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靖国神社境内「鎮霊社の意味」をよく理解しなかった新聞記者の勇み足,安倍晋三を靖国神社の鎮霊社にいかせるために「要らぬヒントを与えた朝日新聞の記者:駒野 剛の迷解説」

 ※-1 靖国神社のなかに置かれている鎮霊社の意味を知悉する以前に,安倍晋三にこの神社に参拝にいかせる便法を示唆したかったかのように,それも「不要な解釈を披瀝した朝日新聞の記者:駒野 剛」の大失策

 さて本記述の「要点」は,靖国神社境内の鎮霊社の歴史的な含意をよく汲みとれないまま,この「鎮霊社の存在」そのものとその要らぬ利用方法を教えるつもりになっていた朝日新聞社記者駒野 剛が,結果として,外交政治にまで悪影響をもたす顛末を来していた。

 補注)本記述の初出は2014年3月5日,更新されたのは2019年12月6日であり,本日 2023年11月23日に復活,再掲することになった。

 その間,靖国神社のありようは,21世紀になってからというもの,敗戦処理にも「あるかたちでたずさわってきた」「旧国営(大日本帝国陸海軍直轄機関)の宗教施設」=「国家神道なりに建造された慰霊廟的な『戦争勝利のための慰霊機関』」という本来の役目・機能じたいは,どうしても希薄化させざるをえない立場・利害を余儀なくされてきた。

 靖国神社の世俗化は7月13日から16日に催される《みたまつり》に鮮明に表現されている。この敗戦直後,昭和22〔1947〕年からであったが,「戦歿者のみたまを慰霊する」ために始まった「みたままつり」は,いまは東京の夏の風物詩として親しまれ,毎年多くの参拝者で賑わう靖国の年中行事である。

 しかし,靖国神社側は,その敗戦後的な産物であったに過ぎない,ある意味この神社の戦後的な生き残り戦略としての具体策であった,その「みたままつり」のことを,「日本古来の信仰にちなみ昭和22年に始まったみたままつりは,境内に数多くの献灯(みあかし)をかかげて戦歿者のみたまをお慰めします」と謳っている。

 しかし,敗戦以前であれば庶民の素朴な信仰心を,あちこちにいくらでもある縁日風の日程でもって,7月半ばに設定した靖国神社「定例」のこの「みたままつり」に吸いこみつつ,靖国神社が明治以来に企図してきた「戦争も勝利のための神社である基本特性」を偽装するがごとき糊塗したその世間向けの説明は,この神社の本心ではけっしてない。

 本日のこの記述は,靖国問題の本質,その歴史の特性をしらずしてうっかりにも,そこ置かれている祠まがいの鎮霊社に関する発言をしたところで,この靖国神社の本質(本性)がわずかでも変わることはありえなかった「歴史の事実」をめぐり議論したい。

 しかし,この新聞記者の記事は,そうした本筋の議論には至らぬまま,まことに「愚かな発言」を発するだけに終始したことは,端的にいって「短慮のそしり」を回避できなかった。

 以下の図解と画像は靖国神社と鎮霊社のものである。

靖国神社境内地図
鎮霊社は1965年製である
この画像では左の位置に写っている鎮霊社が判別しづらいので
つぎの画像も併せて紹介する
鎮霊社と元宮

 以上,2023年11月23日に改訂する内容として記述してみた。


 ※-2 安倍首相の靖国神社参拝,そして鎮霊社

 2013年12月26日,政権の座に就いてから1年が経ったその日,安倍晋三首相が靖国神社に参拝にいった。そして,本殿の脇(南側)にめだたないように置かれている祠,「鎮霊社」にも参拝したと自慢げに触れていた。

 すなわち,だから靖国神社の本殿に祀られない霊に対しても,私は尊崇の念を広く表わしてきたのだと胸を張っていた。しかもアベは,こうしただいぶ見当違いを犯しながらも,肝心の「的じたい」を外した意見(端的にいえば要するに無知)を開陳していた。

 こういっていた。

 「本日,靖国神社に参拝いたしました。日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し,尊崇の念を表し,そして御霊安かれ,なれと手を合わせて参りました。そして,同時に,靖国神社の境内にあります,鎮霊社にもお参りして参りました。

 鎮霊社は,靖国神社に祀られていないすべての戦場に倒れた人びと,日本人だけではなくて,諸外国の人びとも含めて,すべての戦場で倒れた人びとの慰霊のためのお社であります。その鎮霊社にお参りをしました。

 すべての戦争において命を落とされた人々のために手を合わせ,ご冥福をお祈りし,そして,二度と再び戦争の惨禍によって人々の苦しむことのない時代を作る決意を込めて,不戦の誓いをいたしました」。 

 註記)『朝日新聞』2013年12月26日18時18分,http://digital.asahi.com/articles/ASF0TKY201312260370.html?iref=comkiji_redirect

 安倍晋三はこの発言をするさ,「すべて」という表現を3度も重ねて用い,強調して使っていた。この語り口は,あまりにも都合よく「鎮霊社」を利用しようとしている気持(魂胆)を,よく表わすものになっていた。

 国家〔とはいっても旧大日本帝国「勝利」のためにこの国家〕に生命を捧げたとされる兵士たちなどの〈怨霊〉を,〈英霊〉といいかえて(すりかえて)祀っているつもりの靖国神社である。この元国軍神社は,日本に古くからある固有の諸神社とはきわめて異質であり,基本的にあいいれない神道的な本性を有している。

