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日本の大学が抱えている病理(1)

【断わり】 本日のこの記述は2日前,2024年7月1日公開してあったつぎの記述を踏まえている。当初,同日の記述としては,ほんの少しだけの前文を添えて書くつもりであったが,最近までにおいて関連する話題がどんどん展開されていたので,その一部だけでも言及するにあたり,結局1回の分量になった。

 ということで,本日の記述からが,この標題「日本の大学が抱えている病理」のもとで,前段の2024年7月1日「前論」を受けて考察をおこなうことになる。その「前論」のリンク先住所はこれ( ↓ )である。


 本日からのこの標題になる記述は,数回に分けて議論していくことになるが,2020年1月30日に公表した文章を復活させるかたちになっている。もちろん,ここでの再公表にさいしては,こちらなりに更新作業をくわえた点はいうまでもない。

 中心の論点は,「日本の大学が抱えている病理」は,なんといっても「為政者が高等教育の真価を理解できていない惨状,とりわけ『文系不要論』の錯誤と悪影響」が,実際にそのまずい効果を教育社会にもたらして経緯にみいだせる。

 現在,日本の大学に問われていることは,文教政策の貧困化・弱体化が,とくに安倍晋三の第2次政権下,それも徐々に劣化してきた研究・教育体制において,じわじわ浸透してきた事実をめぐって,より明白になった。

 以下に論じていく記述全体にとって前提となる要点を3つに分けて,簡単に説明しておきたい。

  要点:1 高等教育機関における研究や教育を「教育は百年の大計」という見地をもって観察できていなかった「実業人の浮薄な意見」を「真に受けて摂り入れた」失策

  要点:2 「急がば回れ」が教育の原点であり,最良の方法であるが,その逆をいく実業人の経営コンサル的な目先だけの助言によって,大学の教育現場が混乱させられてきた「錯綜」

  要点:3 さすがに,教育現場に直接「選択と集中」戦略をもちこむ愚かさに気づいたらしいが,その間において大学側の受けてきた負的打撃がひどく,その打撃(悪影響)が「多大」であった
           
 

 ※-1 神里達博「〈月刊安心新聞 plus〉テクノロジーが覆う社会 専門知よりも『何が大切か』」『朝日新聞』2020年1月24日朝刊13面「オピニオン」 

 ※ 人物紹介 ※ 「かみさと・たつひろ」は1967年生まれ,千葉大学教授,本社客員論説委員。専門は科学史,科学技術社会論,著書に『ブロックチェーンという世界革命』など

 a) 科学の成果が社会の至るところに浸潤し,あらゆる面でテクノロジーに依拠するようになった21世紀。人類の長い歴史においても,このような事態は,当然ながら初めての経験である。こうなると私たちはつい,自然科学的な「理系」の専門知こそが,現状の世界を理解し,対処するうえでもっとも重要だと考えがちである。だが,話はそう単純ではない。

 まずは時事的な話題を材料に,このことを考えてみよう。

 今週〔ここでは2020年の1月20日以降の週であった〕は,中国の武漢で確認された新型コロナウイルスによる感染症が拡大し,不安が広がっている。かつての「SARS」や数年前に中東を中心に流行した「MERS」もこのウイルスの仲間が原因だ。まさに明日は旧暦元日。「春節(旧正月)」に中国の人々が大移動し,感染が拡大する恐れも指摘されている。

 補注)ここに参照している寄稿は2020年1月24日の記事であったが,今日(ここでは1月30日)時点になると,新型コロナウイルスの感染拡大の兆候がさらに深刻化の様相を呈した。

 コロナ禍がその後,日本の政治・経済・社会に与えた大きな打撃は,いまとなっては周知の事実だと,ひとまずは理解できるので,くわしくは言及しない。もっとも,コロナ禍が完全に終熄したのではない事実は,あらためて認識しておく必要がある。

〔記事に戻る→〕 しかし,そもそも近年,新型ウイルスが繰り返し私たちを襲うのはなぜなのか。これらは「新興感染症」と呼ばれるが,少なくともグローバル化の進展が関係しており,また消費生活の急速な拡大や,環境破壊,さらには気候変動なども影響している可能性がある。

 だとすればこれは,医療や衛生のみならず,社会経済的,あるいは政治的な課題でもあるというべきだ。また,感染症がしばしば偏見や差別を惹起してきたという歴史的事実も,やはり忘れてはなるまい。

