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ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(2)

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 ※-1 は じ め に-経営哲学理論の試み-

 1) 小笠原英司『経営哲学研究序説』の意図

 2004年11月初旬,明治大学経営学部の小笠原英司が『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』(文眞堂)を公刊した。本書は,最近(2024年時点も同様だが)すっかりその影を薄くした「経営学の本質論や方法論」の展開を,経営哲学理論をもって追究しようとした著作である。

 『経営哲学研究序説』はまた,小笠原が単著として初めてまとめた専門的研究書である。小笠原は,日本の経営学者の立場に立ちながら本書の主張を介して,「経営学的経営哲学」を構想したのである。

 同書のカバーにさらに巻かれている〈帯〉には,こういう宣伝文句が謳われていた。

A5判上製・本文 404頁

 経営哲学の体系化を図る力作!

 経営とは「生活」を意味する。個人と組織体も,経営という自覚的営為によって生存(存続)している。したがって,経営を問うことは「生きること」を問うことと同義となる。

 生きること=生活とは人間の全体的営為であって,単に所得や利潤を追求することに矮小されるものではない。人間とその生活を全体的に見るべきであるのと同様に,組織体とその経営を可能なかぎり全体的に捉える必要がある。

 それは経営学を生活学として再構成することを要請することになる。

小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』表紙・帯
こちらでは改行を入れ引用

むろん,同書中にも詳述される内容だが,このように「経営学を生活学として再構成する」という小笠原の理論志向が,どのような問題意識に立脚して議論されているのか,とくに関心を向けるべき論点となる。

 小笠原は,経営学を,

経営科学:社会科学としての経営学」と
経営哲学:社会哲学としての経営学」

という二重構造からなる学と規定したうえで,「経営学の基盤構造としての経営哲学の体系化」を図ろうとする。

 彼はまた,経営学を理論的に構想するに当たり,「社会科学」だけでなく「人間・社会哲学」の志向性も基底に据えて考えるならば,「哲学は本質究明の,科学は現象説明の学として,両々相俟って真理探究に迫る人知の学法に他なら」ない,と規定する。註記1)

【付記】 本文中の註記)はすべて末尾に一括して記述してある。

 2) 本ブログ筆者の問題意識

 筆者は,この小笠原『経営哲学研究序説』を,過去においてこの国の経営学史が犯してきた「戦争の時代の危険な道」にあともどりした著作ではないか,と危惧した。筆者が本稿を執筆した契機は,同書に対するそうした「危うい印象」を論理的に明確に表現し,その問題点を摘出・分析・批判するところにあった。

 昨今における日本の政治経済・社会文化は,時代の展望において非常に陰鬱であり,このさき希望をもちにくい状況に置かれている。しかも,日本国は「普通の国」になりたいとばかり「有事法制」を,2003年6月に成立させていた。

 有事とは戦争事態を意味するが,この国は憲法第9条との矛盾を棚に上げたまま,いまやアメリカ帝国と蔑称されてきた超大国に下属・服従する軍事体制を法的に整備した。

 その意味で有事法制は,日本国を防衛するための立法ではなく,アメリカ合衆国の世界的規模における政治‐経済的な支配権を補完する中身をもっている。この国で有事法制が施行されるまでの軍事関係方面に関する専門的な議論は,ここではしない。

 問題の焦点は,有事法制が現実に発動されるようなとき,「社会科学としての経営学」におよぼす不可避の影響を,いまから考慮しておかねばならないことにあった。

 有事法制の立法においてその裏方で推進力となっていたのは,自民党を中心とする防衛族議員やアメリカ合衆国関係筋だけではない。日本の財界も,世界中に進出している自国系企業が,海外において有事〔戦争や内紛〕の事態やテロの標的になったばあいを想定し,これへの対処を日本の自衛隊3軍に期する意向を明確に有している。

 明治以来の日本,とりわけ戦時体制期と称される1937〔昭和12〕年7月から1945〔昭和20〕年8月まで,この国の「経営学の理論的な展開」と「実際界への関与」を回顧すれば,社会科学としての経営学のありかたに関して,よほど慎重に考察をおこなう余地があった。

 すでに故人になった人物が多いとはいえ,戦前から戦中を生きてきた日本の経営学者にとって,そうした学史的な事実・事情は,身につまされるものだったはずである。

 ところがである,21世紀のいま,ナチス・ドイツ全体主義「第三帝国への翼賛学説」だった「ゴットル経済科学論」に,あらためて魅惑されたかのような容貌をもった経営学「哲学論」が,再び,日本の経営学の次世代学者によって登壇した。筆者はこの学界現象を目の当たりにして,率直にいって驚愕した。

 しかしながら,本書『経営哲学研究序説』の著者は,以上のような指摘をされても,恐らく,いったいなにをいわれているのか見当すらつかなかったものと,当初から予想していた。本日(2024年7月下旬段階)になっても,その付近に実在した論点が,わずかでも理解された気配はなかった。

 実は,当該の問題はかなり深刻なのであったが,本稿全体で論究する戦時体制問題とは完全に無縁に「経営哲学を構想しえた」と,それも自信をもって確言していたはずの立論が,

 以下の長い記述を充てて,これから念入りに吟味・検討・討究・批判していくことになる問題性ないしは諸論点に対しては,その後,20年近くが経った現在まで,内容面において実質的な応答(相互間の議論進展というものとなるそれ)は,いっさい実現していない。

 3) 明治大学〈経営経済学〉の伝統

 結論をいえば筆者は,「社会科学としての経営学」を「本質究明の学」たりえないものだとする,小笠原の考えかたに反対である。つまり,「社会哲学としての経営学」との「相互における前提-結果と依存-補完の関係を予定」するといいながらも,「社会科学としての経営学」を「現象を究明するための学」である,とだけ定義づける立場に対しては,異議がある。

