見出し画像

伊勢神宮と敗戦後皇室との関係構築,祭主に女性皇族を据えた新しい伝統の創造(前編)

 ※-1 問題意識-議論の前提になる関連の論点など

 1)21世紀の靖国神社は誰がために存在するのか,A級戦犯が合祀されているかぎり天皇家は親拝に出向かない,靖国神社側に妥協はあっても皇室(天皇系)側に妥協はありえない。
 付記)冒頭の画像の出所は,「天皇皇后として最後の伊勢神宮ご参拝 清子さんへの深い愛情」『NEWSポストセブン』2019年4月17日,https://www.news-postseven.com/archives/20190417_1350759.html?DETAIL&from=imagepage_f-1-1

 天皇参拝(親拝)という課題をめぐっては,たびたび歯ぎしりする思いを重ねてきたのが,靖国神社のこれまでの立場であった。1978年10月17日,靖国側は当時,第6代宮司になりたてだった松平永芳(赴任期間,1978年-1992年)がA級戦犯を合祀していた。

 その事実に気づいた昭和天皇側はその事実に憤激し,その気持ちを当時の内庁長官・富田朝彦に語っていた。その文句は富田がメモに残した記録によると,つぎのことばであった。なお〔 〕内補足は引用者。

  私は或る時に,A級が合祀され
  その上 松岡,白取までもが
  筑波〔藤麿〕は慎重に対処してくれたと聞いたが

  松平〔永芳〕の子の今の宮司がどう考えたのか
  易々と
  松平は平和に強い考えがあったと思うのに

  親の心子知らずと思っている
  だから 私あれ以来参拝していない
  それが私の心だ

補注)『日本経済新聞』2006年7月20日が1面冒頭記事として報じた「富田メモ」とは,元宮内庁長官・富田朝彦がつけていたとされるメモ(手帳14冊・日記帳13冊・計27冊)のうち,とくに「昭和天皇の靖国神社参拝に関する発言」を記述したと報道された部分を指す。

『富田メモ』から

 昭和天皇が第2次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀に,強い不快感を示したとされる内容が注目された。メモ全体の公刊や一般への公開はされていない。その内容の一部が前段の文言であった。

 なかでも靖国神社についての前段のごとき発言は,1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモに記されていた。一連のメモは4枚あったとされ,そのうちの4枚目にあたる。

 さて,靖国神社がただの宗教法人である神道神社ならば,「天皇一族」との親密な関係を要求するのは無理があるが,そうではなく,敗戦以前におけるこの靖国神社の国家的な役目は,戦争という行為を督戦するために,

 戦死者の遺族たちに対してその〈死〉を納得せしめ,なおかつそれ以上に「国家的な有意義である霊的な意義」として,その本殿に死んだ彼らを霊的に祭祀する対象に「祭り上げる」ことが基本の目的であったがゆえ,

 1945年8月15日,9月2日を経て大東亜戦争(太平洋戦争)には無条件降伏という結末を迎えた旧大日本帝国の国家廟は,その本義としての役割・機能を果たしえなくなっていた。

 しかし,敗戦を契機に日本を占領・支配したGHQは,この靖国神社を取り潰すことはせず,米欧流の戦死者用墓地に似せて理解してくれておいたがために,そのまま敗戦後史を経て21世紀の現在も存在しえている。

 昭和天皇の靖国神社に対する歴史的認識は複雑怪奇の要因を含む。なぜなら,「戦争神社」である「督戦神社」であるからには「勝利神社」つまり「官軍のための神社」であらねばならなかった靖国神社が,戦争に敗北した旧日帝の犠牲者(軍人の戦死者や戦没者全般)の「御霊」という精神的な因子だけを都合よくとりだし,合祀するという役割は,もはや不要・無意味になった。