 要は「そのため」に役立つ者と認めた者以外の〈御霊〉は,徹底的に排除し,絶対に合祀させないという異様な「国営の戦争神社」であった。「その「そのため」とは,いうまでもないが,戦争に勝利する目的を指していた。しかし,1945年8月に大日本帝国は大敗北を喫していた。それゆえ,この国営神社はなすすべをうしない,それこそ呆然自失状態を余儀なくされる事態にすら,一時期は不安な気持ちのなかで迎えていた。

 敗戦後になって,靖国神社そのものが社会的に騒がれる神社となる状況が生まれていた。その途中においてこの『鎮霊社』が,靖国神社の宗教的な本旨・目的には合致しえないとみなした「戦争犠牲者の諸霊」を,十把ひとからげにして放りこんでおき,そうやって囲み入れておきながら,「本神社」はけっして「英霊の資格非保有者も排除しておりません」といいわけするための「物的施設」として利用されていた。だが,宮司が変わるとその門を閉ざす状態にしていた時期も長くあった。


 ※-3 安倍晋三に,鎮霊社の存在を,あらためて教えた「朝日新聞記者」:駒野 剛-間違えたヒントを安倍晋三に与えたこの記者の靖国神社理解-

 最初は2013年8月10日の時点であったが,本ブログ筆者は,「以下に再録することにした記述」をおこなっていた。この段落の記述は,更新をした2019年12月6日におけるものであった。

 その記述は「靖国神社境内の『鎮霊社』を,戦争犠牲者慰霊のために使えという『迷説』」だという項目を立て,つぎのように論じていた。

 まず,朝日新聞のウェブ版で「鎮霊社」と「安倍晋三」の組みあわせで検索してみればいい。以下の5記事が出てくる(これは,2014年3月5日午後3時での調査)。

 a)「(世界が見た安倍首相)靖国参拝,米の識者が分析(2014/02/27)」

 b)「参拝3日前,側近を私邸に呼んだ 安倍首相の靖国参拝(2014/01/28)」

 c)「首相『不戦の誓いをした』参拝後,記者団への発言詳細(2013/12/26)」)

 d)「『不戦の誓い』『中韓傷つけるつもりない』首相談話全文(2013/12/26)」

 e)「(記者有論)A級戦犯合祀 安倍首相なら元に戻せる」(オピニオン編集部 駒野 剛,2013/08/10)」

鎮霊社と安倍晋三

 これらのうち,最後の2013年8月10日の駒野 剛による「オピニオン」欄の記述について筆者は,「靖国神社の本質を弁えない『靖国』論」「靖国神社の歴史をしらないから,いえる,おかしな靖国に関する議論」であって,「東條英機が昭和天皇の身代わりになったことは,裕仁自身も諒解済みの『戦争責任逃れ』の構図であった」といった冒頭の見出し語句をかかげておいてから,こう論じて注意を喚起したつもりであった。

 さきに断わっておくべきは,この駒野記者,いわなくともいいことを「意見」として述べていた。これが〔2013年〕12月26日の,安倍晋三の靖国神社参拝という行動に決定的な影響(=示唆)を与えたのではないかというふうに理解せざるをえなかった。そうした前後関係を作りあげるような相互の意味関連が生まれていた,この事実が観てとれるのではないかというふうに,駒野記者のオピニオン発言を解釈せざるをえなかった。その種の「意味関連」が汲みとるほかなかったのである。

 要するに,昨〔2013〕年12月26日の首相の靖国参拝行為に対して,要らぬ知恵を与えたと思われるのが「駒野 剛記者の記述」であった。本日の段階(ここでの日付は2019年12月6日のこと)では,さらにその後に考えてみた内容もくわえた改筆となった。

 つぎの画像資料は,本「ブログ」筆者のことを,駒野 剛に噛みついたと書いた宮澤佳廣『靖国神社が消える日』小学館,2017年,98-99頁を見開きで複写した「画像」である。

6年前の本のなかに言及されていた本ブログ筆者
靖国に批判的でなくとも噛みつくべき対象が「そこには」あった
宮澤佳廣画像

本ブログ筆者がなにかに噛みついたといっては
さらにべつのなにかに噛みついていたかのようなこの人
なにか「人相」あまりいい感じ
ではない感じがしないわけではない
なにかエラそうな感じ?


 ※-4 駒野 剛記者は,鎮霊社にお参りしたらいいじゃないかといい,結局「便法にもなりえない靖国参拝への〈すべての方法〉」を,安倍晋三に教えたつもりか

 『朝日新聞』2013年8月10日朝刊のオピニオン欄「〈記者有論〉A級戦犯合祀 安倍首相なら元に戻せる」で,駒野 剛(こまの・つよし;オピニオン編集部,写真)が開陳した以下の意見を読んでみて,基本的に多くの疑念を抱かざるをえなかった。本ブログ筆者の寸評(補註)を入れながら読んでいくことにしたい。

駒野剛 2013年

 --8月15日がやってくる。靖国神社が喧噪に包まれるようになって何年たったろうか。1985年の中曽根康弘首相(当時)の公式参拝以降,首相がこの日に参拝すれば中韓両国などから非難の声が上がり,見送りには,国内で「戦没者慰霊をおろそかにする」と不満が渦巻く。

 靖国は「明治天皇の宣(のたま)らせ給うた『安国』の聖旨に基き,国事に殉ぜられた人々を奉斎し」(神社規則),明治維新以降の戦没者ら246万余柱を祀っている。

 補註)246万人以上もの戦没者を祀らねばならない靖国神社であるといっても,それは,靖国側が選んだ者たちしか合祀していない。

 日本帝国主義の戦争史において,あくまで勝者・勝利のために創建・造営とされた神社である靖国は,戦勝という方針・目的のために英霊を創り,受けいれ,祀っているのである。いいかえると,属軍関係の者たちとはいっさい縁がない,ある意味では非宗教的に宗教色の強烈な国家神道式の国営神社であったのが,この「靖國神社」である。

