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靖国神社問題に〈無識〉であったアメリカ人教授の発言

 ※-1 前書き-なにをとりあげ,どのように論じるか-

 本稿は「靖国神社問題に〈無識〉であったアメリカ人教授の発言」をとりあげ,この日本の宗教問題を落ちついて勉強もしないまま,いきなり高踏的にモノをいった『学究もどきの人物「論」』をとっかかりにして,あれこれの議論をしていきたい。

 なおこの記述は2014年3月2日に初出,2020年10月29日に補訂したが,その間未公表の状態で倉庫入りしていた。本日,2023年12月9日に再公表する機会をえた。内容に則していえば問題の性質上,古くてもかつ新しい課題を俎上に上げている記述ゆえ,陳腐化していなかった。

 以前に公表したことのあった本日のこの記述に関連する事情を,そのように打ち明けたうえで,この「靖国神社問題に〈無識〉であったアメリカ人教授の発言」を「まな板の鯉」的な素材にし,とくにつぎのごとき関心を向けて批判的に吟味する議論から始めたい。

  要点・1 ジョージタウン大学東アジア言語文化部教授の肩書の軽さ  

  要点・2 靖国神社の本質も歴史もしらぬ発言,そのなにもしらずに発言したから,軽率という以前の無知蒙昧をさらけ出した

  要点・3 靖国神社の国家神道的な宗教の意味あいなど,寸毫も理解してできていない自民党の政治家たちがこの神社に参拝したところで,本当にその宗教的な真義が発揚できるのか疑問しかなかった

 

 ※-2 アメリカの一流大学教授の「日本理解の低程度」にはビックリさせられた

 『朝日新聞』2014年2月27日朝刊「国際」面に「〈世界が見た安倍首相〉靖国参拝,米の識者が分析」ということで,3名のアメリカ人研究者がインタービュー記事のなかで発言していた。発言者は以下の3名である。

 ◆「日中の衝突,巻き添え懸念」するという,ボストン大学国際関係学部准教授,トーマス・バーガー。

 ◆「安保政策を自ら傷つけた」という,ブルッキングス研究所上級研究員,ジェフリー・ベーダー。

 ◆「オバマ政権の反応に失望」したという,ジョージタウン大学東アジア言語文化学部教授,ケビン・ドーク。

ジョージタウン大学とは
Newsの "National University Rankings" において
全米22位にランクされている
また大学全体の国際的な評価としては
2022年の QS World University Rankings において
248位にランクされている

 この3名の意見をくわしく紹介したいが,今日はやめておくことにする。ただ,この3名のうち,アメリカのりっぱな大学の一教授であるはずのケビン・ドーク(画像の人物;Kevin M. Doak,1960年生まれ)は,アメリカ合衆国の歴史学者で日本近代史・日本思想史専攻,現在、ジョージタウン大学東アジア言語文化学部教授)が,

 完全に「ピン外れ」というか,靖国神社の本質も歴史もなにも分からない不勉強・未学習のまま,まことに〈ひどい知識の欠落〉を惜しみなく(?)披露していた。これには,驚嘆するどころか(腰が抜けるほどにも?),とてうもなく,条件に呆れはて “させられた” 。

 ケビン・ドークの見解がもしも勉強不足でなければ,それは完全に「純粋に政治の立場」からするものであって,研究者(学究)の立場からの発言とは,とうていみなせなかった。それほど程度の悪い,学問精神とは無縁の発想を恥じらいもなく前面に出し,語っていた。

 大学の教員(研究者)であれば,自身のする発言は最低限,学識にもとづかねばならず,このことはあまりにも当然である。だが,今回におけるドークの意見は,「共和党」でもゴチゴチの右派,それでいて日本認識はゼロだった,アメリカ議員の口から出てきたもののようにも聞こえた。

 ケビン・ドークのその〈知識の欠落〉にかかわる意見は,たとえば,こういった箇所に端的に表現されていた。記者に「安倍首相の靖国参拝を擁護していますが,理由はなんですか」と問われて,こう答えていた。

 「安倍首相は談話で『過去への痛切な反省』を明確にし,二度と戦争をしてはならないといっています。安倍首相が日本人だけでなく外国人の戦没者も慰霊する『鎮霊社』を訪れたことも重要です」

 この答えは「鎮霊社」に関する基礎知識が,もとより皆無であった事実を教えていた。しかも,この皆無であった知識の前提でもって「鎮霊社」に言及したところが,まさしく自身の〈無識の開陳〉を,それも馬鹿正直なまで進んで告白したことになっていた。

 補注)ただし,以上のごとき「ケビン・ドークの意見・解釈」に向けてみた以上の批判は,このアメリカの学者が本当に「靖国神社の由来・歴史・現状をしらない」のだと判断したうえで,おこなっている。

 補注)靖国神社境内のなかには,まるで邪魔ものあつかいしたかのような印象を受けるのだが,その「鎮霊社」という小さな祠が設置されている。この鎮霊社について本ブログは,つぎの記述で詳述していた。

 なお,次段であらためて解説することになる論点なので,この住所(リンク先)に飛んでもらい,わざわざ読んでもらわなくともよい。

 ここでは意図的に多少,勘ぐったいい方をするほかないのだが,ドークは事実,靖国神社の本質・思想をまったくしらないで,そのように発言したのではなかった,という〈疑い〉を抱かれてもなんら不思議なかった。

 そうだとしたら,日本・日本人側も相当に舐められていたとしか受けとりようがなくなる……。この程度の靖国問題に無識であったアメリカ大学の教員が,日本に来て日本人側に対して,その蘊蓄のある・なし以前の,つまり素人談義にすらなしえなかった〈教説〉を垂れる資格は,まったくなかったのである。

 前述に触れたように本ブログ内においてはすでに,この鎮霊社に関した記述をおこなっていたので,これをここに再録しておくことにした。文章に関しては本日(2023年12月9日)なりに,若干の手直しがくわえられている。


 ※-3 幼稚と傲慢,靖国神社には「不戦の誓い」のために参拝したという,安倍晋三の「靖国理解のトンデモな間違い」

 ここではさきに以下の議論において問題となる要点を挙げておきたい。
 
  ♠-1 いまの「天皇陛下」もなぜ靖国に参拝しないのか, その理由(天皇家の個人・家庭的事情)をしらないのか? 

