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上野陽一「能率学」の今日的な意義,反原発にも直接つながるその「能率五道」は,エコロジー的な基本視点から生活学を説いていた

 ※-1「日本の経営学の父」と称される上野陽一は,第2次大戦以前に「能率学」の観点から,日本独自の経営概念を提唱していた。

 付記)上記「標題」の上部にかかげた画像が上野陽一。産業能率短期大学編『日本産業能率史 上野陽一伝』産業能率短期大学出版部,1967年,口絵から。

 #上野陽一  #能率  #原発  #スマートグリッド  

 a) 本ブログの筆者の所蔵している『上野陽一伝』という本のなかには,君原健二「私の履歴書(11) ムリ・ムダ・ムラ』『日本経済新聞』2012年8月11日朝刊の切り抜きがはさんであった。

 君原健二は福岡県北九州市出身,1960年代から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代,八幡製鉄(現在の新日鉄)所属の男子陸上競技選手として活躍した。

 また,オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場し,1968年のメキシコシティー・オリンピックで銀を,また1966年と1970年にそれぞれバンコクでのアジア競技大会では連続して金を獲得した。

 この「ムリ・ムダ・ムラ」という表現=標語は,戦前・戦中から日本の企業・会社のなかで広く浸透した用語になっていて,敗戦後における産業界においても常識的な用語に近い概念として使用されていた。

 ごく大雑把な理解でいうが,ムリとは過剰,ムダとは不足,ムラとは乱雑を意味する。産業における労働・作業の能率をどのように改善・向上させるかという課題は,戦前も大正時代に入るころから日本でも徐々に意識されだした。

 b) 産業界では,さらに「整理・整頓・清掃・清潔・躾」の頭の文字をとった『5S』という概念がある。この5Sの意味は,国語辞典で紹介されている意味とは「まったく異なる」「マネジメントの専門用語」のようなものだと説明されている。

 具体的には,「整理」は不要なものを処分すること,「整頓」は必要なものを使いやすい場所に置くこと,「清掃」はきれいに掃除して点検をおこなううこと,「清潔」は清潔な状態を維持すること,そして「しつけ」は4つの「S」を習慣づけることを指す

 上野陽一伝のムリ・ムダ・ムラという能率関連の基礎用語とこの5Sとが連続線上にある事実は,わざわざ断わるまでもないはずである。

 上野陽一だけが能率という課題にかかわっていたのではないが,旧東京帝国大学で心理学を学んだ陽一が,人間生活の問題そのものを産業界にまで敷衍・拡大させて,この「能率」の問題を日本社会全体のなかに浸透させるために,初期における啓蒙活動を盛んに果たしてきた。

 c) 本日の記述は,その上野陽一流になる能率学の今日的な意義,いいかえれば,21世紀に生きるわれわれの生活全般におよび,なかでも「反原発の理念」にも直結していた,その「能率五道」の概念に注目し,議論をおこなう。

 一言でいうと,上野陽一は戦前においてすでに,エコロジー的な基本視点から生活学ないしは生活経営学と呼んでいい実体としての「学的な体系」を,確実に構想し,その具体的な体系を提示していた。

 上野陽一「能率五道」の今日的意味は,「反原発思想の経営学」として再解釈可能である。原爆・原発が登場する以前に,その非を語る生活原則に想達していた能率学者の事業思想は,エネルギー問題に関するスマート・グリッド構想に通じていた。

 その意味・関連でいえば,上野陽一「能率学」の今日的な意義として,反原発にも直接つながるその「能率五道」は21世紀的にも,エコロジー的な基本視点から生活学を説いていた点で有意義な経営学説であった。自国の経営思想を大事にしない日本の経営学界には奇妙な学風がある。

 d) その「スマートグリッド」(日本語だと次世代送電網)とは、電力の流れを供給側・需要側の両方から制御し、最適化できる送電網。 専用の機器やソフトウェアが、送電網の一部に組みこまれている。以下の説明は札幌市のその構想に関した内容である。

 上野陽一の経営思想を紹介する前に,このスマート・グリッドに関した「具体的な構想の事例」を,札幌市のかかげたものを借りて,ごく簡単に言及しておきたい。

 「さっぽろ・エネルギーの未来」『札幌市』2016年3月29日, https://www.city.sapporo.jp/energy/taikou/index.html は,つぎのようにこの構想を説明していた。さきに図解をかかげておく。

さっぽろ・未来のエネルギー構想図

    ★ エネルギーから見た半世紀先の札幌を描くための視点 ★
 = エネルギーから見た持続可能な社会を実現するための技術を導入する視点 =

 ① 省エネルギー~エネルギー需要の削減とエネルギーの効率的な利用
  「建物単位」 高断熱・高気密・計画換気と再エネの組み合わせによるネットゼロエネルギー建物の実現
   「地域単位」 コジェネ等を核にしたエネルギーネットワークの構築によるエネルギーの効率的な利用
 
