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東日本大震災・東電原発事故,ドラッカー学などに対照させうる「明仁天皇の皇室未来戦略」を2010年代に関して検討してみる試み

 ※-1 矢部宏治・須田慎太郎『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』小学館,2015年という本があり,「日本は戦争をしない国」だと唱えていたが,在日する「米軍に戦争をさせるために奉仕してきた国」であるという,厳然たる歴史的な経過・事実を無視できるか

 この記述ではまず始めに前もって,本日は2023年12月8日であり,大東亜戦争が開戦したその後,ちょうど82年が経った日である事実を断わっておきたい。

 矢部宏治・須田慎太郎共著『戦争をしない国-明仁天皇メッセージ-』小学館,2015年7月という本が販売促進用にかかげた売り文句は,「衝撃のベストセラー『日本はなぜ,「基地」と「原発」を止められないのか』の著者・矢部宏治は,なぜいま,明仁天皇の言葉に注目したのか」となっていた。

 そのように謳っていたその要点は,しかしながら,完全にその焦点を意図的に外していたと断定してもよいくらい,疑念が残されていた。

 1933年12月23日に生まれた天皇明仁が1989年に天皇位に就いていたから2019年までだけでも,この地球上で発生してきた戦争・紛争に関して,アメリカ合衆国がいかほどに数多く関与ないし参戦(開戦)してきたか? しかもその有事なったさい,在日米軍基地が大いに盛んに利用(活用)される軍事作戦の展開となっていた。

 まず最初に朝鮮戦争(1950年6月~1958年7月),つぎにはベトナム戦争(1961~1975年)が,その分かりやすい,しかもアジア方面において起きたその事例として挙げられる。この2つの戦争では,日本の沖縄県を重点にしていたものの,全国に配置されている米軍基地がすべてが全面的に利用される臨戦態勢になっていた。

 それでもというかそういった歴史(戦争史)を意識してなのか,この矢部・須田『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』はさらに,こう宣伝されてもいた本である。

 戦後日本最大の矛盾である「沖縄問題」と真正面から向かい合い,その苦闘のなかから「声なき人びとの苦しみに寄り添う」という,象徴天皇のあるべき姿を築きあげていった明仁天皇。その平和への思いと珠玉のメッセージの数々を,写真家・須田慎太郎の美しい写真とともに紹介します。

宣伝用の文句

 敗戦後,日本が経過してきた「この国じたい」の『最大の矛盾』は確かに「オキナワ問題」に代表されてきた。そうはいっても,日本全土に在日米軍基地(それらは完璧なる治外法権の場所であり,

 アメリカ本土にとってみれば日本にある飛び地のごとき,実質「領地」)が,いまだに覆いかぶさったままであるゆえ,つまり,その矛盾なるものの実体は,最大であれなんであれ,現在進行形の事実問題でありつづけている。

 矢部・須田『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』は,明仁天皇夫婦が在位中,「サイパン,パラオ,中国,沖縄,広島,長崎,福島…。明仁天皇の足跡をたどり,空前の海外&国内ロケを敢行! 」という内容の本であり,つぎの編成からなっている。

 目次
  Ⅰ I shall be Emperor.
  Ⅱ 慰霊の旅・沖縄
  Ⅲ 国民の苦しみと共に
  Ⅳ 近隣諸国へのメッセージ
  Ⅴ 戦争をしない国
  Ⅵ 美智子皇后と共に
  あとがき
  【付録】世界はなぜ,戦争を止められないのか-国連憲章と集団的自衛権

矢部・須田『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』

 明仁天皇夫婦は在位していたとき,韓国や,ましてや北朝鮮を訪ねることができなかった。極論すると,仮に北朝鮮という21世紀に実在する「地上の楽園」ならぬ「一国全体が強制収容所」であるがごとき,つまり「朝鮮非民主主義反人民偽共和国」とは日本との国交じたい回復できていないゆえ,

 また例の「北朝鮮による日本人拉致問題」という部分的かつ相対的なその国際政治的な事件の意味も併せて評定しておくとしたら,ひとまずは極限的な歴史的意味あいしかもちえないにしても,日本国側にとってみればブルーリボンバッジ的にきわめて深刻で重大な歴史問題が残されたままであるからには,

