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経営学者の現実認識をめぐる根本的な吟味(2)

 ※-1 前書き-社会科学である経営学を学問として営為することの困難さ-

 a)「本稿(2)」は同名の「本稿(1)」の続編である。経営学という学問に従事する者にとって,「経営の理論と実践(theory & practice of management)」が交差する論点に対して,いったいどのような姿勢を保持しつつ,社会科学としての「自身の学究としての〈思想と生活〉」にかかわらしめる視座を構築しておくべきか,いつも意識しながら研究する基本姿勢が要請されている。

 工学や医学(以上は主に理系に足場をおく諸学問)や法学(これは社会科学系)などのように,世の中における実践(実際)そのものと直面しながらの学問があれば,経営学のようにもちろん実践とも深くかかわっているが,同時に,社会科学としての思想や立場も大いに問われる特徴をもっている学問もある。

 前段の指摘は法学にも妥当する見地であるが,経営学は経済学により近い社会科学の基盤をもつ。経営学の一番近い隣接科学として会計学があるが,これは法学に似た性格をもつ点で,若干の相違点を確かに有している。

 最近における世間の話題でいうと,原発問題を担当する裁判官は「国家寄りの審理しかできない〈腰抜け判事〉が多い。

 なんといっても,最高裁判所「事務総局」の目線(その奥座敷で詮議されている勤務評定)が怖い,この事実は,どの裁判官であっても同じに抱く潜在意識に留まるどころか,ごく日常的によく知覚している職場環境の「嫌らしさ:陰険性」である。

 裁判所もいわば国営の司法機関であるから,どの裁判官もヒラメやカレイの目線に倣うのは必然のなりゆきであって,そのことじたいは無闇に非難しがたい面がある。しかし,過去における公害裁判に観てとれるように,そうした基本姿勢で裁判の審理がなされているようでは,独裁国家・専制国家と実質的にはなにも変わるところがない「裁判所」になる。

 だからか,いつまで経ってもたとえば『原発裁判』においては,国策的判決しか出せない裁判官が多数派である。経営学や会計学の領域でみれば,経営コンサルタントや会計士,企業法務担当の弁護士もまた,こちらは雇用者である企業経営側の意向を完全に無視することができなゆえ,いろいろと問題を起こす場合もあった。

 #経営学 #伊丹敬之  #理論と現実 #御進講  #東芝  #社外取締役 

 b) 以上の能書きを記述したので,ここで,この「本稿(2)の『記述の主旨』」に触れておきたい。

 この記述は「経営学者の現実認識をめぐる根本的な吟味(2)」という題目をかかげており,しばらくは連続ものとしてさらに論述をしていく予定もある。

 ところで,社会科学者としての経営学者は,企業経営問題の実践に向かい理論的な分析・考察をするけれども,なかには経営コンサルタント的な業務に対して「理論にくわしいはずの立場」からたずさわる学究もいる。

 この「本稿(2)」は,そうした後者の立場に居たはずの「特定の人物」を話題にとりあげている。「本稿(1)」からどこまでいき,何回分まで書くことになるのか今回の時点は確定できないが,まだ数回分は記述するつもりがある。

 さて,最近の企業経営は学識者も社外取締役として採用し,配置している。けれども,その任務がいったいどのように担当・遂行されているかという現実相は,一般の部外者には一瞥すら機会が与えられていない。

 それゆえ,なにか関連した特別な出来事が発生したさい,マスコミ・メディアに報道されて初めて,せいぜい「ああ,そういうことが起きているのか」とかという具合にしりうる程度であった。

 c) ここでは前後する記述の関連で,つぎの記事から「社外取締役」に関する説明を学んでおくのが便宜と思い,以下の解説にその概要を聴いておくことにした。

「社外取締役とは? 社内取締役との違い,ルール,役割選任の流れ」『人事用語集』
 2022/05/09 2022/07/20,https://www.kaonavi.jp/dictionary/outside-director-system/

「社外取締役の解説」

  イ) 社外取締役についてのルール
 会社法では企業の規模によって社外取締役の設置要件が定められており,それは最低限設置する社外取締役の人数と社外取締役の任期である。

 社外取締役の設置義務。2019年の会社法改正で,上場企業には社外取締役の設置が義務づけられた。要件は以下のとおりである。

取締役が10人以上いる企業:最低2人の社外取締役の設置義務
取締役が5人以上10人未満の企業:最低1人の社外取締役の設置義務
取締役が4人以下の企業:社外取締役を設置しない相応の理由の開示が必要