 この ② は,ネットゼロエネルギービルの実現となる。
 
 ② 再生可能エネルギー~太陽光,風力,地熱,地中熱,雪氷冷熱,バイオマスの利用
   「再エネ利用技術」 再生可能エネルギーの利用に係るコストの低減(太陽光発電のさらなる高効率化など)微細藻類によるバイオマス燃料の実現など,新たな技術開発
   「再エネ貯蔵技術」 蓄電池やコジェネとエネルギーマネジメントシステムの組み合わせによる再エネ導入拡大
 
 この ② は風力発電と太陽光発電に代表,体現される。 
 
 ③ 水素社会~再生可能エネルギーと水素を組み合わせたシステムの導入
  「製造・貯蔵・輸送」 再エネから水素の製造,有機ハイドライドなどの水素を圧縮して貯蔵・輸送する技術開発
  「水素利用技術」 再エネ由来の水素を,燃料電池による発電や燃料電池自動車の燃料として利用
 
 この ③ は,水素ステーションの利用となる。

さっぽろ・未来のエネルギー,1

 以上はまず技術的な観点からの言及であるが,つぎは生活形態の変化に関する説明となる。

 ▲-1 エネルギーからみた持続可能な社会にふさわしいライフスタイルに転換する視点

 新たな環境技術を導入するメンタリティをもったスタイルの構築~現在の6分の1の化石燃料での暮らし
 エネルギーと暮らしをシェアするライフスタイル~少ないエネルギーでも無理のない暮らし

 ▲-2 省エネルギーや再生可能エネルギーへの転換を地域経済へ取り込む視点

 北海道の再生可能エネルギーの活用~道内電力消費量の約10倍のポテンシャル
 エネルギー関連産業の育成~北海道の気象条件に適したエネルギー関連技術の開発など
 再生可能エネルギー導入による収益の地域への還元~地域住民の所得と雇用の創出

 ▲-3「エネルギーから見た半世紀先の札幌の未来像」という図解は,解説の文章ははぶき,つぎの図解のみ参照する。

さっぽろ・未来のエネルギー,2

 本日のこの記述は,上野陽一が地産地消の生活思想を能率学的な発想から唱えていた「経営学史的な意義」に焦点を合わせ,なおかつ,社会科学的な視野も意識した議論になる。

 要点:1 産業能率から能率道へ-生命・人生を能率的に活かし暮らす-
 要点:2 日本の経営学の祖が語る「原発の要らない理由」
 要点:3 自国の足元で地道に生活思想を創説した能率学の意味
 

 ※-2 産業能率から生活能率へ

 現・産業能率大学の前身に当たる日本能率学校を昭和17〔1942〕年に開校した上野陽一(1983-1957年)は, 大正9〔1920〕年から日本で初めて,経営コンサルタント業務を始めている。

 経営コンサルタントとは〈現在における専門職〉の名称であるが,上野陽一や続いてこの業務を商売にして開始した荒木東一郎,さらに登場してくる同業者たちを指して,当時は「能率技師」と呼んでいた。

 上野陽一は当時からその先駆者として,理論面・実践面の両域で八面六臂の大活躍をしていくのであった。昭和1桁代に入っても「能率といえば上野陽一,上野陽一といえば能率」というべき時代が続い た。

 しかし,時代は,昭和6〔1931〕年9月「満洲事変」を経て,昭和12〔1937〕年7月日中戦争へと戦時体制の時代に突きすすむなか,なにごとにおいても軍部・軍人が幅を利かし,大いばりする政治的環境,つまり軍国主義の時代に移っていった。

 上野は昭和8〔1933〕年(この年,ドイツでナチスが政権を握った),日本能率連合会理事長の座を海軍中将波多野貞夫に譲り,顧問に引きさがっている。

 「上野の書いたものには政治的な問題や事件に対する批評はほとんど見当たらぬ」「上野の興味と努力の方向は,まったく政治にはなかったとみてよい」と,産業能率大学編『上野陽一伝』産業能率短期大学出版部,昭和42〔1967〕年には記述されている(同書,147頁)。

 上野がどのように,「非常事⇒戦時期」となった時代に向かいあっていたか,およそ推し量ることができる。   

  明治41〔1908〕年に東京帝国大学文科大学〔いまの文学部〕で心理学を学んで卒業した上野は,大正時代に入ると,産業経営問題を心理学の立場から研究しはじめ,生産管理・販売管理などの具体的諸問題に関心を向けるようになる。

 大正8〔1919〕年から早稲田大学で広告心理学の講義を始めたのを契機にさらに,「能率の心理」=「仕事の心理学」を勉強するようになる。

 当時,執筆した『人及事業能率の心理』同文館,大正8〔1919〕年は,本文687頁もの浩瀚な著作であったが,それまでにも,心理学関係の分かりやすい教員向けの概説書を書く才能を発揮してきた上野による 「〈能率〉問題の解説書」として,当時の実業界・学界に大歓迎された。

 上野陽一『能率学者の旅日記』プラトン社,大正14〔1925〕年6月 は,1921年から1922年の欧米旅行記である。本書は,上野にとってはこの旅行が,工場や商店などの見学・視察だけでなく,アメリカでは多くの著名な 能率問題専門家や科学的管理実践家たちとの〈知己の間柄〉を構築するのに役だったことも記録している。