 だから,1945〔昭和20〕年8月の敗戦を迎えて以来,実質的にはあまりその「英霊の数」を増やさないで済んでいる。これはある意味,日本国憲法のおかげ,あるいは在日米軍がその「代替をしてくれているせい」だという観方もできる。もっとも,米軍基地は日本国をアメリカが支配するための,それこそ「基地(ベース)」であることも,否定できない日米関係の歴史的事実である。

 つまり,靖国神社は,日本帝国の侵略路線にかなう国家神道式の「戦争神社:戦勝神社」であって,ここにこそ,その唯一・最大の存在意義があった。なお,この靖国神社が明治以来もたらしてきた〈宗教的な意義〉は,その本義に即してまともに認識するのであれば,いまとなっては実は,もうなにも残されている実体がなくなっていた(失っていたという意味)。この事実は,あらためて銘記しておく必要があるはずであった。

 靖国は墓地ではなく,慰霊のための国家神道式施設であった。戦死者の遺体の埋葬地=墓地ではなく,兵士たちの朽ちた肉体:亡骸は受けつけない。その霊魂のみを分別したつもりでこれ受けつけるといったきわめて,戦争という事件にのみ関係づけることしかしない,つまりご都合主義の度合が高かった神道式の体裁を採った神社である。

 敗戦後,1945〔昭和20〕年12月15日,連合国軍最高司令官総司令部:GHQが日本政府に対して『神道指令』という覚書を発令した。この指令の通称は,「国家神道,神社神道ニ対スル政府ノ保証,支援,保全,監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)と呼ばれていた。

 その覚書は「信教の自由」の確立と軍国主義の排除,国家神道を廃止し,政教分離を果たすために出された。とくに「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの使用を禁止し,国家神道・軍国主義・過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止した。

 以後,旧陸海軍の管轄にあった靖国神社は,しかし運よくおとり潰しにはならず,民間経営の一宗教法人に変身させられることで生きのびることができた。

 靖国神社はそれ以後も,大東亜(太平洋)戦争中に死んで〈英霊〉になりうるとみなされたその〈死者の霊〉を探し出しては,とりこみつづけ,246万以上もの死霊を,その〈英霊〉として褒めあげるためであれば,敗戦した日本帝国の行跡についてだったが,

 あたかもいまだに:その後も「正しくも,りっぱに戦って〔勝って?〕きた記録」であるかのように,いうなれば,弁解=負け惜しみをいいはるための「神道の神社」として,この靖国神社を存続・維持してきた。とはいっても,靖国神社は創建された本来の意義からといって「戦争に勝たねば意味のない神社」であった。

 端的いえば,「戦争に負けた国家の神社」の立場ならば,これは「敗戦した歴史の意味」がこの靖国神社にもたらす意味は「全面的な否定」であったに違いなかった。

 「戦争も勝利用の神社」であったこの靖国神社のもともとの理念,本当の目的に完全に対立した,そのもっとも典型的な英霊の問題がA級戦犯の存在であった。

 東京裁判(正式名,極東国際軍事裁判)では昭和天皇以下,うまく戦争責任を逃れた連中〔たとえば海軍の高位の軍人たちは比較的軽い刑罰に処されるだけで済んでいたし,日本国内で仕事をしていた国家高級官僚はほとんど問題にすらならなかった〕にしてみれば,東條英機以下のA級戦犯が身代わりに死刑などになってくれたからこそ,この連中,とくに東條以下絞首刑に処された7名などに戦争の責任(罪)をなすりつけておくことで,敗戦後をうまく生き延びることができてきた。

 なかでも昭和天皇は東京裁判の法廷には引っぱり出されなかったものの,「生存組」としては正真正銘の代表格であった。けっして,裕仁氏に戦争責任がなかったとはいえなかった。大いにあったのであり,むろん一番大きいそれがあった。にもかかわらず,アメリカが日本を占領・支配・統治する都合で「天皇を利用したほうが得策」と判断した。

 第2次大戦後に生じてきた国際政治的な利害関係のなかでは,彼を便利に使いまわすことになっていた。だから,次段の話題になるが,昭和天皇は,自身の履歴にとってもっとも痛いところを突かれたかのごとき,靖国神社関連の問題になると,過剰にも映るほどに神経質な反応を示していた。

〔ここで記事に戻る→〕 〔靖国神社の戦後において〕政治・外交上の問題となった火種は,極東国際軍事裁判,いわゆる東京裁判でA級戦犯として死刑判決(7名)などを受けた戦時中の指導者14名を,1978年〔10月17日〕,当時の宮司松平永芳氏がひそかに合祀したことだ。

 それまでは,靖国に参拝していた昭和天皇もいけなくなる。1988年に当時の富田朝彦宮内庁長官に「あるときにA級が合祀され,(中略) だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と天皇が語ったメモがみつかっている。

 補註)昭和天皇が「私の心だ」と語ったことの核心は,東京裁判でこの自分(裕仁)の代わりに死刑を宣告された東條英機以下7名が,まさしく天皇のために死ぬという裁判の結果を,充分承知のうえで絞首刑台に昇っていた事実と関連するのである。靖国神社に参拝して親祭する天皇は,「臣民(国民)」の,それも死んでしまった者たちの〈英霊〉に対してのみ《唯一》,こうべを垂れるしぐさをみせていた。

