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北朝鮮帰国事業問題に深く関与した日本赤十字の行跡(1)

 ※-1 問題の設定-そのなにがどのように議論されればよいのか?-

 本日のこの記述が話題にとりあげるのは,「北朝鮮帰国事業問題」に日本赤十字はどのように関与していたのか,その歴史の事実を,かつては大日本帝国の「忠良なる帝国2等臣民」であって,そしてこの日帝の敗戦後となっては「在日遺民」となった特定民族集団を大事にするどころか,

 国外に追放するかっこうで,もともと彼らの祖国の地ではない「北朝鮮(朝鮮非民主主義反人民偽共和国)」に放出・投入してきた履歴が,「敗戦後史としての日本政治の悪徳と罪業」として記録された事跡である。

 この在日朝鮮人に対して1959年から1967年にかけて実施された「北朝鮮帰国事業」は,「朝鮮」籍約50万人弱のうち,北朝鮮に永住帰国したのは(実態は移住〔移民に近いそれ〕にすぎなかったが)およそ9万3000人いた。そのうちには,夫にしたがい北朝鮮に渡った『日本人妻』も約831人も含まれていた。

 21世紀のいまごろになっているとはいえ,あらためて深耕してみる「在日朝鮮人」の北朝鮮送還,いいかえると,実質は彼らにとってみれば99%は異国であって祖国でも母国でもなかった,つまりところ,彼らの出身地ではない異境の地に向けてとなっていたが,

 しかもそのさい意図的でありながら,かつまた実質面で観察してみれば,日本の関係者側・各方面がそれこそ “ほくそ笑んで” (それこそ笑いをかみ殺した表情を浮かべ〔?〕),それもまるで「慈善事業まがいに粉飾したやり方」でもって,本当のところ(本心)では,彼らを「やっかい者払い」よろしく,この日本からとても上手に,非常に要領よく排出しえたこの「大事業」となった。

 それゆえ,彼らの立場にとってみれば,まさしく「してやったりの成果を生んだ」と,本当に小躍りしたかのように喜べた経緯・結末が生まれていたことになる。

 1959年から1967年にかけて継続されてきた「日本国による北朝鮮への棄民的な放出事業」は,以上のごとき「歴史の解釈」にしたがえば,敗戦後における日本史の一大汚点を意味した。

 以上のように「日本・日本人・日本民族」の立場に居る人たちの気持ちとしては,聞きたくもない敗戦後史のこの「日本国による北朝鮮への棄民的な放出事業」のことを,「大規模な拉致事件だ」と極論気味であっても形容する記事まであるくらいの,いわば重大な事件とみなす指摘もあるゆえ,前段のように本ブログ筆者が語ったからといって,神経過敏になって反応する余地はない。

 ごく最近,『読売新聞』の2024年3月8日「社説」は,こう主張していた。

 北朝鮮が首脳会談に言及したのは,結束を強めている日米韓3か国の関係にくさびを打ちこむ狙いがあるのではないか。また,北朝鮮は深刻な食糧難に陥っており,日本から人道支援を引き出そうという思惑も考えられる。

 だが,拉致問題を「解決済み」とする談話は従来の主張と変わりがない。そもそも北朝鮮は2014年,拉致被害者の調査を約束したにもかかわらず,2016年に一方的に中止したまま放置している。

 交渉を再開するなら,まずは北朝鮮が拉致被害者の調査に取り組み,帰国を確約するのが筋だ。首相の訪朝に条件を付けるなど,誠実な提案とはとうてい思えない。

 拉致被害者の家族会と支援組織は先月,「すべての被害者の一括帰国が実現するなら,人道支援と独自制裁の解除に反対しない」とする新たな運動方針を決めた。

 人道支援のみを容認していた昨年(2023年)の方針に,新たに制裁の解除までくわえたのは,被害者の親世代が健在なうちに事態を前進させたいという切実な思いからだろう。

 ただ,北朝鮮はそうした家族の願いや,支持率が低迷する岸田内閣の苦境につけこむかのように,調査の実施と引き換えにさまざまな支援を求めてくる可能性がある。

 政府は,拉致・核・ミサイル問題を包括的に解決する,という基本方針を堅持し,北朝鮮の揺さぶりに毅然と対処せねばならない。そのためにも,首相は政局を安定させることが不可欠だ。

 北朝鮮は,ウクライナを侵略するロシアに大量の弾薬を供与している。日本が北朝鮮の「甘言」に乗って制裁解除など経済的な支援をおこなえば,結果的にロシアを支援することになり,国際社会での日本の立場を危うくしかねない。