 中世の欧州におけるペストの流行は,病による膨大な犠牲者のみならず,ユダヤ人の虐殺など,さらなる悲劇を引き起こしたことがしられている。だが程度の差はあれ,感染症への偏見は現在も消えてはいない。

 実際,2003年のSARS流行のさいには,感染が拡大したカナダのトロントで,アジア系の人々が差別を受けたことが報告されている。また日本も例外ではない。周知の通り,ハンセン病の隔離政策における,長年にわたる人権侵害について国が謝罪したのは,21世紀に入ってからのことだ。

 科学は確かに人びとの命を救ってきた。だが,科学的な知識が増えるだけでは,この社会から偏見はなくならないのである。

 b) もうひとつ,科学技術が「埋めこまれた」この社会のあり方について考えさせられるニュースが,先週飛びこんできた。

 四国電力・伊方原子力発電所3号機の運転差し止めを求める仮処分申し立てに対して,広島高裁がそれを認める決定を出したのだ。東京電力福島第1原発の事故以降,司法が運転差し止めを認めたのは,これで5例目となる。

 補注)この広島高裁の判決を下した裁判官は2月の誕生日で65歳となり,定年を迎えるという。日本の裁判所に関していえば,「三権分立の原則」などそっちのけにした「国家側からの不当な圧力の介入」が,いわば,無言の干渉としてなされている事実は,基本的には常識に属する認識であった。

 裁判官であったある人物が,つぎのように述懐していた。

 福島第1原発事故以前の原発訴訟で勝訴判決を出した2人の裁判長についてみると,これも『ニッポンの裁判』〔瀨木比呂志,講談社新書,2015年〕に記したとおり,1人が弁護士転身,もう1人は,定年まで6年余りを残して退官されています。ことに後者の退官は気になります。

 また,詳細にふれることは控えますが,国の政策に関わる重大事件で国側を負かした高裁裁判長が直後に自殺されたなどという事件も,僕自身,非常にショックを受けたので,よく覚えています。

 少なくとも,定年の65歳までもうそれほど長い任期は残っていない50代半ばくらいより上の裁判長でないと,広い意味での統治と支配の根幹にかかわるような裁判について勇気ある判決が出しにくいということ,これだけは,厳然たる事実でしょうね。

 また,原発稼働を差し止めた裁判官には,東京ないしその周辺におおむね勤務し続けかつ最高裁でも勤務した経験のあるような裁判官がいないことも,事実です。

 註記)瀬木比呂志稿「最高裁がひそかに進める原発訴訟『封じ込め工作』の真相 日本の裁判所は『権力補完機構』なのか」『現代ビジネス』2016年10月27日,https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50052?page=3

しょせん裁判所は国家権力の手先(手? 足?)なのか
次段に【参考文献の紹介:アマゾン通販】


 補注)どのような先進国であっても,民主主義が完璧に浸透しているなどとはいえないものの,日本という国のなかでは司法の独立は不全である。国家のための裁判所である基本特性が敗戦以前とたいして違わない,といってもいいほど国家権力にベッタリなのである。

 以下は,2019年9月19日に報道された出来事であった。

 2011年3月の東京電力福島第1原発事故をめぐり,旧経営陣3人が業務上過失致死傷罪で強制起訴された裁判で,東京地裁の永渕(ながふち)健一裁判長)は同日勝俣恒久・元会長(79歳),武黒(たけくろ)一郎・元副社長(73歳),武藤 栄・元副社長(69歳)の3被告にいずれも無罪(いずれも求刑・禁錮5年)の判決をいい渡していた。

 この裁判の結果については,「検察官役の指定弁護士が控訴すれば,控訴審でさらに争われることになる」というけれども,「第2の敗戦」とまで形容されてもいる「東電福島第1原発事故の経営責任問題」が,ようやく裁判所で審理されることになっても,そのような無罪の判決になっていた。

 なかんずく「国策民営」であった時期に発生した原発事故ゆえ,2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴い惹起した東電原発事故については,当時における東電側の最高幹部が誰1人としてまともに責任が問われないで済むという結論になっていた。

 しかも,この結論にさからう裁判を指揮する裁判官は,自分の職をなげうつ覚悟をしなければならないというのであれば,「司法の独立」とか「三権分立」といった文句は,単なる標語にしか過ぎなかったことになる。