 上野陽一は,能率問題研究を介してとくに,アメリカの高名な能率研究者と親交する機会をえていた。それゆえ,日米が戦争に到るまでの時代を苦々しく観察していた。太平洋〔大東亜〕戦争中の陽一は,それこそじっと我慢だけを強いられる境遇に追いやられていた。

 「日本の経営学の父」と呼称される上野であるが,多大な精力を費やして関与してきた産業能率研究の方途は,実は「〈本筋〉での研究関心事」ではなかった。彼本来における「能率の研究と実際」の焦点は,産業能率にではなく生活能率にあった。産業能率はその「生活能率の〈部分〉」を占める位置づけであった。
 

 ※-3『能率概論』昭和13年

  上野陽一は昭和13〔1938〕年にこの『能率概論』を刊行する。本書は 

  「能率ノ 原則ヲ ハッキリ サセル コト」
  「能率ノ 原則ヲ イッサイ ニ 適用スル コト」
  「能率法ヲ 能率道ニ マデ 高メル コト」
  「日本人ノ 生活ニ 即スル コト」
  「能率ノ 信念ニ 生キル コト」

という,能率に関する「5カ條」をかかげ,そのうえで「能率ノ 原則」を

  「個人ノ 生活」から
  「家庭ノ 管理」 「会議ノ 指導」
  「工場ノ 能率」 「商店ノ 経営」
  「事務所ノ 管理」「団体ノ 管理」
  「役所ノ 能率」 「国民経済ノ 科学的管理」
  「国民生活ノ 合理化」「人生ノ 能率」
  「日本人ト 能率」

という中身にまで体系を拡げていき,能率問題を〈人間生活すべて〉にわたり,幅広くとりあげる方向で解説している。

 なお,『能率概論』はカタカナ文字で書かれた本である。

 この本は実は,能率的に文章を書くための方法を強く意識し,具体的に実践していた上野陽一の流儀・基本・主義を,反映するかたちで公刊されていたことになる。

  上野陽一が能率問題を基本的にどのように認識し,体系化したかは,以上の『能率概論』の目次編成から拾って紹介した各章の題名をもって,おおよそは見当がつく。

 上野陽一は,満州事変・日中戦争へと突きすすんでいった戦前期日本帝国の〈暴走〉が,第1次大戦後においてすでに「世界第1の強大国」になっていたアメリカと干戈を交える段階まで突きすすめば,これが初めから〈愚かな暴挙〉にしかならない展望を確実に予測していた。

 いいかえれば,日米戦争が勃発したときに現実のものとなる「〈能率〉面での実力差:生産力の大きな格差」を,彼は知悉していたのである。

もっとも,上野陽一に限らず軍部・軍人のなかにも「いざ日米が戦わば」,日本帝国がどういう結末になるかを事前に的確に予測できた者も大勢いた。けれども,当時の流れのなかで上野の立場は,国家体制に対して抗える術をなにももちあわせていなかった。

 上野に唯一できることといえば,戦争のための物資生産における能率指導の現場からは目立たないように身を引き,能率概念を生活能率 の次元へと拡延・深化させるという,いわば「上野流」本来の能率研究の領域へ,いいかえると《能率道》の世界に回帰することであった。

 ※-4 能率五道-その前論-

 1) 能率破壊の戦争行為
 a) 上野は,日中戦争が始まる昭和12〔1937〕年ころ,関西地方で生まれ,その前年にはすでに東京と博多にも生まれていた〈オチボ会〉を指導者する立場から,能率問題を基盤に修養関係の講義や指導をしてきた。このオチボ会は昭和16〔1941〕年には全国的な組織になっている(産業能率大学編『上野陽一 伝』177頁参照)。

  以上のように上野の「能率研究の理論と実際」がたどっていった足跡は,戦争のための能率を忌み嫌った彼の心情を,以心伝心的に感じさせる。「戦時体制期 (昭和12~20年,1937~1945年)」の日本産業経済は,すべてを戦争のために総動員する体制を敷き,そのためにだけ能率を発揮させねばならない〈異常な時代〉に置かれていた。

 しかし「戦争のための能率」ということばのとりあわせは,絶対的に「矛盾の関係」を意味した。能率が戦争に活かされたばあい,人を殺し,モノを壊し,国土を荒らし,世界を混迷の淵に追いつめる。このことは繰りかえし,戦争の歴史をもって実証されてきた。

 補注)最近では「プーチンのロシア」がちょうど1年前から始めたウクライナ侵略「戦争(というもの)」が,ウクライナ国内の公共施設・インフラを意図的に徹底して破壊しつくしているだけでなく,民間人の生命・財産も平然と殺し奪っている事実を,あらためて教えている。

 「ロシアのプーチン」にかぎらないが,ウラジミールのこの極悪党ぶりは,自国の将兵の命も含めて人間の命などなんとも思っておらず,大ロシア帝国思想にひたすらカルト的に狂っている強権一辺倒のこの独裁者は,上野陽一伝の唱えた広義の「能率概念」とは,完全に対極の位置に立っている。