  ロ) 社外取締役の要件
 社外取締役は,取締役となる企業とかかわりのない無関係な人間でなければならず,具体的には以下の要件が定められている。

現在から過去10年以内にわたって,その企業の業務執行にかかわっていない
その企業グループの業務執行にかかわっていない
その企業グループの親類縁者ではない

 その企業とまったく関係ない人材である点が,コーポレートガバナンスを発揮できる取締役の条件とみなされているわけである。

  ハ) 社外取締役の役割や責任が明記されていて,大きくわけると以下の4つがその内容となっている。

社外取締役の知見により,企業の持続的な反映と成長を促す
経営陣やそのほかの取締役と意思疎通を図り,経営監督をおこなう
経営陣や株主たちの利益相反を監督する
経営陣や株主から独立した立場を生かし,少数株主やステークホルダーの意見を反映する

  ホ) 社外取締役の役割一覧
 社外取締役には,企業において求められる役割もある。その企業のコーポレートガバナンスを実現するため,取締役として社内外の人びとと接し,さまざまな業務をおこなうことである。

取締役会への参加
機関投資家との対話
業務執行権の付与
指名・報酬の決定プロセスへの関与
危機的状況下での対応

  ヘ) 社外取締役を登用する利点・不利点
 社外取締役を設置すると,経営が健全化するのはもちろん,企業に付加価値をもたらされる。

コーポレートガバナンス〔企業統治〕に寄与する
外からの有益な知見をえられる
CSR〔企業の社会的責任〕への取組みをアピール〔宣伝〕できる

  ト) 社外取締役を登用する利点
 中立的で客観的な立場を活かした経営監督や企業統治の改善など,社外取締役にはさまざまな利点があるけれども,その一方で不利点も存在する。

内部の事情を把握していない
天下りを疑われる

  チ) 社外取締役にふさわしい人物像
 社外取締役は当然社外の人物から選びことになる。しかしどのような人物を選任すればよいか。社外取締役にふさわしい人物像は,つぎの条件が挙げられる。

経営経験がある
公認会計士や税理士としての経験がある
弁護士である

 以上のように,「社外取締役」に関して「概念的な理想型」をもって説明してみたのは,以下につづく「本稿(2)」の論旨にとって,少なからぬ重要な意味関連があったからである。

 ※-2 【前 文】 本記述(「本稿(2)」)は連続ものとなっており,全体に共通する基本の問題意識はなにか-

 「本稿(2)」ももちろん含めてだが,この一連の記述は,経営学者伊丹敬之(一橋大学・東京理科大学勤務ののち現在は国際大学学長)の真価を,企業問題に関する「理論と実際」にかいまみえた「落差」に注目しつつ,可能なかぎり「必要かつ十分な吟味」ができるように,徹底的に「批判的な考察をくわえて」おくことにしている。

 なお,今日の議論もひとまず,時期としては2015年5月から10月までのころであったが,世間において大きな話題となっていた出来事,「東芝会計不正事件」の発覚とその後に続く一連の事象(騒動)を念頭に置いている。

 当時,経営学者が社外取締役の立場から企業経営の実践にかかわり,どのような体験をしていたのか,そして,そこからなにを新しく学んで自分の理論展開に活かせていたのかなどについて,このさいぜひとも,突っこんだ議論-分析・解明-をしてみるべき「絶好の事例」を,伊丹敬之が体験的に例示してくれていた。

 要は,経営学者が理論で語ったはずの「事業の実践」のきびしさが,企業経営の舞台において自身が実際に「社外取締役の立場に置かれたとき」,はたして意識能動的に実体験されていたのか。あるいはさらに,自説:主張の再吟味が要求されるほかない「反証可能性」がそこに現象・提示されていなかったのか。

 伊丹敬之の場合,社外取締役を現実に担当した体験を通してであったが,みずからがあらためて問題意識を抱いて再考する余地が,確かに生じていた。他者の目線には間違いなく,そう映っていたはずである。けれども,いままで「その種の課題」が彼自身の立場においてまともに自覚された,と解釈できそうな様子はうかがえなかった。

