王様(天皇)の墓と人民(庶民)の墓-1人1基が一家1基に変わったのは明治時代から-
※-1 本日記述として再録・公表に当たっての断わり
本記述は,2014年10月9日の記述をもってさきに公開されていた文章であった。だが,ブログサイトの移動にともないその間,未公開の状態が長くつづいていた。今日あらためて,この記述を復活・再生させることになった。
問題の核心は標題にも表現したように,大昔の古代史においては「天皇の墓」は基本的に1人のために建造されていた。現代に飛んで観ても19世紀になってから建造されるようになった天皇の墓(陵基)は,もちろん1人1基であった。
ところが,天皇家の伝統とは異なり明治以来の「人民(庶民)の墓」が,いつの間にか,それまでは「1人1基」であった埋葬の形態が「一家1基」に変化させられてきた。
「天皇家の天皇の墓」と「人民(国民)のための墓」とでは,なぜ,そのような,いささか奇妙とも感じられる差異を出現させてきたのか? その変化が生じることになった「明治以降から現代まで」を眺望しつつ,それに関連する歴史的な事情・背景を吟味してみたい。
要するに,この国の「王様(天皇)の墓」のみならず,明治以前における一般庶民(人民たち)の墓とも異なった埋葬形態,つまり「1人1基」であったその方式が「一家1基」に変わったのは,あくまで「明治時代になってからの出来事であった」という「歴史の事実」に注目する議論を以下におこなっていきたい。
なかんずく,天皇の陵墓は1人ひとり建造し,夫婦をいっしょに埋葬しないけれども,庶民(人民)の墓は,家族全員でいっしょに埋葬するものを造れといってきた,明治憲法下における墓所造営に対する政府指導の事跡が要点となる。
なお,この記述ではあえて触れないでおくが,以上の論旨のなかには「帝国臣民」の頂上に戴くことになっていた天皇・天皇制の政治問題が,実は秘められている。
※-2「墓が捨てられる-無縁化の先に何が-」
昨日〔ここでは2014年10月8日〕,NHKテレビ1チャンネル「総合」夜7時半からの『クローズアップ現代』のテーマは「墓が捨てられる-無縁化の先に何が-」であった。
この番組は,人口減少・高齢社会が進展する現状の日本社会における「墓所の問題」をとりあげ議論していた。キャスターはいつもの国谷裕子,ゲストに第一生命経済研究所主席研究員小谷みどりを迎えていた。
この番組のなかで出てきた表現として,墓所の造営方式が『1人1基』から『一家1基』に変化してきた事実があった。それも「明治政府の指示」によって,個人ごとの遺体などを葬る墓所方式から,家族の遺骨などをともに納骨する墓所形式に変更された,という「歴史の事実」になっていた。
江戸末期から天皇の陵墓を古代史への郷愁心をもって,「復旧」あるいは「復興」(これには新しく造築をくわえた実例が多くあったからもはや古代の陵墓:古墳ではなくなったいたが)がなされていた。明治時代に入り,その種の土木工事が本格的になされるとともに,「歴代天皇の陵墓治定」作業も同時におこなわれた。
しかし,この治定(じじょう)の結果は森 浩一を代表格とする古墳問題史を専門とする研究者によって,いかにデタラメが多く含まれたままであったかが批判されてきた。この話題に近づく議論は,後段で多少,関説があるはずである。ここでは,「古墳治定問題」という話題について,つぎの一覧表を参照しておきたい。
⇒ http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/tennourho/rhobo1.htm
NHK「クローズアップ現代」がとりあえた話題,「墓が捨てられる-揺らぐ日本人の死生観-」に戻ると,この番組をさきに視聴していた者が,つぎのような感想を述べていた。
前段の記述あたりまで来たところで,本ブログは2024年3月2日に,「昭和天皇は1975年以降,なぜ靖国神社参拝(親拝)を中止したか,天皇裕仁の戦争責任問題」という論題で,森 浩一がとくに先頭に立って問題にとりあげてきた「古墳の治定問題」にも言及していたことを思いだした。
この2024年3月2日の記述も,明治維新を境とした『1人1基』から『一家1基』という死者の埋葬形態が,なぜ,庶民(人民)の側において浸透させられてきたか,という「歴史の問題」にも関連する議論をおこなった。
なお, 「考古学的に重大な矛盾を抱える天皇陵の治定」については,こういう指摘までなされている。