 この異議を提示した点にこそ実は,経営哲学を構想するといった研究上の計画ないしは方途にまつわっていた「不可避の重要な難点」が伏在させられていた。そのあたりに介在したはずの因果解明をめぐる議論については,いまからでもよいはずだが,大いに交わされるべき余地があった。

 日本における著名なマルクス主義経営学者の1人である佐々木吉郎は,明治大学の商学部⇒経営学部において形成された「経営経済学の伝統」の開祖となった人物であった。佐々木の著作,『経営経済学総論』(昭和13年初版)は,「資本主義社会に於ける経営経済(現象)の本質を究明することは,資本主義経営経済学の課題である」と定義していた。註記2)

 すなわち佐々木吉郎〔1897年生まれ〕は,「科学としての経営経済学」が現象の「本質を究明する」学である点を定義していた。小笠原英司〔1947年生まれ〕は,明治大学経営学部の出身であり,これまで主にそこで教鞭をとってきた経営学者であるが,佐々木の敷いた学問路線に列する者ではなかった。

 戦後に設立された経営学部および戦前からあった商学部においては,佐々木吉郎が戦前に創生した「マルクス主義経営学の路線」を継承する教員が多く在籍していた。

 つい先日まではその伝統を引きつぐ教員たちがけっこうな員数いた。この事実は,明大「経営経済学の伝統」をもって蓄積されてきた〈学問路線:イデオロギーの思想的特質〉を鮮明に彩るものになっていた。

 ただし,マルクス主義的な経営学の明大的な理論伝統は,21世紀の現在ではほぼ完全に潰えた。その事由はここで詳論するまでもなく周知のことがらである。

 それにしても,かくのごとしにいとも簡単に,それも明治大学からも雲散霧消した「マルクス経営学」の学的な伝統と理論蓄積は,その後のいまにおいてどのように総合的に評価されるべきなのか,この学的な作業に取り組もうとする関係者がいない。

 要は,「赤信号みんなで渡れば怖くない」ではないが,その要領でもって実行したかどうかはしらぬが,いつの間にかソ連邦の崩壊現象を後追いするかのごとくに,日本のマルクス(主義的)経営学者たちは「蜘蛛の子を散らす」ように消え去っていた。

 もちろん一部の経営学者のなかには,マルクスの学問と思想を21世紀の段階にある現在においても活用しようと努力継続中である人士が,ほんのごく一部いないのではない。しかし,大勢としては要は「皆,逃げた」。

小笠原英司62歳になる年の画像

 小笠原は大学学部・大学院時代に,藤芳誠一を指導教授に選んでいた。

 藤芳誠一は,代表作『近代経営と経営者《新訂版》』(経林書房,昭和38〔1963〕年)および『経営管理論』(泉文堂,昭和43〔1968〕年)などで判断するかぎり,佐々木吉郎「マルクス経営経済学」の学問路線を継承していない。

 ちなみに,藤芳誠一の指導教授は佐々木吉郎であった。そのせいもあってか,佐々木吉郎 ⇒ 藤芳誠一 ⇒「小笠原英司」の系譜に「マルクス主義の残影」は,まったくみられない。すなわち藤芳誠一の業績は,佐々木吉郎のマルクス的な特性を濾過させた容貌になっていたゆえ,その弟子に当たる小笠原英司の立場は,佐々木吉郎の余韻的な雰囲気すら感じさせなかった。


 ※-2 山本安次郎経営学説への傾倒

 小笠原の経営学研究遍歴において「雄偉な先学」に位置したのは,山本安次郎,三戸 公,村田晴夫,飯野春樹,加藤勝康などであったという。わけても,山本安次郎に対して小笠原は,今回刊行した著作をその「墓前に捧げたい」といって,学恩上深い敬意を払っている。註記3)

 小笠原自身は,「科学哲学」と「社会哲学」を適確に識別できていたらしいが,けっしてその論点を明確に説明できていたとはいえない。彼は,「社会哲学」優勢の視点に立ち「科学哲学」まで論じようとする節があり,そのために,前面に出されて盛んに強調される「社会哲学」が,「科学哲学」を圧倒し,軽んじるような相互関係をきたしていた。

 いずれにせよ,「経営学が経営哲学と経営科学の二重構造からなること,そして特に前者が未発達の状態にあることを早くから指摘したのは,わが国経営学本質論の泰斗山本安次郎であった」註記4)と,山本学説を最大限にもちあげたのが小笠原の立場であった。

 ただし小笠原は,「他の社会諸学における法哲学,経済哲学,政治哲学,教育哲学などの展開に比し,著しく出遅れの感がある」のが,「経営と社会の健全な発展に寄与する学術的責務」を有した「経営哲学研究」である,とも述べる。註記5)

 筆者は思う。そうであったならば小笠原が,その「法哲学,経済哲学,政治哲学,教育哲学などの展開」を,『経営哲学研究序説』において具体的には,どのように認識していたかを,最低限でもよかったのだが,しりたかった。しかし,これは無理な要求であった。

 なぜなら彼は,そうした学問領域〔法学・経済学・政治学・教育学など〕における哲学「論」を,実質それほど検討していなかったからである。ただ一言,上述のように断わっただけであった。それら学域の「哲学」論をいかに学習したり咀嚼したりしてきたのか,これに関した自身なりの議論はほとんど関説されていなかった。

