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「世襲3代目の政治屋」が溶融させたこの国の窮状は,国策としての原発推進にまともな判決を下せない「裁判所という魚礁」に群れる「左ヒラメと右カレイ」ごとき裁判官たちによっても,さらに悪化

 ※-1 本日:2024年4月5日の『毎日新聞』『日本経済新聞』の1面記事などが報じた「裏金脱税事件」(パー券裏金問題)の本質

 ①『毎日新聞』2024年4月5日朝刊1面・3面

「猿にもできる反省」を少しは「猿まね」せよ
自民党
最高責任者である岸田文雄首相については
「処分なし」
だと?

企業統治(コーポレートガバナンス)ならぬ政党規律など
初めからなにもなしに等しい

イチジクの葉っぱも要らない自民党

 ②『日本経済新聞』2024年4月5日1面・3面

原発が冒頭(トップ記事)に配置され
自民党裏金問題はそのつぎだという位置づけというか関連づけ

これが日本経済新聞社の報道姿勢に控える根本の価値観
破廉恥学園ならぬ恥しらずの執権党に未来はない

 ③『毎日新聞』2024年3月27日夕刊

原発の発電コストが現に一番高いし
高くなる要素しか含まない事実は日本の場合
東電福島第1原発事故によって実証済み

計算そのものがなされていないコストが
原発には多く残されている
事実を
まさかしらないでこのような意見を開陳しているのか?

 この③の原発関連でコラムの記事を書いた中川恵一は,東京大学特任教授の肩書きを称していたが,医学部の教員でもあるこの人物は放射線医学の専門家であっても,原発問題の社会科学的な認識にはそれほどくわしい人物とは思えない「程度の意見」を披露するだけに終始している。

 要は,原発問題の技術経済的な本質ならびに社会科学的な認識次元において「初歩的な認知水準についてすらわけの判らぬような原発擁護論」を開陳したところで,

 換言するならば,原子力村を喜ばすそういた内容を提示しえても,同時にまた,医学領域における目先の利害と利便や短期的な損得計算(営利追求の立場・観点)に関しても,都合をうまく合わせることができたとしても,

 これからの未来において発生していく「廃炉会計領域からの莫大・膨大な損失(損害)」が「厳然たる事実」としてわれわれの目前に展示されている事実から逃げることはできない。

 以上のごとき指摘・批判が理解できないと応える人たちには,つぎの文献を紹介しておくのが好ましい。なかんずく,現在の原発会計が廃炉会計をなんと「まっとうに考慮に入れていない」事実が,この著書によって明確に問題提起されていた。


 この金森絵里の作品(中央経済社,2022年)についてはいくつかの書評がすでに公表されている。以上のように,本ブログ筆者が指摘したごとき原発問題にかかわる論点は,会計学の専門家の立場からすれば,あまりにも当然に「学問の立場」から具体的に対象化する手順を要求されている。

 いわば「『科学によって答えることができない』からこそ,可能なかぎりの諸事実を踏まえながら,原発問題の『あり方』を不断に繰り返し問い続けていくことが必要となる」点は,原発問題としての廃炉会計に関連するあらゆる問題に関して,けっして逃げることができない課題を突きつけている。

 こういうことであった。すなわち,「原価会計に内在する非合理性を積極的に認めることがむしろ現実的な問題解決への手がかりになる」註記)ことや,「会計の適用による経済化(非経済の領域に経済的思考を拡張すること)」註記)の意義が,現状における原発に関する会計問題にあっては,従来,そのほとんどが考慮されていなかったという現実があった。

 註記1・2)藤井秀樹「『原子力発電の会計学』金森絵里章,中央経済社,2022年」,立命館大学アジア・日本研究所『立命館大学アジア・日本研究学術年報』第4巻,2023年8月,144頁,143頁。

 以上のごとき原発会計に関係するはずの,それもとくに廃炉会計の現状は実際に廃炉に着手してきている原発施設だけでなく,とりわけ「大事故をおこしてしまった東電福島第1原発事故現場」さえも例外にすることなく,企業会計論から社会会計論へと視野を拡げたうえで,包括的に討究していかねばならない「現実問題」となっている。