 平成天皇がまさに天皇であった時期に,あのトンデモ半封建的・前近代的国家を訪問するなどといった政治的な行為は,憲法の規定をどのように解釈しようが,無理であった。それゆえ,そもそも明仁夫婦が北朝鮮を訪問するなどといった「けったいな仮想話」は,推理小説の題材に活用する以外,なかなか想像すら及ばない「現実問題」であった。

 以上の言及はともかく,矢部宏治・須田慎太郎『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』小学館,2015年のように「日本が戦争をしない国」だというのは,その年にはさらに「米日安保関連法」が成立・公布されていた事情に鑑みても,虚構でなければなにか大きな勘違いでもって,この日本という国と皇室(天皇・天皇制)を理解〔しようと〕していた,としか受けとめようがない。

たとえば,以上の記述に関連する文献として,牧俊太郎『「米国のポチ」と嗤われる日本の不思議』本の泉社,2011年12月があったが,この本に対するアマゾン書評として唯一寄稿した評者は,こう発言している。

 著者〔牧俊太郎〕は日本共産党の元幹部で,不破〔哲三〕・志位〔和夫〕体制の元で党員生活をまっとうされたようです。その視点,現在の日本共産党視点で読めばすべてすっきり筋が通った批評書であります。

 したがって私がつねづね思う日本共産党は自衛隊をどうしたいのかについてはほぼ触れておりません。星二つ減っ〔て,3つにし〕たのはそこであります。次回作では日本共産党は自衛隊,または日本の国防を担う組織をどうしたいのかについての作品を期待しております。

牧俊太郎『「米国のポチ」と嗤われる日本の不思議』書評

 日本共産党の関係者でなければ,日本のことをアメリカのポチと呼ばないわけではなく,同旨の発言はどの陣営からであれ,つまり保守・右翼のほうからでも揚がうる声であり,それなりの音声(音量)もともない聞こえてくるものでもあった。

山田順「表紙カバー画像」

 だから,さらに書名そのものに注目してもっと挙げるとしたら,山田 順『永久属国論-憲法・サンフランシスコ平和条約・日米安保の本質-』さくら舎,2017年が,上にかかげみた画像のとおりその表紙カバーに宣伝文句として訴えていた文句

  憲法も日米安保条約もサンフランシスコ平和条約に隷属!

  日本の戦後は似日本語の正文にないSF平和条約による「米国の属国化」に規定されている!

  「改憲派」も「護憲派」も見誤っている歴史構造!

などは,日本が21世紀の現在になってもなお,この国家全体に対して実質の桎梏でありつづけている「アメリカ支配の介在ぶり」を思えば,日本がアメリカのポチといわれようがいわれまいが,その「犬種を問わず」「その名はポチだ」というほかない状態を堅持する「対米従属関係」が,強固に継続されてきた。

 なお,サンフランシスコ平和条約は1951年9月8日調印,1952年4月28日発効であった。この4月28日という日付は,昭和天皇の誕生日の前日であった。

「戦後のアジア太平洋地域における平和と繁栄の礎」だといいきるのは
相当にあつかましい精神構造が必要だが
これなりに「現代的な意義を有」する無軌道の解釈

 だからまた,中村尚樹『占領は終わっていない-核・基地・冤罪 そして人間-』緑風出版,2017年という本が「占領下で何がおき,何が解決されないままなのか……」と,この21世紀の時期になっても依然,日本じたい・日本人自身の歴史問題として問われつづけているわけである。

 以前から「日本は反国家,準国家」だという指摘があった。本の題名としてはたとえば,つぎのような書名を名のった著作が登場していた。

▲-1 伊部英男『半国家・日本-戦後グランドデザインの破綻-』ミネルヴァ書房,1993年。

  ▲-2 石川 好『日本「半主権国家」宣言-続・新堕落論-』徳間書店,1994年。

 「半国家」といっても「半主権」といっても「半分は半分」である。それでは,一方のその半分に対した他方のその半分には,「この日本国の場合として」なにが詰まっているのか?