 結局,「経営をいかなるものと哲学するかの前に,経営の何をいかに哲学するかという問題が立ちはだかっている」註記6)というのであるが,その前に,「哲学のなにをいかに学問してきたのか」という前提じたいが,そもそもからして不詳であった。

【補 述】 もちろん,経営学者にとっても,専門領域以外の学問・科学を勉強することは,そう簡単なことではない。

 青山秀夫『近代国民経済の構造』(白日書院,昭和23年10月)は,戦争中〔昭和18:1943年〕すでに脱稿していた著作だったが,戦後〔1948:昭和23年〕を俟って公表されていた。

 本書の序は,こういう点を告白していた。

 国民として正しく生きるために直面する多くの問題に対して,自分が専門とする学問は断片的解決しか与えない。明らかにこの学問的「越境」の必要は,祖国が重ねつつある「賭」をはげしければはげしいほど,いよいよ大きいわけである。

 しかもそれだけではない。もし専門外のことがらについて,それぞれの専門学者が,吾々が安心して依頼しうるかたちにおいて,知識を供給してくれるならば,吾々は多くの労苦を要しないであろう。

 しかし,率直にいって,吾々の祖国の学界の現状はかくの如きものではない。吾々は,自己の専門外の分野においてすら,ときとして,未解決の問題を抱いて荒野を流浪せざるをえないのである。

 なんらかの業績を残そうとするかぎり,ひとは専門化たらざるをえないといわれる近代社会において,かくのごとき放浪は,たしかに,不幸といわねばならない。しかしそれにもかかわらず,この不幸は,われわれが国民の1人として,しかも知性的誠実を求めつつ,生きるためには,ついに甘んじてうけねばならない運命なのである。

青山秀夫『近代国民経済の構造』白日書院,昭和23年,序6頁。

 さて,小笠原『経営哲学研究序説』は,持論として「必然的な問題関心」の増幅・拡大を明示した。それゆえ,「未解決の問題を抱いて荒野を流浪せざるをえない」という「不幸を甘んじてうけねばならない運命」に気づいたといっていた。しかしながら,実質では経営学の領域から一歩も外に出ることがなかった。

 その結果,「経営学の哲学論」そのものであるよりも,「経営学の哲学」問題を抽象論理面で,いいかえれば,哲学論を経営学の領域で限定的に分析‐考究する学問作業に終始した。それでは,哲学論の充実に寄与しうるかどうか,なお疑念がもたれて当然であった。


 ※-3 経営哲学理論の体系

 小笠原は,経営哲学論をこう定義する。

 『経営哲学研究序説』は,経営学方法論の問題領域である「経営学の哲学」をあつかう「経営学理」と,

 そして,経営存在論と経営実践論の「経営の哲学」をそれぞれあつかう,「経営存在」「経営実践」との3部から構成される。

 そのさい,「経営の哲学」の内容は,山本安次郎の所説に依拠して,企業論-経営論-事業論から構成される。註記7)

 小笠原はさらに,「組織と管理の本質論・存在論」を「経営生活論」として展開する。これは,C・I・バーナード理論に依拠する。

 結局,「企業目的=資本増殖」と「経営目的=経営体存続」という2大目的論の通念・通説を批判し,これまで企業と経営の手段として位置づけられてきた事業を,「事業目的=社会貢献という形で利潤目的と存続目的の上位に逆転させることの意味を論じている」。註記8)

 以上の論旨にしたがい小笠原は,「事業戦略を物的富裕の視角から計画する企業経営と組織経営の論理に代えて,事業使命を人間生活の全体化と『社会的厚生』の倫理のなかで再構成する事業経営の本然の論理を展開する」。くわえて,「現代経営とりわけ日本経営の原理的課題を明らかにしている」と説明した。註記9)

 

 ※-4 歴史を無視した構想

 小笠原の「経営哲学理論」は,筆者の目から観察するとき,みのがせない重大問題を包蔵させていた。

 ※-1ですでに,ごく簡単に示唆したつもりだが,「経営学論を経営哲学論と経営生活論から構成しようとする試み」は,過去においてまちがいなく一度,蹉跌を体験したものであった。

 にもかかわらず,小笠原においては恐らく,その経営学哲学史における歴史的事実をしらないまま再び,過去におけるあの悪夢の世界をよびもどすかのような学問的営為に励んでいた。もちろん,小笠原自身は,筆者のこのような指摘を,初耳どころか驚天動地の発言と受けとめた。

 ただし,その受けとめ方は,具体的な反論としてではなく,つまり,理論的に内実ある議論をもって返してきたのではなかった。それゆえ,その付近に湧いてきた論点には応えきれないまま,その後の推移となっていたに過ぎない。

  ♠ 山本経営学説なる迷宮 ♠

 a) 山本経営学の衣鉢

 小笠原は,『経営哲学研究序説』の随所で山本経営学を繰りかえして称賛し,理論的に追随する旨も告白していた。以下に,同書の本文から関連する個所を,以下に列挙する。

  イ)「本書における経営哲学体系は,山本安次郎の経営哲学論を継承し」,「私見によれば,山本説における実践論は存在論の中に統一されている」。「本研究は不遜にも山本の衣鉢を継ぐ大望を抱いているが,到底その足元にも及ばぬことを自覚している」。

  ロ)「『経営存在』という言葉を用いているのは内外を通じて山本のみであり,したがってこれは山本経営学の基礎概念であるが,われわれをこれを経営学の共有財産にすべきことを主張する」。

  ハ)「山本が強調するように,経営(体)は『存在する』。たしかに『会社』は形式上法的制度のなかで作られ,同じく解散(清算)される。そのかぎりで会社は観念上の人為的構成体にすぎない」。

