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原発広告問題と芸能人,ビートたけしの場合はどうであったか,その記憶を回想する(2)

 ※-0 本稿は2017年3月16日に一度公表してあった記述だが,本日2024年4月29日に再度公開する経緯になった

【断わり】 「本稿(2)」の前編「本稿(1)」はつぎのリンク先・住所である。連続ものの記述ゆえ,できれば(1)のほうから読んでもらうのが好都合である。

  ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/nfda21d9a35dc

断わり

 a) ところで本ブログ筆者は昨日,2024年4月28日は所用があり,本ブログの記述はお休みしていた。その日は,衆議院議員の補選「投票日」であった。その結果は,同日中の投票締め切り時間と同時にゼロ打ちで一斉に報道されていた。結果は「立憲民主党が3タテする勝利」になった。

保守王国の島根県でも自民党はコケた

 現首相の岸田文雄は「世襲3代目の政治屋」の愚かさを,性懲りもなくという自覚症状すらもてないまま,現在もあいもかわらずその症状が高じたままである。

【参考記事】

 そういった彼の精神状態になにも変化がない状態のなかで,先日,2024年4月8日から14日まで,岸田文雄は日本国の内閣総理大臣として,アメリカを国賓待遇で公式訪問した。

 日本の総理大臣による公式訪米は,安倍晋三のそれ以来9年ぶりとなったが,ともかく「国賓として訪米する機会」を与えられ,しかもアメリカ議会で演説もせよという指示ももらえた岸田文雄は喜色満面であった。

日本ではみせないかなり「◉の抜けた表情」にみえるが
そうでなければただ「外面がよい」だけの

「世襲3代目の政治屋」?

 しかし,彼が日本の返って2週間経ったところで実施された衆議院補選3選挙区の結果は,前段の報道ごとき結果になっていた。

 さて4月10日のことであったが,訪米の最中におこなわれた共同同記者会見の場で,「日中外交に関する見解」を問われた岸田文雄は「同盟国であるアメリカ・・・」というべきところを,「同盟国である中国・・・」といい間違えた。

 そのいい間違いはもちろん,すぐに訂正してみたものの,ついウッカリだったのかどうかはともかく,わが日本の「同盟国である中国・・・」などと口走ったこの凡ミスは,実にみっともないチョンボであった。ここにも「世襲3代目の政治屋」の締まりのなさが如実に演じられていた。

 b) アメリカ議会で岸田文雄がその演説を英語でおこなう準備のほうは入念に怠りなくしていたらしい。

 だが,この人は「日本国首相になることじたい」だけが自分の人生の目標であったゆえ,いいかえると「世襲3代目の政治屋」として抱いていた念願は,アメリカ議会で演説できたことで成就した(いわば満足に終わった)ともいえそうであるから,あとの内政・外交の政務すべてが,いまではどうでもよい対象になった,といえるかもしれない。

 そのせいか,これからさきにおいてこそ,この国の最高指導者としてさらに,どのような任務や使命が自分に期待されているのかという点,このもっとも肝心な「公的課題」は,完璧にお留守の状態にある。というよりは,そもそもが,彼のいまの立場(精神状態)にとってみれば,首相としてなすべきすべての仕事が,実は完全にも抜け殻同然にしか映っていない。

 事実として,この首相,自分の選挙区は広島市であった。

 2021年10月4日に総理大臣の椅子に座ることになってから間もなく,日本は原発の「再稼働と新増設」をするとか,防衛費も5年間かけて倍増させるとかか,それもアメリカ様からババ抜きの要領でもって,日本に押しつけられた原発関連の事業展開(その企業名をいうと東芝のことであって,まったくこの会社はバカをみてきただけであったが)や,高額の兵器・武器をいい値で買わされる立場(われわれの血税を最悪のコスパですでに浪費しつつある)を,それでも唯々諾々に表明していた。

 つぎの記事は,『日本経済新聞』2024年4月23日朝刊14面「ビジネス」に掲載された東芝関係の報道である。

 この最後の段落には「東芝の従業員数はピークだった〔20〕08年3月期からおよそ半減している。売上高は当時の4割の規模となった。それでもなお,10万人以上の社員を抱えている日本の名門企業であることに変わりない」と書かれているが,これは,東芝を庇いながらおまけに代弁までしているような,つまり,ほとんど負け惜しみ的な「日経記者の解釈」であった。