上野陽一とプーチンをあえて比較する

 生活全般において《能率》というものを発揮させてこそ,人間生活が豊かになり,そして,みなが幸せに暮らせ,平和にも過ごせる。「戦争という事態」は,上野陽一の「能率概念」にとってみれば,異常どころか地獄そのものの現出と受けとめられる。

 b) 敗戦の年〔昭和20:1945〕年2月24日に発行した『能率道』昭和20年3~4合併号に,上野はつぎのような文章を掲載した。私的な会が発行した雑誌での発言とはいえ,当時に,これでよくも憲兵隊や警察当局に引っくくられなかったのか,と思うほどの内容である。

 もっとも,同年の3月10日には東京下町への大空襲などが始まっており,取締関係当局の目に上野の執筆物は映らなかった可能性もある。

    アメリカは天然の資源に恵まれているとはいえ,それは原料関係であって,ヤハリこれを戦力化するには,科学も生産能率も労働力もなければならない。これらは決して単なる物量だけではない。あれだけの物量がなければできないことである。これと同様に少ない物量をもってあれだけの戦果をあげうる日本人の精神力のサカンなことも言わずして明らかである。

    してみるとアメリカは物量主義,日本は精神主義などという子どもダマシのようなアサハカな対立観念にとらわれているときではない。またアメリカの哲学と日本の哲学とを比較して,アメリカは日本に比べて低級であるなどといってヒトリヨガリして喜んでいられるほどノンキな時勢ではない。

 アメリカのことを実用主義だとか能率主義だとかいって非難しているが,戦争には,さしあたり勝つという実用目的以外に何があるか。また物量をますためには,生産能率を高めるほかに何があるのか。

    アメリカが,いかに資源に恵まれているとはいえ,あれだけの実用主義・能率主義について,もっと学ばなければならぬ点が多いと思う。それは決してわれらの哲学をかれらの水準まで押しさげることにはならない。

産業能率大学編『上野陽一伝』204頁,206頁。

 太平洋戦争中には,たとえば哲学者和辻哲郎は『日本の臣道 アメリカの国民性』筑摩書房,昭和19年7月を公刊していたが,本書の見地は当時の「日本神州論」を当然に唱道していた。この和辻の立場は,上野陽一にいわせたら,今風の表現でいえばトンデモ系の発言であった。

 当時におけるアメリカという国の工業力,この生産性を支えていた能率という経営基盤を,わずかも理解しない日本の哲学者和辻哲郎が,それも旧大日本帝国の敗退必至の情勢のなかにありながらも,その「神国的な発想をなんのてらいもなく,放っていた。

 上野陽一は昭和20年2月のころ,「われらの哲学をかれらの水準まで押しさげることにはならない」などと,どこまでも婉曲に批判する対象にしていたはずだと推察されてよかったのが,ほかならぬ,和辻哲郎『日本の臣道 アメリカの国民性』筑摩書房,昭和19年7月であった。

 同書は本文86頁からなっているが,当時は戦争も末期,物資不足がきわまっていた時期だけに,まことに貧相な装訂になる冊子状の製本(並製・四六判)で制作されていた。

和辻哲郎『日本の臣道 アメリカの国民性』表紙

 太平洋戦争に挑んで戦う前の段階から,実際にはアメリカとの物量戦に敗北していた日本の立場であった。それも1944年6~7月の段階になると,サイパン島では米軍の総攻撃により日本軍が玉砕し,民間人多数も犠牲になって陥落した。

 それ以後,米軍B29による日本本土爆撃が可能になった段階になっても,哲学者の和辻哲郎は「まだ日本は勝てるみこみがある」という具合に臣民たちを督戦する(焚きつける)ための本,『日本の臣道 アメリカの国民性』筑摩書房,昭和19年7月を書いていた。

 和辻哲郎は戦時下の政治的要請に向かい哲学的・原理的に国家至上主義を基礎づけた。1944年(昭和19)に刊行した『日本の臣道 アメリカの国民性』に至っては,さらに,直接に日本が遂行してきた戦争のために積極的に協力する論述をおこなった。

 そこには,和辻の日本倫理思想史の研究成果が利用せられ,しかも思想史の成果としてはとにかく学問的であった命題が,はなはだ非学問的なアジテイションと統ーされて,戦意昂揚の言論となって表出されていた。 

注記)湯浅泰雄編『人と思想・和辻哲郎』三一書房,1973年,109頁参照。

 本ブログの筆者の手元にある同書は,昭和20年1月の再版であったが,21世紀のいまにこの本を開いてみると,なんとも無残でみじめな思いにさせられる。

 なお,現在『和辻哲郎全集』増補版全27巻,岩波書店では,第14巻に「日本の臣道」を所収し,第17巻に「アメリカの國民性」所収するといった具合に,もとは同じ1冊の本の中身を全集本のなかでは別々に収録している。

和辻哲郎全集・注記。

  c) 大東亜戦争の時代,この戦争体制に少しでも疑念を挟む人がいたりして,国家による戦争推進のありかたを,私的な場であっても,うっかり口にして批判しただけで,ただちに憲兵に引っぱられ,留置所にほうりこまれる状況であった。にもかかわらず,以上のような批判的言論を文章に表わした上野の勇気は,相当の覚悟があってのものと推察される。 