『読売新聞』2024年3月8日「社説」

 もしもこのような主張を本気で唱えた読売新聞社の立場なのであれば,韓国でいう「北送」された日本人妻たちの「救出」が除外視(放置)されていてよいというリクツは,まったくありえない。

 すでに高齢になったかすでに人間の寿命ゆえ,北朝鮮の地で死んだ日本人女性たちも大勢いる。また彼女(夫婦)らの子どもたちも,その救出の対象たりうる関係の事実まで考慮するとしたら,その対象となる人数は日本人妻たちの数倍になる可能性がある。

 以上のような問題意識までも抱いて考えるとなれば,21世紀のいまどきになっている段階になって,あらためてこの問題に注目しつつ再考してみるに,本記述の要点としてはつぎの2点に表現できるはずである。

 ★-1 敗戦後史における日本政府は,やっかい者払いに対したかの要領で「在日」を北朝鮮に送りこみ,さらなる「やっかいな問題」を日本現代史の過程のなかに深く刻みこむという「大きな悲劇」を,わざわざ形成させてきた。

 いまだに国交のない北朝鮮相手であったが,当時(1959年以降)日本赤十字にその任に当たらせ,表面的には成功させた「在日朝鮮人の北朝鮮への送還事業」(韓国側では北送と呼ぶ)は,日本政府(が当事者そのものではなかったものの)の「逆説的にも大規模な拉致事件だ」と指弾されて,一言も文句はいえまい。

 なんといっても,日本人妻の831人もの人数がその「在日朝鮮人の北朝鮮への送還事業」という「大規模な拉致事件」に巻きこまれていたではないか? 妻がいれば夫もいるし,その子どもたちもいる。孫も生まれていた。


 ★-2 在日朝鮮人はかつて,天皇のもとで「一視同仁されるべき日本帝国臣民」ではなかったのか?」と問われる余地が大いにある。戦争中は特攻機に搭乗して散華した朝鮮人もいた。

 将官位の軍人になった朝鮮人もいた。旧朝鮮王朝の関係者は日本の王族(皇族にはあらず)として,いやいやながらでも迎えられていた。敗戦直前には,広島への原爆投下に出勤途中遭遇してしまい,馬上で被災し,翌日死んだ朝鮮人の佐官がいた。

 ウィキペディアには,その人物のことをこう解説している。

 李 鍝(り・ぐう,イ・ウ、ハングル 이 우,1912年11月15日- 1945年8月7日)は,李王家の一族で,日本の公族。 陸軍大学校卒後,大日本帝国陸軍中佐(教育参謀)であったが, 広島へ投下された原爆の爆心地から710mの地点で被爆,翌日に死去。

 父は大韓帝国皇帝高宗の五男李 堈,母は側妾の金 興仁。純宗:李 垠の甥に当たる。なお,この李 垠は,昭和天皇の配偶者としてその候補になっていた女性と結婚させられていた。この事実についてはこの引用枠から出て,つぎの本文段落に論じる。

李 鍝

 なお,前段で太字にした李 垠についてはやはり,ウィキペディアが関連する事情をこう説明している。旧日帝が旧大韓帝国を植民地支配下に置いたのは,1910年8月22日のことであった。なお李 垠は,朝鮮王朝最後の王,高宗の息子であった。

 --1915年6月5日,幼少のころに日本に連れてこられた李 垠は,士官学校卒業後に近衛歩兵第2連隊に士官として配属され,陸軍将校となった。1916年8月に皇族の梨本宮守正王・伊都子妃の第1女子:方子と婚約する。

 この結婚は,方子の結婚先に皇族を望む,伊都子妃の強い要望によるもので,表向き「天皇〔大正天皇・嘉仁〕の思し召し(命令)」により結婚することとされた。皇室典範第39条の増補を経て,皇族と王公族の婚姻が容認されると,1918年12月5日に結婚の勅許が下りた。しかし,1919年1月21日,挙式4日前に李太王(高宗)が薨去したため,結婚は延期された。

 1920年4月28日,李 垠は方子女王と結婚した。結婚式では,結婚が朝鮮独立の障害となると考えた朝鮮人学生による爆弾等的未遂事件が起きた(李王世子暗殺未遂事件)。