 本日の「本稿(2)」内でのみ,そうした観察をしたうえで,ここだけでの話となるが,論題を付け代えておくとしたら,こういう題名でもよかったかもしれない。

 主題 経営学者伊丹敬之に問われていた「学者の倫理」問題は,いまいずこ。
  副題 「経営の理論と実際」に関して,まともに・きびしく,問われてこなかった経営学者,その奔放な精神の行く末はどこに向かっていたのか」

補注)こういう論題でもいいのだが,という話題。

 しかし,こうした付記はあくまで付け足しの「主題と副題」であって,本稿全体の題目を変えるための意図はない。あくまで論旨の意図を周知させるために,このように別の題目も想定できるという話であった。
 

 ※-3「社外取締役の報酬」『朝日新聞』2015年10月15日朝刊「経済気象台」が指摘したこと

 本ブログは,経営学者伊丹敬之(東京理科大学大学院イノベーション研究科MOT技術経営専攻教授,以上は2015年10月時点の職場・職名であり,2022年2月現在は国際大学学長)についてすでに,なんどかとりあげて議論したことがある。

国際大学学長伊丹敬之・像

 いまから8年前,2015年10月15日の『朝日新聞』朝刊コラム「経済気象台」がつぎのように言及していたのを読んだとき,伊丹敬之が東芝の社外取締役に就いていた件に関して,再度,復習しておくことが必要ではないかと感じた。

 そこで,本日における議論のとっかかりに利用できると考えた,その「経済気象台」のいいぶんを紹介しておく。

          ☆〈経済気象台〉社外取締役の報酬 ☆
       =『朝日新聞』2015年10月15日朝刊 =

 上場会社に適用される「コーポレートガバナンス・コード」のなかで,もっとも話題となっているのが,独立社外取締役を複数選任すべきだとする原則である。会社の持続的な成長と価値向上を図るため,経営監視機能を高める必要があるからだ。

 しかし,社外取締役が複数選任されていたにもかかわらず,経営者主導の不正行為などに対してまったく機能していなかったという事例は,東芝だけでなく複数ある。

 2001年に経営破綻した米エンロン社の場合は,高名な社外取締役を多数選任し,公開会社のなかで最高額の役員報酬を支払っていた。そのために,社外取締役みずからも認めていることだが,判断が鈍ったとされている。

 会社が高額報酬と引き換えに社外取締役の名声と信用をうまく利用していたことになる。

 ただ,独立社外取締役の重要性を主張する米国でも,無報酬に近いかたちで職責を果たしている者も多くいるという。貢献に社会的なリスペクト(尊敬)や栄誉を与える環境が定着しているからだ。

 企業価値を毀損し,市場の信頼を失墜させるような不正を見逃すことがあれば,自身の名誉に傷がつく。そのため,経営監視の役割を最大限に果たそうとするのである。

 わが国の場合,社外取締役の報酬は有価証券報告書に開示のとおり,庶民感覚からすると,一般に高額である。経営者の暴走に対しては,職を辞する覚悟で臨むこともあり,報酬の誘惑を断ち切る気概と責任感こそが社外取締役の原点である。

 実際に財団法人や社団法人などの評議員や理事,監事の場合,社会的にも地位が高く高名な人たちが無報酬で重責を担い,広く尊敬の念をえている例がある。これに倣いたいものである。(引用終わり)

 このコラム〈経済気象台〉の内容は,まったく読んでそのとおりであって,なにもむずかしいことに言及していない。

 その「むずかしいこと」とはむしろ,ここに指摘されているような〈社外取締役〉の使命・任務が「きちんと・まっとうに」遂行されることが,いかにむずかしい課題・業務であるかという事実にあった。

 2015年中の出来事として当時,世間の注目を集めた「事業経営の基本的なあり方」として,「東芝の事例」:「社外取締役の問題」があったわけである。
 
 本ブログは,この東芝の企業統治に関係する問題発生に関して核心となっていた論点をとりあげ再検討することが,現時点(2023年2月)になったところでも,なお有意義な課題になると判断している。

 ※-4「問われた経営学者伊丹敬之の真価,その企業問題に関する『理論と実際』の落差」

 経営学者が理論(頭脳)で語りえた「事業の実践」は,はたしてどこまで本物たりえたのか。

 企業の重役とは「株式会社の取締役・監査役など役員の総称」である。この理解を前提に踏まえ以下の論及がおこなわれている。

 1)『日本経済新聞』2015年10月3日朝刊11面「企業総合」,「東芝 室町社長の取締役選任 4人に1人『反対』,臨時株主総会 社外・前田氏ら支持9割」から(なお,この 1)  の段落の記述は「本稿(1)」と同じであるが,前後脈絡の関連であらためてとりあげている)