 安倍晋三の第2次政権になってからは,なおさらのこと,そうした権力志向にならざるをえない “裁判官の必然的な立場” に関していえば,例の『忖度』という用語が広狭の意味を問わずあらゆる場面に浸透してきた事実は,われわれ庶民の立場からでも理解できる。

 ところで,安倍晋三という〔当時の〕首相はそれまで,自分の立場のことを「立法府の長」(本当は衆議院と参議院の議長のこと)だといい間違えることを,なんども犯していた。ところが,この間違いについて当人の自覚がほとんどない様子であったゆえ,本当に驚愕する。

向かって右側の男はジャパンハンドラーの1人であった
「日本を滅ぼす男」ではなく
すでに「日本を滅ぼした男

 さらにまたたとえば,2019年1月28日,国会委員会における質疑応答のなかで安倍晋三は,「募る」ということばの意味が「募集」という意味ではないと答弁のなかで説明したので,委員会の場を唖然,騒然とさせた。それでいて彼は,その自身の無知についてまったく気づかないでいた。こちらの問題は日本語に関する過ちであった。

 補注)この段落での「アベ的な笑うに笑えない」,なんというか背筋が寒くなるようなこの話題は,これほどにひどい知力の「世襲3代目の政治屋」であっても,悪夢ではなく正夢となって本当に,日本の国家最高指導者である地位に,それも第2次政権(2012年12月26日-2020年9月16日)の,7年と8カ月もの長期間就いていたのだから,この国が傾いていった事実は,いまさらあらためて確認するまでもなく,「現前していた」のである。

 もっとも,この元首相の日本語力をデンデン(云々)する以前の問題が,もとよりあった。それはもうトンデモな「世襲3代目のボンクラ政治屋」が,しかも長期間にわたり,この国においては最高責任者の地位に居たわけだから,おかしくならないほうが不思議であった。

 日本の政治にとってみれば,周囲が戦慄させられるほど無知で,しかもその上に無恥の,つまり国恥・国辱そのものでしかありえなかった総理大臣:安倍晋三が,おまけに〔なんども繰り返していうけれども〕歴代総理大臣のなかで最長の任期を誇っていた。

 その間,この日本という国は今日〔本日ならば2024年7月3日〕まで,安倍晋三という「史上最悪・最凶の最高責任者」による悪政・失政・愚政を長いあいだ,押しつけられてきたために受けた「決定的な打撃=損壊状態」を引きずったまま進んでこざるをえなかった。

 それがゆえに,政治は4流,経済は3流,社会は2流,文化は?流とでも表現したらよい国柄にまで転落した。最近では,この国は先進国とは称せないとか,観光立国しか生き残る道がないとか,とくに政治と経済については悲観するほかない「自国の位置づけや評価」が,それもまともな学究からも当然の現状認識として語られている。

〔記事に戻る→〕 主な争点となったのは,地震と火山のリスク評価だ。裁判のたびに原発が止まったり動いたりすることを批判する声もある。関係者のなかには,技術的な判断に対して司法が介入することへの不満もあるようだ。

 補注)ここでの指摘,「技術的な判断に対して司法が介入することへの不満もある」という点は,ずいぶん奇怪な指摘・疑問である。裁判所があつかう事件は世の中の「森羅万象」にわたる。自然現象も相手にしなければならない。「3・11」では地震の影響にくわえて津波の高さが問題であった。

 裁判官は,裁判になった諸事件についてはそれぞれ,その専門分野の勉強をせざるをえないし,そうしないと法律学の知識を適切に活かすことはできない。すなわち,そうした姿勢を基本に据え,構えたうえで裁判官は裁判の審理に当たるはずである。このことは,裁判に関連して当然に要求される法理的な立場である。

 だから,裁判官も裁判では専門「技術的な判断を」迫られるゆえ,その勉強を同時並行的におこないつつ審理することになる。それでもなお,以上の注意点を無視したかのように「技術的な判断に対して司法が介入することへの不満もあるようだ」と単発的に語るのは,一面というよりも一片の事実にのみ拘泥した,いわば無理解の発言である。

 ということで,引用する記事も,つぎのように語っていた。

 c) しかし本コラムでもなんどか扱ったように,そもそも「安全」という用語は,社会基盤的な概念である。科学や技術だけで自動的に基準が決まるものではない。さらにいえば,問題の本質は,地殻変動が盛んなこの列島に多数造られた「原発」という存在を,今後,私たちがどうするつもりなのか,という「価値判断」にこそある。

