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東電福島第1原発事故現場からの「デブリ取り出し」作業工程は「賽の河原の石積み」をしに来たごときの古代ギリシャ神話「シジフォスの苦役」である

 ※-1 シジフォスの苦役

 ギリシア神話のなかに登場する人物のシジフォスは,アイオロスの子でコリントを創建するが,ゼウスを欺いたためその怒りに触れ,死後は地獄でいつもあと一息のところで落下する大石を,永久に山頂に押し上げる刑に処せられたという物語の主人公であった。この物語は,もっとも悪賢い人間の典型を教示するためのギリシャ神話の訓話であった。

 いまは21世紀になっているが,前世紀の後半から人間は《悪魔の火》である原子力を「原爆・水爆」という強力な兵器に応用し,仕上げることに成功した。第2次大戦後,世界が東西冷戦時代に入ったのち,核兵器の保有国が徐々に増えていくほかない展望を読んだアメリカは,「原子力の平和利用」を唱えてこの動向をできれば抑えこもうとした。

 なお日本国外務省は,以上のごとき原子力問題史については,つぎのようなキレイゴトで解説をしている。若干だけ紹介する。

 以下に引用する個所は,『外務省ホームページ』「軍縮・不拡散・原子力の平和的利用」⇒「原子力の平和的利用」「1 総論」「(1)原子力の平和的利用の国際的な位置づけ」(令和2〔2020〕年8月21日,https://www.mofa.go.jp/mofaj/dns/inec/page22_003030.html) からとなる。

  第二次世界大戦後,原子力の商業的利用に対する関心の増大とともに,核兵器の拡散に対する懸念が強まり,原子力は国際的に管理すべきであるとの考えが広まった。

  1953年の国連総会における米国のアイゼンハワー大統領による演説(「Atoms for Peace」演説)を契機として,1957年,国際原子力機関(IAEA)が設立され,IAEA憲章第2条において,全世界における平和,保健及び繁栄に対する原子力の貢献を促進・増大することがIAEAの目的の一つと定められた。

  1968年には核兵器不拡散条約(NPT:Treaty of the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)が署名・開放され,同条約において核軍縮・不拡散と並び,原子力の平和的利用は3本柱の一つとされ,不拡散の義務に従って,平和目的のために原子力の研究,生産及び利用を発展させることは「奪い得ない権利」であると定められた。

  このように,1950年代後半以降,原子力の平和的利用は確実な進展をみせてきた。

  原子力発電分野に関しては,近年,国際的なエネルギー需要の拡大や地球温暖化問題への対処の必要性等から,原子力発電の拡充及び新規導入を計画する国が増加しており,東京電力福島第1原子力発電所の事故後も,原子力発電は国際社会において重要なエネルギー源となっている。

   原子力技術は,発電分野にくわえ,保健・医療,食糧・農業,環境・水資源管理,産業応用など非発電分野においても各国の社会・経済の発展にとって不可欠な技術となっている。その利用形態は大きく分ければ,放射線利用と同位体分析である。

  放射線利用は,レントゲン撮影やがんの放射線治療をはじめ,伝染病や農業被害をもたらす害虫を防除する不妊虫放飼法や,半導体,タイヤの製造などにも活用されている。また,同位体分析は,水の循環,土壌の組成,人の栄養素の摂取状況などの調査に活用されている。

原子力の平和的利用の国際的な位置づけ

 以上の解説のうち「キ」の応用面は,一定の評価ができる,実際にも役に立つ使途があるといえなくはない。だが,これ以外の解説は「原子力の平和的利用」といった美辞のもとにする〈マヤカシの説明〉に終始していた。

 「ア」については,「原子力は国際的に管理すべきである」といわねばならない(そのように釘を刺しておかねばならない)ほど,非常に有害・危険である点が,正直に「核兵器の拡散に対する懸念」として言及されていた。

 「イ」は,その1957年に設立された,国際原子力機関(IAEA)がなければ,そもそも「Atoms for War」の由来を本源的に有したこの原子力は,世界的次元で管理し,統制できなくなることを,実は,アメリカ自身が非常に恐れた事情を教える。

 「ウ」は,1968年の「核兵器不拡散条約」があっても21世紀の現段階になってみれば,実戦向け核兵器(核弾頭)を保有する国々は,ロシア,アメリカ,中国,フランス,イギリス,インド,パキスタン,イスラエル,北朝鮮の9か国にまで増えた。