 しかし,GHQの穏便な措置により,敗戦後の日本社会に残存することができた靖国神社であっただけに,A級戦犯を合祀した松平永芳の行動は,昭和天皇に限りなくおおきな苦悩を与えた。敗戦した旧日帝の「戦争用督戦・勝利神社」に,自分の身代わりのようにして極東国際軍事裁判の結果,絞首刑になったA級戦犯が,この「靖国神社(戦争を督戦し勝利を前提とする)」に合祀されたのだから,

 昭和天皇にとってみれば,それこそ身も蓋もない,いわば天地がひっくり返ったごとき風景が,皇居の北側に位置する九段下の,かつての国営神社のなかで強行されていた。というしだいがあって,昭和天皇は前述のように嘆く文句を当時の宮内庁長官に向かい吐露していた。

 2)話題は伊勢神宮に移る。この伊勢神宮では現在,黒田清子が祭主の地位に就いている。皇室神道を頂点に日本の神道界を統御しようとする天皇家の意図に変わりはなく,明治以来,天皇家の傘下に収めたかっこうになっていた伊勢神宮は,あたかも皇族関係者が「祭主」の地位を,それも女性が占めることに決まりがあるかのようにして,置いている。

 つぎの表はクリックで拡大・可である。

伊勢神宮は天皇家の傘下

 一風変わった,なんというか「天皇家関係者の《天上がり》就職先」として,伊勢神宮の祭主の地位が「当然の権利である」かのように継承されている。しかし,その由来はあくまで「明治謹製」の近代史において形成された制度である。

 なお,伊勢神宮の「祭主」は,つぎのように説明されている。

 「祭主」とは伊勢の神宮に仕える祀職(ししょく)名のひとつである。神宮祭主ともよばれるが,この神宮にだけある職名である。天皇にかわって祭祀に仕える大御手代(おおみてしろ)として,皇族または皇族であった者のなかから選ばれる。

 1代前の神宮祭主は池田厚子(旧岡山藩主池田家第16代当主池田隆政の妻となった〈昭和天皇の娘の1人〉で「平成天皇の姉」に当たる)であったが,現在は黒田清子(平成天皇の娘)である。

 その起源は,神宮鎮座のとき,大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主に任ぜられたのに始まるといわれる(『倭姫(やまとひめ)命世記』ほか)。初めは伊勢への幣使をいった(「大神宮式」)が,のちに中臣(なかとみ)氏を選んで祭主とし,朝廷と神宮との仲執(なかと)り持ちの役をさせた。

 後奈良(ごなら)天皇(在位1526~57年)以降は,中臣氏のなかでも藤波家が神宮祭主職を世襲し,1871年(明治4年)の神宮改正後は,皇族祭主の制が定められ,大御手代とされた。なお,祭主の語は,早く『日本書紀』の「崇神(すじん)紀」7年8月の条にみえ,そこでは祭りの主(かんぬし)(または「つかさ」)と読む。

 註記)「祭主」『小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/祭主-507713 参照。

伊勢神宮「祭主」の説明

 3)「靖国神社がA級戦犯を合祀している」が,これは天皇家にとって「喉に刺さったトゲ」でありつづけている。けっして,飲みこめるわけがない「永久の靖国的な難義」となって,天皇家を苦しめている皇室神道内の苦悩なのである。

 靖国神社におけるA級戦犯の合祀は,昭和天皇にとって絶対に許容できなかった,それも「靖国側が作為のうえ作りだした不祥事,つまり昭和天皇自身にとってみればこのうえない皇室神道をめぐる不幸な出来事を意味した。

 したがってその昭和天皇の気持ちは,息子の明仁,孫の徳仁にも連綿と継承されている。一方,靖国神社側はいったん合祀した御霊は取り消したり,分祀は絶対にできないと,強硬にいいはっている。

 そういう割には,靖国神社には合祀されずに別に独立させた御霊として,皇族関係の英霊(戦死者)に関しては,別に1柱のあつかいにしており,同じ死者(英霊)同士のあいだでありながら,実に奇妙な特別待遇がほどこされている。