  ♠-2 歴史への無知・無理解が,勇猛果敢にも靖国神社参拝という行為を,安倍晋三にやらせていた

 なお♠-1の点は,敗戦後になってからだが,昭和天皇「裕仁」が1975年11月21日の靖国神社「親拝」以降,この神社には参拝にいっていなかった事実,そして,息子の平成天皇「明仁」も孫の令和天皇「徳仁」も,つまり半世紀ものあいだ,彼らが九段下には出向くことがなくなった事実を,関連する事情として挙げておきたい。

 1) 戦争神社である「靖国神社」に固有である〈歴史的な基本矛盾〉
    -その存在価値は敗戦によってすでに無に帰していた-

  2013年12月27日の朝刊は,前日の26日,靖国神社に参拝した安倍晋三の行動に関する記事を満載していた。もっとも,これは朝日新聞に関する紙面作りに関しての話ともなる。

 問題の焦点は,安倍晋三がなぜ靖国に参拝にいったかという点については,彼自身が口にしていた理由に向けられるべきである。この指摘は,安倍晋三だけの問題ではない。

 靖国神社に特有である明治帝国主義的性格,その本質的な基本特性である「戦争神社」性への言及を欠いた議論は,すべてが「焦点をとらえそこなった方向」に進むしかなくなる。

 「靖国神社はもとから戦争神社として創建されていた」のであって,明治政府が大日本帝国のために創設させた「勝てば官軍」のための神社である。 したがって,これを端的にいえば「勝利者のための国営神社」であった。

 そうであったのであれば,大日本帝国の歴史のなかで,この国が戦争に敗北していなかっ た,決定的な負け戦になっていなかった時代(時期)までは,この戦争神社の存在価値はまともに発揮できていた。だが,この大日本帝国は第2次大戦:大東亜 〔太平洋〕戦争で完敗した。 

  ところが,旧・日帝はあの大戦争で完膚なきまでに敗退させられていた,いいかえれば勝利できていなかった。

 だから,本来的に「歴史的に意味のなくなった,存在する価値:意味が雲散霧消した靖国神社」において,21世紀にいまになってもなお,過去における戦争の「戦没者=戦死者など」を 〈英霊〉として合祀する国家神道的な宗教手続を採りつづけている事実は,まともに「歴史のなかに据えられた論理の構造」を理解できる人間であれば,即座に疑問を抱いて当然である。

 ところが,不思議なことになぜか,敗戦後も靖国神社は敗戦後も戦前体制と同じに利用されてきている。この 「もっとも基礎的な疑問」はいままで,根本からまともに問題にされ詮議されることもなく,つまり,無自覚にかつ意図的(!)にも放置されていた。

 2)「賊軍(旧大日本帝国陸海軍)」のための神社が必要か?
    -負け惜しみをいうための足場:橋頭堡が靖国なのか-

 第2次大戦において大日本帝国は,判りやすくいえば,連合国が《官軍》だったとすれば『賊軍』になっていた。

 この事実を認めたくないとしたら,ポツダム宣言を受け入れた「天皇裕仁のために存在していた旧日本帝国」の立場そのものを,さらには「敗戦後になってできた日本国」の存在じたいをまずさきに否定し,排除する歴史認識を的確に指示・用意できていなければならない。

 ところが,一方では,東京裁判史観という奇妙な理屈(ポツダム宣言否定の考え方)を出しておきながら,かといって,自分たちが賊軍になってしまった立場を認めたくない保守・右翼・国粋・反動の人びとは,

 他方では,昭和天皇の「天皇としての立場」は熱烈に支持しつつも,奇妙なことに,この「天皇の大御心」に真っ向から叛逆する国家思想と政治信念と抱懐してきた。

 つまり,彼らの政治的な立場はいまも,加療不可能であった腸捻転的な症状をかかえた状態に置かれている。

  要は「彼らは」「天皇陛下」も認めていたポツダム宣言受諾を排斥し,さらには,戦後における日本が敗戦国として置かれた国際政治社会における立場を,この昭和天 皇とは違い,認知も許容もしようとはしない。

 「彼らは」,そういった,歴史の生んできた状況関係において「大きく矛盾するほかない自分たちの立場」を平然と披露し,いつまでも・どこまでもイコジになって維持してきた。それでいながら,「そうした立場」に固有であり,どこまでいっても払拭できない自家撞着を頭の上に載せつづけている姿は,第3者の目線からみれば滑稽にしか映らない。

 安倍晋三が今回(ここでは自分が第2次政権を発足させてからちょうど1年が経過した2013年12月26日),靖国神社参拝をおこない,わざわざ国際政治社会,とくに東アジアの近隣諸国(なかでも韓国・中国)に対して,ケンカをふっかけるように言動をした。

 その行為は,この日本国首相自身の「幼稚と傲慢」とをないまぜにした虚勢でしかない。外祖父(岸 信介)ほどには権謀策術に長けたところなどない人物が,ともかく,もとより自分にはまともに備わってもいない政治手腕(!)を,大いに発揮したかったのか(?)などと,忖度気味に彼の胸中を探ってみるのもよかったのか。