いまさらどうのこうのいったところで
東芝は疑似餌=原発事業によって

その後いいようにアメリカ政府・企業側に献血を強要されてきた(吸血されてきた)としか
いいようがなかった

名門企業(?)との誇称はいまではまったくに迷問的な日本企業「観」である

 要は,東芝がアメリカ(政府・産業・企業)側からいいように食いものにされた結果が,実際には,このようにみじめな「今日」になっている。そもそも2008年のころといったら,原発事業に関連する世界情勢は,つぎの段落に説明するごとき雰囲気に浮かれていた。その後,2011年の「3・11」に発声した東電福島第1原発事故が,この浮かれ三味線の基調を一気に乱調にした。

 c)「〈経営コラム〉『産』『官』『民』三位一体の原子力ルネッサンスを目指して」『日本総研』2007年3月12日を執筆した大川理一郎という識者は,最初に

  「原子力ルネッサンスの幕開けとなった2006年」

 という文句を挙げて置いてから,その途中で次段のごとくに語っていた。さきに指摘しておくが,最近になってそれも「ロシアのプーチン」によるウクライナ侵略戦争が2022年2月24日に始められてから,世界経済・国際政治のなかで生じてきた情勢とまったく同じ中身が,20年近く前にも「謳われていた」ことに注意したい。

 このような原子力に対する一連の「追い風」は,原油や天然ガスなどの化石エネルギーの価格の不安定化,地球温暖化防止のための温室効果ガス排出削減,等々近年顕著になってきた要因に対し,再処理可能で燃料の安定供給が可能,発電時に二酸化炭素を排出しない,などといった原子力の特徴が再び評価されはじめたことが背景にあります。

大川理一郎の浮かれ発言

 その後,原発が世界中でまだ少しずつではあるが,その基数(機数)を増やしつつあるエネルギー関連の情勢変化のなかで,仮にでもまたもや原発の大事故でも発生したら,このようエネルギー事情に関した,いまとなってはお決まりの「説明方法」は,またもやコケること必定である。

 過去,原発が絶対に事故を起こさないと,つまり狂信的に原発の「安価・安全・安心」が念仏のように唱えられてきた理由は,むしろ一度でも大事故を起こしたぶんには,もう目も当てられない事故現場と地域社会にもたらす悪影響が発生するからであり,この非常事態は考えたくない現象(事象)だと位置づけられてきた。

 チェルノブイリ原発事故(1986年)しかり,東電福島第1原発事故(2011年)しかりであったが,それでもまたもや,原子力ルネサンスが来たなどと念仏を唱えはじめられる神経が疑われてよい。

 原子力に対する一連の「追い風」は,そのままというか,それ以上に「再生可能エネルギー」の需要に対する,たとえていえば「強風(暴風)みたいな要求の高まり」でもあったのに,ともかく原子力(原発),原子力(原発)だ,このルネサンスだとのみ強説したがる口調は,

 なにかウサン臭いどころか,この道はいつか来た道であったことを「自覚していながらでも認めたくない無神経さ」の裏側には,きっと別途になんらかのオイシイ材料が隠されているのではないか,とも勘ぐられても仕方あるまい。

 さらに「原発の大事故といったその種の重大な禍根など」すっかり忘れたつもりでいられる「エネルギー問題に対する時代錯誤の理解」は,「ルネッサンス」ということばが踊っていた当時(21世紀最初の10年代)以来の出来事として観るに,まさしく「踊るアホと観るアホ」の体現そのものであった。ところが,このアホ踊りを再現させるごとき愚かな舞台を,またもや,わざわざ引き寄せようとする〈暗愚なエネルギー観〉が,大手を振って登場している。

 d) 言葉に騙されてはいけない。原発の大事故が再発する〔それを惹起させる〕ことは,いまの人類・人間にとって,けっして「2度と許される緊急事態」などではない。仮に日本でまた東電福島第1原発事故のような原発の大事故が起きたら,つぎの非常事態宣言はただの〈紙切れ〉であったことになる。

伊達でこの宣言が継続中ではあるまい

 「世襲3代目の政治屋」という者たちは本当に「お◉カさんが多かった」わけだが,この日本の政治をダメ,ダメだらけにしてきた事実は,まさしくあの安倍晋三君において,その典型的な事例(悪例)が展示されていた。