 ところが,東京裁判の審理過程で,東條英機が「自分は陛下の意志に逆らうような采配は採っていなかった」と証言したため,これにあわてた判事(裁く側:連合国)は,日本側の弁護士などと相談し,東條英機にいいふくめて,天皇ではなく「自分のほうに戦争指導の全責任がある」という具合に,証言しなおすように法廷を指揮していき,天皇にまで戦争責任が及ばないようにその裁判を演出しなおした。

 GHQ当局は始めから昭和天皇は免罪しておき,アメリカの国益のために利用することに決めてから,東京裁判を開廷していたのである。この裁判の起訴は,1946〔昭和21〕年4月29日の「昭和天皇の誕生日」になされ,27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。

〔記事に戻る→〕 ところで,本殿左側に高さ3メートル,幅 1.5メートルほどのお社がある。「鎮霊社」という。

 靖国神社編の「やすくにの祈り」によると,ペリーの黒船来航があった1853(嘉永6)年以降「戦争・事変に関係して戦没し,本殿に祀られざる日本人の御霊(みたま)と,世界各国の戦争・事変に関係した戦没者の御霊を祀る鎮霊社を建立した」という。

 官軍と戦った会津の白虎隊や西南の役で政府に反旗を翻した西郷隆盛も含まれる。1975年〔7月〕,松平永芳氏の前任者,筑波藤麿宮司の時に建立された。

これは20歳台の画像
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A級戦犯を合祀しなかった靖国神社宮司

 私〔駒野 剛〕は機会があるごとに靖国に行き,戦塵に散った人々に頭を垂れている。しかし,彼らを戦地に送り,未曽有の国難を招いた指導者たちを同列に置くことは,どうしてもできない。中韓にいわれてでなく,日本人みずからの歴史のけじめとして,指導者の失敗を厳しく糾弾しつづけるべきだ。指導者の慰霊は,他の戦没者と分けられなくてはならない。その知恵の一つが「鎮霊社」ではないだろうか。

 補註)この鎮霊社の由来や歴史をまともにしっての,この発言であったのか? A級戦犯を合祀した当時の宮司松平永芳(靖国神社側)は,一時期,この鎮霊社には鎖をかけて人びとが参拝できないようにしていた。よほど気に入らない要素が,この鎮霊社という祠にはある,とみなされていたわけである。

 すなわち,靖国神社の境内にこの鎮霊社が設けられていることじたいについて,松平永芳は否定的であるから排斥する態度を示していた。前述に触れたように,靖国神社は明治以来の日本帝国が推進してきた侵略路線のためを目的・方針とした,まさしく明治の時代に創建されていた「国家神道式の国営神社」であった。

 この国立の神社は「死者の霊」を利用し,祀りあげる方向をかたちを採って,旧帝国日本による「侵略戦争の再生産」が円滑にいくように,つまり,いつでも勝利に導かれるように,《英霊》だと祭りあげた死者の霊を逆用・悪用した関係をもって,いわば,一般的な教義でいえば「宗教本来のありかたに謀叛を起こしたにひとしい考え:反宗教の立場・思想」にもとづいて,創設されていたのである。

 そこで,なにかと批判の多いこの靖国神社は,日本にあるほかの神社一般の有する「宗教の本義」からは大きく外れているのであるけれども,ところがそれとは異質の「鎮霊社」を別途,境内に建造しておき,こちらのほうに本殿には合祀できない「もろもろ・雑多な戦没者」を,一括して放りこんでおく体裁をとったのである。靖国はけっして英霊だけを祀る神社ではないとそのように世間に向けて,自社の基本姿勢をとりつくろったのである。

 とはいっても,そもそも靖国神社じたいが,1945年8月「戦争に負けた国家の神社」となっていたから,もう国家のための神社としての存在理由はなくなっていたのである。「戦勝神社」であるその本性(歴史的な本質)は,国家の敗北によって完全に喪失していたにもかかわらず,いままでもずっと依怙地になって「廃社の処分」をできないままに来ている。

 その様子は,靖国神社の境内に付設されている遊就館の展示物を観れば,即時に理解できる。旧日本帝国は大東亜(太平洋)戦争において負けた。しかし,この事実を相当にごまかしておきたいとする気持が,その似非の歴史博物館からは強く伝わってくる。なかんずく,戦争に敗北した昭和20年8月の史実は,この靖国神社にとっては「三猿の精神」で無視しておかねばならないもの,でありつづけている。

〔記事に戻る→〕 これまで政府内では分祀論が検討されたことがあったが,靖国神社や遺族の反対などで日の目をみなかった。本来の鎮魂の場にするため,合祀以前に戻す--政治的な大技だ。現在の政治家でできるのは1人。「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たりまえ」との思いを語る安倍晋三首相のほかにはいない。

 補註)『朝日新聞』の駒野 剛は,はたして,靖国神社の本殿と鎮霊社の歴史的起源,この歴史的な因縁のある展開・経過などを十全に理解,つまり熟知しったうえで,以上のような提案をしていたのか? 千鳥ケ淵戦没者墓苑もあるが,こちらは霊魂ではなく,遺骨を実際に埋葬する「慰霊」施設である。

 靖国神社は,死者の霊のいいとこどりをし,《英霊》に祭りあげて,合祀させておき,戦前・戦中であれば,戦争事態:有事体制に役立たせるために「再利用する」ことが,一番の目的になっていた。この靖国神社の目的がいまもかわらずに,維持・継続されているということになれば,21世紀のいま,戦没者(戦闘行為による戦死者・戦争犠牲者)の存在を予定する神道の神社で,ありつづけていることになる。