 「しかし他面では,会社は現に実在し,活動し,結果を出し,変化し,関係者と周囲に多大な影響を及ぼしている。つまり会社の誕生と消滅の瞬間をはさむプロセスにおいて会社は『生きている』のであって,会社は『存在している』と言わざるをえない」。

  ニ)「事業が本来的に社会的性格のものであること,事業が経営存在のレーゾン・デートルであることを,その研究の最初から一貫して主張してきたのは山本安次郎であり,本書の事業論はその基本を山本から受け継ぐものである」。

  ホ)「『経営』(Betrieb)についてはドイツ経営学史上の古典的概念論争があるが,ここではそれを措き,山本経営学説を援用する」。註記10)

 b) 本格的経営学への道

  イ)「山本は徹底的に『方法』の問題として『本格的経営学』への道を問い続け,バーナードとともにその道を開拓すべきことを主張した」。「山本も……,理論知や分析論理の一定の意義を肯定した上で,それを超える知識や論理が要求される実践的現実を理論化する道を『本格的経営学』に求めている」。

  ロ)「山本の主張する経営学構想の基本的枠組みに合致する」「バーナード理論がいわゆるアメリカ経営学流の実用・実務論とは別格の実践的理論であ」って,「その管理過程論(『経営者の役割』第16・17章)が,山本の言う『行為的直観』,バーナードの『行動知』ないし……『直観』が経営実践において果たす中心的役割を強調しつつ展開されている」。

  ハ)「経営という行為はまず何よりも経営課題に対する実践的行為(practical activities)であり,繰り返して山本経営学の体系にそって言えば,企業経営と事業経営の実践的統一である。経営がかかる意味での実践的行為であることこそ,経営体が単なる組織体にとどまらず,主体的に自己形成する実践主体たることの能動的契機となるのである」。

  ニ)「山本の経営観からすれば,経営学はそれを捉えうる学理的論理を『主体性の論理』として確立する必要がある」。註記11)

 c) 経営生活論

 「山本安次郎は『経営の原型は人間生活そのものにあり,(中略)経営における人間生活の根源性が忘れられてはならない』と述べているが,これはわれわれの経営観の根幹でもある。

 すなわち,上述のように,人間生活が『協働生活』として展開されているとすれば,経営および経営体は人間の『協働生活』の場であり,機会であり,様式であるというのが,本書における基本的視座である。

 したがって,かかる経営を問題とする経営学は,人間の『生活』の観点に立脚する〈生活学〉にほかならないのであって,人間の『生活』ということを軽視した経営論,あるいはそれを立脚点としない経営論は,いかにその内容が科学的表装に飾られ,いかに実践合理的なものに見えようとも,われわれの立場からすれば反人間的な妄言にすぎない」。註記12)

 以上の引照は,小笠原『経営哲学研究序説』の第Ⅰ部「経営学理」〔第1章~第3章〕,第Ⅱ部「経営存在」〔第4章~第7章〕からであり,第Ⅲ部「経営実践」〔第8章~第13章〕は,ここではのぞいてあった。

 さて,さきの項目「a) 山本経営学の衣鉢」で小笠原が,山本経営学の基礎概念:「経営存在」という用語を用いたのは,内外を通じて山本のみであると論断していた。だが,この指摘は,日本経営学史における理論展開にかぎってみても,正確な理解ではなかった。

 ◆-1 たとえば池内信行は,戦時体制期における著作『経営経済学序説』(森山書店,昭和15年)において,「主客の矛盾における統一をよりどころとして,存在を求めると同時に理想を追ふことでなければならぬ。存在の客観的認識は存在論的認識に止揚されるのでなければならぬ」,と主張した。

 戦争中に池内が提示した,いわゆる「現在的綜合の理論」(主体的把捉の方法=発展の論理)とは,戦時体制のまっただなかで,「経営経済学を正しく生かすために」,「生の発展に即して既成の成果が現代のそれのうちに止揚せられ,ふるき成果をとりいれつつ而もそれが現在の立場から再構成せられるところに,この学問の真の発展がうかがわれる」,と主張されていたものであった。註記13)

 池内は,戦後作でも『経営経済学史』(理想社,昭和24年)のなかでさらに,「その存在論的究明」を,つぎのように強調していた。

 「社会科学的認識は人間の世界における在り方によってその本質が規定せられるのであって,生活との交渉もしくは生活への関心ということをそとにして生活認識はありえない」。

 「問題を歴史的にして社会的なる存在連関に即してとらえなおそうというのである」。

 「認識への関心は単に客体によって制約せられるだけではなく,同時に,いな一層根本的には主体の能動作用によって制約されるものであり,その意味において認識関心は客体的でありながら,一層根本的には主体的,創造的でなければならぬ」。

 「かくてわたくしは,ウェバァの理想型にたいして『創造型』(主体性の論理)の概念を社会認識の方法としてもちいたいのである。理想型は生活を観るたちばにたっているのにたいして,創造型は生活を作るたちばにたっている」。註記14)

 池内は,戦後作『経営経済学総論』(森山書店,昭和28年)でも,「存在を存在としてかたらしめる存在論の立場からわれわれは,経営の問題に接近するのでなければならぬ」と,再説した。註記15)

 池内の上掲3著〔1940年⇒1949年⇒1953年〕における経営経済学の「存在論的究明」に注目すれば,小笠原が「経営存在」という用語を使用するのは山本のみという判断は,日本の経営学者に関する話として正確でないことが理解できる。

