われない節:疑問があった。

 ※-3「『陛下は靖国を潰そうとしてる』靖国神社トップが『皇室批判』」『NEWS ポスト セブン』2018.09.30 16:00,住所(アドレス)は末尾に付記

 この記事を引用するが,冒頭の段落は 前項※-2と重なる部分がある。

 --天皇が「深い悲しみを新たにいたします」と述べた平成最後〔2018年8月15日〕の終戦記念日,靖国神社(東京・九段北)には安倍晋三首相はじめ現役閣僚の姿はなく,中国や韓国もひところほど神経をとがらせなくなった。

 しかし,その落ち着きの裏で,靖国神社は “爆弾” を抱えていた。来〔2019〕年,天皇の「代替わり」と創立150年が重なる大きな節目を目前に,前代未聞の問題発言が神社トップである宮司から飛び出したのだ。

  ◆-1「そう思わん?」「わかるか?」

 靖国神社ではいま,来年の創立150年に向け,境内のいたるところで改修工事がおこなわれている。だが,その内部では,修復不可能なほどの “綻び” が生じていた。

 〔2017年〕6月20日,靖国神社の社務所会議室でおこなわれた「第1回教学研究委員会定例会議」で,その重大事は起きた。今〔2018〕年3月に第十二代靖国神社宮司に就任した小堀邦夫氏(68歳)が,創立150年に向けて新たに組織したのが「教学研究委員会」だった。

 これからの靖国神社がどうあるべきかを考えるとして,第1回の会議には,小堀宮司以下,ナンバー2である権宮司など職員10人が出席したことが当日の議事録に残されている。その会議の場で,靖国神社のトップである小堀宮司から,驚くべき発言が飛び出した。

 「陛下が一生懸命,慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが,そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し,結論をもち,発表をすることが重要やといってるの。はっきりいえば,今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。分かるか?」 

 さらに発言は,代替わりで次の天皇となる皇太子夫妻にも向けられた。 

 「あと半年すればわかるよ。もし,御在位中に一度も親拝(天皇が参拝すること)なさらなかったら,いまの皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」

 補注)A級戦犯が合祀されている靖国神社であるかぎり,天皇家の天皇自身とこの直系一族は,けっしてそこにはいかない(より適切には「いけない」と表現できる)。

 ただし,天皇と靖国神社の関係が完全に途切れているわけではなく,それなりに保持されている。少し長くなるが,「勅使参向の有無など皇室とのつながりで神社の格決まると識者」(『NEWS ポスト セブン』2015.12.22 16:00,https://www.news-postseven.com/archives/20151222_369111.html) から引用する。要領よく説明がなされている。が,具体的な論点では問題もあるので,こちらも併せて引用する。

 「国家神道」の時代には,全国の神社は明確に序列化されていた。戦後,制度は廃止され,現在に至る。神道学者で歴史家の高森明勅氏が「神社の格」について解説する。

 神社に序列なんてない。それぞれの神社に祀られる神様の前で恭しく頭をさげ手をうつときの気持はそうだろう。一方,各神社の歴史的・社会的な位置づけを大きく眺めると,おのずと序列のようなものが浮かび上がってくる。

 そのさい,ひとつの目安が “天皇・皇室とのつながり” 。天皇は歴史上,国内の統合だけでなく宗教・文化の面でも最高権威だったし,現在も神道の至高の「祭り主」であることに変わりはない。  

 補注)この高森明勅の説明には誇張(神道史の事実をはるかにしのぐ牽強付会)もある。実質において「天皇は歴史上,国内の統合だけでなく宗教・文化の面でも最高権威だった」といい切っていいのか疑問がある。最高権威とは政治権力から離れて,意図的に膨らませていわれる「位づけの問題」であるだけに,あえて誤解を誘導したいかのように語る表現には要注意である。つづいて引用する。

 その視点からまずとりあげるべきは伊勢の神宮。なにしろ全国の神社を包括する神社本庁が「本宗(ほんそう,総本家)」と仰ぐ神社だ。序列を超越する。

 日本神話の最高神で皇室の祖先神,天照大神を祀り,その神霊が宿るご神体は皇位のしるしの「三種の神器」の中でもとくに尊い八咫鏡(やたのかがみ)のご本体だ。古代以来,厚く崇敬されてきた。