 靖国神社(https://ja.wikipedia.org/wiki/靖国神社 )にもその点は指摘されている。

本殿での祭神の神座は当初は1座であったが,1959年(昭和34年)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と,蒙疆神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。したがって「現在の神座は,英霊を祀る1座と能久親王,永久王を祀る1座の2座である」

   補注)靖国神社は合祀しているといっても,その実,英霊を「2柱に分けてそれぞれ合祀する」といった根本的な矛盾を「同居させている」摩訶不思議な場所

 この靖国神社の内部事情をありのままにとらえて表現するに,この戦争神社内では合祀が文字どおりなされていない。英霊のあいだに「元皇族と庶民(平民)との厳然たる相違」,正直にいえば,戦前的な「身分差別」が,それも意図的に戦前のままに残され,いってみれば放置されている。

 4)靖国神社は本来,天皇家のための戦争勝利・督戦神社であった。A級戦犯合祀が続くかぎり両者間に和解はありえない。なぜなら,戦争敗北・降伏神社である事実を認めざるをえない「A級戦犯の合祀」という現状は,とくに昭和天皇の「敗戦後史」にとってみれば,耐えがたい屈辱を意味する。

 敗戦した旧大日本帝国であったから,靖国神社の存在理由(レゾンデトル)はなくなっていはずである。だが,たまたまGHQの穏便な処遇が靖国神社に対しては,その認識に不足や誤解があったとはいえ,存続を許していたこの神社,いいかえれば「敗北して賊軍神社」になっていたはずところへ,

 その「A級戦犯」がわざわざ合祀されたとなれば,せっかくのそのGHQの穏便だった靖国神社に対する戦後措置--賊軍神社になる必然性には目をつむっていてくれたか,あるいはそのように理解することなくほどこしてくれたその措置--が,いまさらのようにちゃぶ台返しの目に遭ってしまったことになる。

 だから,昭和天皇は「富田メモ」に記されたように,A級戦犯合祀という事実に対してはたいそう失望させられ,同時に,無限大の反発を抱いた。いってみれば,当時の靖国神社・宮司松平永芳は,いまさらのように「寝た子を起こす」ような行為を敢行したのである。

 しかも,合祀のあとに靖国神社が繰りだした理屈は,A級戦犯について「昭和殉難者」という新しいカテゴリーを設けていたとなれば,いわゆる「東京裁判史観」の典型的な反論形態のひとつであったとはいえ,「井の中の蛙」的な感性ばかりがきわだつしだいであった。

 5)ところで,現在にも当然当てはまる理解として,こういう事実関係を説明しておきたい。

 皇室神道として明治以降,皇居内に建造された「宮中三殿」を三角形の頂上に位置づけ,その底辺の両脇には,一方に本来は民俗神道であり生ける者のための神社「伊勢神宮」を置くとともに,他方に帝国主義を推進していく過程で必要となった「靖国神社」をも,帝国主義路線推進のために必要な慰霊施設として設営した。

 そうした三角関係のなかで,とりわけあの大戦争に敗北した靖国神社は「賊軍神社」としての命運を背負わされていたものの,当面は英霊(戦争の負けて英霊もなにもありえないはずだが,ともかくも)の収容場所として存続を許されていた。

 前段に指摘した「三角形の片方の底辺」に位置した靖国神社は,A級戦犯の合祀を機会に,敗戦後的なその「三角関係の間柄」が危機に瀕する状況に追いこまれた。この危機の状況は,天皇裕仁が一番よく理解していたことになる。
 

 ※-2「伊勢神宮大宮司に小松揮世久さん就任 神宮祭主の黒田清子さんと新体制に」『伊勢志摩経済新聞』2017.07.05,https://iseshima.keizai.biz/headline/2828/

 a) 神宮司庁(伊勢市)は〔2017年〕7月3日付で,神宮大宮司に鷹司尚武さん(72歳)から新たに小松揮世久さん(67歳)が就任したと発表した。

 小松さんと鷹司さんは7月5日,伊勢神宮外宮,内宮の両宮を退任ならびに就任の奉告参拝をおこなった。伊勢神宮は,8月20日発表の黒田清子さんが神宮祭主に就任したことと合わせて新体制になる。大宮司は伊勢神宮の最高責任者で,小松さんで戦後10人目。