 --東芝は2015年10月2日,9月30日に開いた臨時株主総会での賛否結果を発表した。取締役選任では室町正志社長の賛成票比率が76%強にとどまり,株主のほぼ4人に1人が反対した計算だ。不適切会計に対する株主の厳しい見方を背景に6月の定時総会(賛成率約94%)に比べて反対票が膨らんだ。

東芝,2015年9月30日臨時株主総会「賛否結果」

 半面,資生堂相談役の前田新造氏ら新任の社外取締役6人はいずれも98%前後と高い支持をえており,社外取締役主導のガバナンス改革への期待を反映した格好である。

 再任は室町氏のほか,代表執行役専務の牛尾文昭氏,社外取締役で指名・監査委員会委員の伊丹敬之氏。賛成率は牛尾氏が74%強,伊丹氏が67%台にとどまった。(引用終わり) 

 この記事には,関連の数値を記入した「表」(前掲)が添えられていた。なかでも,伊丹敬之に対しては3票に1票が不信任の投票をしており,つづく記事にも書かれているように「室町正志・牛尾文昭・伊丹敬之」の役員3名に対する不信任票比率の多さは見逃せない数値であった。

 とくに伊丹敬之は,経営学者の立場から東芝の社外重役(取締役)の1人にくわわっていた。その立場・役目に就いていた伊丹が,同社の不祥事の発生をめぐり,実際には「居ても・居なくとも」同じ顛末になっていた,つまり肝心の「取締役という重い役」を彼が存分に果していなかったという「業務遂行度」に対する株主総会の評価が,不信任票比率をそこまで高めたことになる。

 そうとすれば,これまで,数多くの論著をもって理論的な発言をおこなってきたはずの「彼の立場」 〔=経営理論とその思想?〕は,今回の出来事を機にあらためて,問いなおされねばならなくなっていた〔はずである〕という具合に,疑問を提示されて当然であった。

 筆者は,伊丹敬之の「経営学・理論」をなんどか本格的に,つまり学術的関心をもって,社会科学としての経営学に関するその真価を検討してみたことがある。伊丹は絶えず,非常に早い歩調でしかも多産・大量的に,日本の産業社会に対する発言を重ねてきた。

 ところが実は,伊丹敬之の「経営学の理論とその実践」が,このたびの「東芝の経済事件:会計不祥事・不適正経営」の発生にともない,そのチグハグさ:ぎこちなさが露呈させられる経緯が生じていた。

 あえていっておくが,ともかく饒舌でありつづけてきた経営学者の, それも「理論的武装を装ったかのような軽妙な発言」のなかに散見されていた《一定の危うさ》は,以前からほかの経営学者たちも薄々は確実に気づいていたゆえ,いまさらとりたてて驚くような事態の展開ではなかった。

 ここでは,その事実よりももっと「驚いていいことがら」があった。それは,この種の経営学者が「企業経営の理論と実践」に対する権威筋であるかのようにもちあげられてきた,一定の特殊な業界事情のことである

 前段に引照した日経2015年10月3日朝刊記事の語感は,伊丹敬之に関する報道記事の論調としてあくまで穏やかである。日本経済新聞社と伊丹敬之は以前より親密な関係を維持してきた。

 当時,伊丹敬之が自分なりの判断を下して,東芝の重役(社外取締役)を即座に辞任する意向は,まだなかったようにみうけられた。

 ともかく,日本企業の開催する株主総会で3票のうち1票に否定(信任拒否)される社外取締役は珍しかった。この事実を当人がどのように受けとめたか,第3者にはなかなか察しえない事情(個人心理)である。この点の揣摩憶測は無用である。

 参照している前掲の記事そのものに戻って引照する。

 会計問題に詳しい青山学院大学の八田進二教授は,「伊丹氏は以前も社外取締役を務めており,経営を監視できなかった責任は重いとみる株主が多かったのでは」と指摘した。

 八田進二は別所では,こうも指摘していた。「東芝の社外取締役は “お飾り” だった」。「東芝の内部統制は『(逆の意味で)優等生』だった」と。
 注記)この引用は「本稿(1)」でおこなっていたが,こちらでも繰りかえした。『日経ビジネス』2015年8月6日,http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/073100058/