 補注)高森明勅のこの指摘も,いささかならず眉ツバ的である。あくまで明治以来になってから,そのようにも説明できるようになったのが「このごとき記述の中味」である。

 「古代以来,厚く崇敬されてきた」その内容については,なお精査が必要である。それにしても,明治維新的に改ざんされた色調の濃い解釈だけを聞かされるのでは,誤解を招きやすいというか,誤導を意図しているのかと疑われかねない。

〔高森明勅に戻る→〕 いまも昭和天皇の4女,池田厚子様が祭主(さいしゅ,神職の長)註記)を務め,毎年3回,大切な祭りに天皇のお使いの勅使が差遣される。20年に1度神殿などを建て替える式年遷宮が7世紀から戦国時代の中断を乗り越えて続けられ,62回目にあたる平成25年には1400万人以上もつめかけた。神社の頂点だ。

 註記)この祭主という用語については「本稿(前編)」が触れていた。なお現在は,池田厚子のあとを継いだ黒田清子が祭主となって務めている。この「祭主」という用語じたいが明治謹製。

 ところで,村上重良編『皇室辞典』(東京堂出版,昭和55〔1980〕年),原 武史・吉田 裕編『天皇・皇室次元』(岩波書店,2005年)をとり出しさぐってみたが,目次にも索引にもこの「祭主という用語」は出ていない。

註記

 この記述では「本稿(前編)」に出ていたように,伊勢神宮の場合「斎宮」(この神宮に奉仕する皇女の最高神官)のことを,わざわざ祭主といいかえ使用していたに過ぎない。もっとも,用語としては分かりやすく漢字になっている。

〔高森に戻る→〕 他にも勅使を迎える神社が16社ある。勅使は天皇からの供え物を献じ,ご祭文を読み上げる。皇居ではその時間帯,天皇が「お慎み」になる。 これらの神社を勅祭社と呼ぶ。特別の待遇をうけるので一般の神社より重い地位とみられる。それぞれ古い由緒や皇室との縁が深い神社ばかりだ。その16社中,宇佐神宮と香椎宮は10年ごと,鹿島神宮,香取神宮は6年ごと,それら以外は毎年,勅使が差遣され,戦没者を祀る靖国神社だけは春秋2度の大祭に勅使を迎える。

 補注)以上の説明で分かることがある。A級戦犯合祀が天皇の親拝を妨げている。けれども,それでもなお,その可能性があるとしたら,それは「天皇が参拝にいける靖国神社に戻る」ことが条件である。皇室側はそのことを期待している。戦争神社であるゆえ「戦没者を祀る靖国神社だけは〔現在でもなお〕春秋2度の大祭に勅使を迎える」といった「現在もつづく事実」は,いったいどのように受けとめればよいか?

〔ここでは『NEWS ポスト セブン』記事に戻る→〕 静まり返る会議室で小堀宮司の高圧的な口調の “独演” と,速記のキーボードを打つ音だけが響く。この会議は,小堀宮司の意向もあって複数の出席者が記録のために録音していた。宮司の「総括」から始まる110分に及ぶ音声データを本誌は入手した。

 小堀宮司が語気を強めたのは,今上天皇が即位以来,一度も靖国を参拝したことがない一方,かつての戦地を訪れ,戦没者の霊を慰める旅を続けてきたことを指しているとみられる。皇室ジャーナリストの久能 靖氏はこういう。

 「今上天皇が靖国を参拝されない理由はわかりません。が,あえて推察すれば,昭和天皇が1978年のA級戦犯合祀以来,靖国においでにならなくなった,その思いを咀嚼されたのではないかと考えられます」  

 「今上陛下は戦争体験をおもちで,戦中の国民の苦しみは直接ご存じでした。だからこそ,国内外にわたるすべての戦地で慰霊をおこないたいというお気持になられていたと思います。天皇陛下の慰霊の旅は,強い信念にもとづいておこなわれているものでしょう」

 補注)天皇が父親の裕仁から子の明仁まで,そして,孫の徳仁までも靖国神社に参拝にいっていないとなれば,その原因がA級戦犯合祀であることは “百も承知の事実” 。だが,このように奥歯にご飯粒がたくさん挟まったかのようなものいいをするのは,慇懃無礼的な “逆配慮” を介在させた話法だと指摘しておく。