 東京都出身の小松揮世久さんは,1949(昭和24)年12月27日生まれ。1974(昭和43)年一橋大学経済学部から三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入行し,カナダ・バンクーバー,中目黒,金沢支店長,同支社長などを,三菱財団(東京都千代田区)を経て,霞会館(同)の理事を務めた。旧皇族で平安神宮(京都府京都市)の宮司を務めた故・小松輝久さんの孫。

 小松大宮司はこの後,職員に向け就任のあいさつをおこなった。

 同庁広報室によると,「8月4日の風日祈祭(かぜひのみさい)が大宮司の最初の奉仕しに,黒田祭主と同時に祭典を奉仕するのは10月15日からの神嘗祭になるだろう」と話す。(引用終わり)

 b) 同じ『伊勢志摩経済新聞』は2017年6月20日に,つぎのような文句で始まる記事「伊勢神宮祭主に黒田清子さん 最初のご奉仕は10月の神嘗祭を予定」も報道していた。

『伊勢志摩経済新聞』2017年6月20日

 伊勢神宮では,明治「維新」以前であれば想像しにくい運営体制に変化していた。以後,祭主に皇族たちが就任するという組織管理の運営方式を採ってきた。こういう歴史があった。

 伊勢神宮の祭主は代々公家の藤波家が世襲する役職であった。しかし,明治維新後にこの「社家の世襲」は廃止され,伊勢神宮の祭主には公家華族の公爵かまたは皇族が任命されるようになった。

 明治維新後の歴代祭主は,以下のとおりであった。前段で敗戦後における祭主は紹介してあったが,ここであらためて詳論しておく。

   子爵・藤波教忠
   公爵・近衛忠房 (五摂家)
   伯爵・三條西李知(大臣家)
   皇族・久邇宮朝彦
   皇族・有栖川宮熾仁
   皇族・賀陽宮邦憲
   皇族・久邇宮多嘉
   皇族・久邇宮邦彦
   皇族・梨本宮守正
   北白川房子(明治天皇第七女)
   鷹司 和子(昭和天皇第三女)
   池田 厚子(昭和天皇第四女)

 c) 池田厚子は「昭和天皇の第四皇女」として長らく祭主を務め,また神社本庁の総裁も兼ねていたが,平成天皇の娘で,2005年11月に結婚した黒田清子が,同年6月,この伊勢神宮の祭主を引きついでいた。三重県伊勢神宮の祭主を29年間務めていた平成天皇の姉・池田厚子が退任して,2017年6月19日付で黒田清子が祭主に就任することが決まっていた。

 天皇の祖先神である天照大御神が祀られていて,皇室の人びとがおりに触れて参拝する伊勢神宮の祭主は〔明治以来は〕代々,皇族や皇族出身者が務めることになっている。経緯としては,池田厚子から祭主を退くとの申し出があり,それから天皇の指名があって,黒田清子の祭主ご就任が決まった」(神宮司庁の担当者)。

 補注)天皇家の人びとが,古代史の時期から伊勢神宮に足しげく参拝していたかという記録はない。明治天皇ですら明治2〔1869〕年3月12日に初めて,それも「歴代天皇で初めて伊勢神宮に参拝」したくらいであって,この明治天皇が在位中の天皇としては “千年ぶりに参拝した” だけのことであった。

 「この長期の空白の理由については諸説がとなえられているが,決定的なものはない」ゆえ,その後(明治維新後)において,天皇家と伊勢神宮のあいだに国家神道的な意味でも「親密な間柄にある」〔あったのだ!?〕という具合に,神道的な意味あいでもって,それも完全に架空に近い「作り話が創設される」ことになっていた。