--天皇陵古墳は宮内庁によって「聖域」を盾に固陋なベールに閉ざされ,遺跡としての調査はほとんど拒否され,日本の古代史の解明の重大な障壁となっている。
さらに宮内庁が治定している40基の天皇陵のうち,被葬者にほぼ間違いがないと思われるのはわずかに2基に過ぎないという。学問的にほとんどが疑わしいとされているのだが,治定が再検証される気配は一向にない。
逆に治定から漏れたが,天皇陵ではないかと強く疑われる古墳については,発掘や調査が進むという皮肉な現実となっている。
こうした現状を元新聞記者の目が分かりやすく解説しなが,ら個々の天皇陵について史料や客観的考察を交えた丁寧な分析が為されている。同じ時期に作られた古墳のスケールを比較して天皇陵を推理する方法などは客観的にも非常に理にかなっていると首肯させられる。
註記)矢澤高太郎『天皇陵の謎』文藝春秋,2011年へのアマゾン書評から。⇒ https://www.amazon.co.jp/hz/reviews-render/lighthouse/4166608312?filterByKeyword=天皇陵の治定&pageNumber=1
※-3「創られた天皇制」と「復古された天皇陵」,そして「造られされた一般家族の墓所」は,大日本帝国憲法の古代性回帰(その迷亡として怪奇),およびその基本的な「非・反」民主主義性を正直に物語ってきた
考えてみるまでもなく,天皇家一族とくに天皇自身(妻も含めて)が,とくに明治時代になって造営してきた陵墓(墓所)は,「明治天皇の一代前の孝明天皇のもの」から急に,古代史に舞い戻ったかのように大規模化する。
つぎにかかげる画像資料は,それぞれを「併せてみくらべてほしい」ものとなる。
要は,明治維新後に帝国主義路線=「富国強兵・殖産興業」を推進していかねばならなかった日本帝国が,前近代的ながらも国民国家体制を堅固に維持・発展させるためには,国家指導理念の〈よりどころ〉として標榜することになった「天皇・天皇制イデオロギー」を,臣民たちに精神的に浸透させる,いいかえれば「洗脳の操作のための具体的な道具・材料=天皇陵」が必要であった。
大日本帝国憲法はまさしく神がかり的な文句にそまっていた。その本文の前に添えられた諸文を読めば,この憲法の宗教的本性が即座に感知できる。少し長いが,その本文に入るまでの諸文を引用しておく。
なお,この諸文には「意味のあるらしい改行箇所」がたくさんあるが,それは直しておき,改行を除いてつなげてある。その改行箇所が来る段落はすべて,「皇祖」(つまり天照大神)の直後である。
要するに,この「明治憲法」は憲法ではなく,近代的偽装をまとった古代史再生品(呪文のような迷文)であるような,だから,せいぜいのところ前近代的なまがいものの「一応憲法」とでも名づけたらよい〈代物〉であった。
これはまるで,呪文でなければ祈祷にひとしい文言である。近代的であらねばならない憲法であったけれども,伊藤博文はこの憲法を日本という国家に適合した性質にしなければならないとすれば,民主主義を追求するためのそれではなく,アジアにおいて帝国主義路線を推進させるために好都合なそれを考案したのである。
結局,伊藤博文の理屈は,こういう筋合いのものになっていた。
この伊藤博文のいいぶんが学問的・理論的・歴史的に正しいかどうかの判断は,まったくできない。ただ「そのようなのだ」と決めた伊藤の主張,それも明治帝国政府を創造させ推進させるための「政治の理屈」を,とくにドイツの政治学者に教えられて工夫し,考案したに過ぎなかったゆえ,その程度にしか受けとめる余地がない。
近代における民主主義の方途めざして進むのではなく,そこに古代史への郷愁を混入させておき,いわゆる「王政復古なる舞台」をお膳立てし,ここにおいて「天皇」に「天皇制を演技させる準備」を整えたというわけである。
明治維新後につづく日本帝国主義路線が敗戦によって完敗・粉砕され,その大失敗が決定づけられたにもかかわらず,いまだに天皇・天皇制が残続する事実は,マッカーサーを出先機関の代表とするアメリカ帝国側の「占領政策のたまもの」とはいえ,
結局,明治以来にしつらえてきた前近代的な民主政治のなかに,わざわざ「核心として注入されてきた〈王政復古〉」は,こんどもそのまま「現代的に残続」させられていた。それでは,民主主義の本義が本当に根づくことができなかった日本の現状を,このままに許容する政治体制が継続されるほかない。
自民党のあの「世襲3代目の政治屋」であった「当時の安倍晋三」政権をみよ」!