 補注)つぎの地図は日本の地中に潜む活断層と原発立地を組み合わせて描いたものであるが,13年前に発生したのが,2011年3月11日の超巨大地震「東日本大震災」であり,2024年1月1日の能登半島地震も震度7の激震となった。

 とくに前者「3・11」時の超巨大地震に匹敵するはずであり,,今後において四半世紀中には数十%の確率で発生すると予測されている「南海トラフ超巨大地震」の襲来となったときには,静岡県から九州にかけての太平洋沿岸側において必らず惹起する甚大な津波の被害を,この地図は容易に想像させてくれる。

喉元過ぎれば熱さを忘れるの要領で
大地震の災害記憶を消すことはできない

 以上,今月〔ここでは2020年1月〕中旬の段階で,当時まで社会的に注目さいた,大地震二つの事例をとりあげてみた。

〔記事に戻る→〕 そこに共通するのはまず,問題の評価や対処はもちろんのこと,「その問題が存在していることそのもの」を認識するためにすら,高度な専門知が必要だという点がある。

 ここでいう「知識」の範囲には,科学や技術に関するものが含まれるのは当然だが,のみならず,広い意味での社会的な知識や視点が不可欠であるということも,指摘しておくべきだろう。

 そしてより重要なのは,それらの知識をもとにおこなう専門家の個々の判断が,誰かの利害関係と直接結びつくことがある,という点だ。たとえば,今回の感染症の拡大の可能性や,対処レベルの決定,また特定の活断層についての分析といった専門的な判断が,一般市民の将来のリスクを左右することになりうるのだ。

 ゆえに,現代は一見中立的にみえる専門家も,それじたい,実は広い意味での「政治的な」色彩を帯びていると考えなくてはならない。

 補注)つまり,価値判断は政治の問題に直結している。権力者が口にする中立性だとか公平性だとか,さらに公共性になると,自分たちの「価値判断」を裏口に控えさせてそういっているにもかかわらず,いかにも,世の中のために必要な「正しい判断のための基準」を用意できているかのように装うから,厳重に警戒しなければならない。

〔記事に戻る→〕 このことは見方を変えれば,ふたつの例はいずれも「価値」の問題と不可分であるということでもある。つまり,私たちがどんなことを大切に考え,いかなる社会を生きたいのかという観点がなければ,科学や技術についても,それをどのように活用し,あるいは場合によっては制限するのか,方向性や基準が定まらないのである。

 補注)つまり,原発の問題では「推進」か「廃絶」という “価値判断の問題” が前面にせり出ている。「井の中の蛙」でありたい日本の政府,より広くその実態をとらえていえば「原子力村・マフィア」群は,原発をこれからも維持・拡大することによってえられる権益にこだわるあまり,原子力を燃料にした電気生産方式が地球環境に与えてきた危害を,最小限にしかも限定的にしか認知したくない立場を,たいそう露骨に維持してきた。

 しかし,「3・11」以後に発生し,事後も継続してきた原発災害にともなっては,ここでつぎのような事例を参照しておく。おそろしい事象が発生しているのである。以下の報告(分析)を引用しておくが,一部分の参照である。

 ▲-1 福島県二本松市女性の葬式が38%増(2019年)

 福島県二本松市の女性の死者数は,福島県の発表を集計すると

    事故前(2010年1年間) 303人    
    今 年(2019年1年間) 417人

で,事故前に比べ38%増えています。このようなことが偶然に起こる確率を計算したら約5万分の1でした。

 一方で,福島県内では比較的放射能汚染が少ない東白川郡の女性では      事故前(2010年1年間) 257人
    今 年(2019年1年間) 259人

で,ほとんどど変りません。  

 註記)『めげ猫「タマ」の日記』2020年1月26日,19:50:11,http://mekenekotama.blog38.fc2.com/blog-entry-3154.html  

 補注)ところで,二本松市の人口は2010年で59,871人,うち男は 29,012人,女は 30,859人であり,しかも5年ごとの統計によれば人口は顕著に減少してきた。

 そのうちで女をみると,2000年の 33,987人(総数 66,077人),2005年の 32,508人( 63,178人⇒5年間で ▲1429人,これは5年間平均だと285人),2020年になると27,252人( 53,557人⇒15年間で ▲5256人,同上 350人)。