 岸田文雄の場合,自分の選挙区のある広島市が第2次大戦の終末期に原爆が投下された都市であった事実は,百も承知である。科学技術としては「原発の兄貴分」であるその原爆と岸田自身の積極とのつながり,いいかえると「広島県人たちが味あわされてきた戦争体験としてのヒロシマの原爆問題」との深い関係など,「世襲3代目の政治屋」の岸田にとっては,どうでもよかったことがらのように映っていた。

 岸田文雄はともかくも,「広島県選挙区」から国会に送りこまれてきた自民党議員でありながら,「原発⇔原爆」の関連に対面する「この国の首相としての無神経ぶり」は,尋常ではなかった。

 いずれにせよ「アホノミクスあればキシダメノミクスあり」であった。

 日本の政治と経済の実情は,この国がすでに「政治4流・経済3流」程度の実力しかもたない国家になりつつある現状を,否応なしに晒けつづけているこのごろである。情けないことこのうえない。 

 e)「本稿の全体(数編の連続もの)」は最初,2017年3月中に公表されていた。本日の「本稿(2)」の原文は,一昨日(2024年4月27)に記述した「本稿(1)」の続編であり,2017年の当時に書いた中身をさらに更新している。

 「本稿(2)」はまた,「原発推進広告宣伝マンから太陽光パネル販売促進係への転進,世界の北野 武か・日本のビートたけしかしらぬが,原発芸能人として犯した過ちは永遠に消えない」という論題をかかげ書いてみた連続もののうちの一編であった。

 今年(2024年)になった段階での話題となれば,AI技術の進展がめざましくなった現状のなかで,エネルギーを大量に喰うと予測されたこの最先端の話題が,実は原発の再稼働や新増設を要求する特定の経済情勢を醸し出していた。

 『日本経済新聞』は原発推進派の立場に立つ「財界御用達の新聞社」である。たとえば最近,「解説記事:エネルギー基本計画の論点」を,「上,中,下」の3回にかけて掲載していた。そのうち最初の「上」は(2024年4月24日朝刊)は,「AIと電力消費急増〔20〕40年度,需要増に転換へ」という見出しで論及していた。

 まだだいぶさきのある話題であったが,ともかく,なにがなんでもエネルギー源は「原子力(原発)」に求めようという気運を,雰囲気だけでも十二分に盛り上げておきたい,という日経の論調が意図的に創られている。

経済産業省エネルギー資源庁の見通しでは
2030年度のエネルギー需要が

一転して2040年度に向けて増大すると予測し
原発推進の立場をさらに強く意識しなおす立場を示した

しかし日本における原発の現況は
この解説記事の前途に関して

まだ現実的な難題が存在する点を現に教えている

つぎにその記事現物もかかげているが
さらに日経が4月25と26日に掲載した

この解説記事
「エネルギー基本計画の論点(中・下)」は

原発再稼働の問題と再生可能エネルギーの出力制御問題を
とりあげ検討していた

とはいえ原発にひどくこだわりつづけてきた
経済産業省エネルギー資源庁の立場に即応する解説記事であったから

あいもかわらず原発(電源:原子力)にひたすら執心しながらの
国家を応援し味方する立場に日経がある事実に変わりはない

「日経」の「秘められた意図」はもとより
みえみえのバレバレ・・・
原発が恋しいか? ある意味,オイシイか?
出力制御のありようそのものを
根本から妨害する電源として

原発(原子力)そのものに固有であった
社会公害性を顧慮しないエネルギー論は

「井の中の蛙」も同然の理屈しか語りえない

 f)『日本経済新聞』は,以上の解説記事「エネルギー基本動向の論点(上・中・下)」を踏まえてだと推察できるが,本日:2024年4月28日朝刊の1面冒頭記事を,つぎのように「原発を推進させる能動的なAI投資熱」を熱く語るかのような紙面として報道していた。

原子力ルネッサンスのかたちを変えたそれも
こんどは本格的な再来を期待したい日経なりの論調である

ともかく原子力(原発)時代の旺盛な再来を期待するかのような論調に読めるが
原発事故などの発生可能性など眼中にない論旨

またもや『原発の大事故』が起きないという《絶対の保証》はない
そのときになって原発に執心したそれまでの基本姿勢に関して「臍を固めた」ところで

そのときは万事「時すでに遅し」になる
今後において原子力発電所に大事故が絶対に起きないなどとは
誰にも断定できるはずがない

「今後において原子力ルネサンス」をめざすかのような方途において
あと1回でも「深甚かつ重大なる原発の事故」が発生したときは

「その逆説」でも「歴史の皮肉じたい」でもない原発の大災害に襲われる

2024年1月1日に起きた能登半島地震は震度7
近くに北陸電力の志賀原発があったが未稼働の状態

4月17日に愛媛県・高知県で起きた震度6弱の地震のさいは
 近くに四国電力の伊方原発3号機が運転中であった.