 室町氏ら3人の役員3名〔とは「室町正志・牛尾文昭・伊丹敬之」〕の再任取締役については米議決権行使助言大手が事前に反対を推奨していた。半面,前田氏,三菱ケミカルホールディングス会長の小林喜光氏,アサヒグループホールディングス相談役の池田弘一氏はいずれも98%台だったという。

 今総会では個人株主による14の株主提案があったが,いずれも反対多数で否決。弁護士など社外出身者6人からなる取締役選任議案の賛成比率は全員が14%台だった。室町社長は10月1日,「株主からのきびしい評価を真摯に受けとめ,再建に向け最大限の努力をする」とコメントしている。

 さて『ダイヤモンド ONLINE』2015年4月6日号は,伊丹敬之の「一流の経営者はデータの向こうに現場が見える(上)」http://diamond.jp/articles/-/69031 という寄稿文を掲載していた。

 その寄稿では「現場」という用語を鍵に置く議論がなされていた。伊丹敬之のこの論稿はくわしく紹介するつもりないので,冒頭にあった要旨(編集側の説明)のみ聞いておく。これも「本稿(1)」で紹介した文章であったが,前後する論旨に照らして再度,引用する。

 日本の経営学の発展に大きな貢献を果たしてきた伊丹敬之氏は,いま経営者の多くが「会計データ依存症」に陥っており,「現場想像力」の習得が必要であると訴える。それでは,この現場想像力とはいかなる能力か。

 すなわち,会計データを一瞥して,いま現場ではなにが起こっているのか,現場の人たちはどんな問題を抱えているのかなど,現場の実態を想像できる経営リテラシーのことである。

 伊丹氏によれば,稲盛和夫氏に代表される名経営者と呼ばれるビジネス・リーダーたちは,財務リテラシーのみならず,この現場想像力にも長けているという。

 ただし,その習得は一筋縄ではいかない。会計データと現場の現実の突き合わせをなんども,いや何年も続けて,初めて会計データの裏側に隠された現場の実態 がみえてくる,というのであった。

伊丹敬之「一流の経営者はデータの向こうに現場が見える(上)」

 2)新・日本的経営システム等研究プロジェクト報告『新時代の「日本的経営」』日本経営者団体連盟,1995年と伊丹敬之の存在価値

 2000年をほぼ境にしていたと表現されていいが,非正規労働者階層の増加がいちじるしい時代の趨勢になっていた。2019年にその比率は38.3%まで上昇していた。

 総務省統計局『労働力調査(基本集計)2022年(令和4年)平均結果の要約』令和5〔2023〕年1月31日 https://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/nen/ft/pdf/index1.pdf は,こう解説している。

 「役員を除く雇用者に占める非正規の職員・従業員の割合は36.9%と0.2ポイントの上昇」をみていた。これは,2019年にその割合が38.3%で最高になって以来,若干だけだが3年間は減少してきて,2021年には36.7%まで下がったその割合が,

「2022年平均の正規の職員・従業員数は3597万人と,前年に比べ1万人増加(8年連続の増加〔した〕)」のなかで,「非正規の職員・従業員数は2101万人と26万人増加(3年ぶりの増加)」になり,0.2ポイント上昇してその数値は 36.9%になった。

 2010年から2022年の時期になっても,その構成する性別・年齢別の内容に一定の変化はあれ,あいかわらずそのあたりの比率に留めおかれている。この非正規雇用者の問題は,いまでは日本の労働経済・産業経営の宿痾を象徴する代表的な現象である。 

 いまから28年も前になる。1995年に公表された新・日本的経営システム等研究プロジェクト報告『新時代の「日本的経営」-挑戦すべき方向とその具体策-』(日本経営者団体連盟)は,非正規労働者階層を増加させるための「産業界指針書」として執筆・公刊されていた。

 この『新時代の『日本的経営』』1995年5月が提唱した内容は,つぎのような骨格になる雇用形態「3群」を用意していた。以下,現時点なりにくわえうる解釈も添えて解説してみたい。 