 補注の補注)以上の計算はただし,原発事故との相関性だけを反映した人口統計の推移だとはいいきれないゆえ,参考にまで「算出」してみた。

補注の補注

 補注・続き)その傾向のなかにあっても,上記のように女性の死亡数が絶対的にもまた相対的にも増えていた。男性との比較も提示されていた。

 疫学という医学の領域があるが,これは,伝染病の流行動態を研究する医学の一分野であり,広くは,集団中に頻発する疾病の発生を,生活環境との関係から考察する学問だと定義されている。

 そうだとすると,この疫学が研究する対象が,それも原発事故との関連で二本松市における女性人口減少に関してなんらかのかたちで存在するといって,大きな間違いはないはずである。

 ▲-2 女の子が多く生まれる福島県(2019年)

 福島県の12月中の人口動態(1)が発表になったので,(=^・^=) なりに集計したら昨〔2019〕年は女の子が多く生まれています。事故前(2010年)との比較で偶然に起こる確率を計算したら,統計的な差があるとされる5%を下回る 4.5%でした。通常は男の子が多く生まれるので,異常な事態です。

 放射線影響研究所は広島や長崎で遺伝的影響がなかったことの根拠に,生まれて来る赤ちゃんの男女の比率(出生性比)に異常がなかったことをあげています。広島や長崎でみつからなかったことが福島では起こっています。福島の子どもたちが心配です。

 2012年以降に女の子が多くまれるようになっています。妊娠期間を280日として(14),3月11日の280日後は12月16日なので,2012年からは事故後に懐妊した赤ちゃんが生まれます。2012年1月以降今〔2019〕年9月までの赤ちゃんの誕生数を合計すると    

    男の子 206人
    女の子 260人

です。このようなことが偶然に起こる確率を計算したら1.2%でした。大部分ないしは全域が計画的避難区域となった2村(飯舘村,葛尾村)では通常とは異なり,事故後は女の子が多く産まれています。  

 註記)『めげ猫「タマ」の日記』2020/01/24(金) 19:51:18,http://mekenekotama.blog38.fc2.com/blog-entry-3151.html  

 補注)前段の「このようなことが偶然に起こる確率を計算したら 1. 2%でした」という分析(発言)は,こういうことである。

 統計学には「68 ⇔ 95 ⇔ 99. 7 則(英: 68 - 95-99. 7 rule)」というものが,正規分布の平均値を中心にしてばらつく標準偏差の2倍,4倍,6倍の幅に入るデータの割合を,簡略に表現するために利用されている。より正確な数値は,68. 27%,95. 45%,99. 73%である。

 だが,その数値は,正規分布上左右に跨がってある2つの「%」帯を足したものである。説明が少し分かりにくくなっているが,要は上に出てきた 1. 2%という比率は「100% - 99. 73% = 0. 27%」に,かなり近いという点が分かればいい。   

 参考にまで正規分布の表を2例,上に挙げておくが,そういう数値の関係として「男の子 206人」対「女の子 260人」の対比を観る必要があった。要するに,統計的に相当に「有意な差」があるという話題であった。

 統計学を使用して推理(推測)される諸事象に関する分析や判断にも,もちろん価値判断が介入してくることは完全には回避できない。しかし,回避できないけれども極力,その判断を「回避しようとする努力」がいつも講じられていることが肝要である。

〔記事に戻る→〕 ところで,このような「価値」の議論は,伝統的に「倫理や歴史」「政治や経済」など,いわゆる人文社会系の知を援用しつつ進められてきた。

 しかし,私たちの社会は,この種の「文理をまたぐ問題」を扱うことに慣れているとはいえない。要するに,理系と文系の隔たりは思いのほか大きいのである。ならば,いかなる仕組が必要なのだろうか。

 実は,日本も含めた先進国を中心に20世紀の後半くらいからだろうか,すでに具体的な方策が模索されはじめている。これは,先月〔ここでは2019年12月のこと〕扱った「量子コンピューター」のような新しい技術と,社会がどう向きあうべきか,という課題とも無縁ではない。

 本コラムでもいずれまた,その考え方の中身や,議論の経緯について,あらためて考えてみることにしよう。(ここで ① の本文・引用・その議論など終わり)