 上野陽一は能率研究家として昭和20年までの戦局推移をみてきた。いわば,事前にすでによく分っていたはずの「日本帝国による生産能率」競争での完全な敗北であったゆえ,いまさらのように心底腹立たしい思いを抱いていたのである。

 日本はあの戦争に敗けた。上野陽一の予想したとおりの結末になった。空襲だけでなかった。原爆も2発使われ,ひどい目に遭わされた。それでも,この帝国の最高指導者(敗北の責任をとらなかった人物)は,「原爆の被害(戦争責任関係の考え方)」について問われ,それは「文学上のことばのアヤだ」といいぬけた。 

 ところが,敗戦していた日本が,その後原発を導入しだした。「原子力の平和利用」という戦勝国アメリカ側のいいぶんが,その背景にあった。2011年3月11日,東日本大震災のとき,東京電力福島第1原子力発電所が,21世紀の記録に特筆大書されるような大事故を起こした。これによる大災害の惨状をとらえて「第2の敗戦」と呼ばれてもいる。

 しかしながら,かつての戦争に敗北したときの「第1の敗戦」と,なにか似ている様相が,この21世紀の現在にも漂っている。

 d) 要は「懲りていない」のである。あの敗戦のときもこの敗戦のときも,である。岸田文雄は2022年8月下旬,経済産業省事務次官出身の首相筆頭秘書官「嶋田 隆」の腹話術人形のかたちを借りて,「原発の新増設」を決めていた。

 原発の再稼働は絶対必要だと信じて疑わない,もちろん「経済の論理」を理由に,そう強く主張する者が大勢いる。だが,つぎのような東日本大震災に相当するかそれ以上の規模の超大地震が起きるという予測がなされているなかで,原発を廃絶しないで新増設するというのは,地震国の原発政策としてはまさに気違いザタである。

 つぎの科学記事2023年1月17日は,前回の南海トラフ地震(1944年の昭和東南海地震,1946年の昭和南海地震)からすでに80年近くが経過しており,国は今後30年以内の発生確率を70〜80%と予測している点を報じていた。

 「第2の敗戦」の反省も総括もなしで,こちらの方向-ヴィヴァ,原発!の路線-にまたもや突きすすみたいと欲望する特定集団(いわゆる原子力ムラ関係者を中心とする支配体制側の利害関係保持者たち)は,人の不幸も悲惨もへったくれもない感覚の持主に映る。

 つぎに南海トラフ地震に襲われたとしよう。とくに中部電力の浜岡原発の危険性が地盤軟弱の問題と併せてだが,専門家には恐れられている。けれども,大手電力会社は「ロシアのプーチン」によるウクライナ侵略戦争の悪影響で高騰した化石燃料の値段は,原発を再稼働させることによって解決できると思いこんでいる。

 だが,今後の一時だけの対策をもって,10年単位でみすえるべきエネルギー問題を,目先しかみない近視眼的な態度で原発を再稼働させるのは,再生可能エネルギーの導入・利用・発展を妨害するだけでなく,ヘタをすると「日本,第3の敗戦」といううきめに遭遇する可能性がある。

 可能性として否定できないのは,南海トラフ地震が超大地震を発生させたとき,もしも東京以西で原発が1基ではなく2基まで大事故を起こす事態になった分には,日本はもう完全に沈没する。4つの列島が浮いたまま実質そうなる。

 ※-5 能率五道-その本論-

 a) 本日かかげた論題は,あらためて「上野陽一の『能率五道』の今日的意味」として理解されてもよいものである。この文章は実はもともと,その東電福島第1原発事故の発生以前,その5年ほど前の2014年に書かれていたものであった(事後,更新をなんども重ねてきた)。

 さて,発電の方式でいえば,小規模地域分散型の発電方式に通じるというか,これを支持する「経営能率思想」を明確に提示していたと解釈してよい上野陽一「能率学」を,ここで紹介しておくことは大いに意味があるはずである。ということで,この「本論」のための解説を充てるかたちで,若干の議論してみた。

 --上野陽一は,いまでは地産地消と表現される地域密着型の「生産-流通-消費」における「欲求充足のための生活様式」を,戦前から提唱してきた。この考え方は,われわれの生命生活・生産活動のあり方に関する再生方式が,どのように構築・維持されればいいのか,重要な示唆を与えていた。

 原発のような大規模な電力生産方式は,これをいったん操業(稼働)させると,1基あたり〔ざっと〕100万kWh 前後もの発電能力をもつ装置は,その操業度を上下に変動・融通させることは,基本として好ましく操作となる。

 だから,これを「能率概念」を当てはめて判断(診断)すれば,まさしく問題だらけの,いいかえれば,応用力・柔軟性・弾力性を完全に欠いた「ムリ・ムダ・ムラ」を充満させた電力の獲得方法であることが,明白に指摘されざるをえない。

 要は,上野陽一の能率学は,間違いなく脱原発を勧めている。「3・11」の当時までのように,日本において約3割の電力生産量を原発が占めた日本の電源別構成比率は,能率学の見地からはきびしく批判されるほかない。