 日本は,明治帝政の時代に近代国家体制を発足させたわけだが,米欧帝国主義(海外の強国)による日本侵略を防遏するための便法として,帝国臣民たちに神国思想(富国強兵のためのそれ)を吹きこんでおく必要上,天皇の地位を神話の世界での「天照大神信仰」や,さらには「神武天皇」にまで遡及させる「国民(臣民)精神の創話」などが,どうしても設定されておく必要があった。

 明治以前であれば庶民のための信仰対象であった伊勢神宮が,明治維新以後には『天皇家を総本家とする』みたいな宗教的な意味と態勢に読みかえられはじめた。「天皇家あっての伊勢神宮である」と関係づけられた新しい伊勢神宮解釈が創造されたのにともない,そのとおりに神道的な路線も根幹から変更させられていた。

 だから,祭主も皇族たちから選ぶようになっていた。「皇室神道≧国家神道」であるが,そのあいだにさらに「伊勢神宮が位置させられている」上下の序列関係が,これも新たに創意・工夫された。

〔記事に戻る→〕 今〔2017〕年86歳になった厚子さんの高齢化に伴い,清子さんは2012年4月から1年半,臨時の祭主を務め,2013年の重要行事「式年遷宮」では厚子さんを支えていた。皇后美智子さま(82歳,当時)は,そのさいの清子さんの様子を2014年1月の『歌会始の儀』で披露された御歌(和歌)でも詠まれている。

 註記)c) は「眞子さま,伊勢神宮の祭主・黒田清子さんから受け継ぐ“30年後”の決意とは」『週刊女性』2017年7月11日号,2017/6/28,http://www.jprime.jp/articles/-/9996 から。
 

 ※-3「 “サーヤ” の夫・黒田慶樹さんの慎ましい夕食 『大戸屋』で黒酢あん定食をひとり頬張る」『デイリー新潮』2018年3月9日掲載,https://www.dailyshincho.jp/article/2018/03090631/?photo=1 以下

 a) 当時,眞子さまとの “結婚延期” が発表された小室 圭さんの例を出すまでもなく,皇族の “お相手” となる人物には,なにかと関心が集まるもの。遡ること約10年前には,サーヤこと清子さん(48歳,当時)の夫・黒田慶樹さん(52歳)がその対象だった。

 もともとは秋篠宮殿下の学習院初等科のご学友であった黒田さん。殿下の妹である清子さんとも顔みしりであったといわれるが,お2人のご交際が始まったのは,2000年代に入ってからとされている。そして2004年11月に “清子内親王” との婚約内定が報道された。

 たとえば朝日新聞は,〈メール・手紙が心結ぶ 婚約内定の紀宮さまと黒田さん〉(2004年11月15日付朝刊)との見出しで,こんなエピソードを紹介している。

 長い年月を経ての再会。紀宮さまは,少女の面影を残しながらも,落ち着いた大人の女性に成長していた。ある関係者によると,黒田さんは「あんな思慮深い女性に会ったのは初めてです」と,強い印象を受けた様子だったという。

 仕事で帰宅が遅くなることが多い黒田さんと紀宮さまは,メールでやりとりすることが多かった。たがいの思いをつづった手紙は,秋篠宮さまがそれぞれに届けた。

 それから13年あまり。黒田さんは意外なところで,その慎ましい暮らしが目撃されていた。定食チェーン「大戸屋」である。

【参考画像】-1人で食事を摂る黒田慶樹の姿- 

黒田慶樹画像

 b) “夫婦参加” をドタキャンも…
 掲載の写真は,東京都建設局での勤務を終え,都内某所の「大戸屋」で食事する黒田さんである。「黒田さん? ああ。サーヤの旦那さんね。ご近所に住んでるみたいだから,よくみますよ」というのは,この店の常連客。

 「『鶏と野菜の黒酢あん定食』がお気に入りみたいです」。ときに卓上のふりかけに頼りながら,およそ900円のディナーをひとりで済ました黒田さん。清子さんは昨〔2017〕年6月に伊勢神宮の祭主を務められているから,お忙しいのだろうか。