地震の多さならば大いに自慢ができるこの国土の上に
原発を60基以上も建造してきたのはまさに狂気の沙汰

「愚の骨頂」

今後もしも中国や韓国で原発の大事故が起きたら
いったいどこの国(外国のことだがとくに日本)は
その深刻な被害に巻きこまれる可能性が大きい

その非常に異様で甚大な損害の発生予想に関して
「なにも考えていない」でよいのか?

 

 ※-1 原発推進賛同者の立場から,再エネ関連製品を広告する芸能人への成長・転進ぶり

 「前稿(1)」において言及したごとき,佐高 信『原発文化人50人斬り』毎日新聞社,2011年6月の批難に対して,ともかく回答するというか,あるいはいつもの調子での切り返す即答が,こんどはできていなかったビートたけしが居た。

 たけしは,芸能人としての「思想の貧相」面の介在,つまり,世界の名声をえていた北野 武であっても,自身の精神世界のなかでは「荒野としての部分域」を析出させる契機となったのが,あの「3・11 核災害」(東電福島第1原発事故)であった。

まだまだ元気なころのたけし君

 本ブログは一昨日(2024年4月27日)の記述をもって,こういうビートたけしに対する批判論考を執筆していた。

  主題は「ビートたけしは原発応援団長(?)だったが,いまは再生エネ企業の宣伝マンか? 時代が要求する〈芸人魂のワンダフルさ〉」

   副題「いつの間にか自身の広告収入源を転進させていた,ビートたけしの超一級芸人業の現状」

   副題「ビートたけしは,これほどまで,お調子者だったのか」

   副題「『芸は身を助ける』(芸そのものが収入源である)という芸人の処世術発揮にとって,ビートたけしがいま,まったくみごとに,そのお師匠さん役を演技中」

 だが,たけし自身はその後においても,この原発問題に関与してきた「自分の立場」,換言するならば「原発を支持し,推進する」ための「広告宣伝マンの役目・機能」を,いかによく遂行してきたかを,みずから「反省する気持」を示したことのない様子を保持したまま,今日まで来た。

 途中,つぎの【参考文献の紹介:アマゾン通販】となるが,1冊かかげて議論をつづけていきたい。       

     
       = 関連図書の紹介,および若干の議論 =

 東京電力に群がった原発文化人各電力会社や関連団体は,原発の「安全性」やイメージ向上を図るため,多くの著名人をPRに用いてきた。

 原発推進の一翼を担ってきた彼ら彼女らを,佐高 信(本誌編集委員)のこの本『原発文化人50人斬り』毎日新聞社,2011年6月20日発行が斬りまくていた。

 2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災に伴い惹起させられた東電福島第1原発事故は,東京電力をリーダーとする電気事業連合会(電事連)が,いかに巨額のカネを使って世論を買い占めてきたか,そして,その手先となつてノーテンキなタレントや文化人が,原発安全神話を鼓吹してきたかという「過去の実績」を,その時代の流れのなかでより明瞭に浮上させるきっかけとなった。 

 ところで,2日前〔ここでは2017年3月14日〕の夜であったと記憶するが,その電気事業連合会がテレビ放送のなかで,あるコマーシャルを流していた。その画面のなかにおいては,本当に一瞬であったが,視聴者たちの「意識下に記憶を残させたいか」のように「ひとつの円グラフ」が出ていた。その円グラフのなかには右上の部分に「原子力22~20%」と記入・解説されていた。

 この電源別比率の構成内容に関した原子力の数値「22~20%」は,「3・11」を体験・経過してからも,原子力村の勢力がなおも狙いつづけてきたその〈理想の具体的な目標値〉であった。

ともかく原子力は電源構成比率のうち
この「22~20%」を維持したい

この図表では2030年度の「総発電電力量」は
2018年度と大差ない水準に設定されている

ところが最近はAI技術が大量の電力を需要する予測が立てられ
経済産業省エネルギー資源庁は勇気百倍になって

またもや原発! 原発! と発声しだしているけれども
スマートグリッド体制の大規模化整備計画を立てて

基本から対応していこうとする意図は初めからない

 だが,東日本大震災以後は実質的に壊滅状態となった原発体制(その後の時期においては,なんとか3基のみ稼働中であったり,その後においてはさらに2年近い「原発稼働ゼロであった歴史の時間」も体験してきた)を,