 次項※-2は,司法の世界において原発問題がどのようにあつかわれているかという現実問題に論点を移すことになるが,原発会計の不全・未開拓という現状が,裁判所側に対して適切な審理をなさしめないでいる「一因」である事実を断わっておきたい。


 ※-2 裁判所は左ヒラメと右カレイだらけの内情については最高裁事務総局に訊ねれば教えてくれるはず

 この項目でまず最初に紹介したい記事は,「老朽原発の差し止め却下 福井地裁,40年超の運転認可は『合理的』」『朝日新聞』2024年3月29日 21時30分,https://www.asahi.com/articles/ASS3Y6R2HS3YPTIL002.html である。

裁判官の「問題認識能力」いかんを問う以前に
特定のある種の課題があった

 この記事をとりあげて論じた,達人が世直し・稿『阿修羅 掲示版』2024年3月31日 15:36:29,http://www.asyura2.com/24/senkyo293/msg/763.html を,つぎに引用する。前段に挙げてみた『朝日新聞』の記事はあえて,そのあとに紹介する構成にしてある。

 a) 裁判所もグルなのか,そんな疑念を押さえることができない。

 この裁判官は「『避難が必要な事態が起きる具体的な危険性が立証できておらず,避難計画について判断するまでもない』と退けた」という。とんでもないいいぐさではないか。

 補注)早速,本ブログ筆者から口をはさむ。この裁判官はいったい,日本の原発の現実を囲む状況の,その真相をまったく理解できていない。原発の危険性を指摘・説明した論著はいくらでもあるのに,である。

 この裁判を担当した裁判官は,それらの基本文献の数冊でも「読むか読まない」という以前に,その読む必要性を排除したかのようにして,裁判における判断を下していた。

 恐るべきというかあつかましいほどに,最低限にでもいい,判っていそうな「日本の原発事情」さえ,完全に度外視した結論を出していた。原発問題に関心をもつ庶民であれば,おおよそは理解できている程度の「原発事故にまつわる危険性・困難性」まで,完璧だとみなしていいくらい排除していた。

〔本文に戻る→〕 ならば,避難計画の作成そのものを自治体に押し付け,強要することの不合理さを政府,そして原子力規制委員会に指摘し,指弾すべきだ。この裁判官の卑劣なところは,「具体的な危険性の立証」を住民側に要求しているところだ。とんでもない裁判官ではないか。

 補注)敗戦後史のなかで公害裁判を通して,とうの昔にできあがっていた問題性理解(法哲学的な合理的な帰結)は,被害者の立場というものは,加害者側のその加害性そのものにまつわる争点に関して,告訴・提訴した側からはその原因分析について「立証する責任はなく」,加害の結果それじたいが問題になる,という具合に整理されてきた。

 この初歩的な問題性などには目をくれないまま,それでいて,逆さまの方向で思考を展開する立場は,原発という問題を初歩から,あたかもなにも理解していない事実をさらけ出して恥じない,実にみっともない裁判所側の審理となって,これまで累積されてきた「原発裁判史」のなかに,またもやひとつ,恥じるべき判例を重ねたことになる。

 裁判官のそうした表相的かつ便宜的な判断は,恐怖を感じさせるほかないほどに理不尽に満ちたそれである。日本の原発裁判は「暗黒の時代から依然,抜け出ることができない」でいる

〔本文に戻る→〕 必要なのは,危険性の立証ではなく,蓋然性の低い大災害,大事故であっても,過去に前例を探して,その前例に則して「災害と危険を想定」し,事前に対策を講じることではないか。

 そして,対策を講じることが不可能であるならば,原発の稼働は差し止めるというのが,人命優先の発想において当然の帰結でなければならない。

 住民は,福島原発事故で「原発の爆発」「原発炉心溶融」「放射性物質の飛散」を目の当たりにし,能登半島地震の被災状況から,「避難先の崩壊」「避難先および避難経路の喪失」が現実に起こるものとして学んだ。

 b) 老朽原発の指し止め却下。

 老朽原発を,その原発の寿命を超えて稼働させたとき,なにが起こるのか。残念ながら,誰にも分からないし,予測もできない。原発の寿命を超えて稼働させた以降に起こることは,すべてが「未知との遭遇」なのだ。