 以下の記事引用はそれから7年後の話題となる。

       ★ 安倍前首相が靖国参拝 退任後2回目 ★
 =『時事通信』2020年10月19日16時30分,https://www.jiji.com/jc/article?k=2020101900381&g=pol =

 安倍晋三前首相は〔2020年10月〕19日,東京・九段北の靖国神社を参拝した。「安倍晋三」と記帳し,私費で玉串料を納めた。参拝後,記者団に対して「英霊に尊崇の念を表した」と語った。同神社では17,18両日,秋季例大祭が行われていた。

 安倍氏は第2次政権下の2013年12月26日に参拝した。その後,在任中は控えていたが,首相退任直後の9月19日に参拝し,今回が2回目。

 加藤勝信官房長官は記者会見で「私人である前首相個人の参拝だ。個人の信教の自由に関する問題で,政府として立ち入るべきものではない」と指摘。菅 義偉首相が祭具の真榊(まさかき)を奉納したことについては「首相として適切に判断したと承知している。あくまで私人としての奉納だ」と述べた。

『時事通信』2020年10月19日

 安倍晋三が首相であった時期,2013年12月26日に靖国神社に参拝して以降,九段下にいけなくなった最大の理由は,「アメリカに勝手なおこないをするな,こちらのいうことにしたがっていろ」と指示(示唆? 指導?)され,これにはすなおに応えて自制するほかなかったからに過ぎない。

  安倍晋三のまわりに付いていた政治・行政方面のブレーンの陣容を思いおこしてみればよいのである。

 ただの単純な観念右翼,思慮不足がめだつ保守,国家主義でゴチゴチ頭脳の知識人・学者などしかいなかった。たとえば,高崎経済大学の八木秀次(1962年生まれ,日本教育再生機構理事長,2023年12月現在,麗澤大学経済学部教授,フジテレビジョン番組審議委員,産経新聞正論メンバー)は,その代表的な1人である。

 経済・金融方面のブレーンは,結果的には,庶民の生活を悪化させるような政策助言しかできていなかったというか,もともと,そうしようとはしない面々がそろっていた。社会・思想方面のブレーンになると,あまりにも単純(単細胞)極右の反動形成的な一面思想しかもてない面々が仕えていた。

 

 ※-4「不戦の誓い」を靖国神社参拝の理由に挙げる「珍奇の暗愚ぶり」

 本来,「好戦:勝利の誓い」のための靖国神社であったのだが,それとは「真逆の〈誓い〉」をたてるための神社と利用しつつ,こちらの御利益のために願掛けをすることになっても,平然としていられる倒錯一辺倒の没論理的な屁理屈が興味深い。

 そもそも,この神社の由来に関連する歴史の知識に無知なまま,「徹底した時代錯誤の国家神道式のエセ宗教観念」が,この神社に固有の性格として因縁づけられていた。したがって,その「途方のなさ」の遠大さだけが世界各国に向けて誇れる唯一の特性であった。         

 1) 自己欺瞞としての「敗戦後史」における靖国神社の存在様式

 前段でも言及したように,靖国神社は元来「戦争を昂揚させるために国家が設置させた神社」であった。要は,戦没者の「霊魂」だけをその遺体から都合よく引き剥がしておき,別途,あとから新しく「兵隊さんになって登場した〈いまの生者〉」に必要な「督戦精神」を高揚するために,その「英霊」(死霊)からいいとこどり的な悪用を重ねてきた。

 すなわち,この神社の祭壇は,国家の戦争勝利のためにでえったが,まだ生きている将兵たちをつまり「督戦するために」こそ,すでに戦死した者たちを「慰霊するために」「合祀しておき祭祀する」のだと,ひとまず理屈をつけてあったはずなのに,

 敗戦後になってからは,その御霊を合祀しておくことは,そのさいおまけに(ついでに?)「不戦の誓い」もする(もしくは多分それを「させる」)ためにも,いまに生ける人びとすべてに参拝させることにおいて,神道宗教的な意義があるかのように,きわめて勝手な拡大解釈がなされていた。

 しかし,敗戦国になった大日本帝国が日本国に移行した事情に鑑みれば,そうした解釈に具現された理屈がもとより「木に縁りて魚を求む」行為しかなりえなかった点は,当然の帰結であった。靖国神社がする第3者向けの解説としてならば,「木で鼻をくくった」がごとき,いわば欺瞞に満ちた「自社の存在理由」を説明する態度になっていた。

 以上のように敗戦後の靖国神社が吐いてきた理屈は,的外れどころか昼夜の感覚が逆転したといっていいほどの,すなわち暗と明との区別さえ視覚できなくなった人間だけが吐ける〈盲目的ないいぐさ〉であった。

 靖国神社の境内に付設の遊就館という戦争博物館がある。ここに入館して即座に理解できるのは,日本はあの戦争に敗北したけれでも実は,「けっ して完全には負けていなかったのだ(?)」といいたいかのような,館内に漂うの〈負け惜しみ〉感であった。なんでもかんでも「日本,かく戦えり!」と負け惜しみ的に力んでは,なにかをいいたいかのような光景が特徴的であった。

 おまけに,いまさら大言壮語できるはずすらなかったのに,つまり,アメリカの兵器・武器にはほとんど負ける結果になっていたはずの「往事日本軍の軍事展示品(兵器・武器)」が,それも勇ましく並べられ,なにやらの解説も付されている。これは,深く考えるまでもなく,きわめて異常な博物館のありようである。

 太平洋戦争の時期たとえば,以下にかかげてみる旧日本陸軍のこの戦車「九六中式戦車」(遊就館に展示)と,アメリカ陸軍の中戦車M4シャーマンが直接戦闘する場面はほとんどなかったが,この画像同士を比較してみただけでも,日本の戦車側の「負け戦」的な印象は否みようがない。