 また,原発の熱交換比率は33%であり,能率の観点に照らしていえばすでに,LNGを燃料とする火力や石炭を燃料とする火力にも大きく水をあけられていた。最新のLNG火力になると,原子力のほぼ2倍〔以上まで〕の効率で燃焼できる。

 にもかかわらず「原発,原発だ,その再稼働,再稼働だ」と,唱えつづける原子力ムラの信者がいる。この発電効率の観点では原発はすでに落第点しかとれていなかったし,その意味では大昔から問題児であったはずである。

 なお,原発は全基廃絶したあとは,この原発との組み(セット)で建造されていた揚力発電所を転用(流用,活用)して,スマートグリッドの電力需給体制に生かせるという意見も,すでに提示されている。

 ここで,本論に戻る。

 b) 能率五道の中身 

 上野は能率道の具体的指針を「能率五道」に表現した。こういう5か条である(ここでは,産業能率大学編『上野陽一伝』176頁より引用)。

 「正 食」 ワレラ  ワ  誓ッテ  正シキ  食物  ヲ  トラン 肉体ヲ  ツクリ  精神ニ  培ウ  原料ナレバ ナリ
    「正 坐」 ワレラ  ワ  誓ッテ  正シキ  姿勢ヲ  タモタン 正シキ  内容ニワ  正シキ  式ヲ  必要トス
  「正 学」 ワレラ  ワ  誓ッテ  正シキ  学問ヲ  究メン 学ワ須ラク  東西ニ  通ジテ  偏ラズ  ベカラズ
 「正 信」 ワレラ  ワ  誓ッテ  正シキ  信仰ニ  生キン 正シキ  信仰ワ  正食  正坐  正学ヨリ  生ズ
 「生 語」 ワレラ  ワ  誓ッテ  正シキ  コトバ  ヲ 用イン 正シキ  道ワ  正シキ  コトバ  ニ  ヨッテ 伝ワル

能率五道

  以上の5か条は,戦争中に西田〔幾多郎〕哲学の弟子たちのなかからも,日本の「世界史的使命」を提唱する《哲学者たち》が登壇したり,さらに以後にも陸続と登場する戦時「狂信的な日本精神論」の跳梁跋扈に対面した上野陽が,

 太平洋(大東亜戦争)も最終段階に至った昭和20年2月の時点であったが,上野陽一があえて勇気を出し,戦時体制を批判したときこの精神基盤を支持していた理論的構想を教えている。

 その大東亜〔太平洋〕戦争の最中に開陳された「アメリカの哲学と日本の哲学とを比較して,アメリカは日本に比べて低級であると見下した」独善・独断の主張は,上野陽一によって適切に批判されていたことになる。

 哲学者の和辻哲郎の話題に戻る。昭和19〔1944〕年7月に公刊した『日本の臣道  アメリカの国民性』筑摩書房が,戦争の時代において帝国臣民が抱くべき理想・信念・義務⇒「任務」を,つぎのごときに定めていた。

 自分が生きるか死ぬかといふことは,そんな大事件ではない。自分の担ってゐる任務の方が自分の命などよりは比べものにならぬほど重い。その重い任務の達成を中心にして考へると自分の死ぬことなどにこだはるのはまだ『私』を残した立場である。

 さういふ『私』をも滅し去って,ただ任務だけになり切らなくてはならない。これが恐らくあの言葉--「大君の御為に身命を捧げるといふ覚悟」--の意義でありませう。そう致しますると,これは,古来『死生を超えた立場』を云ひ慣はしてゐるあの境地なのであります。

『日本の臣道  アメリカの国民性』4頁。

 c) かつて戦争の時代,万世一系の皇統,八紘一宇,一君万民などの伝統にもとづき,日本帝国臣民に固有の天賦とされた「精神の卓越さ・ヤマト魂の絶対性」というものが,無条件になによりも至尊とみなされ昂揚されていた。

 だが,それは「第2の敗戦」後における「原発安全神話の破綻・溶融」に似ていなかったか。2011年の「3・11」までは,こちらの安全神話に疑問を呈したり批判する者は,徹底的にイジメ抜かれ,干されてきた。

 「第1の敗戦」に至る前,ヤマト神州論に疑いを声を上げたら,ただちに非国民あつかいされた事実は,原発の安全神話を疑う者,原発体制に反対する者が,東日本大震災・東電福島第1原発事故の発生以前であれば受けてきた「迫害」に相似形であった。

 しかし,「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざとおり,またぞろ「愚かな」「戦後体制の反復」を現象させつつあるのが,現状におけるこの国である。

 日本のある首相は「戦後レジームからの脱却」を高唱していたけれども,戦時さえろくに克服できない政治屋であったその人に,戦後も戦前もあったものではない。彼にあったものといえば,戦前の悪い面+戦後の悪い面の相乗効果でしかなかった。

 d) 大東亜戦争開始直後,『中央公論』昭和17年1月号は,京都学派の哲学者4人「高山岩男・高坂正顕・西谷啓治・鈴木成高」による座談会「世界史的立場と日本」の内容を掲載している。その座談会は,「近代の超克」を成就するために〈日本の道義〉を発揮すべき「日本帝国の思想的立場」を議論した。