 しかし,1945年8月の「日本帝国の敗北体験」は,靖国神社をなきものにしたも同然であった。

 各国にはむろん,戦没者を慰霊する施設が各種各様の形式と意味づけをもって置かれていている。だが,靖国神社は,いまだに〔第2次大戦に大負けしてしまった国家を応援してきたこの神社の顛末を考えればという意味でいえば〕,いまだに九段の地に,大きな顔をして,それも「恥ずかしながら」という気分すらまったくもたずに,平然と存在しつづけている。

 この種の『あられもない光景:実情』は,靖国神社じたいにとって不可避である疑問を,あらためて突きつけられるべき事情を教えている。根本よりの再考を迫られている。

 ところが,それなのに,その境内の隅っこに嫌々ながらに置いてある「鎮霊社」を,靖国神社の本殿祭壇に合祀できない〈霊〉を収容するための,その代用にして使えそうだといったも同然の意見は,これまでの靖国問題の核心を放置させ忘却させようとするだけでなく,靖国神社側の基本姿勢も含めて,戦没者慰霊をめぐる諸問題を,よりいっそう混迷化させるほかないものであった。

 以上,2013年8月10日時点で本ブログ筆者は,駒野 剛記者の,靖国理解の浅薄さを批判していた。鎮霊社という靖国本殿そのものの代替には,絶対になりえないこの祠の存在を強調することで,安倍晋三に要らぬ浅知恵をつけることになったのではないか。

 駒野記者の執筆したオピニオン欄の「〈記者有論〉A級戦犯合祀 安倍首相なら元に戻せる」は,鎮霊社に目をつけて「これならいい」と「ひざをポンと叩いて」書かれていたようにも感じられる。それにしても余計な,おまけに不正確な悪知恵を,あの首相に提供してしまったようである。

 2013年12月26日に安倍晋三が靖国神社を参拝し,この神社の境内には鎮霊社もあることによって,すべての・すべての・すべての「戦争犠牲者」が慰霊され,尊崇されうるのだといった。だが,この発想は勘違いも甚だしい。世界中の「大部分の戦争犠牲者の霊」の立場からみても,はた迷惑な脱線行為の靖国誤用である。

 

 ※-5「鎮霊社と靖国神社」-その歴史的本質からみた議論

 1) どこにあるかしらないねぇ

 いまから7〔8(13)(17)〕年前になるが,『東京新聞』が「鎮霊社と靖国神社」の本当の関係を探った議論を記事にしていた。ただし,当該の東京新聞のウェッブ版〔 http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060812/mng_tokuho_000.shtml 〕は削除されており,もう出ていない(なおこの指摘は2019年12月6日時点であった)。 

 上の記事を転載していた http://www.asyura2.com/0601/senkyo25/msg/292.html の「『鎮霊社』からみた靖国神社 ひっそり鉄柵の中(東京新聞特報)」から,以下に引用・紹介してみる。② で記述した中身に関連する議論がなされている。なおこちらの住所は,本日 2023年11月23日にあらためて検索してみたところ,少し時間がかかったが反応はあり,閲覧できた。

 --この夏〔2006年8月のこと〕,靖国神社をめぐる論議は新たな段階に入っている。麻生太郎外相(当時)は今月,靖国の非宗教法人化と国家管理を柱にした私案を発表。首相らの参拝の是非のみならず「靖国とはなにか」という本質論が浮上している。 

 その靖国神社の一角に「鎮霊社」というなじみの薄い社(やしろ)がある。本殿と鎮霊社の違いはなにか。なぜ,41年前〔当時から計算した1965年のこと〕に設けられたのか。目立たぬ社から,靖国全体を逆照射してみよう。

 「チンレイシャ? どこにあるかもしらないねぇ。社務所で聞いてみてよ」(つぎの地図に鎮霊社の位置が示してある)。靖国神社の参道脇でみやげ物屋を営む初老の夫婦は,鎮霊社についての記者の問いにびっくりしたような表情で目を見合わせた。

 出所)https://knkyko14.exblog.jp/8602035/ (この住所は現在,削除)
 
 補注)靖国神社内におけるこの鎮霊社の位置は,拝殿と本殿のほぼ南側に位置している。

〔記事に戻る→〕 参道を真っすぐに進み,本殿前の拝殿の手前で左に曲がると,こんもりとした木々のなかに入る。この一角に鎮霊社はあった。参道からは外れているため訪れる人もいない。10平方メートル程度のごく小さな祠(ほこら)だ。屋根は本殿と同じ薄緑色だが,赤さびがかなりついている。鎮霊社の前に立て札があり,こんな由来が書かれていた。

 「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し,靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰めるため,昭和40年7月に建立し,万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する。例祭日7月13日」

 靖国神社は「本来,国のために一命を捧げた人たちの霊を慰めようと」(同神社作成のパンフレットから),1869〔明治2〕年に「東京招魂社」の名前で建てられた。靖国神社は必ずしも軍人・軍属だけを祀っているのではなく,沖縄戦で死亡した「ひめゆり部隊」の女学生や学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒たちも祭神として合祀されている。

 その一方で,戊辰戦争時に官軍に敗れ,自決した会津藩白虎隊の少年兵や,維新の元勲でありながら,西南戦争で明治政府に反旗を翻した西郷隆盛は除外されている。また東京大空襲や原爆に遭った戦災者も同じだ。

 「将来,国を守る基礎をつくるため,国に殉じた人を祀るのが靖国の基本。遺族のために存在しているのでもない」と同神社に近い関係者は指摘する。

 補注)要するに,敗者や,逆にいえば戦争のために役立たなかったとみなされた者たちは,本来靖国の祭壇には祀られないといっている。

 それでは,戦争に敗北していた日本帝国のためのこの国営神社=靖国神社,つまり「その役に立たなかった」はずのこの神社が,その後においては,いったいなんのために存在するのか?
 