主砲の砲弾は47ミリ
装甲は薄い


主砲の砲弾は76.2ミリ
装甲は厚い

 その点はあまりにも明白であった。M4戦車と九七中式戦車とは,「砲身・砲塔」(「76.2㎜砲弾」対「47(57)㎜砲弾」)でも「装甲」面(「75㎜」対「25㎜」)でも,それぞれ歴然たる差があった。

 だから,同じ「中戦車」同士であっても,初めからまったく勝負にもならない米日の兵器,その性能諸元になっていた。 双方の戦車が実戦する場合を想定するとしたら,日本のこの戦車は10両くらいまとまって行動し,アメリカのこの戦車(1両のこと)を側面からキャタピラーを破壊する狙いで戦闘をしかけるしか手がない。

 上の九七中式戦車は1937年に制式化された第2次世界大戦中の日本の代表的な戦車で,約2000両が生産された。九五式戦車とともに大東亜戦争の全期間,全戦域にわたって日本軍の主力戦車として活躍した。しかし,アメリカ軍の中戦車M4シャーマンの敵ではなかった。実際に両戦車が対面して戦闘を本格的に展開する場面はほとんどなかった。戦車をろくに保有していなかった中国軍相手の戦争では,もちろん,九七中式戦車は日本軍側の強力な兵器であった。

 安倍晋三首相は2013年のときの話だったが,靖国神社に参拝するに当たり「不戦の誓い」をするという理由づけを挙げていた。だが,この理屈は「黒を白といいくるめる」かごとき「ごまかしの,それもまことに下手ないいぶん」であった。

 敗戦後の靖国神社は,「〈英霊〉を祭神を」に都合よく転用したかたちで,7月13日から16日まで,いわゆる『みたままつり』と称した夏祭を開催しているが,この祭事は,靖国神社の歴史と本質を擬装したまやかしの縁日の設営であった(→擬装神社祭?)。

 もっとも,この『みたままつり』には「あそびがてら」楽しみにいく庶民も多くいる。靖国側の真意(底意)が庶民に十全に理解されているわけではない。ところが,靖国側として「それは・それでよい」のである。というのは,敗戦後的な事情推移のなかで,この神社じたいがみずから適応しながら創りだしたのが『みたままつり』であったからである。

 その「縁日」の期間内であっても靖国神社境内に来てくれれば,そのさい,若者たちがナンパのために来ようが,露店の食い物目当てに来ようが,ひとまず委細かまわぬ事情とみなしてきた。(ただし,その後問題になった時期もあり,出店が禁止されたこともあったが)

 靖国神社本来の国家神道的な意義が,迂回的・間接的にでも世間の側に認めさせうるような祭事になっていれば,『みたままつり』の主旨は達成できたとみなされている。これもある種の「〈秘策〉の実現」であるかもしれない。

 そのあたりの事情は,靖国神社における自己満足的な「現状の維持と理解」を示唆している。いうなれば, 靖国神社自身がいまではあえて覚悟した「強引な歴史歪曲の姿勢」がみえ隠れしている。

 2) 靖国神社の犯歴とは距離を置きたい防衛省自衛隊の「メモリアル・ゾーン」の設置

 ところで,今井昭彦『近代日本と戦死者祭祀』東洋書林,2005年という書物が,つぎの事実を指摘していた 註記1)。

 「これまで,殉職自衛官が靖国にまつられたことはない。代わりにおこなわれているのは各地の護国神社への合祀だ。OB組織の隊友会が協力してきた。同会本部によると,合祀数は〔20〕02年度末で16府県の553柱。殉職者全体の3分の1に迫る」。

 なお,自衛隊は2003年9月,東京都新宿区市ケ谷の防衛庁 (現防衛省)内に,殉職した自衛官を慰霊するメモリアルゾーンを整備した。この経緯などは後述するが,当時において同庁は「庁としての追悼の仕方はひとつ。ここで追悼する」と断言していた 註記2)。

 註記)今井昭彦『近代日本と戦死者祭祀』東洋書林,2005年,409頁。
 註記)『朝日新聞』2002年8月13日朝刊,「戦死考7『靖国』のウチとソト-追悼のかたち-」

【参考記事】

 
 防衛庁が靖国神社にこだわりをみせなかった事実は,靖国神社にまつわる過去がなにかとかもす国際問題から,距離を置きたかったためである。もっとも,いずれ訓練などによる殉職死のみならず,戦死者が出る状況を防衛省が迎えたときも,はたして,同じ慰霊の姿勢を保持できるか,事前に関心を向けておく余地もある。

 さらに今井昭彦は関連させて,過去におけるある事情について,こうまとめていた。「日露戦役後の時期に,ムラやマチに忠魂碑の建設が一般化していく現象は,個々の戦死者(忠魂)を,その集合体としての『ムラやマチの靖国』たる忠魂碑から,全国の戦死者を集めた『巨大な忠魂碑』たる靖国神社に,収斂させていく過程でもあった」

 註記)今井『近代日本と戦死者祭祀』405頁。

 靖国神社は,国家が庶民・国民・市民(かつての臣民)を戦争に駆りたてるさい,国家神道による宗教的な精神をもちだした,すなわち通常の民間側の神道神社とはまったく性格を異にする,明治政府が創設した国営神社であった。

 靖国神社は,戦前・戦中においては,陸海軍管轄になる国立の神社であった。大日本帝国のいわばアジア侵略戦争の遂行を,絶対に疑うことなどないように精神的な覚悟をもたせようと,臣民たちを教育しておくために用意された国家的な宗教施設であった。