 山本自身も,池内の著作・業績に対しては,主に注記などで多く言及していた。

 a) 池内信行への批判 「私の経営学観には古く池内博士の批判がある」。「池内博士の経営経済学説には承服しえないのを遺憾とする」。

 「経営学が経済学あるいは社会学の1部門にすぎず,その自律性が認められないならば,いまさら経営学の本質論や方法論は問題となるはずがない」。註記16)

 b) 山本安次郎と池内信行との対立および馬場敬治との関連 「池内氏とは哲学的立場を異にし,経済の理論を異にするところから,経営学の基本理論については対立することとなった」。

 「池内博士は主体の論理に立ちつつ経営学は経済学でなければならないとされる。これに対して馬場博士は経営の現実の総関連を考えながら経営学は組織学の一たる『経営組織の組織理論』に外ならずとされる」。

 山本自身は,「池内博士の経営経済学説と馬場敬治博士の組織学説との批判的研究を試み,……経済学と組織学との対立を通しての経営学への道を説いた」のである。

 すなわち山本は,「経営は事業経営と企業経営との統一であって,経済や管理や組織と関連しない経営は存在しない。……主体的行為的な経営存在として統一的全体的に研究するのが対象の性質にふさわしい『本格的な経営学』の道である」。「それは馬場学説の直系と考えてもよいかも知れない」と自身の立場を説明していた。註記17)

 c) 存在論的立場 山本はこうも指摘していた。「池内信行『経営経済学序説』〔昭和15年〕,『経営経済学の基本問題』〔昭和17年〕,『経営経済学史』〔昭和24年〕,北川宗蔵『経営学批判』〔昭和21年〕など……〔の志向〕は存在論的立場からの問題といえる」。

 「池内……博士は或る場合は存在論的であり,或る場合は認識論的,観念論的であった」。註記18)

 d) 唯物論批判 「従来のすべての唯物論の重要な欠陥は,対象,現実,感性が,ただ客体または直観の形式のもとに捉えられて,感性的・人間的活動,実践として捉えられず,主体的に捉えられていないということである。……マルクス・エンゲルス,ドイチェ・イデオロギー(岩波文庫)……池内信行,経営経済学史,がこの問題における唯一の経営学的文献としてあげられねばならない」。註記19)

 小笠原『経営哲学研究序説』は,日本の経営学史に登場する山本安次郎に「深く関連する論者:池内信行」について,とくべつ関心を向けていなかったようにみえる。というか,初めから先行研究業績とみなし,捕捉することがなかった。

 前段に論及のうち,山本が,池内信行と北川宗蔵を同じ存在論的立場からの志向と位置づけたり,池内信行が「存在論的,認識論的,観念論的でもあった」と論定したりするさい,

 完全なマルキストであった北川宗蔵とともに池内信行を,同じ次元に並べたのは,完全に誤導であった。また,山本自身が「存在論的」と称しながらも,その実は「認識論的・観念論的でもあった」ことを指摘しておかねばならない。註記20)

 ◆-2 くわえて,「藻利経営学」の名称でつとに高名な藻利重隆は,『経営学の基礎』(森山書店,昭和31年初版)をもって,こう主張していた。

 「実践的理論科学として理解せられ」る「経営学は資本主義経営たる企業を研究対象と」し,「社会的存在としての企業の歴史的発展のうちに,その内面的要請に即応する具体的な営利性原理を理解し,こうした原理を規範原理として確立することによって,企業の実践原則を明らかにする」。

 「そこに発現する価値判断を,われわれは一種の『存在論的価値判断』(das ontologische Werturteil)として理解する」。「そこでは,企業の対内的な生活態様 (Lebensstand) の自己形成が問われるとともに,その対外的な生活境遇 (Lebenslage) の改善が問われなければならない」。

 「ところが対外的な生活境遇の改善は,対内的な生活態様の改善を介して実現せられざるをえない」。それゆえ「われわれは,社会的存在としての企業の生活態様そのものの自己形成の原理を明らかにすることを必要とする」。

 「そして,そこに存在論的価値判断(das ontologische Werturteil)の意義を見出さざるをえない」。註記21)

 藻利重隆はまた,資本主義企業経営に関する利潤目的論を,「営利原則の長期化」の発展にともない「総資本附加価値率の極大化」に変質したと理解する議論を創設し,具体的に展開した。註記22)

 それに対して,山本安次郎がまとめた経営学教科書である『経営学要論』(昭和39年初版)は,「現代の経営学は経営利潤の増加,いわゆる総資本附加価値率の成長を目的とする事業経営を基礎にして初めて本格的なものとなると考える。……この経営利潤従って経営成果において初めて『経営性』が具体的に考えられ,『経営の論理』が生かされると思う」と結論した。註記23)

 「藻利経営学」の基調は,「存在論的な企業生活論」の展開であった。山本安次郎はしたがって,藻利の経営目的論に対しても親近性を有していた。というしだいで,小笠原「経営存在」論が藻利経営学に親近感をもったとしても,なにも不思議なことはなかった。

 小笠原の主唱:基盤である「経営生活論」はすでに,池内信行「経営経済学の存在論的究明」や藻利重隆「経営学の存在論的価値判断」の志向性をその先達にもち,同工異曲の学問形態として展示されていた。いずれの立場においても,ゴットル経済科学「論」の影響が絶大であった

 ところで,吉田和夫『ゴットル-生活としての経済-』(同文舘,平成16〔2004年12月)という著作が公刊されていた。吉田も,ゴットルの強い影響をうけた経営学者として,宮田喜代蔵や藻利重隆,そして池内信行を挙げていた。