「戦後レジーム」を否定し,それから「脱却したい」などといった政治姿勢のせいがあったせいか,不思議にも戦前・戦中のファシズムを懐かしがり,本気であこがれていたらしいこの「暗愚の首相」は,
自身の「幼稚と傲慢・暗愚と無知・欺瞞と粗暴」さを満開させつつ,いわゆるアベノポリティックスならびにアベノミクスという「アホノミクス総体の為政」を全速前進させてきた。その結果がどうなったか?
20世紀における最後の10年も入れた話となるが,「失われた10年」を3周回(以上)も走破してきたこの国であった。いまではすっかりヘタレこんでしまい,「衰退途上国」という汚名を自称せざるをえないほど零落した国家になった。
そういう具合にまで,この国をさんざんに痛めつけてきた「安倍晋三君」がいわく,自分はこの国を「美しい国へ」ともっていきたかった,と。彼がこの国を,どのくらいにまで「汚い国へ」と貶めてきたかについては,いまとなってにればいくらでも説明できる材料が,ゴミ捨て場に投棄しなければならないほどにたくさん,溜まりにたまっていた。
その彼の標榜する概念が「美しい国」だというのだから,笑止千万,かつ噴飯モノであった。その「美しい国」に相当するはずの「旧大日本帝国憲法」の発布に関しては,つぎのような口上があった。
大日本帝国憲法の要諦はなんといっても,「万世一系」にもとづく「もろもろの歴史の虚構」に立脚していた。この明治憲法の本文のさわりだけ引用しておく。
大日本帝国憲法第1章「天皇」は,「第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス,第2条皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス,第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定していた。
そこでは「神聖にして侵すべからず」というのだから,天皇はきっと神様あつかいであった。
なせに,天照大神(→そして,皇祖の第1代の神武天皇なども,神話上は架空の「人物」であるが)まで万世一系でもってさかのぼり,皇統が連綿する神聖家系である。
この〈神国の思想〉に逆らうことは,帝国臣民には絶対に許されていなかった。
もちろん,現在においてもこの万世一系「性」は堅く信じられている。当然である。いまの平成天皇の祖先,つまり遺伝情報を伝えてくれた祖先そのものは,たしかにどこかにいたはずであり,またそこまでさかのぼれるはずだからである。→ アダムとイヴ?