 だが,黒田さんがみせた孤独のグルメに,宮内庁担当記者は “夫妻は不仲なのでは……” との懸念を明かす。

 「昨〔2017〕年10月20日に皇居でおこなわれた,皇后さま83歳の “お祝い御膳” に夫妻で参加するはずが,清子さんだけだったのです。黒田さんは残業を理由に欠席したと聞いています」。 

 清子さん同様,課長の肩書をもつ黒田さんもまたご多忙の身であろうが,毎年の大事な行事をドタキャンするとなれば,おだやかでないとみる。

 黒田さんご本人に,欠席の理由を尋ねてみると,「せっかくですが,取材はご遠慮いただいているので。いいたいことは答え,いいたくないことは答えない。これは私の信念としてやりません。本当に申しわけないですけれども……」。

 丁寧な応対の反面,かたくなだった。当初の予定では,皇族を娶るにあたっての心構えを小室さんに指南することになったかもしれない黒田さん。いまとなっては,小室家の事情でその可能性はきわめて低いのだが……。
 

 ※-4 黒田清子と黒田慶樹の別居説が浮上した理由

 この噂は,2012年に黒田清子が伊勢神宮の臨時祭主に就任すると発生していた。伊勢神宮の臨時祭主として2018年4月26日付で就任した黒田清子(43歳)は5月13日,外宮・内宮にそれぞれ参拝し,神に就任の奉告をおこなった。天皇の代わりに神宮の祭りを司る神宮祭主。現在は昭和天皇の四女,池田厚子(81歳)が務めているが, 高齢であることから 黒田さんが補佐役となっていた。

 伊勢神宮は三重県伊勢市にあり,旦那の黒田慶樹は都庁職員のため黒田清子だけ引越したという噂が,勝手に広まっていた。黒田清子と黒田慶樹が別居するとなれば,マスコミや週刊誌がこぞって報道すると思われたが,世間で騒がれない噂は信じなくてよいのである。

 将来的には黒田清子さんが臨時ではない神宮祭主になる可能性は否定できない〔現在は正式に祭主〕。それでも別居という手段はとらないと思われ,まわりも配慮するはずである。

 ということで,両名の「離婚の噂には信憑性がまったくない」。さらに別居説と合わせて黒田清子・黒田慶樹夫妻の離婚説まで飛び出しているが,当然まったく信憑性のない情報である。

 別居説や離婚説などあたかも,芸能人ネタのような話題が飛び出すのも,黒田清子が皇族を離れて民間人となったためである。さすがに悪質なネット中毒者も皇族批判を大々的にすることはできず,下手をすると不敬罪で3月以上5年以下の懲役を受ける可能性がある。また,黒田清子さん黒田慶樹さん夫妻に子供はいない。
 註記)「【紀宮様】黒田清子の現在は? 旦那や子供・離婚の噂の真相まとめ」『MATOMEDIA 知りたいに応えるWEBマガジン』2018/06/27 更新,https://newsmatomedia.com/kuroda-kiyoko

 補注)この最後の段落はなにをいいたのか,あるいは,なにをいっているつもりなのか不明である。「黒田清子が皇族を離れて民間人となったため」ウンヌン(デンデン)のくだりが,とくに意味が錯乱気味……。

 皇族を離れた人物であったにせよ,彼らが週刊誌などのネタになることは,以前でもいまでも,いくらでもある事実であって,このようにデタラメそのものである記述,それも正々堂々と述べる神経はいただけない。ましてや「不敬罪」などという法律はない。いくらなんでもここまで “根拠もない虚言を吐く言辞” は言語道断である。

 今回のこの記述は〔続編のほうで記述する話題だが〕,まだ「靖国神社の問題」を残している。ここでは,伊勢神宮と黒田清子の関係について述べることが「本稿(前編)」の主な記述になっていた。