日経連『新時代の「日本的経営」』32頁

 つまり,財界側は,労働者をつぎの「3つのグループ」からなる「雇用形態」に分類することで,労働力の「弾力化」「流動化」を進め,総人件費を節約し,「低コスト」化を狙った。

   「長期蓄積能力活用型グループ」
   「高度専門能力活用型グループ」
   「雇用柔軟型グループ」   

 「前掲の図解」「上表の整理・説明」のように概念化された「労働者の階層分化」,より正確には「その分解あるいは破壊」による「整理・再編成」のもくろみは,21世紀になってみれば,日本の労働経済・産業経営における労働者階級(階層)に対する分断政策を,それなりに確実に成功させてきたことになる。

 より具体的に説明しよう。

 まず,管理職や基幹労働者のみを常用雇用とし,ほかの2つのグループは,不安定な短期雇用とした。後者の2つのグループは,雇用期間のみの不安定化だけでなく,賃金,賞与,昇進・昇格も不安定となった。退職金,年金もないものとされた。

 もっとも,2012年から「非正規雇用に関する主な法令等」が実施されており,関連する雇用事情に一定の変化・改善がなされている。しかしながら,基本的に正規・非正規の雇用に関する区分は,いまもなお,特定かつ顕著な格差を発生させる基本的な枠組として根強く残存している。

 現に,その後(これはもちろん,1995年以降という意味であるが),この「不安定化」は,確実に進行していった。

 『新時代の日本的経営』が提唱し,実現してきた雇用差別に対しては,まだまだ労働者の「生活と権利」を守るための規制が必要とされている。現に,十全とはけっしていないけれども,関連する法規の「改正」が徐々に進展してきた。

 財界側による賃金および労働条件の大幅な切り下げは,労働者生活の「不安定化」を意味することは当然であった。働く人びとの大きな抵抗・反対運動に合い,一気に進行しているわけではないものの,基本的には財界側の意向は確実に具体化されてきた。

 経済企画庁は『21世紀のサラリーマン社会-激動する日本の労働市場』(同庁総合計画局編,東洋経済新報社,1985年)で,2000年には不安定雇用を3分の1にするモデルを明らかにしていた。

 そもそもの話,財界側と国家当局側はまさにグルになって,自国「勤労者の生活と権利」の実際水準を低落させる意向を抱いていた,いまさらのようであっても,批判・指弾しておく必要が大いにある。

 日経連(日本経団連)は,『新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策』1995年5月が提示した「方針」の追跡調査をおこなっていたが,2022年の現在となっては,いまさらなにをかいわんや,の事後調査であった。

 *-1 流動化のメリットは「能力・業績主義の徹底化」「人材の価値が市場で評価される」などにあって,そのデメリットとしては「企業に対する帰属意識がなくなる」点にあったなどと分析(?)されていたが,この程度の「結末」は当初より分かりきっていた論点。

 *-2 将来,「長期蓄積能力活用型」従業員が1割程度減少し,「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」が増加すると予定だった(予測だったか?)が,実際のところは,正規雇用の割合が1割減らせるというもくろみよりも「非正規雇用が増えつづけて」しまい,結局,この非正規雇用のありようが産業経済・企業経営の体質をかえって弱化・沈滞させる原因(真因)のひとつになっていた。この事実は忘れてはいけない要点となる。。

 野口悠紀雄は,最近作『日本が先進国から脱落する日 “円安という麻薬” が日本を貧しくした !! 』プレジデント社,2022年3月の4章の題名を「物価が上がないのは,賃金が上がらないから」としていた。野口のこの指摘は経済理論にまともに依拠し,現実を直視した発言であった。

 資本主義経済体制だから「資本の論理(利潤追求の原則:推進動機)」は,いつの時代も変わりないとはいえ,日経連『新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策』1995年5月は,企業経営や産業経済の次元における労働経済的目標の設定・追求として成功していたものの,併せて,日本の政治・経済全体を弱化・凋落させていく政策過程を,もののみごとといっていいくらいに実現させてきた。

 その結果に絡めていえば,企業経営のになうべき「社会的責務」のありように関する認識に関して,議論を沸騰させかねない余地が大きく残っていた。

 結局,日経連『新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策』1995年5月がめぐりめぐってもたらした「顛末」は,日本資本主義のあり方に関してだが,ある意味,不可避であった「随伴結果」を出来させていた。