もっとも,その意味での万世一系であるから,それほど大騒ぎして誇るべきものとも思えない。実在がほぼ間違いないとされる大昔のある天皇にまで,いまの天皇の血筋が確実につながっているかといえば,必ずしもその保証があるわけではなかった。これは誰にも保証できない要点であって,つまるところ,あとは「信じるか・信じないか」の問題でしかなかった。
伊藤博文が狙った国家思想は,そうした古代史的なという意味での近代的な国民国家の発想に淵源していた。その意味でいえば,実にたわいもないカラクリを仕組んだ天皇・天皇制を設計していた。ともかくもあとの問題は,人民どもに信じさせられるかどうかであった。
なんといってもどうみても,「あなたにも・私にも〈万世一系〉性はたしかにありますぞ……」。
しかし,こちらに比べて,天皇家の万世一系が「絶対的に尊いと断定できるのだ」というふうな思想・考えが他者に押しつけられる事態となれば,これは人間差別を無条件で認容することを強制することにもなるから,事態は尋常ではなくなる。
※-4 天皇陵を明治以降に造営してきた時代錯誤
ここで話は,NHK『クローズアップ現代』が放送した番組「墓が捨てられる-無縁化の先に何が-」に関連づける文脈に戻さねばならない。「天皇のための墓=陵」は,古代はさておき,中世から江戸末期までの時期には,ごくささやかな小さい規模になっていた。
たとえば,泉涌寺(京都府)に墓所のある歴代天皇の陵基(つぎの写真)は,実に質素である。1基ごとの墓がいかにささやかであるか,これを観ただけでも,十分に実感できるはずである。ところが,これが明治時代に入るといきなり,古代を復活させたいかのように,再び大規模化させていた。
つぎの「下の写真」(2段落あとの画像)に移っての説明となる。
この左側で一部分を占めており,ほぼ三角形の敷地は「月輪陵」と称しているが,この「月輪陵」の敷地内の一部を撮影したのが「上の石塔:写真」であった。1基ごとの墓すらが “いかにささやかであった” か,一目瞭然に実感できる。
それに比較して,この「下の写真」で右側に写っている孝明天皇「古墳」の大きいことといったら,これは「天皇のあいだでの差別だ」とでも形容してもおかしくないくらい,ないしは,実際問題として「大金持ちと貧乏人」ほどにも絶対的な差がある,それぞれ造りだと観るほかない。そう表現して少しも大げさにならない。それほどに双方の規模・造りに断絶的な違いがある。
解説)上の写真について,さらに説明する。真ん中より左側のほぼ三角形の敷地が月輪陵であって,明治以前における歴代天皇の陵墓がたくさん置かれている場所であった。そこに眠っている天皇たちなどの名前は,つぎの写真に一覧されている。
この敷地の部分により近づいた航空写真が,つぎにかかげる「下の映像」である。
「江戸時代までに造営されてきた多くの陵墓」(四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵,5灰塚,9墓が営まれている)と「孝明天皇の陵墓」1基とを比べての,その圧倒的なまでに〈大きな違い〉に注目しないほうがおかしい。
以上のまとめを述べる。つぎの下の画像で話しをする。
右の下から「2番目の黄色丸」で指示したのが,孝明天皇の「古墳」ような墓(陵墓)である。対して,赤色丸で囲むように指示したのが「その他大勢のごとき」に,ゴチャゴチャと詰めこまれた状態での,かなりの人数になる「それまでの天皇たち」などの墓石が立てられた敷地である。
ともかく「孝明天皇の円墳」は,1人の天皇あたりに充てられた敷地面積からだけ観ても,その「月輪陵」⇒「集合墓地の敷地全体」をはるかに上まわった規模をもって建造されていた。いかにも,その威容を誇りたいかのように立地・建造されていた。
ともかく以上に述べたごとく,明治以前の「江戸時代までに造営されてきた多くの陵墓」(四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵,5灰塚,9墓がある)に,対する「孝明天皇の陵墓」(月輪陵孝明天皇陵)1基は,完全にまで圧倒的な「規模の〈大きな違い〉」を披瀝している。
※-5 不思議の国:ジャポン
前段にその姓名が出ていた伊藤博文は,明治維新という契機をもって近代化へと舵をとっていった日本帝国のために,古代史の記憶を懸命に再生利用したつもりであった。