 日本は,2023年(令和5年)12月末現在で,核兵器の原材料となる分離プルトニウム保有総量,4トンと621キログラムを保有する。これは,国立研究開発法人日本原子力研究開発機構が管理している。

 外務省は,自国におけるロケット打ち上げ技術が,実際に大陸間弾頭としての核兵器を発射できる水準まで十二分に到達している点を踏まえてだが,またわれわれ庶民も周知の事実であってよい事実であるが,日本は核兵器の「準保有国」に位置づけられており,この事実が自国の外交基盤をより強固なものたらしめる有力な素材として,つねに念頭に置くことにしてきた。

 以下に続く「エ」「オ」「カ」「キ」は,平和利用に関した解説になっているが,原子力の問題のなかでいつも物議を醸すのは,その本来の用途であった「戦争目的」ならびに「外交手段への役立ち」のための核兵器保有であった。

 換言すれば,原子力の平和利用はいちがいにむげには否定できない用途であったとはいえ,そしていってみれば,そちらの方面・領域で創造的な応用を意味してきたとはいえ,原子力は戦争利用そのものに本来の目的があってこそ関心がもたられてきた事実そのものに,問題の元来的な根源があった。

 という経緯に照らしてみるに,原子力のその平和利用なのだといったところで,現実的においては20世紀の第4四半期から21世紀の第1四半期に,過酷な原発の大事故が起きていたのだから,事態は穏やかでなかった。

原子力を原因とする事故は特異であり異次元的である


 原発の大事故は,旅客機の墜落事故や鉄道車輌の転覆事故などとは質的に次元がまったく異ならせた被害(損害:危害)を,この地球上の存在すべての生物ならびに事物にもたらす。このことはすでになんどか体験済みであった。

 確率論的に原発の事故が起こりうる計算は,だから当初から異常という程度を通りこして,その事故などほとんど発生しえないのだと想定するほどにまで,作為的にであったがしごく低率で算出されていた。だが,それは明らかに「安全神話」の虚構を極致まで引き上げた(引き下げた)顛末でしかありえなかった。


 ※-2 原発災害の恐ろしさ

 最初に観てもらうのは,いまから12年前に『東京新聞』が報じた「原発事故発生率」に関した記事である。この記事は,とてつもなく原発の事故発生確率(予想)を低く(想定)しておいた「日本国原子力村」関係者たち頭中の「お花畑」ぶりを指摘していた。

あえりえない「想定」が原子力村の面々にとっては
当然の前提であったという虚構性の空しさ

 それほどまでに極端の極端にまで走った(端折った)「原発事故発生率の超過少になる見積もり的な確率論的期待値」は,原発という装置・機械の『本然的な暴発可能性』に対して,初めから目をつむっていたかったがごときその基本姿勢を,たいそう切実にだが馬鹿正直に顕現させていた。

 とりわけ,1979年3月28日のアメリカのスリーマイル島原発事故,1986年4月26日の旧ソ連邦のチェルノブイリ原発事故,そして2011年3月11日の日本の東電福島第1原発事故は,これ以外にも各種・各様に無数に発生してきた諸事故が実際に発生して来たけれども(つまり,その事実史はよくよくしっているのだが),原発はそれでも「安全・安価・安心」だなど宙に浮き上がっていた「虚説の標語」を標榜しつづけてきた。

 問題は,原子力をエネルギー利用した発電方式がいちど大事故を起こしたとなると,いったいどのくらい重大かつ深刻になる「被害・損害」が,それも「原発公害」と呼称するのがふさわしいほどに「過酷な『結末』」となって発生するのか(?),という関心事を要請する。

 あるいは,こういう考えも要求されるはずである。

 この地球環境史における前代未聞の「非常に危険な状態の発生」,すなわち,原発事故によって広範囲にわたりその災害が現出させられた事実と対峙させられたとき,この原発事故そのものをより正確に認知し,冷静に対処していくほかない精神的な準備が,人類・人間の立場としては仕方なくであっても,ひとまずは要求される。