 池内信行の弟子であった吉田はさらに,「池内先生の戦後の代表作(『経営経済学総論』森山書店,昭和28年)を支える経済本質観は依然,ゴットルであったし,昭和30年代の関西学院には,池内先生のほかに,宮田喜代蔵先生,小宮孝先生,金子 弘先生というゴットル研究者がおられ,いわば『関西学院ゴットル学派』ともいうべきものが形成されていた」と,回顧している。註記24)

 ところが,「経営生活論」を高唱した小笠原英司は,池内や藻利の経営学論を事前に参照していなかった。これが不可解な事象というのでなければ,単純にいって,日本経営学史の事情に暗かった論者による「経営学本質論・方法論の思想的な展開」だったというほかなかった。

 山本安次郎の理論構想1本にすがりさえすれば,自説の強固な理論構築が可能になるというのは,安直な方途だったというか,安易に過ぎた構想だったというほかなかった。

 先述に引用のとおり,小笠原の主唱を構成する「経営生活論」は,「経営における人間生活の根源性」を強調し,「経営を問題とする経営学は,人間の『生活』の観点に立脚する〈生活学〉にほかならない」と立言していた。

 さらにはそれだけでなく,「それを立脚点としない経営論は,いかにその内容が科学的表装に飾られ,いかに実践合理的なものに見えようとも,われわれの立場からすれば反人間的な妄言にすぎない」と,たいそう自信に満ちたその立論を宣言していた。

 しかし,筆者は,小笠原『経営哲学研究序説』のそうした確言を裏づけるだけの,理論的に地道な本質論・方法論の研究があったかどうか,基本的な疑問を抱かざるをえない。


 ※-5 文献史的検討

 池内信行や藻利重隆のように,経営〔経済〕学おいて「存在論的究明」や「存在論的価値判断」を採用し,理論の構想を具体的に志向した経営学者は,戦前(戦中)から活躍しはじめていた。ここでは,ゴットリアーネル〔ゴットル信奉・追随学者〕の氏名とその著作を,以下に列記しておく。

・経営学者からはつぎの酒井正三郎。

   酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』森山書店,昭和12年11月。

   同 『経済的経営の基礎構造』敞文館,昭和18年10月。

・経済学者からはつぎの4名。

  宮田喜代蔵『経営原理』春陽堂,昭和6月10月。

   同 『生活経済学研究』日本評論社,昭和13年10月。

   福井 孝治『生としての経済』甲文堂書店,昭和11年5月。

   同 『経済と社会』日本評論社,昭和14年9月。

   酒枝義旗『構成体論的経済学』時潮社,昭和17年6月。

   同 『構成体論的思惟の問題』実業之日本社, 昭和19年2月。

  板垣與一『政治経済学の方法』日本評論社,昭和17年2月。

 小笠原は,戦時中に訳出されたゴットルの著作,その翻訳書2作,中野研二訳『経済の本質および根本概念』白揚社,昭和17年5月。金子 弘訳『民族・国家・経済・法律〔増補訂正版〕』白揚社,昭和17年7月(初版昭和14年8月)に言及していたが,

西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』昭和17年12月

 その前書に関しては別に,岩波書店刊の翻訳書,福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』昭和17年12月もあったが,そのほかのゴットルの著作〔訳本〕や関連文献には触れずに,小笠原は,ただつぎのように断わっていた。

 ところで,かつて「生活」という視点から経済や経営を捉える試みが,山本経営学以前においてまったく未見というわけではない。

 たとえば,ドイツ経営学の巨匠ニックリッシュや,独自の経済学説を展開したフォン・ゴットルオットリリエンフェルト……の中にその萌芽を見ることができるし,そのことはむしろ学界では周知のことですらあった。

 それらの「生活」論が貴重なものであったにも拘わらず,それが経済・経営論の中心に位置しえなかった理由については,あらためて考察を要する学説研究上の興味ではあるが,ここでは避けよう。

 本書にとっての関心は,われわれの生活論とそれらがいかなる異同を持つかという点にある。

 ゴットルの経済学説はその特異性と難解さの故か,戦前の一時期にわが国の酒枝義旗やゴットルの高弟オットウ・シュタイン(Stein, O)らごく少数の研究者によって支持されるにとどまり,こんにちでは忘れられた学説になっている。

 しかし,ゴットル学説を経済哲学説として読むとき,われわれの議論にかみ合うものが多々あることに,むしろ驚きを禁じえない 註記25)

ここでの記述内容は奇妙な逃げ口上を実質示唆するほかない修辞になっていた
--なお,ここの引用では適宜に改行を入れた

 山本安次郎の経営学基礎論を哲学理論として支えているのは,西田哲学〔西田幾多郎の哲学論〕であった。次段からの論及は,小笠原がよく観察しえていなかった「西田哲学と山本学説との関連」は,ひとまず脇においての話にしておくほかない。

 戦前より,ゴットル流「経済科学」論を展開してきた有名な日本の経営学者たちが,何人がいた。彼らは,「経営存在論」ないしは「経営生活」論に論及していた。小笠原『経営哲学研究序説』についていうならば,まだ〈未見〉の内外学者による関連業績が,いくらでも残されていた。

 小笠原に問いたい。筆者の所蔵する福井孝治『生としての経済』(理想社,初版は甲文堂書店,昭和11年5月)は,昭和19年8月「10刷」であったが,この時期まで専門書を公刊できた「社会科学者の〈存在の立場〉」を,どのようにみつめていたのか? 