 もうすでにその使命は,68〔69(74)(78)〕年も前に終焉させられていたのではなかったか(!?)。こういった疑念がもたれて当然である。

 戦争に勝つために生ける人間たちを「死に向かい覚悟せよ」と督励する,つまり,戦争にいってがんばって戦ってこい,敗けるんじゃないぞ,御国のために必死に戦い,死んでこいと,懸命に唱えている神社が靖国であった。

 だから,戦争に敗北するまえの靖国神社が国家の管轄下に置かれていたのは,当たりまえに過ぎていた,当然そのものであった。しかし,戦争に負けたとなれば,いまさら《英霊》をこの神社に祀って,どうしようというのか? 

 どう観ても,「戦争に勝ってナンボの神社」だったのが,この靖国ではなかったか? 

 安倍政権が調子に乗って実質,憲法を解釈だけで改定させてきた,ふつうに戦争のできる国,集団的自衛権(戦争参加法)を,新しい「美しい国」という名目のもとに導入してもきたからといって,靖国神社がいままた,それに備えているというわけか。 

 いままで,敗戦後68〔69(74)(78)〕年もの長い期間,そのひどい「負け惜しみの心もちに呻吟してきながら,これを隠してきた戦争神社」が靖国神社だ,といったほうが的確な形容になりうる。

 それゆえまた,靖国神社が,敗戦後の昭和22年から7月13~17日を定例の期日として挙行している「祭事の〈みたままつり〉」は,鎧の上に浴衣を着た武将の幽霊を想起させる。

〔記事に戻る→〕 その靖国神社ができてから,約百年後に本殿とは別に鎮霊社は建てられた。ここには白虎隊や西郷だけでなく,イラク戦争の死者など「万邦諸国の戦没者」も祀られているとされる。しかし,それらの人びとの名簿はない。建立の経緯などについて靖国神社広報課に取材を申しこんだが,「業務繁多で〔2006年8月〕18日以降でないと回答できない」といわれた。

 代わりに前出の関係者は「賊軍も外国人も同様に祀るのは,人は死ねばみな仏になるという仏教にも影響を受けている」と話す。ただ,これは多分に建前のそしりを免れない。出雲大社や太宰府天満宮は怨霊(おんりょう)を鎮めるために建立されたとされる。この関係者は「鎮霊社もこれと同じ。怨霊を恐れ,抑えようとするのは神道の考えの根本だ」と説く。

 補註)靖国神社じたいは「怨霊」を恐れる神道的な概念とは無縁である。だから,ここに指示されているように,同じ境内にある鎮霊社について,怨霊をもちだす議論はお門違いもいいところである。《英霊》という国家神道的な宗教の観念は,怨霊とははっきり一線を引かれて存在している

 すなわちそのことは,靖国神社にとっては「概念上の必要不可欠な操作:仕組」であって,怨霊に相当する〈霊〉は靖国神社本殿から遠ざけておく,鎮霊社に怨霊を押しこめておくみたいな理屈は,靖国神社全体の存立基盤に照らして絶対的に矛盾以外のなにものでもない。

 つまり,鎮霊社はもともと靖国神社のなかには存在しえない,いうなれば日本固有の神社精神にもとづいた社(祠)であったと位置づけられる。苦しまぎれに,このような社(祠)を造営しておいた手順からして,靖国にとっては自家撞着であった。だから,その後においては,この社(祠)を封鎖しておきたいかのような姿を,露骨にさらしてもきた。

 いずれにせよ靖国神社境内においてだが,それこそ厄介払いをするかのように,この鎮霊社を造っておき,ここに英霊にはなりえない諸霊を,頼みもしていないのにもかかわらず,「万邦諸国の戦没者」までも一括収容する(「放りこんだ」?)という,単に「奇妙で余計な理屈」を口にしていた。これは実に珍妙な論理であった。しかし,靖国神社の本義から外れる「この祠 鎮霊社」は,どうみても,靖国神社の境内においては異様な存在:異物である。

 

 ※-6 本殿の祭神と扱い,歴然の差 

〔記事に戻る→〕 とはいえ,本殿に「祀られている祭神」とは歴然とした差がつけられている。現在〔この記事が取材した当時〕は高さ3メートル弱の鉄の柵で囲われており,近くまでいけない。国籍や人種を超えた戦禍犠牲者の霊を祀るはずの鎮霊社がその後は,なぜか一般公開すらされていない。そこに近づくことはできるが……。

 2001年に月刊誌で鎮霊社を論じた日大講師(当時)で現代史家の秦 郁彦氏は,鎮霊社が建立された背景に1946年から1978年にかけ宮司を務め,A級戦犯の合祀には否定的だった故筑波藤麿氏の存在を指摘する。

 「靖国神社の(最高意思決定機関である)総代会がA級戦犯の合祀を決める1970年以前に,総代たちと厚生省引揚援護局とのあいだで合祀の根回しがあり,それに気づいた筑波さんがA級戦犯の『収まりどころ』として先手を打つかたちで建立したのではないか」。  