 明仁は天皇として,裕仁とはまた違った観点(皇室の立場・自分の利害)から,靖国神社にはまだ一度も参拝にはいけないけれども,この事実を踏まえたうえで,前段のような「戦地で慰霊をおこないたいというお気持」を強い信念にもとづいて」「慰霊の旅」を「おこなわれている」ことを介して,皇族たちの生き残り戦略を懸命に練りつつ,実際におこなってもきた。

 ところで,「昭和天皇 護国神社ご参拝『A級』合祀後途絶える」(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/13931/) という題目の記事があった(現在は削除されているが,他所からいくらでも検索可能,日付は多分,2006/08/07)。これをつぎに参照する。

 地元の戦没者を祭る各地の護国神社への昭和天皇のご参拝が,靖国神社のいわゆる「A級戦犯」合祀がおこなわれた昭和53〔1978〕年を最後に途絶えていたことが産経新聞の調べで〔2006年8月〕6日分かった。

 また,現在の天皇陛下が平成8〔1996〕年に栃木県護国神社(宇都宮市)に参拝されたさい,宮内庁がA級戦犯合祀の有無を事前に問いあわせていたことも関係者の証言で明らかになった。

 いわゆる『富田メモ』を補強する記事だともいえるが,それ以前の問題としてなぜ,いままでこのような視点で分析した人がいなかったのか,という方が気になる。
 註記)以上の引用は,「昭和天皇と護国神社ご参拝」『歯軋りばっかり』2006-08-07 14:40:27,https://blog.goo.ne.jp/s99x9999/e/5271ce35699d9b11a24285f13cc8af94 から。そのほかにも引用できる転載先がいくつもみつかる。

〔『NEWS ポスト セブン』に戻る→〕 その慰霊の旅が,小堀宮司の目には靖国神社を否定する行為に映っていると,靖国神社関係者がいう。

 小堀宮司からすれば,英霊の御霊は靖国にこそあり,戦地にはない。にもかかわらず,今上天皇は靖国よりも慰霊の旅を選んでいるとなると,靖国の存在意義を否定することになってしまうという思いがあったのではないか。

 しかし,この発言は靖国神社内でも問題視された。

 勅祭社(天皇が例祭などに勅使を派遣し,奉幣をおこななう神社)としての靖国神社の性格を考えると,天皇陛下を批判するような発言は,宮司として問題ではないかという声が上がっています。

  ◆-2「お前の説教,聞きたくないよ」

 靖国神社は来〔2019〕年までに天皇の参拝を実現させようとしていた。靖国神社職員はこう語る。

 平成の御代のうちに天皇陛下にご参拝をいただくことは,私たち靖国神社からすると悲願なのです。小堀宮司は, “平成の御代に一度も御親拝がなかったらこの神社はどうするんだ” と口にしていました。

 そうして宮内庁に対し,宮司みずからが伺って御親拝の御請願をおこなうための交渉を内々にしているのですが,まだ実現のメドは立っていない。

 小堀宮司は専門紙『神社新報』で「(創立)五十年目に大正天皇が行幸され,百年目には昭和天皇が皇后とお揃ひで行幸されてゐます。そして来年,百五十年といふ大きな節目の年がやってくることの重大さは,御代替りと相俟って深刻に考へてゐます」(7月30日付)と語っていた。

 天皇の参拝を求める焦りが発言の背景にあったのだろうか。問題発言に至るやりとりをみると,小堀宮司の真意が分かる。

 この日の会議は,靖国の創立百五十年史略年表の作成・出版などについて話したのちに,「戦犯に対する誤解や東京裁判の不当さについて調査考証する」という議題に入った。そこで出席者の職員が『富田メモ』について言及したことが,小堀発言につながった。

 補注)天皇家側,少なくとも天皇の直系家族「裕仁→明仁→徳仁」の線の沿って,考えてみる必要がある。

 「戦犯に対する誤解や東京裁判の不当さ」に関する認識が,彼らの側において十全とはいえないまでも,敗戦後における歴史の課題に対する基本的な姿勢としては妥協的にでありながら,つまりは,しかたなくであっても「受容してきている」。