 できるかぎり元通りに近い状態(より多くの原発を稼働させる体制,最高水準では30%まで到達したこともある)にまで復活させたい「原子力村」の中枢・指導機関「電気事業連合会」は,はかなくもせつない,原発再稼働への執拗な欲望を一時たりとて,絶やしたことはない。

 つぎの『ツイート』(現『X』)は,原発を最優先させる見地は緩めてはいても,その本心である原子力(原発)の電源構成をより増やしたい基本的な願望を,これなりに正直に告白していた。

この図中に記入されている「安全の確保」はもっともないいぶんであったが
原子力発電所と火力発電所が同じに爆発事故を起こしたときは

その理化学的な相違は「天と地ほど」異質であり
原発の事故は収拾のつかない事態を必らず招く

チェルノブイリ原発事故と東電福島第1原発事故が実証済みである
《悪魔の火》の恐怖を舐めたらいけない事実を依然「電事連は舐めつづけ」ている


 上の「電気事業連合会ツイート」https://twitter.com/denjiren/status/835753818302210049 は,2017年2月25日に発信されていたが,依然というか終始一貫,電源比率における原発が占める比率に関してだけは,異様なまでこだわった口つきで執拗に復唱していた。

 現状における日本の電力事情は,本記述 ※-1の e) に紹介した『日本経済新聞』2024年4月24・25・26日に連載された「解説記事:エネルギー基本計画の論点」も示唆していたように,原発そのものがこれから順調に「再稼働と新増設」の展開につながる可能性が,大いに期待できる事情にあるとはいえない。

 ということで,前段に引用した2017年2月25日段階における電事連の主張は,「その円グラフの下に記入されている文章」に関していうと,日本では「すでに完全に破綻していた原発体制の問題性(核燃料リサイクル政策は失敗状態を何十年も継続中である事実も想起せよ)を,あえて無視したいいぶんであった。

 なかでも「安全の確保を大前提に」と断わっている点からして,原発に関していえば,どだいからして無理な期待が「それなりに無理を承知の主張」になっていた事実は,みのがせない。

 この段落を書いていた(ここでは2017年3月段階になるが)ところで,テレビでみたはずである「その円グラフ」をネット上で探してみると,上掲したツイートの画像が難なくみつかった。ほかでもなく,電気事業連合会自身の前掲のごときツイートとして,世間に流していたものである。

 それにしても,このなかに記入されている「原発に関する」電源別構成比率,それも昨今におけるエネルギー事情に関連させていえば,ひどく陳腐であったのが,数値「原子力 22~20%」である。

 それも「3・11」以前において「最大限だった時期の実績(3割)」に近い数値を掲示,つまり,いつまでも要求しつづけてきた。
 
 電気事業連合会がこのように必死になっていまもかかげている「原発電源比率」,すなわち,2030年におけるその目標値は22~20%にするという希望をこめた期待値は,実のところ,再生可能エネルギーの開発・利用を阻止するために提示しているような比率なのであって,いうなれば,もはや完全に時代錯誤のエネルギー観(感?)にもとづくそれであった。

 冒頭から少し話題がずれこんだが,本ブログが2017年3月6日に記述した「前段の一文」のなかで言及した事実は,ビートたけしがその後,太陽光パネル製造メーカーが「販売促進」のために展開している宣伝・広告に出演した点に関するものであった。

 以前の,原発に賛同するたけしの立場については,本ブログのその一文をもって批判したように,この男「ビートたけし」は,佐高 信によって「原発文化人」50名の1名に名指しされ,きびしく糾弾されていた。

 ところが,その同じ人物であるたけしが,その後(「3・11」のあとになって)も,自分の原発を支持する立場が間違えていないと確信しているのであればさておき,

 もしも,いくぶんかでも「3・11」直後に東日本大震災がもたらしてきた核災害(東京電力福島第1原発事故)に「心を痛める気持」があったのであれば,「日本を代表する」芸能人として原発に賛成していた立場・利害を後悔し,反省していてもよかったはずである。

 しかし,その様子は事後,彼が意図して公開することは,筆者は寡聞にしてしらない。

 その表紙カバーだけは画像で参照できていたが,この佐高 信『原発文化人50人斬り』毎日新聞社,2011年6月から,ビートたけし(北野 武)をとりあげたページを,以下のように画像資料で引用しておく。

 この4頁分には,たけしの問題点(原発に対する芸能人としての問題性)が,根本から指摘され,ほぼ完全に批判されていた。

ビートたけし「原発観」批判1
ビートたけし「原発観」批判2
      

 さて,ビートたけしはこのような非難・詰問に,一言でもいい,まともに答えることができたのか?