 3) この日経連のもくろみに協力してきた経営学者としてたとえば,伊丹敬之(元一橋大学商学部教授,前東京理科大学教授,現国際大学学長)がいたのである。

 伊丹敬之は,新自由主義・規制緩和という国家方針の水先案内人を務めながら,みずからもすでに「人本主義」といった奇矯な経営概念を提唱していた事情もあってか,財界側の意向に全面協力する学問の立場を率先推進させる役目を,存分に果たしてきた。

 それゆえか,伊丹敬之『人本主義主義-変わる経営・変わらぬ原理-』(筑摩書房,1987年)は,「激動する環境のなかで経営の具体的な制度は,変えるべき 部分は当然出てくるが,原理は貫いたほうがよいとして,戦後40年の企業経営の科学的精髄を理論化したのが人本主義主義なのである」(『日本経済新聞』 1988年1月24日朝刊「書評」)と解説されていた。つまりヨイショされていた。

 ところが,戦後78年目にもなる「いまの段階」に至って,伊丹敬之のその著作が主唱していたと思われる実体は,その提唱していたはずの『日本の経営の「変わった姿」のなかには「変わらぬ原理」がある』とされたその核心部分が,実際のところは,どこにも・なにもみいだせずに推移してきた。

 現段階まで,日本の「企業経営の現実・環境」に対面させられてきたその「人本主義=企業」論は,実のところ「奇妙かつ奇怪な概念」を構築していたに過ぎない。その事実は,日本の国民経済・産業経済・企業経営のなかでありのままに露呈されてきた。

 つまり,当初より破綻(破産)する理論を提唱していたと理解されるほかなかったのが,この「人本主義=企業」論であった。この理論「構想⇔発想」じたいは,企業経営の表相を彷徨する詮索しかなしえていなかった。それゆえ,現実のほうからは必然的に排斥されるしかない性格を有していた。

 もっとも,あえて指摘するのであれば,「人本主義=企業」論が把持していたその「変わらぬ原理」とは,資本制企業の利潤追求であった。伊丹敬之は,理論営為との関連があってこそ,企業実践の舞台で社外取締役の職員に就いていたが,痛い体験をさせられてきた。資本制企業の営利原則に忠実であるほかない会社組織の真実に,伊丹の立場が無縁でありえたわけがない

    そしてまた,日本の経営の「変わった姿」なるものは,現実の生活のなかで暮らす「庶民の立場・視点」から観れば,一目瞭然のそれであって,ただ,昨今まで日本企業内の実態・内情が進展させてきた変貌ぶりを意味していたに過ぎない。

  なんだかんだいってところで,産業社会の「現実の様相」ならびに「その背景」から一様にうかがえる経営の現実は,「人本主義の企業論」 などわずかも立ち入れる隙間がないほどきびしく冷酷である。

 人本主義企業「論」という主唱をかかげた伊丹敬之の立場は,『人本主義主義-変わる経営・変わらぬ原理-』の表紙に巻かれた帯の謳い文句;「時代と国境をこえる日本企業の新しいビジョンを求めて」という点に関連させて,つぎのように位置づけておきたい。

 結論的にいう。人本主義によって「求められていた目標」は,なにも与えられないままに経過してきた。それどころか,実際に「日本企業」に対して「与えられた現実」は,そのビジョンとは真逆に映る「その後における現在の姿」に表現されていた。

 さらにいえば,その企業の内部にひたすら抑圧管理的にとりこまれたり,または合理化用の冗員としてそこから排出されたりしてきた労働者たちが体験してきた「悲惨な末路の様子」は,人本主義企業論の期待したかった展開とはなんのかかわりもないまま,同時並行的にかつ別途に生起していた。

 伊丹敬之のこの本『人本主義主義-変わる経営・変わらぬ原理-』についてアマゾンの書評欄には,フルマークを付けたブック・レビューが並んでいる。

 しかし,その評者たちは一様に,「人本主義企業」論という〈青い鳥〉がいまの時代にあって,実際にはどこの空を飛んでいたのか,という事実把握とは無関係の記述をおこなっている。

 前掲の図表「財界が描く雇用形態の3グループ」として3分類された労働者の各グループは,採用形態における「安定⇔不安定」の程度に関する明確な違いを意味していた。

 そこには実は,従来における日本式経営の「年功制・終雇用制・企業内組合」という,大企業正社員雇用体制の基盤をも根柢から大きく変質させただけでなく,同時にまた,これからもじわじわと突き崩していくための「経営思想としての積極的な意図」がこめられていた。