 とくにチェルノブイリ原発事故と東電福島第1原発事故は,その原発公害が深刻になってしまい,地球環境の表面の一部を完全に再生不可となる結末を生んだ。日本の公害史においてはたとえば,水俣病やイタイイタイ病,足尾銅山鉱毒など問題史のなかで,海底や地底の一部地域にその汚染物質を封入しておいた状態にしておく始末を採った。つまり,その表面的な処理:解決のかたちで済ましておくかたちで,ひとまず事態を落ち着かせてきた。

 しかし,原発の大事故が残した公害遺跡としての「人間居住地の完全破壊」は,従来型の公害結果とは完全に質的に異次元の結末を,われわれ人類・人間史に対する挑戦の記録として突きつけられた。

 旅客機の墜落事故が絶えないのと同様に原発の事故も絶えない〔と正当に推理するほかない〕が,毎日,この地球の表面を1万何千機となく飛びかっている。ネットに書かれていた説明によると,その交通量が最多となる「7月から8月の金曜日午後11時から午前1時」の時間帯には約1万6000機が飛行し,これと同じ時間帯でも1月から2月であれば,約1万3000機が飛行するという。

 上空1万メートル付近を巡航速度で飛行中の旅客機に大きな事故が発生した場合,その乗員・乗客は全員が死亡するほかない。それでも「飛行機で死亡する確率は約20万5552分の1,0.00048%」である。これに対して,一方,自動車による事故を起こしたさいに死亡する確率は0.9%だといわれる。

 原発の場合,世界中の稼働基数は現在437基である。そして,いままで原子炉が閉鎖された〔廃炉になった〕原発の基数が何基あったかといえば,IAEAのまとめによると,世界では2024年6月6日現在まで,その基数は計210基あったという(ネット〔純〕出力の総計は1億602万kWとのこと)。

 この地球上に存在してきた原発の総数は,すると,廃炉になった原発の数も含めて647基あったことになる。前掲した「国際原子力事象評価尺度」は別途,つぎのようにも図解されているが,

東電福島第1原発事故とのチェルノブイリ原発事故の差は
大きめに誇張されているきらいがあった


 このうちのチェルノブイリ原発事故と東電福島第1原発事故の2回のみを分子にとり,前段の原発総数647基で割り算すると,しかも,これに半世紀(50年)という年数を分母のほうにわざとかけて薄めてみて計算したところでも,

  2 ÷ 647 = 0.003

となる。

 以上の計算は恣意的に数字をいじった仮りの計算であり,飛行機事故のほうにおける計算の仕方に比較したら,比較そのものになりえないような操作を講じて出した。

 要は,原発の場合,その大事故が発生した時における「事故の影響範囲とその程度」は,確率論的にどのように想定しておくかといった計算問題よりも,むしろ,非常に重大かつ深刻な結果となるのが「放射性物質による悪影響,この公害的な被害の拡散」であった。

 前段の計算は,現在までにおいて地球上には原発が647基あったという事実(条件)をもって,航空機の事故に比べて論じる原発事故の意味は,いったいどのような含意がありうるかという,素朴だがかなり重要な論点の比較を意味した。

 つまり,それぞれの事故が起こすことになる随伴現象は,質・量ともにまったく異なっていた。いわば,それこそ異次元的な原発災害(公害)のほうが「特異な系列問題」を発生させつづけていくことは,説明の要もないくらい明白に「事後における問題発生」を指示していた。

 旅客機の場合,市街地に墜落しなければ,乗客・乗員以外に死者やけが人が出るという恐れはない。無人地帯に墜落した飛行機はもちろん,その場所:地域の自然環境に対して一定の破壊・変貌をもたらす。

 しかし原発の事故においては,周辺地域に住民たちに対して初めから,事故発生時の避難計画を想定しておき,つまり,いざというときを十全に想定した対策を講じておかねばならない。原発の事故はそれほどにまで,時空的な範囲を拡げる方途で災害をもたらしつづける。

 つまり,同じ事故といっても航空機の墜落と原発の大事故とは基本から性質をまったく異ならせる。さらにいえば確率の問題では,その事故から発生する悪影響が抑えきれない状態を必至とさせられ,なおかつ,質的にまったく異なった各種の人的・物的被害が原発の事故からは発生する。

 

 ※-3 東電福島第1原発事故現場からの「デブリ取り出し作業」への挑戦はいまだに不振というか本格的な作業工程にまで進めない現状

 最近の新聞報道からみてとなるが,東電福島第1原発事故「現場」における,その原子炉(圧力容器と格納容器)から事故時に溶融して落下して底部(底面?)に溜まっているデブリの取り出し作業は,だいぶ以前から試みられてきた。