 いうまでもあるまい。

 清水昭三『日米同盟という妄想-準国家日本の姿-』同時代社,2022年は「『天皇制』『戦争責任』『憲法問題』『安保条約』の矛盾から,これ以上目をそらすことはできない(!)と,強く訴える本であった。

 ところで,矢部宏治・須田慎太郎『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』小学館,2015年のうち,矢部は別に(さきに)つぎの本も執筆していた。

 ★-1『日本はなぜ,「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル,2014年。

 ★-2『日本はなぜ,「戦争ができる国」になったのか』集英社インターナショナル,2016年。

 この2冊を上梓していた矢部宏治がどうして,須田慎太郎との共著『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』小学館,2015年も書いていたのか,これについて「疑問なしとしえない」のは,憲法のなかに残された天皇条項とこの天皇家のその後を踏まえて考えれば,

 なぜこの日本が「『基地』と『原発』を止められ」ず,「『戦争ができる国』になったのか」という事実くらい,矢部宏治は先刻,重々に承知であったにもかかわらず,天皇,それも平成天皇の話題になると突如,「明仁天皇メッセージ」は「戦争をしない国」とだけいいだし,そのための議論もしていた。

 正直いって,「明仁をヨイショするため」の本にならざるをえなかったが,須田慎太郎との共著『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』小学館,2015年であった。

 明仁の父,裕仁は敗戦をはさんで「大元帥の時期」から「象徴の天皇」に定義しなおされ,それなりに天皇自身として復活した。その息子はこの父の後ろ姿をそばで観てきた人物であったから,成年になってから正田美智子という民間人女性を配偶者にえてからというもの,

 「日本国憲法」に記されている「人物の立場:自分の姿容」を,日本国民たちになかで,いかに堅固たるものたらしめるかという問題意識=大前提を踏まえてだったが,自分の生涯をかけてそのための努力を重ねてきた。

 天皇たる立場としてこの世に生を受けた人物が,憲法のなかでは最初からの全9条のなかで,自分の生き方を指定・強制されていた。だから明仁は,この自分が否応なしに置かれた「立場:身分・宿命」を所与の前提としておくさい,諦観などする以前に覚悟したうえで,しかも積極的にそれを受け入れていた。そうやって彼は,彼なりに自分の人生を必死になって構築しながら生きぬいてきた。

 だが,矢部宏治・須田慎太郎『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』小学館,2015年(#1)が説くように,そのような境遇に置かれてきた明仁の「天皇である立場」を,ただ「戦争をしない国」における彼の位置づけそのものとしてのみ論じた点は,あまりにも感傷的に過ぎていた。

 どういうことか? この(#1)についていうとしたら,どう詮索してみたところで, 矢部宏治の『日本はなぜ,「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル,2014年,および『日本はなぜ,「戦争ができる国」になったのか』集英社インターナショナル,2016年(#2)との脈絡がさっぱり読みとれない。

 要は(#1)と(#2)の本の内容は,非常にギクシャクしている以上,基本的に整合性がみいだせなかった。根幹のところでは,天皇・天皇制を批判する問題意識とは完全に無縁であったかのような姿勢が,矢部宏治には潜んでいる。これでは,日本の天皇・天皇制の問題は論じきれない。もやもやしたスキマを残すほかない。おそらく当人はこの指摘・批判を承知でいるとも推察しておく。


 ※-2 東日本大震災と東電福島第1原発事故,ドラッカー理論,そして平成天皇夫妻の足跡などを絡めて議論

 この※-2以下は2011年5月3日に初出されていたが,その後,12年以上も経過しての再公開となった。

 以下に議論していく問題意識は,「ドラッカー学に明仁天皇の皇室未来戦略」を無理やりにでも関連づけた議論をしてみたい点,そして,21世紀に電力会社(東京電力)が起こした原発事故との絡みぐあいを念頭の置きつつ,その間に平成天皇一家がどのように自家・自族の生きる道を模索・開拓しようとしてきたかという点に差し向けられる。

 ▲-1 2011年4月27日に東日本大震災被害地を回った天皇夫婦

 1) 天皇夫婦が被災地を慰問しだした理由

 先月〔ここでは2011年4月〕28日の主要各紙朝刊は,たとえば朝日新聞の場合,い「励ましの言葉に涙 両陛下ご訪問で避難者ら」という見出しで,こういう記事を報じていた。