 主犯の徐 相漢の供述では,標的は李垠夫妻ではなく,朝鮮総督となっていた斎藤 実だったという。方子女王の側からは,厳密には非皇族への降嫁であるが,大正天皇の「御沙汰」により女王の身位を保持した。

〔※ 断わり〕  本稿は旧ブログ2011年3月2日の改訂版であり,さらに2015年4月14日に更新されてもいた文章であって,本日2024年6月26日に再更新された。すでにだいぶ年月が経っての再更新という事情から,全体の記述がより長くなったので,2編に分割して公表することにした。

 なお標題にかかげた日本赤十字に関連する記述は「本稿(1)」ないではまだ始まらない。「本稿(2)」で初めて論及される点を,まえもって断わっておきたい。 

 

 ※-2「〈戦後70年〉日本46%,ドイツ94% 被害与えた周辺国と『うまくいっている』朝日新聞・日独世論調査」『朝日新聞』2015年4月14日朝刊1面

 朝日新聞社は戦後70年にあたり,敗戦国である日本とドイツで世論調査を実施し,戦争や戦後の歩みをめぐる意識を探った。

 戦争などで被害を与えた周辺国との関係が「うまくいっている」という人は,日本は46%で,ドイツは94%。謝罪を伝えつづけることについては両国とも意見が割れているが,ドイツのほうが伝えつづけることにより積極的だった。

 日本での調査は3~4月に郵送,ドイツでは3月に電話で実施した。調査方法は異なるが,日本での調査項目の一部に相当する内容をドイツでも聞いた。

 戦争などで被害を与えた周辺国といま,どの程度うまくいっていると思うかを聞いた。日本は「大いにうまくいっている」は1%に過ぎず,「ある程度うまくいっている」は45%。ドイツは「大いに」が39%,「ある程度」が55%。

 被害を与えた国や人びとに謝罪や償いを十分にしてきたと思うかを尋ねると,日本は「十分にしてきた」が57%で「まだ不十分だ」の24%を上回った。ドイツでは「十分」が73%で「不十分」の21%を引き離した。

 質問文の一部が異なるが,日本では2006年4月の面接調査でも同趣旨の質問をしている。この時は「十分」が36%で,「不十分」の51%のほうが多かった。

 政治家は被害を与えた国にこれからも謝罪のメッセージを伝えつづけるべきだと思うかを聞くと,日本は「伝えつづけるべきだ」が46%,「伝えつづける必要はない」が42%と拮抗(きっこう)。ドイツは55%対42%で「伝えつづけるべきだ」が多かった。

 この戦争について,学校で「しっかりと教わった」は,日本では13%にとどまった。ドイツでナチスの時代について「しっかりと教わった」は48%だった。

 連合国が日本の戦争指導者をA級戦犯として裁いた「東京裁判」をどの程度しっているか日本で聞くと,「内容をよくしっている」は3%にとどまり,「内容をある程度しっている」は30%。ドイツの指導者を戦犯として裁いた「ニュルンベルク裁判」についてドイツで聞くと,「よく」が21%,「ある程度」が47%だった。

 「しっている」と答えた人に裁判の印象を聞くと,日本で48%,ドイツで54%が「問題はあったがけじめをつけるために必要だった裁判」と答えた。日本では「戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた不当な裁判」の32%がこれに次ぎ,「戦争の責任者を裁いた正当な裁判」は16%だった。ドイツでは「正当な裁判」31%,「不当な裁判」8%の順。日本の結果は,2006年4月と傾向は変わっていない。

 付記) 〈※ 調査方法〉 日本では,3月11日から4月10日にかけて,全国の20歳以上の男女3千人を対象に郵送方式で調査し,2016人から有効回答を得た。ドイツでは調査会社に委託し,3月11日から24日にかけて18歳以上の男女を対象に電話で聞いた。有効回答は千人。


 ※-3「〈戦後70年)村山・小泉談話『妥当』74% 朝日新聞世論調査」『朝日新聞』2015年4月14日朝刊3面

 政府が戦後50年と60年に「痛切な反省」「心からのお詫び」を入れた談話を発表したことは…… / 日本の戦後の平和に……。

 先の大戦について反省やお詫びを表明した戦後50年の「村山談話」と60年の「小泉談話」は,「妥当だった」と考える人が74%に上ることが,戦後70年にあたって朝日新聞社が日本で実施した世論調査でわかった。「妥当ではなかった」は13%にとどまった。