 3) 国家が簒奪してきた庶民の祭祀

 以下の記述は,岩田重則『「お墓」の誕生-死者祭祀の民俗誌-』岩波書店,2006年を引照する。

 「戦死者多重祭祀」は,家と地域社会から靖国神社まで「三重ないしは四重祭祀」になっている。この戦死者についてだけは,その祭祀施設が「家- 地域社会-国家」と,幾重にも祭祀の次元を併存させ,多重祭祀として存在している。この多重構造においてしんがりに位置する靖国神社は,実は「戦死者の個性の解体でもあった」

 戦死者の個性は, 多重祭祀の拡大化によってその個性を弱め抽象化されていく。家の墓では1人ひとりの墓であったものが,地域の生霊神社に祀られると何百何十何人に一括されて合祀され,さらに靖国神社に祀られると 246万6千余人のなかに一括される。

 「多重祭祀としての拡大は,戦死者ひとりひとりの個性,さらには,その凄惨な戦死を滅却された戦死者として,抽象性の高い表象を生成し」ていき,「戦死者多重祭祀,なかんずくそのうちの靖国神社とは,戦死者の個性の解体でもあった」

 ここにおいて実際的に表象されるべきものは,「戦死者を戦死者たらしめる事由」を提供した国家のみとなる。これが靖国神社〔ならびに護国神社〕の存在理由である。

 註記)岩田重則『「お墓」の誕生-死者祭祀の民俗誌-』岩波書店,2006年,191-196頁参照。

 つづいて,岩田重則『戦死者霊魂のゆくえ-戦争と民俗-』吉川弘文館,2003年は,明確にこう述べている。

 「国家が不自然な多重祭祀を生みだすことなど,死者への冒涜のきわみといってよい」

 「日本の家およびムラは戦死者祭祀をおこなってきた,家についていえば最終年忌の五十回忌までをも完結させた,という事実」「が存在している」のに,

 「それ以上に必要ななにがあるの」「か。ふつうの死者のように家での戦死者祭祀も済まされ本来の戻るべきところに戻っていった,それでよいのであ」る。

 註記)岩田重則『戦死者霊魂のゆくえ-戦争と民俗-』吉川弘文館,2003年,32頁。

 岩田重則がこのように指摘した靖国神社の戦争「死者への冒涜のきわみ」など,昨日(ここでは2013年12月26日のこと)この神社に参拝にいった安倍晋三には,理解できない歴史認識である。

 大東亜〔太平洋〕戦争に敗北し,ポツダム宣言を受けいれ,自国をアメリカ軍を主体する連合国軍に占領・支配された歴史は,日本が世界のなかでは「賊軍」になってしまった事実として認めるほかなかったではないか。

 いわば,第2次大戦に完敗した大日本帝国は,日本国とその名称を変えておき,そのような「歴史の結果を認めるその後」を歩んできた。この歴然たる事実を認めたくないからといって,靖国神社〔=戦争に勝利しなければ意味のない〕に参拝したところで,安倍晋三に関してはもちろん,自民党支持者のみならず,日本国民の誰であっても有意・有利・有益たりうることがらは,なにもない。

 ポツダム宣言受諾という「歴史の意味の重さ」を,瞬時でも忘れる気分になれるのであれば,それから,はるか遠くにでも逃亡できたと思っているのか。安倍晋三の靖国への参拝行動は,国内外関係各方面すべてに対して,百害あって一利なしであった。

 それにしても,政教政党である公明党があいもかわらず情けない。与党の地位から離れたくないがためか,今回もへっぴり腰でしか,安倍晋三にものをいえない状態である。当の『公明新聞』の報道でみると,「公明・山口代表『今後の問題考えると残念』」という見出しで,こういう記事があった。

 公明党の山口那津男代表は〔12月〕26日,安倍晋三首相の靖国神社参拝について「靖国参拝が政治問題,外交問題を引き起こすから賢明に対応した方がいい,避けた方がいいと繰り返しいってきた。にもかかわらず参拝したことが今後,引き起こす問題を考えると残念だ」と批判した。

 註記)「首相の靖国参拝は残念」『公明新聞』2013年12月27日,https://www.komei.or.jp/news/detail/20131227_12968

『公明新聞』2013年12月27日

 

 ※-5 鎮霊社にも参拝したという,これまたひどい,安倍晋三流の〈暗愚の行動〉

 靖国神社境内の拝殿や本殿の南側にひっそりと配置されているこの「鎮霊社」は,一時期は入口の門に鎖がかけられ拝礼できない状態にあった。これは,靖国神社の本旨にそぐわない祠(「ほこら」,単に「社」と名づけられている)であった。

鎮霊社の位置
鎮霊社と案内板

 靖国神社がA級戦犯を合祀する以前の宮司であった筑波藤麿(1946年1月25日~1978年3月20日,在職中に死去)が,靖国の基準に照らして英霊として合祀できない戦死者(戦没者)が多くいる「歴史的な事実」を憂慮し,またこの神社の敗戦後に置かれた苦境も配慮して,この「異質の鎮霊社」を設置しておいたのである。その意味では由来からして,もともときわめて「うさん臭い」祠の存在であった。  

 ところが,安倍晋三はこの鎮霊社にも参拝したからといって,すなわち,英霊の合祀されている本殿以外にも参拝したこの「俺の宗教的に心の広い行為」を理解せよ,といいたかったらしいのである。

 しかし,鎮霊社が歴史的に本源から有する「国家神道の立場とは無関係である」特徴,さらにいえば,靖国神社の境内においてはこの祠が「邪魔者あつかいされてきた事実史」に鑑みても,こういう政治家の無理解にもとづく理屈はまったく通らない。ただ,おのれの無識ぶりをさらけ出したに過ぎない。

 