 戦時体制期も終局の段階に達していた1944年夏に,経済科学関連の専門書を公刊できた著者の立場は,当時なりの時代状況のなかで,いったいどのように位置づけられていたのかを,わずかでも考えてみたことがある学究ならば,この意味深長とまでいわずしても,その意味あいは容易に十分に斟酌できるはずであった。

 また小笠原のいうように,「独自の経済学説を展開したフォン・ゴットルオットリリエンフェルト」の「『生活』という視点から経済や経営を捉える試み」がこれまで,日本の関係学する諸「学界では周知のこと」だったとはいえない。

 なぜなら,小笠原のその発言は,戦時体制期における斯学界の実情を知悉した範囲内のものではなく,また,戦後60年の経過のなかでその「試み」がどうあったか,その実態の精査・把握にもとづくものでもなかったからである。

 だから,その種の発言をしたすえの「正誤の問題いかん」が問われる以前に,そもそも,問われておかねばならない重大な疑問があったことになる。

 とりわけ,ニックリッシュやゴットルに関していうなら,小笠原自身が学問的に到達した「水準・範囲」内で,このドイツ学者2名の基礎概念を〈学界の普遍的認識:通説〉とみなし処遇した解釈は,あまりにも論究が不足していたがゆえか,率直にいうまでもなくはたして「理論的に十分な説明」たりえなかった。

 すでに何人もの日本の経営学者が,ニックリッシュやゴットルの経済科学論に対して詳細な批判を与え,反論する論著を公表していた。筆者が小笠原の著述に接しえたかぎりでは,その方面の理論業績を渉猟したり,ましてや慎重に読みこんだらしい形跡は,どうしてもみつからなかった。

 ここであらためて断わっておくが,小笠原が言及していないゴットルの著作の日本語訳書としてはたとえば,まだつぎの2冊が残されていた。

 ◎ 佐瀬芳太郎訳『経済と現実』白揚社, 昭和17年8月。

 ◎ 金子 弘・利根川東洋訳『ゴットル計画経済の神話』理想社, 昭和17年5月。

 小笠原は前述のとおり,『経営哲学研究序説』の巻末「参考文献」において,ゴットル著日本語訳の2著,および酒枝義旗の戦後作1冊しか枚挙していなかった。

 思うに,自説の「議論にかみ合うものが多々ある」ゴットルの文献を十分に渉猟しないで,いったい十全な研究を展開できたと,自著の読者に伝達できたのか? 

 その点は,学究であるならば当然抱かざるをえない疑念であった。もっとも,ゴットルの諸著作における記述内容は大同小異であるから,目くじらを立てて〈未見〉の点を指摘することはない,ともいえないわけではないが,というよりも,そのようにいえるだけの文献の渉猟・踏査を経ていたかどうかが,結果的にも要注意であったことになる。

 留意したいのは,ゴットルの日本語訳の多くが,「増補訂正版」もふくめて,大東亜〔太平洋〕戦争開始の翌年,昭和17〔1942〕年に集中して公刊されていた事実である。この時期的な符合に,なにかとくべつな意味あいはなかったのか? ゴットルの関連文献:日本語訳の発行時期を調べただけでも,当然気づいてもよい事実ではなかったか?

 さらに,小笠原『経営哲学研究序説』巻末の「参考文献」には,酒枝義旗が日本語訳を手がけて公刊したオットウ・シュタイン『ゴットル経済学入門』(白揚社,昭和16年5月)は枚挙されているけれども,戦時体制期に酒枝自身が執筆・公刊した著作が1冊も掲出されていなかった。その代わりに,戦後もだいぶ経過した1977年版の酒枝義旗『生活の学としての経済学』(前野書店)がかかげられていただけである。

 酒枝義旗『生活の学としての経済学』の旧版は戦後間もないころ,『経済の原理-生の学としての経済学-』(明善社, 昭和23年11月)として公表されていた。そして,この著作はさらに「生の学」ということばを副題に下げてはいたものの,戦時体制期の酒枝流「構成体論的経済学」の〈実質的な重刷版〉とみなせるものであった。

 結局,持論の理論展開にとって枢要な概念であった「経営存在」という用語について,以上のような「理論の成果=学史的な事実」に触れないまま,小笠原は発言した。

 その事実経過は,ただに迂闊であったと形容されるよりも,「先行研究の調査不十分」あるいは「関連業績の検討不足」というほかなかった。当該の研究にとって肝心・不可欠・不可避であったはずの諸文献が,なぜなのか,あまり十全・的確には枚挙も参照もされていなかった。

 なお,前掲の吉田和夫『ゴットル-生活としての経済-』には,日本の学者によるゴットル関連の文献が網羅されていた。註記26)


 ※-6 ゴットル経済科学論の戦時〔戦争〕的性格

 ゴットルの諸著作をひもとけば即座に判明することだが,ゴットルの経済科学論は,ナチス・ドイツの戦時統制経済体制に理論的に密着し,それに実践的に奉仕すべき内容を披露していた。

 戦時体制期〔昭和12年7月以降〕の日本経済においても,ゴットルの訳書が,それも太平洋〔大東亜〕戦争に入っていち早く,集中的に刊行されていた事実は,どのように観察されればよいのか。当時,戦争と学問の関係は,どのように進行していたのか。

 そのような問題意識と無縁であったか,ないしはほぼ完全にと思えるくらい欠落させた「経営生活論」は,当該の領域における学問「発達史の足跡」を全体的に観察(俯瞰や展望)をしたとはとうていいえず,学史的な研究の基本的態度として問題含みであった。

 

※-7  戦争と学問の立場

 つぎに,小笠原の「経営生活論」にすすみ議論したい。前述に言及のあった「藻利経営学」は,「企業の生活」という用語を駆使したうえで「経営二重構造論」という理論を構想していた。ここでは,その藻利経営学が理論的な源泉として「戦時経営学」を《へその緒》として,内緒であったが,保有していた事実のみ触れておき,本論の記述に入りたい。