 補注)さきに口をはさんでおくが,こうした世論調査の結果に一番不満なのが,ほかならぬ安倍晋三君であった。こういう日本の世論,それもこの憎たらしい〔と晋三が強く感じていた〕朝日新聞社の調査から出てきた結果であるだけに,彼はより極度に不快感を抱いていたはずである。

 こんなもの踏みつぶしていってやるというのが,彼の正直な所感であったし,実際に現政権(当時は安倍晋三の第2次政権時)がやっていた政治(内政・外交)は,そのとおりの愚行・乱暴を着実に推進しつつあった。

 もっとも,安倍晋三政権のやっている中身は単に,米日安派条約体制下,日本国のアメリカへの従属上下関係をいよいよ深め,徹底的にその関係を本格化させる方途に突きすすんでいた。

 安倍晋三が夢想しえた「美しい国」を「ふつうの国」として実現させたいという欲望は,実際では「戦後レジーム」の否定であるどころか,現状の対米従属関係をいっそう深化させ,より堅固な状態にしあげるためにしかなっていなかった。

 この段落を記述したころで,本ブログ筆者が手にとることができた文献,金子 勝『憲法の論理と安保の論理』勁草書房,2014年は,前段のごとき米日軍事同盟関係の本質を,マルクス的政治経済学の思想と理論にもとづき,的確に分析・批判していた。

 現状の日米間における国際政治を適切に検討し,それを批判するには,主義(イデオロギー論:革命論)ではないマル経理論〔この「認識の論理」の徹底利用〕による社会科学的な応用が必須であった。

 しかしながら,すでに〈丹頂鶴〉と称された--本当は頭だけが赤く首から下は全部が無色透明(白色)であったので,「日本流のマルキスト者たち」の大部分がそう譬えられた--マルクス「主義政治」経済学者は,1990年を境にすっかり雲隠れしたかのごとき様相になった。

 当時に発生していたその学界動向:「敵前逃亡時に披露したマル経学者たちの〈足の速さ〉」は,本ブログ筆者の専門領域である経営学(「企業政治」経済学者たち)においても同様であった。逃亡時における彼らの披露していた「実にみごとな脚力」には,たいそう感心させられた。

 もっとも,前段のごとき話題は「いまは昔」として思いだされるだけとなってはいるが,それにしても彼らはいま,いったいどこに雲隠れしたのか? 1990年ころから急に,全員が討ち死にしてしまい,墓に入ったわけでも,どこか外国に移住したわけでもあるまいに……。

 1)日本なぜ戦争,解明努力「不十分」65%

〔記事本文に戻る→〕 植民地支配や侵略で,アジアの人々に大きな苦しみを与えたとして「痛切な反省」や「心からのお詫び」という言葉を入れた談話を発表したことは妥当だったと思うかを聞いた。「妥当」は安倍内閣支持層や自民支持層でも7割を超えた。また,さまざまな考えをもつ層に広がっていた。

 「日本の歴史教育は,この戦争について否定的な見方が多く,自虐的だ」という意見に「そのとおりだ」と答えた人は35%,「そうは思わない」は47%。この質問で「そのとおりだ」を選んだ人でも78%が談話を「妥当」とした。首相の靖国神社参拝に「賛成」は56%,「反対」は26%だったが,「賛成」という人の76%も「妥当」と答えた。

 補注)以上の内容は,安倍晋三君にとっては聴きたくもない世論調査の結果であった。「オレ様がどのような戦後70年談話を出そうが勝手じゃないか」と思っているからである。

 一方,この戦争はどんな戦争だったと思うかを聞くと,侵略戦争,自衛戦争の「両方の面がある」と答えた人が46%。次いで「侵略戦争」が30%。「自衛戦争」は6%にとどまった。調査方法が異なるが,2006年4月の面接世論調査で同じ質問をした時もほとんど同じだった。

 補注)ここで,つぎのように関連する年代を参照しておく。いまの首相安倍晋三は,第3次小泉改造内閣のもとで第72代内閣官房長官(2005年10月31日-2006年9月26日)を務めていた。そして,第90代内閣総理大臣(第1次安倍内閣;2006年9月26日-2007年9月26日)になっていた。

 ここに引用してみた記事は,2006年4月という時期(時点)についてとくに留意したいかのように,時代的に前後する相互の関係を指摘していた。

 なぜ日本がこの戦争をしたのか,日本人は自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うかを尋ねたところ,「十分にしてきた」は23%,「まだ不十分だ」は65%だった。