 上野陽一が,この京都学派の哲学者たちや和辻哲郎が唱えた純粋なる皇道観念を念頭に置き,直接にとりあげ批判していたというべき確実な証拠はない。とはいえ,まさしくその種の「観念論的なア メリカ〔無〕理解」のズサンさを,上野は能率学の舞台に引き出したかたちで,実質,真正面からとりあげ批判した。

 e) 話を能率五道に話題を戻そう。筆者の手元には上野陽一『能率道講話』技報堂,昭和31年(産業能率専門学校,昭和22年の再版)という本がある。本書の 93-148頁 に収められた「正食論」は,こういう項目を編成している。

  1 自然界に養われている人間
  2 カラダを作る原料は食物
  3 ナニを食べたらよいか

   第1原則 そのトコロのモノを選べ
   第2原則 そのトキのモノを選べ
   第3原則 部分よりも全体を選べ
   第4原則 活力の強いモノを選べ
   第5原則 人間に縁の遠いモノを選べ

  4 ドレダケ食べたらよいか
  5 食物の料理について
  6 正食の原則からみた砂糖
  7 食事のシカタについて  

 ここに説明されている「食の正しい摂りかた」は,今日「食べ過ぎ」「偏食」「ダイエットしすぎ」など,量的・質的にも均衡を忘れ失っている,現在におけるわれわれの食生活を,是正し改善するのに役立つヒントが記述されている。

 さらに,食料自給率の問題に直接関連する解説も入っている。上野にいわせれば「正食しないと長生き」できないよ,それが「能率的な人生=〈生まれてから死ぬまで〉の食事のしかた」だよ,といっているかのように聞こえる。
 

 ※-6 原発は能率五道にもっとも反するエネルギー源

 a) 原発は遠い場所に立地して電気を作り,そこから遠い都会にまで電気を送っている。送電線で伝導する電気は,100%がそのまま,消費地に届くのではなく,途中で損耗する。

 たとえば,東電管内以外の遠隔地に配置された東電の原発は,送電・配電における損耗の問題もあり,能率概念の基本思考から観れば,そのもっとも非・反「能率」的な「電力の生産と流通の方法」を採らざるをえない。

 東京電力で昔,社長を務めた木川田一隆がいた。東電が原発を導入する以前に登場していた人物であった。この木川田については,原発の関係でつぎのように描かれていた。これは,上野陽一の能率思想と対照させ,関連づけて読むべき文章である。

 1953年12月,アメリカのアイゼンハワー大統領は国連総会で「原子力の平和利用」をアピールする。翌年3月にはまだ新人議員だった元首相の中曽根康弘が中心となって日本初の原子炉築造予算案を国会に上程し,4月に可決される。

 そのころ副社長を務めていた木川田は企画課長から一刻も早い原発開発を迫られていた。しかし「原子力はダメだ。絶対にいかん。原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が,あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と一歩も譲らなかった。

 両者は夕闇が濃くなるまで電灯もつけず押し問答を繰り返した。電気がもったいないと言って木川田はよほど暗くならないと電灯をつけなかった。暗がりのなかで自分自身に言い聞かせるように「原子力はいかん」と呟いていたという。

 そんな木川田が突如として原発推進へ傾斜したことに周囲は驚きを隠さなかった。彼自身も最後まで真意は語らなかった。だが,原発推進が国策化するなかで時代の流れを止めることはできないと木川田が最終的に判断したことは当時の状況から合理的に推測できる。

 戦時中の苦い教訓を念頭に原発を基軸とする電力事業の主導権をふたたび国家に奪われたくないという執念もあったはすだ。

 (中略)

 なんの問題もなければ木川田は,先見の明のある理想派経営者として燦然と輝きつづけていただろう。だが,2011年3月11日に発生した東日本大震災によって栄光の歴史は一変する。

 福島第1原発はずさんな安全対策で炉心溶融や施設の爆発など,チェルノブイリと同様のレベル7に分類される重大事故を引き起こした。後世のこととはいえ,福島に原発を建設した木川田の結果責任は免れない。

 「これからは原子力こそが国家と電力会社の戦場になる。原子力という戦場での勝敗が電力会社の命運を決める」と,原発推進の号令を全社に発した木川田は,企業の論理を優先させて「悪魔のような代物」と手を組んだ

 それは「企業を原点に社会を見るのではなく社会に原点を置いて企業を見る」という持論と明らかに矛盾していた。歴史を後戻りさせることはできない。とはいえ,木川田が生きて震災後の故郷をみたら,いかなる社会的責任を果たそうとしたのだろう。 

注記)高倉克也「〈明日への道標〉理想と現実のはざまで-福島に原発を立地した木川田一隆-」『経済同友会』https://www.doyukai.or.jp/kikawada/pdf/publish_344.pdf?211220,7頁。