 ここで問題にする論点は,「経営存在論の哲学的含意」である。

 「経営体の歴史的発展に応じた最適原理の探求というよりは,むしろ経営体の経営存在的普遍原理の探究をめざすことの要請」に答えようとするのが,小笠原『経営哲学研究序説』であった。いわく「存在論的了解をその方法態度すべきであろう」。註記27)

 「存在論的了解」とはいうまでもなく,哲学論の用語・用法である。哲学部門の専門的な解説に聞いておこう。

 まず「存在論的」とは,人間は単に存在するのではなく,その存在を理解するかぎり存在論的,ただし厳密にはそれはまだ前存在論的で,その存在理解が解釈をつうじて明確な自覚にもたらされるとき存在論的になる,と説明される。

 つぎに「了解」とは,精神科学の研究対象である歴史的・社会的現実は,人間の生がその歴史的過程において産出してきたものであり,生の体験の表現である。歴史的・社会的現実は,表現をつうじて内的体験を了解するという手続によってのみ把捉される。したがって,いっさいの精神科学的認識は元本的に体験・表現・了解の連関にもとづく,と説明される。註記28)

「存在論的了解」とは

 哲学における議論あるいは概念説明が「普遍的な説明」を志向するのは,当たりまえのことである。しかし,その哲学的な概念説明に先祖返りしたかのように遡及するだけの「説明の方法」に滞留しているようでは,社会科学の議論において必要かつ十分な議論がはたせたことにはならない。

 小笠原の場合,「経営を問題とする経営学」の「基本的視座」は,「人間の『生活』の観点に立脚する〈生活学〉」に定座されていた。

 それゆえ,「経営体を生活主体として捉え」る「経営存在論は……積極的な経営体実在説……の立場」であり,「経営体はそれを構成している諸利害関係主体をこえて,それ自体が全体として独自の意思,価値システム,性格,能力,行動特性をもち,一個の経営体人格をもって『生きている』と見做しえ」るものとされた。註記29)

 小笠原がこのように,経営体を擬人化しつつ生活体を重視する視点は,「経営体の『存続』という命題を個人の『生存』と同型の構造において捉える」思考に依拠したからである。

 そこでは「経営体の存続も同じく,経営体の『生活』を通じて実現される」のだから,「実践技術論的には」「それ以前の問題が主題となる。それは『生活とは何か』である」という主張がなされた。註記30)

 ところで,そうだとしたら経営学ははたして,生活学に収斂,終着するものだとでもいいたかったのか? 

 小笠原は,次項(続編の「本稿(3)」)でくわしく論及することになるが,ニックリッシュの「経済経営」概念にも,またゴットルの「経済生活」にも賛同せず,『経営体の「生活」』という表現に特定の概念を付与していたが,そもそもこの解釈の仕方に検討の余地があった。

註記)
1) 小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』文眞堂,2004年,まえがき1頁。

2) 佐々木吉郎『経営経済学総論』中央書房,昭和16年修正5版,186頁。

3) 小笠原『経営哲学研究序説』まえがき ⅷ頁。

4) 同書,まえがきⅱ頁。

5) 同書,まえがきⅱ・ⅲ頁。

6) 同書,まえがきⅴ頁。

7) 同書,まえがきⅴ頁。

8) 同書,まえがきⅵ頁。

9) 同書,まえがきⅶ頁。

10) 同書,a) 31頁,26頁,b) 70頁,c) 73頁,d) 63頁,e) 39頁。

11) 同書,a) 62頁,59-60頁,b) 59頁,c) 74頁,d) 59頁。

12) 同書,96頁。

13) 池内信行『経営経済学序説』森山書店,昭和15年,83頁,125頁。

14) 池内信行『経営経済学史』理想社,昭和24年,14頁,19頁,21頁,20頁。傍点は筆者。

15) 池内信行『経営経済学総論〔全訂版〕』森山書店,昭和33年,4頁。

16) 山本安次郎『経営学の基礎理論』ミネルヴァ書房,昭和42年,321頁注記,198頁注記。山本安次郎『経営学本質論〔第3版〕』森山書店,昭和43年,181頁本文。

17) 山本安次郎『経営学研究方法論』丸善,昭和50年,44頁注記。山本『経営学本質論』68頁本文。山本『経営学の基礎理論』9頁注記。山本安次郎『日本経営学五十年-回顧と展望-』東洋経済新報社,昭和52年,174-175頁。

18) 山本『経営学の基礎理論』124頁注記。〔 〕内補足は筆者。山本『経営学研究方法論』344頁注記。

19) 山本『経営学本質論』28頁注記。

20) 裴 富吉『経営学発達史-理論と思想-』学文社,1990年参照。

21) 藻利重隆『経営学の基礎〔改訂版〕』森山書店,昭和37年(初版昭和31年),87-88頁。傍点は筆者。

22) 同書,第15章「総資本附加価値率の極大化-『営利原則の長期化』の発展-」。

23) 山本安次郎『増補 経営学要論』ミネルヴァ書房,昭和41年,279-280頁。傍点は筆者。

24) 吉田和夫『ゴットル-生活としての経済-』同文舘,平成16年,171-172頁。

25) 小笠原『経営哲学研究序説』99頁,102頁。

26) 吉田『ゴットル』127-129頁参照。

27) 小笠原『経営哲学研究序説』41頁。

28) 小松摂郎編『哲学小事典』法律文化社,1955年参照。

29) 小笠原『経営哲学研究序説』96頁,97-98頁。

30) 同書,98頁。

註記)

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【未 完】 「本稿(2)」の続編はできしだい,ここ( ↓ )に指示する予定である。

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