 それゆえ,このような靖国神社側の一方的な思いこみ:国家神道的に断定的なイデオロギーをもってのみする「恣意的な判断」を,天皇家側に向けて照射するのは見当違いもはなはだしい。天皇側とは歯車の位置が離れていて噛みあうはずもなかった意見である。

〔『NEWS ポスト セブン』記事に戻る→〕 『富田メモ』とは,富田朝彦元宮内庁長官(在任は1978~1988年)が昭和天皇の非公開発言を記したメモで,靖国にA級戦犯が合祀されたことに関し,「だから,私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」との記述があった。

 2006年に日経新聞がメモの存在をスクープすると,「昭和天皇の真意が分かる超一級史料」と評価される一方,「陛下の真意とは限らない」と否定的意見も上がり,真贋をめぐる大論争となった。それに伴い,A級戦犯の靖国神社への合祀の是非や,小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝議論も過熱した。

 靖国神社はこの富田メモについて,現在に至るまでいっさいコメントしていない。だが,実際は “深い棘” として刺さっていたようだ。この富田メモについて職員が,「もしそれが本当の昭和天皇の発言だったらどうするんだ,ということで私は真剣に考えましてですね」といい出し,合祀の経緯を振り返ったうえで,こう熱弁を振るった。

 「このまま時代を50年,100年経過していったときにどういうふうな説明をして,国民が理解していけるのか,というところの先読みしたような考え方をもっていく必要があるんじゃないか」。ところがこの職員の発言を,小堀宮司はいきなり遮り,切って捨てた」。

 お前の説教,聞きたくないよ。しょうもない。お前のどこに戦略があんねん。『これしってます,私はこれしってます』っていう話ばっかりやないか。どうやって戦うかを考えるんがこの仕事やないか。

 なにも恐れる必要はない。間違ってたら間違ってたといえばいい。
(中略) 戦略を考えるのは俺が考える。君らが考えんでいい。一番大きな問題はあの慰霊の旅です。気がつかないのか君たちは。

小堀邦夫・発言

 そうして,冒頭の発言が飛び出した。つまり,小堀発言は富田メモから連なる,天皇と靖国の “複雑な関係” が伏線にあったのだ。「富田メモ」については靖国神社の中でも “タブー扱い” されてきた。昭和天皇,今上天皇の御親拝が途絶えている真意についても触れないできたわけである。

 「小堀宮司は,そうした空気のなかで,トップとしての風格をみせる狙いもあってああしたものいいをしたのではないか。『戦う』『戦略』といった言葉からは,どんな事情が背景にあるにせよ,とにかく天皇の御親拝を実現させたいという強い意思を感じます。しかし,それが実現しないことの不満となれば,天皇陛下への批判となってしまう。靖国神社が抱えるジレンマが,ついに噴出してしまったということでしょう」(前出・靖国神社関係者)。

  ◆-3「皇太子さまは輪をかけてくる」

 発言の主である小堀宮司とは,どんな人物なのか。 小堀宮司は,3つの大学・大学院を出たあと伊勢神宮に奉職。以来,伊勢神宮一筋で,宮司を補佐する禰宜(ねぎ)という要職に登りつめた。靖国の前宮司・徳川康久氏が,戊辰戦争の “賊軍” である幕府軍や会津軍の戦死者も合祀に前向きな姿勢を示したことなどが問題視され,「一身上の都合」で辞任したのを受けて,靖国の宮司に就任した。
 補注)靖国神社の戦争神社たるゆえんは,このように「敵であった者」の死霊は,たとえ同国人(日本人)同士であっても,徹底的に排除しておくといったごとき「戦闘性」(宗教好戦的な基本姿勢)にみいだせる。日本古来の神道史や仏教史のなかで伝統としての「死者慰霊」の観点からすると,異例中の異例といえ,慰霊の場にまで敵対精神を,それも国家宗教である靖国信仰の立場から露骨に発揮しつづけている。

 伊勢神宮時代には,メディアにもなんどか登場している。2016年〔8月8日〕に天皇が生前退位の「お気持ち」を表明されたさいには,『中日新聞』(2016年8月9日付)の取材に,「苦心されてお言葉を選ばれたのだろう。天皇陛下が『伝統の継承者』でありつづけるため,現行制度の問題を問いかけているのでは」と賛同する姿勢で答えていた。