 ※-6「国に捧げられた尊い命」という陳腐な〈決まり文句〉

 戦争犠牲者に関しては,それもとくに靖国神社に合祀された英霊たちに向かっては,「尊い命」という表現が盛んに強調されていた。そうなのであれば,靖国に収容しているという246万余もの,〈英霊〉になってしまった将兵たちの『尊い《命》の死』は,いったい「どうして〈生まれた〉か」を説明しておく必要がある。

 1銭五厘の赤紙で兵隊にとられただとか,陸軍兵士の武装にもたされた三八式歩兵銃は,1905〔明治38〕年に日本陸軍で採用されたボルトアクション方式小銃であったが,この小銃に印刻されていた菊の紋章にキズなどつけた兵士は死ぬほどの懲罰を受けた。

 旧大日本帝国軍の兵士たちは兵器・武器に比較したら,それこそ人間あつかいされていなかった。

 1)『戦 陣 訓』

 1941:昭和16年1月8日,日米戦争の開幕をすでに覚悟せざるをえなかった大日本帝国の陸軍においては「陸訓第一号;本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ」が公表された。陸軍大臣の東條英機が発行者であった。その「第八 名を惜しむ」では,有名なつぎの一句があった。

  『恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ,愈々奮励して其の期待に答ふべし』

   『生きて虜囚の辱受けず,死して罪禍の汚名残すこと勿れ』

  要は,戦争に動員された日本の〔日本人だけではなかったが〕男児は,「生きて虜囚の辱受けず,死して罪禍の汚名残すこと勿れ」と訓辞され,戦場から生きて還れることなど,絶対に考えるなと命じられていた。

 ところがである,これを兵士たちに強要していた当の東條英機(太平洋戦争:大東亜戦争開戦時の首相)は,敗戦後にまで生き延びてA級戦犯になっていたのだから,なにをかいわんやであった。

 おまけに,敗戦後間もなく,アメリカ軍が東條英機を捕まえに来たとき,拳銃を使った自殺に失敗した男が,前段のごとき「戦陣訓」を作製させていたのだから,洒落にもなっていなかった。

 つまり東條英機という男は,A級戦犯として処刑される前に自死する行為をしくじっていた。ドジな旧日帝陸軍の将官であった。ただし,いいこともしたと当人は認識している。それは裕仁の代わりに自分が処刑されたのだ,いってみれば「クソまじめに」信じこんでいた点に明らかであった。

 それに対して裕仁は東條英機のそうした末路を,心底ではせせら笑っていたと推察される。東條自身の裕仁に対する崇敬の真心は,無限大にひとしかったものの,その反対の関連性において浮かぶ裕仁側の真意は,高がしれていたというべきそのまた以前のところに浮遊していた。

 2)『軍人勅諭』

 この『軍人勅諭』(1882:明治15年1月4日)は,その「前文」を,「我国の軍隊は,世々天皇の統率し給ふ所にぞある」という冒頭の一句から始め,こういう文句も続けていた。いうまでもないが,朕とは天皇(当時は明治天皇)のことである。

 「朕は汝等を股肱と頼み,汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ,其親は特に深かるべき」

  「朕が国家を保護して,上天の恵に応じ祖宗の恩に報いまいらする事を得るも得ざるも,汝等軍人が其職を尽すと尽さざるとに由るぞかし」

  「我国の稜威振はざることあらば,汝等能く朕と其憂を共にせよ。我武惟揚りて其栄を輝さば,朕汝等と其誉を偕にすべし」

 「汝等皆其職を守り,朕と一心になりて力を国家の保護に尽さば,我国の蒼生は永く太平の福を受け,我国の威烈は大いに世界の光華となりぬべし」

 「朕斯くも深く汝等軍人に望むなれば,猶訓諭すべき事こそあれ」

 この最後の文句を受けて,有名なつぎの段落の文句も出てくる。「一 軍人は忠節を尽すを本分とすべし」という項目のなかに書かれているそれである。

 抑国家を保護し国権を維持するは兵力に在れば,兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ, 世論に惑わず政治に拘らず,只々一途に己が本分の忠節を守り, 義は山獄よりも重く,死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。其操を破りて不覚を取り,汚名を受くるなかれ。

『軍人勅諭』

  つまり,天皇陛下のため=御国のために,自分の「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」と命令している。戦後になってから,日本国のある首相は自国の航空会社に発生したハイジャック事件において,乗客(人質)の命は「地球よりも重い」のだと,名言を吐いたことがあった。そのあいだには,天と地の差ほどに意味が異なっていた。

 けれども,戦前・戦中はまるでそのさかさまに国家は,国民(臣民)の生命を,このように羽毛の1本よりも軽いものとしか観ていなかった。戦争においては将兵,それも兵卒はとくに「人間としての兵器であり,消耗品」である(いまの自衛隊も,軍隊であるかぎり同じ考えにならざるをえない)。

 ともかくおまえたちは,この戦争に動員されたという事実をしかと覚悟せよと,いいかえれば,お前たちの生命は「虫けらよりもさらに軽い」ものとしてしかあつかわれないのだと,国家が専断的・一方的に宣言し,強いていた。

 旧大日本帝国陸軍は,兵站(軍隊の補給行動)を極端にまで軽視した軍隊であった。この事実は,将兵・兵卒の命を軽くあつかっていた姿勢と共通していた。兵站の軽視が戦争の敗北にもつながっていたことは,太平洋戦争史研究においては,常識に属することがらでもある。

 ともかく,その軍隊における補給行動については,旧日本軍は大いにバカにしてもいたのだから,これでは戦争に勝てるわけもなかった。

 補注)旧陸軍では「輜重兵部隊」の輜重兵(しちょうへい)のことを,「輜重輸卒が兵隊ならば,蝶々トンボも鳥のうち,電信柱に花が咲く」と形容していた。この認識は「軍隊にとってある意味,最重要である」「兵站(へいたん,英語では logistics)」の役割を完全に軽視しバカにした,いわば非軍事的な発想であった。