 天皇,皇后両陛下が4月27日,津波の被害が大きかった南三陸町や仙台市の避難所を訪れ,被災者を見舞った。両陛下から穏やかな口調で励ましの言葉をかけられた被災者は,表情を和らげ,笑顔をみせる人もいた。

 両陛下は27日午後,南三陸町で約200人が避難する歌津中学校を訪れた。皇后さまから「よくご無事でいてくださいましたね」と話しかけられた阿部琴子さん(70歳)は,涙ぐんだ。「とてもお優しい方でした。お言葉をこれから生きていく支えにします」

 皇后さまは中学教師の鳳京邦彦さん(34歳)に生徒の安否を尋ね,「全員無事」としると,「みんなを守ってくださってありがとうございました」と気遣った。

 仙台市宮城野区に移動した両陛下は,約270人が避難する宮城野体育館を見舞った。自宅で津波に襲われ,2階に引き上げようと階段で妻の手に触りながら救えなかったという赤間憲さん(69歳)が涙ながらにその様子を話すと,天皇陛下は遺影を手にとってみつめ,「津波でお亡くなりになったんですね。どうかお元気でね」と励ました。

 赤間さんは「優しい言葉をかけていただき幸せです。家内も喜んでいると思います」と涙をぬぐった。同日夕,両陛下を自衛隊松島基地で見送った村井嘉浩知事は「両陛下が大変に心配しておられることが,とてもよくわかった。頑張ってくださいという強いメッセージをいただいた」と語った。

 注記)『朝日新聞』2011年04月28日 配信記事,http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000001104280001 

 ごく単純に思うに,それだけ天皇夫婦の慰めと励ましの「お言葉」が被災民に対して,意味のある:「がんばって生きてください」という効果があるのならば,天皇夫婦は被災地すべての避難所をくまなく訪ねまわり,全避難民にその《お言葉》をかけることにしたらよい。

 2) 皇室未来戦略の一貫として被災地訪問

 これまで天皇夫婦は,東京都とその近辺に避難の場所をえていた被災者たちを訪問し,慰めと励ましの「お言葉」をかけてきた。今回は,被災地の現場を訪問する日程を組んでいた。天皇は皇族の首長として,今回の被災地訪問を,熟考したうえで決めたものと推察される。

 --なお,5月2日以降の日程においても,天皇夫婦は東日本大震災関係地域への慰問を予定しており,東北各地を訪問する予定であったが,2日の予定は強風のため中止になっていた。

 今回における天皇の日程「4月27日」に関していえば,被災地を「訪問したその日づけ」に注意したい。4月27日といえば翌々日の29日が「昭和の日」である。

 裕仁「天皇個人のこの誕生日」は「国民の祝日に関する法律(祝日法)」の一部改正によって,2007年(平成19年)からその名称を変更し「昭和の日」になっていた。

 あらためて「祝日:国民の休日」になった4月29日であった。平成天皇はこの「昭和天皇の誕生日」を強く意識したうえで,被災地の現場をに直接足を踏みいれる機会:日程を組んでいた。

 1989〔平成1〕年から2006〔平成18年〕まで4月29日は「みどりの日」と名づけられていた。「国民の祝日に関する法律(祝日法)」2条は,この日を「自然に親しむとともに,その恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としていたというが,その本心では「自然」=「昭和天皇」であったはずである。

 その後,「みどりの日」が「昭和の日」という〈名称〉に回帰したのは,意図された操作がたっぷり含まれた〈自然〉ななりゆきであったといえる。

 補注)2005年において「国民の祝日に関する法律」の改正があり,2007年から4月29日は「昭和の日」とし,既存の「みどりの日」は5月4日に変更された。

 ここで本論,4月27日の話題のほうに話を戻す。

 平成天皇は父親である「昭和天皇のための今日的な利害」=関連性も考えたすえ,激甚なる被害を受けた東日本各地のうちから,南三陸町と仙台市をまず選んで訪問した。航空自衛隊機を利用したり,警備に動員される人員もそれ相応にいたから,国家予算と人員も相当食う天皇夫婦の行動となった。

 ところで,女性である美智子が,被災者のなかからある教員に対して「みんなを守ってくださってありがとうございました」と,気遣っていったというとき,この言動は「天皇の妻:配偶者」として〈天皇の国事行為〉と「いかなる関連:含意」をもつものになるとみなせばよいのか?