 それにしても,黒田慶樹・清子の夫婦のうち妻は,皇室から出てきて「民間人」と結婚した(嫁いだ)はずであるが,「元」皇族の一員として伊勢神宮の祭主になるという具合に,その大きな尻尾を引きずったまま自分の人生過程をたどりつつある。

 しかもこの祭主という仕事は,とくに定められた定年がない様子であり,皇族たちの関係者が長期間,その座=地位に居続ける。自分から辞めるといわないまでは,そうである。

 黒田清子の「夫である慶樹の立場」にしてみれば,東京都職員の立場にあるかぎり伊勢神宮方面への転勤は考えにくい。となれば,ミーハー的な週刊誌などが興味津々になって,清子の伊勢神宮祭主になっている(皇族関係者の専用職であり,とくに敗戦後は女性で天皇の子に当たる人物が連続して就いている)事実をめぐっては,鵜の目鷹の目で取材の機会をうかがおうとしてきたのは,あまりに当然であった。
 

 ※-5 敗戦後の祭主の1人の鷹司和子(昭和天皇第三皇女)には,ある有名な事件「話」があったが,その後,伊勢神宮の祭主になっていた

  ◆ 苦労をした鷹司和子 ◆
 戦後になってから民間に嫁いだ女性皇族にはどんな苦労があったか。「一番苦労したのは鷹司和子である」。夫〔鷹司平通〕が銀座のバーのママと同部屋で亡くなり,遺体がみつかったときには全裸であったことから,心中したと噂された。主人を亡くしてから,強盗に入られ怪我をするなどの災難にもみまわれた。

 孝宮和子が鷹司平通と結婚したのは1950年。「市中にはドロボーというものがいるそうだから,気をつけるように」と,昭和天皇は娘に注意を促した。

鷹司平通夫妻

 結婚から16年経ったころの昭和41〔1961〕年1月28日,銀座のバー『いさり火』の経営者前田美智子といっしょに,平通が彼女のマンションで発見された。平通が洋間の机とソファーのあいだに,美智子が奥の和室に,それぞれうつ伏せに倒れていた。外傷はなし。

 警視庁による発表は,ガスストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒死。ガスストーブが原因だという発表に異議を唱えたのは,東京ガスだった。刑事が部屋に踏みこんだときに,ガスはなんの匂いもなく燃えつづけていたからだ。

 東京ガスはストーブを会社にもち帰り,総合研究所で検証した。不完全燃焼は起こらなかった。広報室長は「絶対に事故ではないと思う。このままでは営業妨害だ」とまでいった。

 部屋のテーブルの上には,カップが1つだけ置かれていた。2人で飲み物を飲んだなら,カップは2つでなければおかしい。なんらかの薬物を2人で飲んだ心中とも考えられるが,司法解剖はされなかったので胃の内容物までは分からなかった。事故か心中かは解明されなかったが,自分とはまったく別世界の女といっしょに,その部屋で夫が死んでしまったということは,妻にとってこれ以上の衝撃はない。

 鷹司和子が強盗に入られたのは,1968年8月22日の昼過ぎ。目の鋭い若い男が「声を出すな。殺すつもりはない。金を貸してくれ」と包丁を和子さんに突きつけたのだ。和子さんの悲鳴を聞きつけてお手伝いさんが駆けつけたとき,和子さんは男の手をしっかりと押さえこんでいた。

 110番通報で,犯人は逮捕された。逮捕歴4回,住所不定の23歳。道を歩いていて強盗を思い立ったという。自分が格闘した相手のことを取調官から聞かされて「天皇のお嬢さん? うーん」と頭を抱えこんだ。
 註記)「眞子さま嫁ぎ先『借金トラブル』騒動,皇籍離脱の現実…売店勤務,夫が愛人と心中も」『Business Journal』2018.01.25,https://biz-journal.jp/2018/01/post_22104_2.html