 ※-2「〈社説〉人文系交えた科学振興に期待」『日本経済新聞』2019年12月29日朝刊,https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53937130X21C19A2SHF000/

 内閣府の有識者会議が科学技術基本法の改正案に関する報告書をまとめた。現在,同法では振興対象から「人文科学のみにかかわるものを除く」と記されているが,これを削除するとした。内閣府は改正案を1月からの通常国会に提出する。確実に成立させ,経済学や社会学,歴史学といった,人文・社会系の幅広い研究にも科学予算を投じるようにしてほしい。

 人工知能(AI)やゲノム編集,脳科学といった最新技術は進化がいちじるしく,われわれの暮らしへの影響は大きい。たとえば,AIによってさまざまな職種の仕事がなくなるかもしれない。格差を生み,社会を分断してしまう。科学技術は使い方を誤れば期待よりも不安をかき立てる。正しい方向に導くには,人間や社会を洞察する人文・社会科学の視点は欠かせない。

 補注)ここで「正しい方向」に関して「社会科学の視点」が存在する関連が指摘されている。だが,このつづめていえば「正しい社会科学」という〈見地〉は,十二分にも慎重にとりあつかわれるべき含意があった。

 かつて,戦前・戦中体制における日本の学問や,新・旧を問わず社会主義国家体制のなかで叫ばれてきた「正しい学問や科学」のあり方が,いかに “正しくない学問観” に支持されてきたかを思いだすまでもなく,現在においても『国家権力側の価値判断基準』が大手を振ってまかり通る,換言すれば,ゴリ押しされている実例はいくらでもある。

 昨今話題になっていた「文系学部不要論」はその最たる見本であった。知性も教養も未充足であるというよりも,正直なところ,それらがほとんど欠落した状態に等しい「安倍晋三政権の内幕」であった。

 しかもこの内閣は,よりによって極右・反動・国粋の石頭しかもちあわせない議員たちが,多数派を占める構成になっていた。もとより不見識というべきか,一般教養のなさに鑑みてもいえば,理系だ文系だと議論をさせる以前に,その資格じたいがない御仁たちが多かった。

 つまりは,学問や科学の社会関連問題について,そもそも発言する能力や資格がなかった「連中」が,安倍晋三内閣の大多数であった。ところが,この連中のなかからであったが大臣の立場にあって,日本の大学には文系は不要だとか無駄だとかいいだしてきた。

 というしだいであったから,彼ら自身が不見識であると非難されることよりも,それ「以前」に留め置かれていたごとき「知的(痴的)水準」の低次元性に相当するナニモノかを,わざわざ暴露する顛末になっていた。もっとも,その後,そうした無知(無理)筋の意見が後退せざるをえなくなっていた様相は,けだし当然のなりゆきであった。

〔記事に戻る→〕 現代社会には自然科学だけでは答えの出せない複雑な問題も多い。地球温暖化や生殖医療が典型例だ。こうした難題に向きあうため,文系・理系の学問の区別を超えた「文理融合」による研究スタイルが世界の流れでもある。国の大型研究プロジェクトに,法学者や社会学者,倫理学者らが必らずくわわるようにしてはどうだろう。

 補注)丸山真男『日本の思想』岩波書店:新書,1961年が,日本の学問・科学は明治以来であった欧米理論の受容・摂取のあり方として “タコツボ型” になってしまい,本来の “ササラ型” であった諸学問・諸科学のあり方から離れてきた問題性を指摘していた。

 最近における文系不要論は,必らずしも丸山眞男のその発言をしったうえでモノをいっているわけではないけれども,結局,「無知である者たちの〈強味〉だけ」が一方的に肥大した状態で発揚された結果が,その文系不要論であった。

 日本の大学生は,専攻する理論分野はひとつである場合が多いが,米欧では各分野のまたがって2つを専攻する大学生(大学院生)は,いくらでもいる。そもそも理系だ,文系だという絶対的な区分をするほうがどうにかしている。たとえば,医学部で精神科の授業科目を学ぶとき,理系だ文系だといちいち区別していたら,この精神医学そのものが成立しない。

 1981年に「日本医学哲学・倫理学会」が設立されていた。この学会は「医学・歯学・薬学と哲学・倫理学・宗教学などとが関わりあう諸問題の研究・教育を進め,その発展をはかることを目的としている」と説明されている。