 しかし,その廃炉工程「以前」の難作業は,いままで何回も試行されてきたものの,そのたびに不首尾に終わっていた。原子炉内の放射能濃度はきわめて高く,そのなかに挿入する器具(ロボットやカメラ)はいままでなんども不調になってしまい,デブリ取り出し以前でその作業は終えるほかなかった。

 つぎに,直近において『毎日新聞』に報道された関連のニュースを紹介しておく。まずは2024年9月20日朝刊から。

既視感をもたざるをえないこの記事・報道である
東電福島第1原発事故から流出する汚染水は
処理水になったところで本質に違いはなし

 【参考文献】-アマゾン通販から-

 烏賀陽弘道の本は,汚染水を処理水にして太平洋沿岸に放出した東電のやり方をこう批判している。なお〔 〕内の補足はブログ主である。

 ▽-1「海洋排水しか方法はない」〔というのは大ウソで要は,この方法が一番安価であったから採用したに過ぎない〕

 ▽-2「タンクの置き場はもうない」〔というのは大ウソで東電福島第1原発の周囲にはその適地・適所がまだいくらでも確保でき,余裕は十分にある〕

 ▽-3「ALPS水排水は被災地の復興に必要」〔というのは意味不明,非科学的な妄言にもなりえない幼稚な文句〕

 ▽-4「ALPS水に放射性物質はトリチウムしか残っていない」〔というのは大ウソで,ストロンチウム90などまだ残したままである。この事実については,たとえば,つぎの記事を参照したい〕。


 ▽-5「福島第1原発のような原発からの海洋排水は世界中でやっている」〔というのは大ウソで原発事故を起こしての海洋排水は,この東電福島第1原発事故の一例あるのみ〕

 ▽-6「日本政府の基準を満たしているから安全だ」などなど……〔などと往事の安全神話(寓話)もどきの誤導発言がつづけるのは,かつての安全神話再来か? 冗談にもならない錯綜の発言〕。

 ▽-7 2023年8月24日,日本政府は福島第1原発からでた汚染水を「ALPS」で浄化した,いわゆる「ALPS処理水」を海洋放出した。ALPSで処理した水は安全で,環境に対する影響はないと発信している〔が〕。

 「真っ赤なウソです。信じないでください」〔と烏賀陽弘道は必死になって自分が取材・調査した結果にもとづき発言していた〕。

 著者〔烏賀陽弘道〕は,政府が発信する情報にはウソがある〔と断言していた〕。


 ※-4「【原子力資料情報室声明】 福島第1原発2号機デブリサンプル採取に意味はあるのか」『原子力資料情報室』2024年9月10日,https://cnic.jp/51709

 
 2024年9月10日,NPO法人原子力資料情報室はつぎのように発言していた。

 --2024年9月10日,東京電力は福島第1原発2号機デブリのサンプル採取に着手した。だが,廃炉の本丸にたどり着いたと喜ぶことはできない。このサンプル採取には,デブリを取り出したとアピールすること以外に,意味はほとんどないからだ。

 政府や東京電力は,サンプル採取で得られる核燃料デブリの性質や状態などのデータは,本格的な取り出し工法の検討など,今後の廃炉を進める上で欠かせないとしている。

 だが,採取できるサンプルは合わせて880トンと推定されるデブリのうち数グラムに過ぎず,しかも2号機の限られたエリアにあるデブリのほんの一部だ。これを分析したとして,全体のデブリの性状を代表するものとはとても言えない。

 これでは本格的な取り出し方法の検討はおこなえない。もしこれで全体の取り出し方法の検討がおこなえるのなら,サンプル採取などしなくてもできる話だ。

 今回のサンプル採取計画では,作業員の被ばく線量の目標値が12mSvと設定されている。工程を確認すると,人手を介する部分や,ヒューマンエラーの発生する余地も多い。わずか数グラムの取り出しにもかかわらず,これほど高い目標値が設定されていることは,将来のデブリ取り出しで直面する困難性を示唆している。