 さて,以上の話題に関するその後について,ウィキペディアがこう解説している。

  1974年(昭和49年),北白川房子に続き,2人目の女性伊勢神宮祭主に就任。1988年(昭和63年)に体調が芳しくなく退任,妹・池田厚子が就いた。

 昭和天皇のあとを追うように,1989年(平成元年)5月26日,心不全のため死去,享年59。墓所は,鷹司家菩提寺である京都市右京区の二尊院にある。

 夫・平通とのあいだに子はなく甥の尚武(平通の妹・章子の子)を養子に迎えた。尚武は日本電気通信システム社長等を務め,2007年より2017年7月まで伊勢神宮大宮司であった。 

 伊勢神宮の「祭主の地位」は,敗戦後のいまでは皇族関係者たち,それも女性たちの指定席であるかのようになっているが,ただ神道界における敗戦後の民主化(?)⇒「女性が祭主になっている」という,20世紀後半からの「新しい伝統(!)」が生まれたといえるほどに,そこになにか注目すべき含意があるようにはみえない。

 いずれにせよ,黒田清子は「伊勢神宮の祭主を」これから長期間にわたり果たしていくものと予想される。旦那の慶樹の心境や「いかに」?
 

 ※-6 伊勢神宮の祭主とはこの神社のみにある「神職の地位」

 以下,ひととおりの説明をおこなう。「祭主(さいしゅ)」とは,伊勢神宮にのみ置かれている神職の役職である。「まつりのつかさ」とも読む。

 1) 「概 要」
 古は令外官のひとつであったもので,神祇官に属し,伊勢神宮の神官の長官であった。中央官であり,通常は都に居住して神宮関係の行政に従事した。

 推古朝に中臣御食子(「なかとみ の みけこ」;鎌足の父)が祭官となったのが初代とされ,天武朝に中臣意美麻呂(「なかとみ の おみまろ」)が任じられたさいに,祭官をあらため祭主と称したという。以降,明治以前までは,代々中臣氏(大中臣氏)が任命され,神祇官次官である神祇大副(だいふ)あるいは神祇権大副(ごんだいふ)が多く兼任した。

 伊勢神宮の祈年祭・両月次祭・神嘗祭の4度の大祭に,奉幣使として参向し,祝詞を奏上して,天皇の意思を祭神に伝えることを主たる役目とする。国家機関当時は,式年遷宮に際しては,造神宮使・奉遷使を務めた。伊勢神宮のほかにも同名の役職が置かれる場合があったが,それらとは明確に区別される。

 2) 「近 代」
 近代以降,社家の世襲が廃止されると,藤波家(大中臣氏)の世襲は廃されて,華族をもって神宮祭主に任じた。のちに,皇族または公爵をもって任じる親任官となり,勅令である神宮司庁官制で法制化された。

 敗戦後は神道指令および日本国憲法により,国家の手を離れ,宗教法人としての神宮となってから,現在は宗教法人としての「規則」により,祭主は「勅旨を奉じて定める」ことされている。女性の元皇族が就任している。

 最初の皇族祭主が久邇宮朝彦親王(香淳皇后〔平成天皇の母〕の祖父)であることから,その子孫が就任していることが多い。熱田神宮にも祭主を置く動きがあったが,実現しなかった。

 2017年現在の祭主は黒田清子である。戦後は皇族出身の女性が就任していることから斎宮と混同されることもあるが,斎宮は神宮に仕えた未婚の皇族女性のことで,南北朝時代に廃絶した。(以上,ウィキペディア参照)

 池田厚子の例にならい黒田清子も,年齢を重ねていって元気なかぎりは,その祭主の役目を果たしていくものと予見しておく。

 夫の黒田慶樹のふだんにおける生活は,どこまでも私的な空間に属する事項とはいえ,妻・清子の現実的な生きざまとの関係で,彼にも世間の目が向けられることが,またあるかもしれない。

 最後にミーハー的な話題として,つぎの2つの記事を紹介しておき,本日の記述を終わりにしたい。

------------------------------



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?