 われわれは,東電福島第1原発事故からすでに6年〔2024年だと13年〕の歳月が経過した現在にいるが,たけしは,自分が原発推進の提灯もちを喜んではたしていながら(それもタダではなく高いギャラをもらっていた),この提灯の記憶のことなどに関して,いまでもなお,しらんふりをしていられるのか?

  それでは,世界中に名の通っている「天下の芸能人:北野 武」の名声や地位が泣くだけでなく,廃れるというものである。


 ※-2『SIGHT』2017年4月増刊号に登場したビートたけしへの違和感

 1)北野 武・こと・ビートたけし

「電力が足りない」となったらその理由はなんでもいいから
ともかく原発の「再稼働と新増設」をせよという合唱団は

より元気になって歌いだしているが
電力の過不足⇒需給関係に原発の問題を直結させるところが視野狭窄であった

電力の過不足に原発の稼働問題を短絡させる見地が
そもそも問題のある立場を意味した


 この雑誌『SIGHT』はロッキング・オン・ジャパンという会社が,2017年3月1日に発刊していた。本ブログ筆者は,この雑誌の表紙にも謳われていた文句,「総力特集:電力が足りているのに原発を再稼働。その欲望が怖い」に惹かれて,購入した。

 しかし,ビートたけしを最後に登場させるインタビュー記事は,全然いただけなかった。こまかい説明は不要と考える。

 本ブログ筆者による前掲の記事,2017年3月6日の記述(このブログサイトでは一昨日,2024年4月27日に記述していた)は,

 「原発広告問題と芸能人,ビートたけしの場合はどうであったか,その記憶を回想する(1)」と題し,「ビートたけしは原発応援団長(?)だったが,いまは再生エネ企業の宣伝マンか? 時代が要求する〈芸人魂のワンダフルさ〉」をもって記述してあったた中身を再読してもらうまでもなく,

 こちらの雑誌の目次は,その事由(説明は不要だといってみた点に関した内実)を,よく一覧させてくれていた。

 原発をなくすためには,「世間が望む福島」と「現実の福島」のズレに向き合わなければならない  開沼 博 社会学者/立命館大学准教授

 「原子力立国」の崩壊を認められない政府と電力会社が,国民にツケを払わせている  吉岡 斉 九州大学教授

 脱原発が導く,明るく正しい世界の在り方を示さなければならない  坂本龍一    

 日本人の頭と実力と勤勉さがあれば世界の電力供給を変えるぐらいの明るい未来はある  田中秀征 民権塾主宰/元経済企画庁長官   

 「脱原発区長」が5年をかけて実現した,原発に頼らない地域生産型エネルギーが示す革命の一歩  保坂展人 世田谷区長    

 絶対に採算の取れない原発ビジネスを回し続ける,「原発マネー」の呪縛を絶たねばならない  中野洋一 九州国際大学教授    

 日米関係を歪め続け,それでも原発をあきらめない歪んだ欲望を止めなければならない  猿田佐世 新外交イニシアティブ事務局長/弁護士

 総論対談:一人称で語らない上から目線の「正義」はもういらない   
   内田 樹 哲学者・神戸女学院大学名誉教授/武道家・凱風館館長     ×  高橋源一郎 文芸評論家・作家/明治学院大学教授    
 
 連載インタヴュー: 北野 武 『人気』を語る
 
  (以下につづく目次は割愛)

『SIGHT』2017年3月1日目次

 この『SIGHT』2017年4月増刊号の目次編成のなかには,ひとつの異物が闖入していた。異様な違和感を醸していた。

  “ビートたけし・こと・北野 武” のインタビュー記事事が,この増刊号をもって組まれた総力特集全体の基本論調とは無関係に,というよりはトンデモな挿入物として,それも偶然にこの増刊号に掲載されたのである。