 その目的はさらに,「現代医療の飛躍的革新が,洋の東西を問わず,人間の社会に深刻な波紋(生殖技術の開発,延命治療,尊厳死,臓器移植等)を投げかけていることは周知の事実である。これらの問題を考究するためには,哲学,倫理学はもとより,医学,薬学,看護学,法学などの専門家による学際的交流と共に,諸外国の研究者との学術交流が不可欠である」とも説明されている。

 註記)『日本医学哲学・倫理学会』https://itetsu.jp/main/?page_id=6

 なによりも,文系不要などと〈たわごと〉をいっていたら,医学という学問そのもの土台を破壊する発言を意味するだけである。

 2015年6月の出来事であったが,文部科学省が作成し,国立大学向けに出した人文系の組織再編を促す通知は,国立大学の組織見直し=文系学部について「組織の廃止」ともとれる文言がつづられていたために,事後,大騒ぎを巻き起こしていた。

 当時,文部科学省の大臣は下村博文であったが,文系不要論を唱えた「連中」の1人に挙げられていた。仮に,文系学部は私立大学に任せておけばいいという発想だとしたら,これほど高等教育の存在意義に無知な見解はなかった。

〔記事に戻る→〕 国立大学へ配られる運営費交付金が減るなか,人文系の学者たちは限られたお金でなんとか研究を維持している。科学予算を使えるようになれば,研究環境の改善になる。

 人文・社会科学はもともと価値観にかかわる学問だ。歴史学や思想史などの学者の間では,科学振興の対象にくわわると「国家の介入」につながるとの慎重な意見もある。学問の自由を担保するよう,研究費の公募・採択で透明性を徹底しなければならない。将来,教育における文系と理系という区分を見直すきっかけにもしたい。(記事引用終わり)

 要は,学問・科学における役割分担に関した区分・機能を,その基本からしてまともに理解できていない政治家たちなどが,文系を切り捨てればよいかのように誤解(?)した〔脳足リンな〕発想を提示したのを契機に,日本における高等教育のあり方があらためて再検討されねばならない点が,ともかく再認識されたとしたら,「これはこれじたいでよかった」といえなくはない

 なにせ,日本語力でみると問題だらけであったあの元首相:安倍晋三とか元副首相:麻生太郎(この2人とも「世襲3代目の政治屋」)が君臨したりするこの国であった。ともかく,この「日本語の運用能力」面でいちじるしい欠損のあった2人だけは,絶対に必らず棚上げされた状態にしたうえで,関連する議論が進行していくことが一番好ましかった。

麻生太郎君の漢字読み方教室のほうは
紹介しないでおく

 ノーベル賞はもうしばらくしたら,日本・日本人からは受賞者が出なくなると非常に心配されているが,ほかならぬこれまでその賞を授賞された日本人の学究たちが,そのような意見を口にしていた。

 最後に日本におけるノーベル賞受賞者一覧を,たとえば京都大学ホームページ https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/history/honor/award-b/nobel がかかげている。

 理系の受賞者はけっこうな人数がいるものの,文系の受賞者は大学や研究機関からは,いままで1人も輩出されていなった。

 文系の受賞者はつぎの2名だけ。

  1968年「文学賞」 川端康成(東大卒) 作家
  1994年「文学賞」 大江健三郎 (東大卒) 作家

 また,ノーベル賞を間違えて授賞されたのが,この人。その後において露見した「米日間における沖縄県米軍基地への核兵器もちこみ密約問題」は,この賞の審査に当たっては,まだ未知であった国際政治の陰謀密事であって考慮外であった。

 1974年「平和賞」 佐藤栄作 (東大卒) 元内閣総理大臣  

 この安倍晋三の叔父がまさしくこのトンデモな政治屋であった。

 ノーベル賞受賞者一覧をみただけでも,文系不要論が日本で大いに叫ばれた理由・背景が分かる気分になれる。なんといっても,この国であってはそのようなバカげた不要論を唱えて得意になっていた「本当の〈大馬鹿者〉」が大きな顔をして存在していた。なんともいいようがない不快な理不尽が蔓延する国である。

 「本稿(2)」は明日以降に公表する日程を組んでいるが,そうした大ばか者が実業界に潜伏していた現実・事情に触れる予定である。

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【断わり】 「本稿(1)」の続編はできしだい,ここにリンク先住所を指示する。

  ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/ne2e71b469414

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