 むしろ,このように過酷で無意味なデブリのサンプル採取をおこなうのではなく,国や東電は廃止措置そのものについて考えるべきだ。

 「東京電力ホールディングス(株)福島第1原子力発電所1~4号機の廃止措置等に向けた中長期ロードマップ」では,廃止措置の完了は事故から30~40年後,つまり2051年までとされている。だが,そもそも廃止措置後のサイト跡地の姿すら描かれないまま,これまで廃止措置は進められてきた。

 これまでは放射性物質の大量放出の抑制や,使用済み燃料プールの燃料取り出しなど,緊急度が高かったり,手が付けやすかった課題が多く取り組まれてきた。だから廃止措置後の姿が描かれなくとも対応できた。

 だが,これからはそうではない。デブリを取り出すとして,いったいどこまで取り出すのか,建屋はどうするのか,放射性廃棄物はどうするのか,など,廃止措置後の姿が無ければ検討できない課題だらけだからだ。

 また,8兆円と見積もられている廃止措置費用は,デブリ取り出しまでの費用であり,膨大に出てくる放射性廃棄物の処分費用を含めると,これを大きく上回ることは確実だ。

 東京電力は廃止措置費用8兆円の捻出のために廃炉等積立金として,2017年度から年平均3000億円を,原子力損害賠償・廃炉等支援機構に積み立てている。8兆円の積み立てには単純計算で27年かかる。2051年に廃止措置を完了させるのであれば,廃棄物処分費の積み立ても考えなければならない。だが,東京電力にそのような体力は残されているのか。

 〔2024年〕8月22日,本来のデブリサンプル採取開始の日,「福島への責任貫徹」が経営の1丁目1番地だと説明してきた東京電力の小早川智明社長は新潟県柏崎市で柏崎刈羽原発の再稼働に向けた説明をおこなっていた。

 経営がどこを向いているのかよくわかるエピソードだ。福島第1原発の廃止措置がどこまで可能なのか,そしてそれは2051年までに実現可能なものなのか,資金はそれまでに準備できるのか。事故から13年,福島への責任貫徹というなら,そろそろ真剣に検討するべき時だ。(引用終わり)

 デブリ取り出し「作業工程」そのものに本格的に入れたとは,とうていいえない状態そのものが,いままでいったい何年と何ヶ月つづけられてきたのか?


 ※-5 「福島第1原発『デブリ取り出しは不可能』と専門家 廃炉できないなら「『石棺』で封じ込めるしかない」『AERA dot.』2022年3月7日 10:00,https://dot.asahi.com/articles/-/41837 における小出裕章の断定

 東京電力福島第1原発事故から〔2022年3月7日で〕まもなく11年。国と東電は30~40年後の廃炉完了をめざすロードマップにもとづき,作業を進めている。だが,相次ぐトラブルから廃炉作業の計画は大幅に遅れている。

 廃炉は本当に可能なのか。『AERA』2022年3月7日号は,小出裕章元京大原子炉実験所助教に聞いた。

 以下の記述の前提になる『ロードマップ-使用済燃料の取り出し開始~廃止措置終了までの道のり-』の図解がこれであった。実質,ベタ遅れというよりは,実質,まだ全然手つかずの状態に留め置かれている。

無理を承知での予定表

 --〔引用はここから〕 国と東電が策定したロードマップは「幻想」です。国と東電がいう「廃炉」とは,燃料デブリを格納容器から取り出し,専用の容器に封入し,福島県外に搬出するということです。

 当初,国と東電は,デブリは圧力容器直下の「ペデスタル」と呼ばれるコンクリート製の台座に,饅頭(まんじゅう)のような塊になって堆積(たいせき)していると期待していました。そうすれば,格納容器と圧力容器のふたを開け,上方向からつかみ出すことができます。

 しかし,デブリはペデスタルの外部に流れ出て飛び散っていることが分かりました。デブリを上部から取り出すことができないことが分かったのです。

 そこで国と東電はロードマップを書きかえ,格納容器の土手っぱらに穴を開け横方向に取り出すといい出しました。しかしそんなことをすれば遮蔽(しゃへい)のための水も使えず,作業員の被曝(ひばく)が膨大になってしまいます。

 それどころか,穴を開けた方向にあるデブリは取り出せたとしても,格納容器の反対側にあるデブリはペデスタルの壁が邪魔になり,みることも取り出すこともできません。

 つまり,デブリの取り出しは 100年経っても不可能です。

 東電は「国内外の技術や英知を活用すれば廃炉はロードマップどおりに達成できる」などと繰り返しいっているようです。本気で考えているとすれば,相当なバカだと思います。ロードマップは彼らの願望のうえに書かれたもので,その願望はすでに崩れています。