 4つの項目を挙げて,戦後の平和にどの程度役に立ったと思うかを聞いた。いちばん評価が高かったのは「憲法」で,「大いに」と「ある程度」をあわせて93%が「役に立った」と答えた。「役に立った」がつぎに多かったのは「米軍と自衛隊の存在」86%,「日本人の戦争体験」80%,「日本政府の外交努力」66%の順だった。

 2)「〈視点〉日本,悪循環断つ努力を」

 70年前に終わった戦争で敗戦国になった日本とドイツ。戦争の経緯や戦後の国際環境に違いはあるものの,ともに重い「負の遺産」を抱えてきた。人びとは過去とのとり組みをどう評価しているか。両国で世論調査を実施した。

 ドイツでは,周辺国との関係がうまくいっているという認識が,謝罪を続けるべきだという肯定的評価と重なる。日本では,隣国との関係の評価が分かれ,謝罪への支持も高まらない。過去への対応をめぐって,好循環と悪循環という対照的傾向が読みとれる。

 日本が「(被害を与えた周辺国と)うまくいっていない」が計50%だったのに対し,ドイツは計94%が「うまくいっている」と答えた。

1985年ワイツゼッカー演説

 背景にあるのは,ドイツ自身が謝罪などを「十分にしてきた」(73%)という自負だ。「過去に目を閉ざしてはならない」と説いたワイツゼッカー元大統領の演説に象徴されるドイツの「過去の克服」の取り組みはよくしられている。

 ドイツも謝罪や償いをめぐり論争を繰り返しながら,国民的合意が生まれてきた。その結果,70年後の今も強制収容所の元看守らへの捜査が続き,ガウク現大統領はフランスやギリシャの虐殺の地を訪れ,「ドイツの罪」をわびる。

 こうした態度が周辺国との信頼関係をさらに強め,結果としてドイツの利益につながっているようにみえる。

 日本でも歴史の節目に首相談話などで謝罪を表明してきた。今回の調査で74%が村山・小泉談話を「妥当だった」と評価した。多くの人が日本なりのとり組みを肯定的にとらえているとみることができる。(『朝日新聞』引用はここで,いったん中断)

 途中であるがここで参考になる意見を聞いておきたい。以下は,東郷和彦『歴史認識を問い直す 靖国,慰安婦,領土問題』角川書店,2013年の見解である。  

 ▽ 村山談話は包括的・直観的・無前提なかたちで国家の行為をとらえ,それについて謝罪している。このようなやり方は,近代国家では例をみない。

 ▽ ワイツゼッカー演説は徹底して個別的・分析的・条件つきである。たとえば個別具体的な犠牲者をリストアップ。ナチス以外のドイツ人について「罪はないが責任はある」とし,「全員が過去を引き受けなければならない」などとしている。  

 東郷教授はさらに,ワイツゼッカー演説の思想的背景としてヤスパース,村山談話の精神的背景としては鈴木大拙との関連性について論考をくわえている。その詳細は著書に譲るが,ここで明らかなのは,日本の場合,ひとつには戦争責任の所在を曖昧にやり過ごしてきた結果が,いま大きなツケとして回ってきているということである。  

 註記)「ワイツゼッカ氏ーと安倍首相の落差」 『The Huffington Post』2015年02月13日,http://www.huffingtonpost.jp/kiyoshi-hasaba/weizsacker-abe_b_6675212.html 参照。

〔『朝日新聞』記事に戻る⇒〕 だが,談話を否定するような政治家の発言や動きがあるたびに,謝罪の意義が損なわれてきたことも事実だ。和解相手となる隣国も歩み寄る姿勢をみせず,過去とのとり組みにドイツのような国民的合意は生まれていない。

 そうしたなかで,日本では「十分に謝罪や償いをしてきた」と答えた人が9年前の調査より多くなり,「これからも謝罪のメッセージを伝えるべきか」は賛否が真っ二つに分かれる結果となった。周辺国との関係が改善されないことに,いらだちを感じはじめていることがうかがえる。

 冷戦下で日米関係を基軸としてきた日本。統合が進んだ欧州のなかに位置したドイツ。異なる環境にあるとはいえ,なにが日独の歩みの違いをもたらしたのか。日本には悪化した隣国との関係を冷静にみつめ,悪循環を断ち切る粘り強い努力が求められている。(『朝日新聞』引用終わり)