 さらに,秦氏は「筑波さんは宮司の任免権をもつ総代会から合祀を求められ,拒めなかったが,同時に合祀する気もなかった。昭和天皇の意を体していたと考えられる」と解説する。ところが,筑波氏の死後,後任の故松平永芳宮司の時代(1978年10月17日),A級戦犯は本殿に合祀された。

 秦氏は「筑波さんを補佐していた祢宜(ねぎ)に話を聞き,A級戦犯は一時,鎮霊社にいたことを確認した」と話す。つまり,鎮霊社が建立された1965年から1978年まで,A級戦犯は鎮霊社に祀られていたらしい

 秦氏は「鎮霊社は靖国神社が独自の判断でつくったもので,部外者がとやかくいうべきでない。世界中の戦没者を追悼するというのは正論で批判できない」と話しつつ,同神社が鎮霊社への参拝を受けつけていない理由を,つぎ〔★・・・★以下の記述〕のように推測する。

 補註)なお,戦没者追悼に関する議論を「正論」だととらえて,ほかの議論を制約しようとする秦 郁彦の価値判断は解せない。「部外者とやかくいうべきでない」といういいぶんも,靖国神社問題の性格を考慮すれば,きわめて乱暴な,相手の議論を問答無用に排斥のためにする理屈でしかない。なお,秦の用いる論法にはこの手の〈悪手〉が多い。

 ★-1 分祀のリンクを,靖国神社側が嫌がっている

 「(月刊誌で考察を発表した)2001年当時,自民党内から『A級戦犯は鎮霊社にお帰りいただいたらどうか』という声が出たと聞いている。靖国神社はA級戦犯分祀論との絡みで,鎮霊社が話題になることを嫌がっているのではないか」(秦氏)。

 補注)ここの議論を聞いていると,鎮霊社はまるで「パソコンのデスクトップ画面」に置かれているゴミ箱だと比喩したらいいのかもしれない。

〔記事に戻る→〕 一方,筑波大学の千本秀樹教授(現代日本史)は「霊を鎮めるという名前には,天皇に敵対して死んだ人たちがたたって出てこないようにする意味が含まれる。鎮霊社の本来の目的は天皇制,国家に逆らって死んだ人をたたりのないように鎮めることだ」と,前出の関係者と同じ見方をとる。

 補注)ここでの指摘は皮肉にも,靖国神社そのものが本当のところ,日本における神道という宗教の全体像とはまったく基本から異なった「明治以来の特徴」(特異な由来)をもっている事実を教えている。いわば〈異端の神道〉の具現体が靖国神社であった。 

 すなわち「死霊を英霊」としてあつかい,戦争の継続のために,換言すれば国家の勝利のために,それも246万柱にもなるその霊を再利用しようとする邪悪な意図は,死者に対する処遇としては最悪であり,死者に対する人道上の観点(!?)からも,まったく許容できない「エセ宗教の価値観」である。

〔記事に戻る→〕 鎮霊社が国内にとどまらず世界中の戦没者を祀っている点については,「対象を広げているところにごまかしがある。本来は天皇のために死んだ人だけを祀る神社なのに,世界平和を祈っているというポーズをつくっている」と語る。さらにはつぎ のように,靖国が市民の戦争被災者と戦死者を分ける姿勢にも疑問を呈する。

 ★-2  一視同仁の思想に,そもそも矛盾がある  

 「靖国神社は鎮霊社に参拝しなくていいという姿勢だ。なぜ,原爆や空襲の犠牲者が,賊軍と同じ場所に祀られているのかの説明もない。鎮霊社の存在は,天皇はすべての人を平等に愛するという『一視同仁』の思想にすら矛盾する」。

 補註)天皇の一視同仁「性」は本来,眉唾ものでありつづけてきた。それゆえ,このように「天皇はすべての人を平等に愛する」という文句をもちだして論論することからして,噴飯モノと批判されるべきである。その議論の典型が松本健一の議論(下掲する著作)にも露骨に出ていた。 

 A級戦犯(分かりやすくいえば「昭和天皇の尻拭い」をさせられた者たち)は,あたかも賊軍と同じであるかのように処遇されてきた。それはそうであった,彼らは主に「敗北した旧・日本帝国軍の将軍たち」であった。もっとも,東條英機みたく喜んで天皇の身代わりになれた将軍もいないわけではなかったが……。

 それゆえあえて,松本健一に対してはあらためて,こう問うておく。昭和天皇はA級戦犯も「平等に愛したか」? そうではなかった。裕仁は,自分の生き残りのためにであれば,彼らを簡単に切り捨てていた。ただ,それだけのことであった。しかも切り捨てたのは彼らだけではなかった。

 ヒロシマやナガサキに原爆が投下された事実に対して,戦後になってから昭和天皇がなんといいわけしていたか? 日本全国で空襲の被害に遭わされた人びとに国家は補償したか? オキナワの現状の裕仁の責任はないのか?
いずれもおおありでありつづけたはずである。

 敗戦後20年以上,靖国の祭壇に彼ら:死刑囚(A級戦犯)が合祀されていなかった。もちろん,これは1978年10月17日以前における話であった。靖国神社側がその日にA級戦犯を合祀したとき,昭和天皇は大きな衝撃を受けた。敗戦直後の時期にタイムスリップする思いにさせられたからである。

 だが,靖国神社の総代会の人びと〔賀屋興宣(判決は終身刑)のように,元A級戦犯になっていた者も含まれていた〕は,そのA級戦犯に対する賊軍扱いのような処遇が気にいらなかった。実は,天皇と,この身代わりになって絞首刑にされた人びととの関係のなかに組みこまれていた『相互間の〈からくり〉』は,彼らの考えだけでは,まったく理解できない内実があった。