 廃炉できなければどうすればいいか。できうることは,1986年のチェルノブイリ原発事故の時に実施したように,原子炉建屋全体をコンクリート製の構造物「石棺」で封じこめるしかありません。

 人間に対して脅威となる放射性物質のセシウム137とストロンチウム90の半減期は,それぞれ30年と28年です。100年待てば放射能は10分の1に,200年待てば100分の1に減ってくれます。

 100年か200年か経てば,その間に,ロボット技術や放射線の遮蔽技術の開発も進むはずです。そして,いつかの時点でデブリを取り出すこと以外ないと思います。

 国と東電は,それくらい長期にわたる闘いをしているんだと覚悟しなければいけません。そのためにも,一刻も早く福島県に「廃炉は不可能」と説明し,謝罪するべきです。

 悲しいことですが,事実を直視しなければ前に進めません。(小出裕章の引用終わり)

 以上に関してなんとも悲しい事実は,東電に対して向けられたこの小出裕章の発言のなかでは直接指摘されていなかったけれども,東電による以上のごときデブリ取り出し作業は,下請けの従業員にやらせているという実態であったことである。

 

 ※-6「東京電力『自分たちで確認していない』…福島第1のデブリ取り出しでミス,どうして起きた?」『東京新聞』2024年9月6日 06時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/352417

 この『東京新聞』の記事からとなるが,最後にこういう図解をそえておく。デブリ取り出し作業の説明図である。結局,いままでこの工事がうまくいった試しはなかった。

東電の本社員はこの仕事をやっていない

 東京電力の「デブリ取り出し作業」に対する基本姿勢は,いろいろな意味で「相当な馬鹿です」と小出裕章に決めつけられていたが,いまもなおそのままだとしたら,これからもこの作業がうまく進捗していくという見通しが立つわけがない。

 以上の『東京新聞』2024年9月6日朝刊の記事については,本日の『日本経済新聞』2024年9月21日朝刊からも,追補しておく記事があったので,参考にしてほしい。

右下の表のみ以下に抽出しておく
要はデブリ取り出し「作業」はベタ遅れというよりは
なかなか本番といえる作業そのものに進めないでいる


 ※-7『日本経済新聞』2024年9月21日「〈社説〉原発も活用し安定供給と脱炭素の両立を」という主張の頑迷固陋-2024年9月22日午前11時50分補説-

 この日経「社説」はつぎに画像資料でも参照してみるが,この内容の旧態依然というか,いまだに原発と心中でもしたいかのごとき「粗忽なエネルギー観」ばかりを開陳していた。

この社説における「語り口として特徴」ある表現を
以下に拾っておき批判する

 a) 「次の政権は原子力発電所の再稼働を進め,安価で安定的なエネルギー供給と脱炭素の両立を図るべきだ」という主張は,原発のコストは安価ではなく,また安定的でもなかった「これまでの日本における原発事情」を,どこかにしまいこんだ,かなり身勝手ないいぶん。そもそも,原発1基の建設費は現在にいくらになっているか,まさかしらないわけではあるまい。

 b) 「再生可能エネルギーの導入拡大と併せ,準国産エネルギーで運転中に温暖化ガスを出さない原発も,安全最優先での利用が欠かせない」という主張は,「直接,地球環境を温める機能が大である原発の基本特性」を無視するとともに,どういうわけかいつも「原発」の「安全最優先」が格別に強調される話法に関していうが,これには特別に注意(用心)しておかねばならない。

 いったん事故を起こしたとなると,原発ほど,この地球全体に大騒動を起こすことになる事実は,とりわけ,チェルノブイリ原発事故と東電福島第1原発事故で実証済みであた。だが,この種の大事故が今後,絶対に発生しないという保証はない。