 ところが,教学研究委員会では,まったく別の意見を述べている。

 あのビデオメッセージで譲位を決めたとき,反対する人おったよね (中略) 正論なんよ。だけど正論を潰せるだけの準備を陛下はずっとなさってる。それに誰も気がつかなかった。公務というのはそれなんです。

 実績を陛下は積み上げた。誰も文句をいえない。そしてこのつぎは,皇太子さまはそれに輪をかけてきますよ。どういうふうになるのか僕も予測できない。少なくとも温かくなることはない。靖国さんに対して。

小堀邦夫発言

 生前退位に反対だったという本音をにじませ,皇太子に代替わりしても靖国との距離は広がるばかりだと危惧しているように聞こえる。

  ◆-4「僕,出てませんよ」

 一連の小堀宮司の発言について,宗教学者の島田裕巳氏はこう読み解く。

 「伊勢神宮は神社の世界では別格扱いで,そこにいたという自負が小堀宮司にあるはず。その感覚には少し浮き世離れした部分があり,発言がどのような問題を引き起こすかを認識しないまま思ったとおりに本音を話してしまったのではないか」

 「ただし,現在の天皇が靖国神社を参拝されないのは,好き嫌いの問題ではなく,政教分離の問題が大きいはず。なにより宮内庁が止めるはずです。昭和天皇の参拝が途絶えた経緯においても,A級戦犯の合祀より,当時の中曽根康弘首相が国際社会の反発を予想せずに公式参拝したことの影響が大きい」

 「それは安倍首相が強行した参拝も同様で,首相参拝へのハレーションが,ますます靖国神社と天皇の距離を遠くしているという状況がある。はたして小堀宮司はそうした複雑さを理解したうえで発言しているのでしょうか」

 本誌は一連の発言の真意を確認するため,9月26日早朝,小堀宮司の自宅前で本人を直撃した。

 ▽ 6月20日の教学研究委員会で話されたことについてお聞きしたい。      →「なにもしらないですよ」
 ▽ いや,小堀さんが話されたことですよ。
    →「教学研究委員会,僕,出てませんよ」
 ▽ 教学研究委員会ですよ。
    →「ええ,出てませんよ」

 そう質問を遮って,迎えの車に乗りこんだ。靖国神社に会議での発言について見解を求めた。 

 「教学研究委員会は,社外公開を前提としたものではございませんので,各委員の発言を含め会議内容などの回答は控えさせていただきます。また当委員会では,世代交代が進む御遺族・崇敬者のみならず,多くの人びとに当神社をご理解いただくべく,神社運営や教学について研究・協議を始めたばかりです。その過程において,協議内容の一部分を抽出し,神社の見解とすることはございません」(広報課)

 前述の『富田メモ』は,靖国問題についての昭和天皇の「本音」が記されていたとして議論を巻き起こした。それに対する靖国トップの「本音」というべき小堀発言は,どのような波紋を呼ぶのだろうか。
 付記)音声データは「News MagVi」(https://twitter.com/News_MagVi) にて公開中〔ということであったが,現在,2023年5月3日は削除されてい視聴不可〕。

 註記1)以上『週刊ポスト』2018年10月12・19日号。
 註記2)https://www.news-postseven.com/archives/20180930_771685.html
     https://www.news-postseven.com/archives/20180930_771685.html?PAGE=2〔~8〕

 本ブログのこの記述は,いつも冒頭でかかげている「要約的な短句」のなかで,つぎの表現に相当する文言を書いていた。ここまでの記述に関する結論は,ともかくこれにて,代えておくほかない。

 ★ 靖国神社がA級戦犯を合祀しているが,これは天皇家にとって「喉に刺さったトゲ」であり,飲みこめるわけがない「永久の靖国的な難義」でありつづける ★

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  【 参考記事 】-『リテラ』から2018年10月10日記事-

 「靖国神社宮司が天皇批判! 『天皇は靖国を潰そうとしている』…右派勢力が陥る靖国至上主義と天皇軽視の倒錯」『リテラ』2018.10.10,https://lite-ra.com/2018/10/post-4305.html

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