 注記)つぎの写真は,2011年4月27日,被災地:宮城県南三陸町でがれきに向かい頭を下げる天皇夫婦の画像など。

2011年4月27日

  天皇の妻は「日本国のファーストレディなのか」「国母なのか」? それとも,象徴天皇夫婦のうち「奥様のほうから」このさい「国民たちに向かいなにかをいってもらった」ほうが,よりよく被災者の慰めと励ましになるのであれば,なんでもいいのではないか,という受けとめかたもありえよう。

 宮内庁が天皇夫婦が演技する「今回のような疑似元首的な行動」(他国の場合だと大統領や首相のするそれだが,日本は首相がいる)を,日本の政治のなかでどのように意義づけてきたのか。

 天皇夫妻が自分たち一族の企画・立案を踏まえて,そのように行動・実行している〈政治的な意味あい〉は,どのように解釈されればよいのか。憲法の問題としてつねづね議論の材料を提供してきた現実的な課題である。

 3) 平成天皇の狙い

 明仁天皇に関して気になることがらが,さらに出ていた。その息子:徳仁皇太子夫婦は,現在の天皇夫婦がおこなっている諸「政治的な行為」を,どのように観察していたのか?

 祖父の昭和天皇は,敗戦を境に「生き神さまではなく人間天皇」になったとされる。ただし,裕仁天皇は架空の天皇「神武天皇」の子孫だと,自分では信じこんでいる。

 昭和20年代のGDP占領下,昭和天皇は「敗戦後の日本全国」をまわりにまわって,自分の顔と肉声を直接人民に売りこんできた。その結果,日本帝国政府が明治時代以降,臣民に対して根強く植えこんできた「天皇神聖視」を,自分流にうまく変質〔カッコ付きの民主化を?〕させえるという効果をえていた。

 新憲法の「民主主義」のなかに「天皇」という象徴〔第1条から第8条まで〕が一方に鎮座している。これじたいを怪しむことをしらない日本国・民は,他方に第9条「戦争放棄」事項のしがらみもあって,いまだにこの憲法を改正できないでいる。このしらがみををとらえて,これは「敗戦」を利用してアメリカが日本国にしこんだ「日本国誕生時の陰謀だ」とうがった観方もある。この歴史理解に一理ないわけではない。

 平成天皇夫婦は,憲法に規定された「天皇の国事行為」およびこれに類似するとみなし増殖させてきた数多くの「正式化させてきた天皇行事」を,「国内外諸事に対する天皇の行事」として格付けしてきただけでなく,今回のような災害発生時も皇室の存在を顕示・高揚させうる好機ととらえ,大いに利用してきた。

 つまり,平成天皇(夫婦)は実は,「皇室一族の未来」の安寧と繁栄,いいかえれば,自家の利益と幸福をもっぱら獲得・堅持するための「戦略的な行動」を実施してきた。

 補注)2023年は令和5年ということで,息子の徳仁がすでに天皇になっているが,父の明仁についていま論じている中身の真似は,まったくしようとする気配がない。昭和天皇の息子と孫の代では,考えることとなしうることとが,大きく異なってきた。

 ただし,本ブログのごとき理解・認識は,日本の大手マスコミ関係ではけっして示されることがなかった。なぜなら,暗黙的の国是に反した思考・主張になるほかなかったからである。

 今回〔2011年4月27日の出来事で〕も,大震災の被災地で天皇夫婦から直接「声」をかけられた人びとは,例外なく一様に「感激と感謝の気持」をすなおに表明していた。その意味で庶民の側には,無意識で無邪気な「明治に新しく創作された天皇観」が,敗戦という断続の時代契機が介在したにもかかわらず,依然残存している。

 天皇一家のスポークスマン的な国家組織である宮内庁のホームページをみればよい。天皇がいなければ,この国は1日・1時間・1分・1秒たりとて,もたない脆弱な構成体組織であるかのような記述・記事で埋まっている。日本国はあいもかわらず,まるで〈天皇家のための疑似的な神国〉の様相を演じつづけている。