 --以上の記事に対しては本ブログ筆者は,こう議論しておく。敗戦後におけるドイツと日本が置かれてきた地政学的な環境条件の基本的な相違から,とくに冷戦構造のなかでの日本はアメリカの占領〔属〕国として,対外的な政治・外交をまともにとり組まなくても済み,ましてや東アジア諸国に対する謝罪や補償が遅々としか進まなかった事実(局面)があった。

 なかでも,隣国である韓国や中国との国交回復にまで,前者は1965年まで20年間も,後者は1972年まで27年間もかかった。これは,アメリカの意向にしたがうほかなかった,敗戦国日本の主体性を欠いた外交路線のせいであった。

 そして,北朝鮮とはいまだに国交回復・正常化が実現していない。むろん,この相手国側の特殊事情はあるものの,日本人拉致事件の明確化をもって,1945年8月までの大日本帝国による植民地時代の記録・蓄積が「無に帰せる」かのように,日本国・民はいまだになおも錯覚することを止めない。

 これが,日本国・民側の単純素朴な政治感覚であるにせよ,そうであれば政治家が国民の感情を正し,より生産的な外交が展開できるように努力すべきである。

 ところが,日本政府の基本姿勢は「ブルーリボン・バッジ」を首相や閣僚たちが率先着用している事実からも判然としてきた事実は,北朝鮮側が犯した日本人拉致問題を「葵の紋」と勘違いしてきた事情からも,明確に読みとれる。

 そのように構成され意味づけられた「日本国内部のリクツ」が,終始一貫して強硬に唱えつづけられてきた点が,実は,拉致問題に関してだけでなく日朝交渉を停頓させる最大の原因になっていた。

 しかし,つぎの『日本経済新聞』の記事,これは2024年6月5日朝刊に報道された,北朝鮮による日本人拉致被害者の1人橫田めぐみの母,早紀江のいいぶんであるが,いまの時期まで来てしまった段階となれば,あのブルーリボン・バッチによく象徴されてもいたように(下段 ↓ に飛ぶ),

夫の橫田滋は4年前に死去したと記されている

 それも,安倍晋三の第2次政権がその典型事例でもあったように,この拉致問題を「政権に対する国民たちの支持率向上のための具材としてのみ,さんざんに利用してきた(多分,悪用したといってもいいそれだった)」のだから,

 どのみち,拉致被害者「当人たち」とその家族たちは,ある意味,いいように別の政治目的に転用(応用)されてきた,いつも振りまわされつづけてきたというほかなかった。

 つぎに,画像資料で紹介するのは,『産経新聞』が2024年4月11日に報道した記事である。

「バイデン氏の力強い支持」となにか?
もうひとつ意味が分かりかねる見出し文句

 以上のごとき拉致問題のこれでは「外交」をなんのためにやっているのか,基本からしてよく分からなくなっている・混迷している・方向性喪失していることを,みずから証明したも同然であった。

 要は,とりわけ安倍晋三の第2次政権時がそうであったことだが,「幼稚で傲慢」で「拙劣で暗愚」であり,外交のための基本政略が不在であったのが,この国の政治姿勢であった。

小泉純一郎以降まともな日朝交渉はなされなかった

 本ブログ筆者の手元にある『日本経済新聞』2024年5月22日朝刊4面「政治・外交」欄に掲載の記事は,見出しや小見出しを「〈日朝探る対話 上〉拉致問題解決,世界分断が阻む」「最後の首脳会談から20年」「北朝鮮,ロシアに武器提供」「後ろ盾得て日本揺さぶり」などとをかかげ解説していた。

 2004年に小泉純一郎が首相として2度目の訪朝をしており,拉致問題の扉が一度開けた機会があって以来,新しい努力がなされていなかったのではなかったものの,それ以降いままで,その交渉において実質的な進展をみることも,具体的な成果を挙げることもなかった。

 敗戦以前からこの国・民が隣国(広くは東アジア諸国)に対して抱いている潜在意識は,明治時代以降に形成された根強い「差別と偏見」観に恒常的にむしばまれつづけてた。それれがいまの時代にも払拭できずに残っているとすれば,日本側における民主主義の根本精神の欠如,そうでなければその精神の低劣さを,端的に物語っているといわざるをえない。

 さて,そういうたぐいの論点に逢着したところであるが,本日におけるこの記述の「本論」部分はすでにだいぶ長文になった。それゆえ,残りの記述は「本稿(2)」として明日以降の記述にまわすことになった。

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【断わり】 「本稿(1)」の続編「本稿(2)」は,つぎのリンク先・住所である。

  ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/nbf722f43a881

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