 地産地消型の再生可能なエネルギー資源獲得の方法に比較すれば,原発の問題がいかに深刻かつ重大な電力生産方式であったか,原子力というエネギー源が利用される以前から,木川田一隆自身は,原発が《悪魔の火》そのものである問題を,より明確に理解していた。

 b) 原発はまた,その電力生産に関する技術特性からして,電気の消費者に向かっては,否応なしにその使い過ぎ(大量消費)を奨励しなければならない発電装置でもあった。

 したがって,オール電化住宅という生活様式は,調理・給湯・空調(冷暖房)などのシステムすべてを「電気(IH方式  Induction Heating:電磁誘導加熱)によってまかなう住宅」を指すが,このオール電化住宅が,国が推進してきた原発とは切ってもきれない関係があったのである。

 だが,オール電化住宅という営利製品は,原発という電気の大量生産方式のほうに,生活する側における「われわれの様式(スタイル)」を無理矢理合わさせようとする,いわば「電力の押しこみ販売」を前提にする。昔風にいえば,電力のその「押し売り」的な販売戦略と一心同体の電化製品が,IHである。

 原発の電力生産方式としての特性,すなわちその融通性(操業度・稼働水準の柔軟性・弾力性)に乏しい技術経済的な制約に,電力の使用者・消費者がいってみれば従属的に関係づけられた「電力の需給事情」が,そのオール電化住宅という電力の利用方法においては方向づけられる。

 2022年2月24日に「ロシアのプーチン」がウクライナ侵略戦争を開始させてからというもの,すでに値上げが頻繁になっていた電力料金が直近の価格では「月ごとに1年前より3割」も上昇してきた。こうなるとオール電化住宅という電力利用の仕方が,生活学的な見地かすれば非常な不利を余儀なくされるほかない。

 電力会社にとってみれば,原発をいつも稼働させつつ,かつ儲けの上がる固定資産として利用できる設備管理体制は,電力使用者・消費者側においてオール電化住宅が広範に構築されることが,必要不可欠であった。

 つぎに紹介する「オール電化住宅」の宣伝図解例は,「3・11」直後のものであったがゆえ,電気料金の面で問題があったものである。再生可能エネルギー(太陽光や風力,水力,地熱など)の積極的な利用をも工夫し,ここに追加して構成しておかないことには,すでに妥当しえない内容になっていた宣伝文句だといわねばならない。

 これは,時代遅れの製品概念が美辞麗句でもって語られている。しかもこれは,あくまで「3・11」以前に通用しうる宣伝方法だったとみておく。電気料金が高騰しているおり,この解説図に記入されている文句は,だいぶ以前から古証文。  

オール電化・図解

 関連させての話となるが,「オール電化にも実は弱点があります!」と指摘するあるHPからは,こうした電力の利用方法に関した,以下のような説明も借りておく。ここで指摘されている「弱点」は,ふだん支払う電気代の高騰に関しても,ズバリ妥当するようになっている。

    「光熱費も節約出来て,快適に暮らせるイメージがありますが,初期投資も大きいため,メリット部分だけイメージしてオール電化にしてしまうと後で後悔する場合があります」ゆえ,その「弱点をきちんと把握して納得してからオール電化住宅にすることをおすすめします」。

註記)「オール電化の弱点を公開!! 知らないと後で損をする」『タイナビ』2019年7月26日,https://www.tainavi.com/library/3978/

 c) オール電化という電力の消費方式は,いうなれば電力を生産する会社側の都合を優先させる,すなわち,「原発で大規模な電力量を発電させる立場」(⇒ 原発は発電出力内における “稼働率の上下変動” が基本的に不都合である技術的な“負の特性” )を,できるかぎりにおいて消費者側の立場・利用に押しつけようとする,つけまわしさせようとするものであった。

 むろん,再生可能エネルギーの利用に関しても,初期の設備投資のために支出した経費がいかほど回収できるかどうかについてのの経済計算は,とくに発電した電力を売ろうとする前提を置く場合においては,その買入価格側の条件に大きく左右されるという種類の問題も控えている。

 とはいっても,原発と再生エネの問題をいっしょくたにして比較することは「できるはずもない話題」になっている。このあたりの問題は,エネルギー観(価値観)に関した現実的な認識にくわえて,まさしく,将来にかけての長期的な比較考量をも意識したうえで,正直に損得勘定をおこないながら展望をなすべき対象であった。

 とはいっても現在まですでに,「原発」は「再エネ」に対する経済計算「比較」では,とうてい勝目がなくなっている。長期的・最終的に確定したといえるこの事実を認めたがらないのは,原発推進派の,いわゆる原子力村:マフィアに,まだ本籍地を置いている人びとだけである。

 補注)「プーチンのロシア」が2022年2月24日,ウクライナ侵略戦争を始めた関係で,石油やLNGが高騰しているが,本稿で論じている大筋に変更はないものと予見できる。

筆者補注。

 上野陽一が生きていれば,原発には猛烈に反対したと推理できる。「能率五道の思想・観点=人生の生き方」に照らしても,原発などは,それこそ滅相もないエネルギー源だと猛烈に批判するに違いない。

 そうであった。原発は実に愚かな発電方式なのであって,その「滅相のためのエネルギー生産方式」でしかありえないのである。すなわち,原子力そのものの有する本来的な意味は,悪魔から人類に送られた(贈られた?)『業火』,つまり「《悪魔の火》である点」にみいだすほかない。

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