 そうだったとみるほかないのだが,この増刊号における全体の主張であった「反・脱原発に関する記事」と並んで,その最後にこの北野のインタビュー記事が登場していた。

 さて,ビートたけしの「過去における経歴,宣伝・広告への演目」を一覧したさい,そのように感じた〈違和の印象〉のゆえんを説明しておく。

 まずは,この男には,芸能人として・人間として節操がないとを,そしてさらにいえば,このような男を芸能人としていまだに高く評価し,大いに歓迎しているだけの,つまり一般大衆側の「ミーハー性」にも,度しがたい愚昧さが湛えられている事実を教えられる。

 2)安倍晋三:世襲3代目の政治家

 もっとも,そうした芸能人が大御所として顔を利かしている日本の社会だからこそ,政治の世界でも実は,世襲3代目の政治家でボンボンだったこの甘ちゃん首相:安倍晋三が,独裁者風に振るまえるような舞台も提供されてきた。最近〔ここでは2017年2月下旬ころから〕におけるこの首相の国会における答弁は,完全に子どもの域にまであとずさりしきっていた。

 国民・市民・住民・庶民の1人ひとりに対して,政治の問題をめぐっては,つぎのように要請しておかねばなるまい。自分にきびしくあれ,そして他者に対してもきびしくあれ,くわえてとくに,有権者である場合は,政治家に対してきびしく対面せよと。「現代市民としての政治的な自覚」をしっかりもっていなければらない。とはいっても,この自覚の徹底はなかなかむずかしい。

 現に,2月(2017年当時)から日本の政治社会を,騒がせていた森友学園の小学校新設申請にかかわる政治的醜聞の発覚に対して,自民党内部ではこの猛風が収まるのを待っていれば,そのうち国民たちもすっかりに忘れてしまうはずだと,いまからすでに一般大衆を頭から小馬鹿にした蔑視観を露骨に披露していた〔し,実際にその帰結はその事件としての解明はきわめて不徹底であった〕。

 いま(当時)問題になって騒がれている(いた)森友学園の疑獄的な話題は,安倍晋三政治の根幹にまでかかわる深刻な実態(内部の真相)を包蔵していた。疑獄であるとも指摘されるべき根拠があった。安倍晋三は2006年ころに1年間,初めてとなる首相を務めていた。

 この時までには,日本の原発が自然災害(東電福島第1原発も含めて日本の原発であれば地震と津波)に対して,看過しがたい重大な危険性をかかえている事実は,専門家たちによって確実に指摘され懸念されていた。にもかかわらず,この当時の首相は,日本の原発に限ってはノウ・プロブレムだといってのけ,その懸念を提示する人びとは頭ごなしに排斥していた。

 安倍晋三自身の公的な発言に関しては,「原発を再稼働をウンヌンする〔安倍晋三的には「でんでん(云云)」するといわれていた〕資格がまったくなかった」事実を示す「決定的な証拠」が記録されていた。

 第165回国会が開催されていた2006年12月22日の質疑応答では,つぎのようなやりとりがあった。安倍晋三が吉井英勝・安倍晋三画像第1次内閣の総理大臣を務めていたころの話である。

安倍晋三の態度は最悪であった
歴代最長の首相就任期間を誇った「世襲3代目の政治屋」が
このようにまったく万全ではない国会での応答をしていた
 

 吉井英勝衆議院議員が原発問題について質問したところ,これに対する安倍側の「原発事故対策についての国会答弁」は,こう答えていた。

 「(日本の原発で全電源喪失)事態が発生するとは考えられない」し,とくにまた,「(原発が爆発したりメルトダウンする深刻事故は想定していないゆえ)原子炉の冷却ができない事態が生じないように安全の確保に万全を期しているところである」

 安倍晋三はそういいはなっていた。したがって,その後における原発体制に対しても,深刻・過酷な事故発生の可能性を考慮した根本対策はほどこされないまま,放置されてきた。

 その国会における答弁が提示されてから1540日が経った2011年3月11日,東電福島第1原発事故が起きた。それでも,この原発事故の件に関して安倍晋三という政治家がついたウソは,いままでついてきた,さらにはその後にもついていった「数々の大ウソ」のうちの,たったひとつに過ぎなかった。

 安倍晋三君はいまは故人であるが,政治家として公務の領域で犯してきた「罪と罰」は,国会内で認められた「ウソ:118件」も併せて考えるまでもなく,重かつ大であった。

 結局,「こんな人が首相だった日本」が落ちぼれたのは,「歴史の必然的な法則」であったかもしれない。

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