 だから,その予防線を事前に張ったつもりか,このように一般論としてならば,いちおうしごく当たりまえである「安全優先」の問題が,なぜか神経質に聞こえるかのように,いわなくともいいような場面や状況においてさえも,いまさら・ことさらのように「安全最優先での利用が欠かせない」などと,それこそ壊れたテレコのように,つまりオウム返しに「語られつづけている」。

 c) 「十分な電力供給がないと,データセンターや半導体などの成長産業が海外へ逃げてしまう。濃淡はあっても,原発活用という現実解に向きあう姿勢は評価できる」と,自民党総裁選候補者のいいぶんを借りてだが,この日経社説も語っていた。だが,原発の再稼働と新設なくしてAI産業の展開に必要なる電力供給が絶対的に不足するかのように完全に決めつけるがごときいいぶんは,そもそも大げさも度が過ぎる。

 再生可能エネルギーによる電力生産と供給体制を,あたかも妨害しているごとき国内の電力会社が実在するなかで,ふたことめには原発,原発,原発……が必要だ,とばかりささやくことしか「能がなかった」日経の論調であるが,この社説もまたその異口同音の調子だけはチョウシがよかった。

 だから「当面の試金石は東電柏崎刈羽原発の再稼働だ」などと,まるで120%も「東電の応援団」みたいな論調であった。今年の1月1日に発生した能登半島地震規模の地震がもしもこちらの原発でも発生したら,安全が最優先だといった日経の立場は保証されるかどうかは,きわめて怪しい。

 ましてや「同原発は首都圏の電力需給逼迫の解消に重要な役割を担う」などとまでいうのは,露骨に過ぎる東電の別働隊的な経済新聞のいいぐさ。現状においてその電力需要逼迫とは,どのくらい・どのように発生しているのというのか? 当てずっぽうの言辞であった。

 d) また この社説いわく,「ただし原発は万能薬ではない」「核燃料サイクルや使用済み燃料の最終処分の行方も不透明なままだ」と。原発関連の議論で万能薬ということばをもちだしたところがスゴイ,本心がまるみえなったと受けとるほかないいいぶん。

 だいたい,核燃料サイクルどころか使用済み燃料の最終処分場も,大昔からいままで,その場所が全然選定できてもいないのに,それでいて「福島第1原発の廃炉や地域復興も着実に進めねばならない」とも主張している。このいっている内容が最初からハチャメチャである。

 本日のこの記述ですでに言及していたように「福島第1原発の廃炉」という作業工程は,いままですでに「現在生きている人間の壽命」にとってみれば,いわば実質「無限に近い時間(長い年月)」を要するほかない事実は,いやというほど思いしられている。その現場における「デブリ取り出し」作業の実情(まったくはかどらない進捗状況)は,そのように理解するほかない現実のきびしさを一目瞭然に教えてきた。

 e)「次期政権は原発に対する国民の信頼回復に努力しつつ,再生エネの発電量変動を補うための蓄電池や送電網の増強,火力発電の脱炭素技術の実用化など,全方位の取り組みを続ける必要がある」という段落の含意は,いまだに「原発第1」で「再生エネは第2」の観点・立場に執心する日経の観念を教えている。

 以上のごとき日経「社説」は,そもそも「原発に対する国民の信頼」というものの「その実体」は,いったい「どのような中身としてありうるのか説明せよ(!)」と,問いつめたくもなる。

 プロパガンダの域中をうろうろ動きまわるがごとき「原発擁護論イデオロギー」は,いいかげん,たいがいにしておいたほうがよろしい。

 いずれ「今後(今日も含めてだが)数十年のうちには,南海トラフ超巨大地震を震源とする自然の大災害は発生すること」は,日本に生きている人びとにとって,そして,現在置かれた状況のなかではすでに「覚悟だけはともかくよくしておくべき今日的な認識」になっている。

 そんな・こんな日本という国全体の自然・地理的な立地条件を踏まえているのかいないのか,「原発1番,再エネ2番」みたいな,脳天気すら通りこしたごときエネルギー観が惜しみなく披瀝されていた。こうした現実を甘くみすぎた原発観は,下手をすると南海トラフ超巨大地震の発生,ただちに鉄槌が下されることになる。

 昔の文明堂のCMでもあるまいに,「カステラ一番,電話は二番」みたいなセリフを,原発にかぎってだが,後生大事に反復的に叫ぶがごとき「日経社説」による「いつもの」「原子力発電・恋歌」は,原子力村的には懐かしい歌詞を口ずさむものであるかもしれないにせよ,実に「アナクロ一辺倒であったエネルギー感」だけを,濃厚に漂わせていた。

---------【参考文献の紹介:アマゾン通販】---------

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