 なお,兵站とは「戦場で後方に位置して,前線の部隊のために軍需品・食糧などの供給・補充し,後方連絡線の確保などを任務とする機関,その任務全般を意味する。

 3)『生きてゐる兵隊』は鴻毛の軽さでも,死んだら「靖国の〈英霊〉」になるというこの絶大なる高低の落差。

 「戦闘行動の上で兵站業務は極めて重要であり,輜重兵とはこの兵站業務を専門とする兵士である」にもかかわらず,前段にも触れたように「輜重輸卒が兵隊ならば,蝶々トンボも鳥のうち。焼いた魚が泳ぎだし,絵に描くダルマにゃ手足出て,電信柱に花が咲く」などと,旧日本陸軍においては軽蔑の対象になっていた。

 太平洋戦争でアメリ カ軍が兵站を最重要視しながら戦線を展開してきた作戦行動とは,まったくその逆をいっていたのが日本軍であった。そのさい生かされていたのが,国家「義は山獄よりも重く」,天皇のためなのであれば「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」といってのけた『軍人勅諭』の精神的な刷りこみ,洗脳であった。

 この『軍人勅諭』は,あくまで「明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である」。だが,第2次大戦において連合国軍に降参する意思を下すための御前会議を開催していた昭和天皇が,みずからポツダム宣言:敗北を受諾した。そうだったのであれば,靖国神社は勝利神社であった本質的な性格上,もはや存在意義を喪失させられた。この神社も敗退したのである。分かりやすくいえば,敗戦後史における国際政治のなかでは「賊軍神社」になっていた。

 ところが,敗戦後も昭和天皇は靖国神社に参拝しながら,英霊の合祀をみずから親祭していた。そこには,彼一流のごまかしが自覚的にもちこまれていた。もっとも,占領軍はなまじ「政教分離の原則」を,敗戦した日本帝国(日本国)に教えねばならない立場にあった関係上,昭和天皇が靖国神社に参拝する行為じたいは,この天皇を占領体制を円滑に維持していく利点も考慮にした関係上,あえて黙認してきた。

 そうした経緯になるにはそれなりの事情があった。GHQは日本を戦争で打ち負かす以前から予定していた計画のなかには,「天皇を日本統治のために puppet として利用する」というもくろみがあった。敗戦後,日本の占領政策において「天皇利用」のもくろみがより実利的に発揮させうる点を配慮しつつ,昭和天皇と靖国神社の併存をあいまいに許容する方針を採った。

 さて,1960年代後半に活発となった靖国神社国営化法案の動向を受けてなのか,靖国神社は1978年10月17日にA級戦犯を合祀した。A級戦犯は昭和天皇の身代わりという歴史的な意味をもっていた。いいかえれば,東京裁判開廷中に再確認されてもいた事項であったが,東條英機は自分が天皇の身代わりになることを重々承知のうえで,天皇の罪と罰をも一手に背負って絞首刑台に昇ったのである。

 それゆえ,その東條英機らA級戦犯が靖国神社にあらためて合祀されたとたん,昭和天皇は当然「立つ瀬」がなくなってしまった。したがって,東京裁判史観を否定する考え方は,この天皇の「立つ瀬がなくなった」状況も認めていない点からして,そもそも重大な矛盾,思考回路の混迷をきたすほかなかった。

 ここで,版画家・彫刻家,浜田知明の作品を,以下に1点だけかかげておき,記述をつづけたい。浜田の実体験にもとづく作品である。日本の軍隊内における兵士の真情と,侵略戦争をしていた天皇の兵士たちが,なにを中国でやってきたか,その実見・実物にもとづいて制作された作品である。

この作品(画像じたい)ではみにくいが
上方左手にはこの遺体を残した兵士たちが去りゆく姿が
小さく描かれている。

 浜田知明はこういっていた。

 日本の軍隊が戦地でいかにひどいことをしたか,記録しておきたい。デッサンの「忘れえぬ顔」は民家の小窓からわれわれ日本兵をみつけ,恐怖に顔をひきつらせた中国の少女を描きました。あの時,同じ隊の男が民家へ入り,少し経ってニヤニヤと服を整えながら戻ってきた。家には少女の母親もいた。母親の前でどんなことをされたか。僕は軍隊にいることが心底いやになった。

 描きたいけど,どうにも絵にならない体験もあります。行軍中に宿営した集落で仲間とだべっていると,使用人の中国人が「腹をこわしたので薬が欲しい」といってきた。星一つない,真っ暗な夜でした。1人の兵隊が「やるからついてこい」と立った。

 しばらくしてダーンと銃声が響き,闇の中から兵隊がにやりと笑って戻ってきた。日本ではごく普通の,店のおやじです。そんな人間がなんの理由もなく,人を虫けらのように殺せるのが戦争なんです。ただ,どうしても絵にならない。舞台や小説なら効果的では,と考えることもあります。

 註記)「人生の贈りもの,版画家・彫刻家 浜田知明(95歳) 脳裏に焼き付いた戦争体験を記録」『朝日新聞』2013年12月16日朝刊 be5面。

浜田知明の戦争体験

 4) 昭和天皇の歴史的な打算がみえないのか?