 新・日本的経営システム等研究プロジェクト報告『新時代の「日本的経営」』が公表されてから,早28年目になる。労働者にとっての経済・産業・労働環境はひどく悪化してきた。

 たとえば,その途中で冨山和彦が提唱してみた「大学の大半  職業訓練校に』変えろ」という認識は,日経連の同書に含意された意図を “創造的に否定しうる” 性質の発想が含まれていなければ,初めから意味がなかったはずである。

 労働者の立場が不利・不幸ばかりになってきた「ここ四半世紀もの長い歴史過程」のなかでは,労働組合の組織率の大幅な衰退,反体制派健全野党勢力の顕著な弱体化などが,労働者側の立場・利害にとってはさらに不利な条件を強いる直接の要因となっている。 
 

 ※-5  経営倫理学は経営者のためだけでなく,経営学者のためにも必要な学問である

 すでに前世紀中にすでに,経営学界のなかでは経営倫理に関する研究,企業倫理学が盛んになっていた。一般の「社会倫理そのものの問題」にも関連する実践的な研究課題が,理論研究と実践行動の両域にまたがって解明されることになってもいた。

 もちろん,経営学者たちが「企業の倫理」を論じるのであり,場合によっては産業界とのつながりを密に維持した経営学者自身の立場や利害が前面に出る場合も否定できない。

 ところが,経営学者の研究対象となっていた「企業の倫理」という問題については,

 ★ 「経営活動そのもの」を理論面から論じるときと,

 ★ 「経営学者自身が企業経営の実践問題にたずさわる」さいに,その論点を論じるときとでは,

そのあいだには,どうみても一貫した学的倫理が存在するようにはみえなかった。

 ところで,伊丹敬之の略歴は,簡単にはこう紹介されている。

 一橋大学名誉教授,現在(2015年当時)は東京理科大学教授。そして,2015年9月から東芝取締役会議長と務めていた。

 以前は,経営学関係の学会組織のひとつである組織学会会長もこなしてきた。 2005年紫綬褒章受章。JFEホールディングス監査役,商船三井監査役等も歴任。

 しかし,前段の記事によれば,東芝の会計不適切処理の問題発生に関連して開催された,2015年9月30日に開催の臨時株主総会においては,不適切会計に対する株主側からのきびしい見方が,社外取締役「伊丹敬之に対する賛否結果」として,一番はっきり提示されていた。

 社外取締役で指名・監査委員会委員の伊丹敬之氏に対する賛否のうち賛成は,67%台に留まっていた。日本の企業の株主総会におけるこの種の議決としては,いちじるしく低い結果(3票に1票が不信任)を招いていた。

 伊丹敬之はそれまですでに,JFEホールディングスと商船三井の社外監査役に就いており,また東芝では,指名委員会委員・報酬委員会委員にも就いていた。そして,今回発生した不適切会計に伴う役員8人辞任を受けて,穴が空いた監査委員会の委員長にも就いたのである。

 だが,2015年9月30日に開催された臨時株主総会では,伊丹に対する賛否結果は,前段にも触れたように,きわめてきびしい評価(結果)に対面させられた。

 はたして,その結果を伊丹敬之自身がどのように受けとめていたのか,外部の者にはうかがいしれない事情(彼の所感・心情)があったはずである。ここでは,これ以上に特別に言及することはできない。しかし,前段まで論じたような話題のなかに,どうしても割り切れない〈なにか〉が淀んでいたような印象を残す点は,誰の観察からしても消しされない。

 最後に触れておくが,伊丹敬之は経営学者の立場としては,他者からの理論的な批判に応えるいとまもないくらい八面六臂の活躍をもって,実際界に対する貢献をしていた人物である。

 もっとも,同業・他者からの学術的な問いかけを無視する学問姿勢は,往事の山城 章(戦中から戦後に大活躍した一橋大学教授)の姿を彷彿させてくれる。

 こういうことがいえる。--批判なきところに学問の発展はない。批判を無視する学問に留まるのであれば,自身が掘った穴蔵に自己閉塞的に籠もりこむ以外に,その発展(?)への手がかりはつかめない。この点は,学究であれば先刻承知,共通の理解である。

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