だが,その方途では,まともな民主主義への方途を実現する希望を捨てていた,といわざるをえない。それでは,みずからが大きな障碍をあえて据えた政治路線が構築されていたことになる。
本ブログではすでに紹介したことがあるが,平成天皇夫婦も人間であるからいつかは他界するが,宮内庁ではそのときに備えて,多摩陵・武蔵野陵(大正天皇夫婦と昭和天皇夫婦の陵墓がある)のそばに,平成天皇夫婦の陵墓を造営する計画をすでに立案済みである。
以下にかかげる画像資料3点は,大正天皇,昭和天皇,平成天皇の各夫婦の墓に関するものであり,多摩陵と多摩東陵と称する墓所である。平成天皇夫婦用の墓所は(これは2点目になるとその敷地の位置関係が分かる),もしかしたら「多摩西陵」と命名するのかもしれない。
妻の美智子は配偶者として,同じ規模ではないけれども天皇の墓のそばに,それでも「約3分の2くらいの大きさ」の自分の墓を造ってもらうのは,まことに畏れおおいとか口にしていた。
そして,自分は〈小さな祠〉のような墓でいいと希望していたという。しかし,そうは簡単には問屋を卸させないのが,宮内庁などの政府関係者による「天皇制度」に対する〈政治的なもくろみ:深慮遠謀〉である。
とりわけ,美智子の口ぶりには「平民出身者として」の「奇妙なへりくだり」が感じられる。市民・庶民的な感覚あるいは立場から徹底していえば,あるいは,民主主義の根本精神にもとづく立場にまともにこだわっていえば,不必要な平身低頭ぶりを彼女は呈しているというほかなかった。
天皇の墓は既述のように,明治以来突如,大規模に復古させられており,あたかも古代史の古墳のような規模でなければ「天皇家の沽券」(大日本帝国〔!〕の自負:プライド)にかかわると考えているかのような発想であった。すなわち,これが宮内庁筋の基本姿勢だとみなせる。
その意味ではまったく時代錯誤であって,美智子の希望(発言)のほうがはるかにまともであった。いまどきどこの国の王様かはしらないが,古墳そのものである陵墓を建造するような〈時代精神じたい〉が異様・奇矯である。このことは,分かりきった「判断以前の歴史認識」である。
とりわけ,天皇夫婦の陵基は1人ごとに造営される。これに比べて,国民・市民・庶民の墓は家族単位で造れと,しかも明治以来,国家の指示によって変更されてきた。
その「天皇家と庶民家」のあいだに明晰である「対照的な差別(区分)」は,いかにも理不尽である。その意図は「王様(天皇)と人民(庶民)のあいだ」に存在する「絶対的な隔壁」を,臣民・国民側にしかと意識させることであった。
そうしたたぐいの「天皇と人民(国民ら)」それぞれの墓基建造に関する区分(明治以来における意図的な差別の措置とその浸透)は,21世紀のいまとなってもまだ「偶像的に祖先を崇拝・礼拝させるどこかの国」とそれほど変わりない現状を,もたらしつづけている。
補注) なお,この写真を提供していた元記事の解説がおもしろかった。こう書かれている。
「2013年2月12日,北朝鮮・万寿台にある金 正日総書記の銅像が衣装替えをした」
「1カ月ほど前から金 日成主席と金 正日総書記の銅像には白い布が被せられ,2~3日前に布がとり払われた」
「すると,金 正日氏の銅像は以前のフォーマルなコートから,カジュアルなコートに変わっていた。この衣替えの理由は分かっていない」
さて,「天皇・天皇制」と「民主主義の根本理念」との「折りあい」という『難題』を,なるべく考えさせたくないのが,いまの「21世紀の日本国」の現実相でもある。
平成の天皇自身も,自分たちと皇室そのものが,今後どのようにサバイバルしていったらよいのか,日夜を問わず悩みつつも,機をとらえてはあれこれ発言もしてきた。
最近になって彼ら一家のめだった発言,すなわち,昨年(ここでは,2013年)も後半になってとくに続いた「日本国憲法をわれわれは守ります」というそれは,天皇自身のみならず配偶者・息子たちの意見として,共同戦線を張っていたかのように吐かれていた。
はたして,日本国憲法上の象徴天皇である明仁はもちろんのこと,その妻や子息にそのような発言を,自分たちに与えられた記者会見の場を借りて世の中に伝達するやり方が,この憲法の基本精神に合致しているかどうかといえば,大いに疑義があった。
象徴天皇が口を開いて自分の意見をいい,その家族たちも日本社会に向かい,あれこれ注文をつける機会がたびたび生じていたことは,すでに周知のことがらである。
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