 結局,昭和天皇の身代わりになって,賊軍(=負けた日本の軍隊)のように排斥され,ゴミを捨てるかように絞首刑にされ始末された東條英機などA級戦犯が,靖国神社に合祀させられることになったのだから,こんどは,昭和天皇が,靖国神社において占めていた「一定の場所」とその「特定の役割」は,抹消させられたかのように,その居場所を奪われたことになる。

 なかんずく,靖国神社側の歴史認識は「A級戦犯が英霊になっていけないことなど全然なかった」のである。この認識は,賀屋自身がA級戦犯であったことからしても,依怙地になってこだわった点になっていた。こうした靖国神社の入り組んだ〈英霊観〉にまつわる歴史の入りくんだ関係事情のなかで,「当時の総代会の人びと」は,とにかくA級戦犯は合祀させろと要求しつづけて,のちに実現させていた。

 けれども,敗北者つまり賊軍的存在者(連合軍に敗北した日本帝国の総責任は東條英機らのA級戦犯に押しつけられていた)は,靖国神社に合祀するにはふさわしくない一群であるとみなされた経緯,いいかえれば『靖国神社的な国家神道の価値観』の発生を,「彼ら」は皆目理解できていなかった。

 いいかえれば,靖国神社は「勝利する戦争国家の価値観」にしか対応できない国営の神社であった。ところが,大東亜(太平洋)戦争に大敗北した日本帝国であったから,その負けてしまった賊軍的な要素はすべて「A級戦犯の戦争責任である」という具合になすりつけておく戦後にしておかねば,まずい事情がそれこそ腫れ物のように出来していた。

 それゆえ,A級戦犯が合祀されるまでは昭和天皇も,自国を敗北させた〈自身の責任〉そのものには頬被りする格好で,つまり1978年10月までは靖国神社に参拝できていた。

 東京裁判も,このずいぶん身勝手な天皇側の理屈にとってうしろ楯になる方針で指揮されていた。だが,A級戦犯が合祀されてからは,以上のように説明した「靖国神社=戦争神社=戦勝神社」という “公式の図式” そのものからは完全に脱輪していたけれども,意図的にこれから目をそらし,しらないふりをしていた事態が,いまさらのように鼻先に突きつけられた。

 となった時点を境にして,靖国神社にそれまでは参拝できていた昭和天皇であっても,とうとう九段下のこの元国営神社には出向けない状況に追いこまれた。

 ★-3 過去の参拝として,鎮霊社への首相訪問はなし

〔記事に戻る→〕 小泉純一郎首相は,鎮霊社の戦没者も追悼の対象にしているのか。首相は2001~2004年は靖国神社の本殿に昇殿し,昨〔2005〕年は拝殿前での参拝にとどめた。過去5回の参拝で鎮霊社を訪れたことはない。

 小泉首相は2002年の参拝所感では,追悼対象を「明治維新以来のわが国の歴史において,心ならずも家族を残し,国のために命を捧げられた方々全体」「国のために尊い犠牲となった方々」と説明した。少なくとも鎮霊社に祀られたとされる「世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々」(靖国神社のホームページ)は追悼対象ではないようだ。

 補註)鎮霊社の存在は,靖国神社に関するもろもろの議論において,ほとんどといっていいほど無視されてきた。このようにもちだして言及することからして,いささかならず唐突の感をもたざるをえないくらい,鎮霊社などという祠は度外視されてきたというか,もともとその存在すらよくしられていなかった。

〔記事に戻る→〕 ただ,神社本殿の「御霊(みたま)」全体がそのまま,首相の追悼対象だともいい切れない。小泉純一郎首相は昨〔2005〕年6月の衆院予算委で「A級戦犯のために参拝しているのではない。多くの戦没者に敬意と感謝の意を表したい気持ちからだ」と述べ,追悼対象を微妙に修正している。首相官邸報道室は,首相の追悼対象に鎮霊社が含まれるか否かについて「分かりかねる」と答えている。

 補註)したがって,安倍晋三による2013年12月26日の靖国参拝では,いままでの首相とは一味違わせて,安倍晋三は鎮霊社にもお参りしたというわけであった。

 ★-4 なにが問題だったのか 

〔記事に戻る→〕 「中韓から文句をつけられた」ので「A級戦犯合祀が問題」という議論に首をかしげてきた。やはり,問われるべきは靖国神社とはなにか,という本質論だ。それがようやく国民議論の的になってきた。ただ,戦後61年〔⇒ 2006年〕からで,関係者の多くが亡くなっている。事実関係の追跡が困難になっている現実が悩ましい。

 補註)靖国神社の問題は,アジアの近隣諸国からとやかくいわれる以前に,自国の問題として議論されねばならない。中韓などからの靖国批判に反発する日本側の特定集団は,以前〔1970年代後半より〕は,靖国問題に対して関心をもたなかった国々が,いまごろ〔=その後〕になってなにやかや文句を付けてくるのはけしからんと,非難した。

 しかし,日本国内じたいで靖国の問題を議論しだした〔国営化法案で〕のは,1950年代半ばからであり,しかもその国営化への動きが活発化し,国会でも騒がれ出したのは,1969〔昭和44〕年以後であった。当時まで,中韓などアジア諸国は発展途上の諸国家であって,日本国内の問題としての靖国神社問題まで気づき,批判できる余裕など全然なかった。

 それはともかく,2013年12月26日の靖国参拝は,安倍晋三が思っていたのとはまったく違う反応を,世界中から反動的に惹起させた。

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