 補注)東電福島第1原発事故は,その後の「事故の後始末」の段階にまだ停滞しており,実態としていまだに,廃炉工程にまで進むことができないでいる。

 2024年4月上旬現在における段階に関していうと,2011年3月11日の東日本大震災の発生によって惹起した東電福島第1原発事故は,廃炉という処分に関していえば,いまだにその第1歩の入り口にさえ入れず,完全に拒まれている状態が継続している。

 880トンにもなる溶融した「原子炉内部の残骸:デブリ」の「取り出し」は,未だに実質0%未満であった。耳かき1回分のそのデブリを回収したというが,その微量なデブリしか取り出せなかったのが,「3・11」以後の13年間以上であった。

 はっきりいって,あと13年後が経った時点になっても多分,デブリは1トン(全体の「880分の1」)も取り出せないのではないか?

 以上の論点は,装置や機械の物理的な寿命になるとなぜか,原発の場合だけは,そうした問題を度外視できるかのような議論がまかり通ってきた。

 原発の製品寿命は最初,せいぜい30年をみこしていたにもかかわらず,40年が一般化し,さらには60年まで伸ばすという,まる冒険じみた,重ねていうと気違いじみたというほかないほどにまで,その耐用年数を延長させた。

 千葉県に銚子電鉄という会社があるが,この路線の電車は他社から譲渡を受けた古古々々米みたいな車両ゆえ,ノンビリ走らせて安全を確保するやり方で交通安全を確保するのに必死である。

 とくに,原発の安全性とよく比較の対象にされうるのは航空機であるが,こちら交通手段として装置・機械は「事故の確率」をゼロにしえたことはない。とくに旅客機の場合,これからなんどでも事故は起きることは,どうしても必至だと評価さざるをえない。

深刻度「7:深刻な事故」だとしたら
起こすわけにはいくまい

 ましてや原発は,その事故の重大さの水準では7段階に仕分けされているが,このうち最高度の7水準の深刻な事故は,チェルノブイリ原発事故と東電福島第1原発事故であった。

 こんど3度目に,以上の2つの原発の大事故に相当する大規模事故が起きたら,この地球上の人間たちは当事国となった国家以外でも,大いに恐怖に震え,非常なおびえることにならざるをえない。

〔本文に戻る→〕 そもそも,設計・製造企業からすれば,原発の寿命を超えて稼働させることが想定外であるのだから,そこで起きることも想定外であり,当然,対処方法など考えられているはずもない。

 c) まさに,「未知の領域に踏みこむ」という表現が相応しい。「具体的な危険性」の立証など,設計者でもできはしない。それを,住民に要求するとは,不条理ではないか。

 補注)原発関係の裁判はその多くの判例が,住民側の要求をほとんど蹴散らすかのように拒否してきた。それほどに原発の技術経済的な特性は,あるいはまた,原発そのものが軍事戦略問題にまで連なる国策的な基本性質を有していた以上,裁判所に対してとなれば,そのような裁判(訴訟)指揮を要請(強要!)させるほかないというべき〈基本的な矛盾性〉を,当初から包蔵させてきた。

〔本文に戻る→〕 はたして,福井の原発の「寿命」はいったい何年と設定されて設計,そして製造されたものなのだろうか。

補注)この原発の寿命の問題に関して,こうあるべきだ,技術面と経済面から吟味して何年が適当であるという論点が,いままでまともに議論した見解はあったのか?

 原発の耐用年数をやたらに延ばす,30年⇒40年,そして60年までという話だけはあった。だが,そうしだとしたら,この危険な装置・機械が大事故を起こす可能性(確率性)は,どのように解釈されて勘案しておけばいいのか? もちろん,その危険性はじわじわと確実に増大していく,といったたぐいのその可能性を意味する。

 したがって,そのように原発の危険性が増すばかりだという予測ならば,自然に「想定内の見通し」としていいうる。ところが,この種の本当に危険な問題「性」がまともに議論されておらず,いうなれば逃げまわっている状態のまま,放置されている。

〔本文だが,記事を紹介した段落に戻る→〕 さてここからとなるが,『朝日新聞』の「有料記事」を参照しているため,途中までを以下に転載することになる。

 運転開始から40年を超える老朽原発を含む関西電力美浜3号機(福井県美浜町)と高浜1~4号機(同県高浜町)について,地元住民らが運転の差し止めを求めた仮処分申請で,福井地裁(加藤靖裁判長)は〔2024年3月〕29日,いずれも却下する決定をした。住民側は名古屋高裁金沢支部への即時抗告を検討している。