 A級戦犯が合祀され祭られた祭壇に向かい,もしも昭和天皇が頭を垂れて拝礼したら,敗戦後に形成されてきた「賊軍的日本帝国の残骸に対する措置処分」が覆され, みずからの問題〔=天皇みずから戦犯であるべきであった事実〕が再び復活する〔=はねかえってくる:蒸しかえされる〕ことになってしまう。だから,昭和天皇は1975年の靖国参拝を最後にその後は,いっさい九段下に足を向けることができなくなった。

 昭和天皇に関するその事実=この決心は, 息子の平成天皇にも受けつがれている。つぎの天皇となる徳仁の代も,おそらく,この靖国と皇室との関係は維持されていくはずである。

 補注)この記述が最初になされたのは,2106年3月時点であった。だが,いま:2020年は「令和2年」であり,さらに:本日は2023年12月9日である。昭和天皇の孫,徳仁が「元号を令和とした」新しい天皇に就いているが,前段の記述とおりになっており,徳仁も靖国神社に出向くといった行動をしていない。

 要は,安倍晋三首相の靖国神社参拝という行為は,かつての「A級戦犯の合祀」について,それこそ「地駄んだ踏んで悔しがっていた『天皇陛下の御心』に反した,まさしく〈国賊的な不敬〉の重大行為」』(右翼・保守・国粋思考のいいまわしを真似してみたが……)を犯したものであった。そう断定される裕仁側の受けとめ方が控えていた。

 この安倍晋三「首相の靖国参拝は当然である」という考えの人びとは,以上のような解説を聞いて,どう感じるか?

 安倍晋三の,昨日〔ここでは2013年12月26日のこと〕における靖国神社参拝は,この国家神道神社の本質あるいは歴史的な背景などに無知・無理解のまま,しかも自分の「幼稚さと傲慢さ」を剥き出しにした気分で敢行していた,いってみれば,日本国の利益にも「なりえない」きわめて愚かな「盲目的衝動の行為」であった。
  
 先日(ここでは2013年10月3日午前のこと),アメリカのケリー国務長官とヘーゲル国防長官が日本に来て,非常に異例な行動であったのだが,この高官2人はわざわざ千鳥ケ淵戦没者墓苑に出向き献花していた。

 それは実は,安倍晋三に対して靖国神社参拝のような行為はするなよという「まえもっての警告であり,その具体的な表現であった」。しかし,安倍晋三はあえてこの警告を無視し,同年の12月26日に参拝した。しかしまた,その後は2020年9月に首相を辞めるまで靖国にはいけなくなっていた。

     ★ ケリー国務長官,ヘーゲル国防長官がそろって                        千鳥が淵墓苑を訪れた衝撃 ★  
       =『天木直人のブログ』2013年10月04日 =

 安倍首相は歴代首相のなかでももっとも日米同盟にそぐわない首相だ。こんどのケリー国務長官,ヘーゲル国防長官の来日をみてつくづくそう思う。今度の2プラス2協議が無意味であったからそういっているのではない。

 しょせん,日米防衛協議など誰がやっても結果は同じだ。めまぐるしく変わる米国の安全保障政策に振りまわされて,負担だけを日本が押し付けられるだけで終るのがつねだからだ。

 私が安倍首相が日米同盟になじまない首相だと思うのは,ケリー国務長官とヘーゲル国防長官がそろって千鳥が淵墓苑を訪れて顕花したことをしったからだ。これは衝撃的な外交事件だ。安倍首相はさぞかし腰を抜かしたことだろう。

 これは,米国が日本の戦没者を追悼する場所は,安倍首相がいうような靖国神社ではなく,千鳥が淵だといっているのである。米国のアーリントン墓地に相当するのは靖国ではなく千鳥ヶ淵であるといっているのである。

 これ以上ない米国の安倍首相に対する警告である。安倍首相は米国の国益に沿わない首相とみなされている。それにもかかわらず安倍首相はせっせと対米従属政策を進めようとしている。私が日米同盟にそぐわない首相であると思う理由がそこにある。  

『天木直人のブログ』

 ともかく,安倍晋三が靖国神社に参拝した行為は,草葉の蔭というか,あの立派な陵墓に祭られている天皇裕仁が,一番ひどく立腹していたと推察する。安倍のその行為は,たとえ首相を退任したあとであっても,昭和天皇側(天皇家)側の不快感がひとしおである点がみのがせない。

 2013年は元号では平成25年であった。天皇明仁は,安倍晋三のその首相としての行為を苦々しく観ていたはずである。明仁はその後もこの安倍には苦汁を飲ませられるような仕打ちを受けるはめになっていた。

 もはや「覆水盆に帰らず」であった。すでに,首相としての安倍晋三にも「辞め時」が到来したようである(ようやく2020年9月になって辞めていた,そして2022年7月8日,統一教会の宗教2世山上徹也に銃殺された)。

 このブログの文章を最初に書いていた時点(2014年3月)にあっても,安倍の記録してきた靖国神社問題に対する「日本の首相としての姿勢」をみていたら,いい加減ウンザリさせられていた。また,その後におけるこの国の趨勢は,「衰退途上国」という汚名を知識人たちがみずから甘受するかたちで使い出してもいる。

 安倍晋三は靖国神社の問題などはるかに超えて,この国を破壊しまくってきた。本日は2023年12月9日になったが,たとえば『毎日新聞』朝刊の記事にはこういう論説が出ていた。安倍が死んでから1年と5ヶ月も時間が経過して,このように批判されているが,「時すでに遅し」の指摘である。

 2010年代に日本の政治と経済は大破壊されてきた。この安倍晋三によってである。

 長期政権は腐敗するといまさらのように指摘されているけれども,その間にこの国は,決定的に退廃・腐朽しつつ没落・沈潜してきた「政治と経済の坂道」を,転がり落ちるように進んできた。

 だから「衰退途上国」だとみずからを呼ばざるをえなくなっている。安倍晋三が首相としてとくにおこないえた「政」は,ことごとく子どものしぐさを意味した。

元・安倍晋三政権のなれのはて

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