 差し止めを求めたのは,美浜原発は約11~56キロ圏に住む同県の9人。高浜原発は同県などの2人。

 2011年の東京電力福島第1原発事故後,原発の運転期間は原則40年とするルールができた。だが,原子力規制委員会が認めれば最長20年延長でき,美浜3号機,高浜1,2号機に適用した。

 住民側は老朽化で事故の危険性が高まっていると訴えたが,決定は,関電が経年劣化を十分考慮したうえで機器の耐震安全性を確かめており,規制委の判断は合理的と評価。耐震設計の前提となる揺れの想定も適切だとした。

 美浜については震源となりうる活断層が「極めて近い場合」に求められる特別な配慮を関電側が怠ったと住民側は主張。だが決定は「『極めて近い場合』に当たらないとの関電と規制委の判断は不合理とはいえない」とした。

 住民側は〔今年:2024年〕1月の能登半島地震を踏まえ,「避難計画に実効性がない」とも主張したが,決定は「避難が必要な事態が起きる具体的な危険性が立証できておらず,避難計画について判断するまでもない」と退けた。

(以下は有料となるため省略した)
 (ということで「本文の転載はここまで」とのことで)
  (ここからは,その本文を紹介していた引用者の意見となっている)
 

 d) 裁判官は,いう。「・・・関電が経年劣化を十分考慮したうえで機器の耐震安全性を確かめており・・・」と。

 ところで,設計者は,設計寿命を満足させるために,使用する部品,材料の品質,性能の経年劣化を十分考慮して設計し,設計寿命,製品寿命を保証する製品として仕上げているものだ。

 すなわち,設計者が経年変化を十分考慮して保証しているのが設計寿命,製品寿命なのだ。そう理解すれば,設計者でもない「関電が,あらためて経年劣化を考慮する余地はない」といえよう。

 したがって,「・・・関電が経年劣化を十分考慮したうえで機器の耐震安全性を確かめており・・・」というのは破廉恥な「ウソ」であり,そのことを「ウソ」としってなお,住民の訴えを却下する根拠とすることは司法の正義に反する

 そもそも,電力会社という原発設備の使用・運用業者が製品の設計寿命,製品寿命を超えて安全に稼働できると主張することは不可能であり,不遜な態度との批判は免れない。〔だから〕その主張そのものがまったく意味をなさないし,不合理としかいいようがないものなのだ。

 同様に,個々の原発の設計をしたわけでもなく,製造をしたわけでもない原子力規制委員会が,その原発固有の設計寿命,製品寿命を超えて安全に稼働できると保証することなどできるはずもないし,保証するといわれても,とうてい信用できるものではないことが分かる。

 ということは,裁判所がいう「40年超の運転認可は『合理的』」との判断は,きわめて不合理ということが理解できる……。

 〔ところで〕福井の原発の「寿命」はいったい,何年と設定されて設計,そして製造されたものなのだろうか。そして,関電が「・・・機器の耐震安全性を確かめている・・・」というのも,この場合は机上計算でしかない。

 関電がどう,経年変化を十分考慮したかしらないが,設計者を差し置いての設計条件の変更は,「机上の空論」でしかない。したがって,関電の「机上の空論」を根拠にした規制委員会の判断は,合理的どころか,「無責任」と断罪すべきものだ。

 上級審では「司法の正義」が残っていることを願うばかりだ。

 e) 以上,※-1から※-2の議論は,自民党の裏金事件から原発問題にその道筋を付けて記述してきた。元首相・安倍晋三も原発問題については,きわめていいかげんな認識という以前の,たいそうデタラメな理解しかもちあわせていなかった。

 安倍晋三の発言「アンダーコントロール」はとても有名になっていたが,これほど狂乱の精神にもとづいた発想は,ほかにはなかった。一方の岸田文雄においてもまた,自分なりの原発問題に対する一定の認識はない。それゆえなんの原発「観」をもたないまま,その「再稼働と新増設」を口にした。

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【参考記事】

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【参考文献】-アマゾン通販の情報を借りた文献案内-


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