 先日の本ブログ-ここでは2011年4月8日の記述であったが-「天皇一族が被災者を見舞う風景」と題したそれは,東京都調布市の避難所を天皇夫婦が慰問したとき,天皇夫婦に対して胡座(あぐら)をかいて対していた若者がいたため,一時は「こいつらは不敬罪モノだ」というような非難が飛びかっていた事実に言及した。

 しかし,その若者がネパールからの留学生だということが判明したのち,その種の非難はうやむやになっていた。どうやら,天皇とその配偶者という存在は,絶対的にも「聖人君主」に近い「雲上人」であるかのように映る,と指摘されても不思議はない。

 その種の「非かつ反」民主的な価値観が,この国にあっては,ともかく天皇とこの一族に限っては許されるらしい。 “不思議の国:ジャポン” だなどといって,妙に喜んでいてよい政治の事象ではあるまい。

 

 ※-3 2011年4月28日朝刊の報道内容について

 2011年3月11日に東日本大震災が発生したあと,4月27日になってからの話題であったが,津波の被害が大きかった宮城県の南三陸町や仙台市の避難所を,天皇夫婦が訪れ被災者を見舞っていた。

 本ブログの筆者は※-2で記述したように,2011年4月28日主要各紙朝刊がそれぞれの1面を充てて,その天皇夫婦の行動をどのように報道していたか注目してみた。

 まず,一番大きい記事に仕上げていたのが『産経新聞』であった。そこにはもちろん,各新聞社「代表撮影」になる写真を添えられていた。この「代表撮影」の方法とは,ほかの撮影のときのように寄ってたかって天皇夫婦の写真を撮るというような〈失礼〉を,宮内庁が厳重に禁止している事情によって作られた便法を意味する。

 つぎに,『読売新聞』と『毎日新聞』がほぼ同じくらいの紙面を割いて,その「写真と記事」を1面にかかげていた。

 読売新聞の1面では,前段のほかの場面の写真2葉を出していた。なお,以上3紙はそれらの「写真と記事」を1面の上方に配置していた。

 『朝日新聞』の「写真と記事」は上方ではなく「天声人語」のすぐ上,だから1面全体のなかでは真ん中より若干下方に配置されていた。

 以上,各紙「写真と記事」の取扱について,その「配置と大きさを順に並べみる」と,「産経新聞→読売新聞→毎日新聞→朝日新聞」の順になっていた。

 また,『日本経済新聞』は1面にではなく,社会面(見開き右側の面)に「代表撮影」写真を添えた該当記事を,ほぼ真ん中に配置していた。参考にまでにいえば『しんぶん赤旗』の1面には天皇関係の記事はなかった。


 ※-4 ドラッカーからみる東京電力の経営姿勢

 1)「ドラッカーの企業目標論」

 話題は,皇室の未来戦略から東京電力の経営姿勢,それも原子力発電所運営をめぐる同社の企業方針を検討するための問題点に移る。

 ところで,ドラッカーの経営学がいま世間ではおおはやりである。高校生までがその平易に書かれた解説書を手にとって読んでいる。経営学者の範疇にはくくれなかった「ドラッカーの思想と理論」の広がりは,浩瀚な書物をつぎつぎと公表していく筆力,時代を深く分析する観察力,将来を適確に予測する力などをもった著述家であった事実を物語っている。
 
  補注)最近(当時に)おおはやりとなった「ドラッカー本」の1冊に関してであるが,「女性購入者続出! 別冊宝島『まんがと図解でわかるドラッカー』藤屋伸二著,宝島社,2010年11月刊が50万部突破」という宣伝文句で謳われ,販売されていた。

 しかし,このドラッカーの理論的な刃先を当ててもうまく解剖できない日本企業の現実態があった。それは東京電力株式会社といい,公益事業を営む,しかも関東地方において独占営業権を付与されていた「日本の大会社」であった。

 ドラッカーは,アメリカの大自動車会社GMを内部から分析する著作をものにしていた(→P.F.ドラッカー,岩根 忠訳『会社という概念』原著1964年,東洋経済新報社,1966年)。

 補注)なおその後,東電は現在における正式名称として「東京電力ホールディングス」に変更されていた。

 本ブログ筆者なりに理解するドラッカー「論」をさきに記述しておきたい。

 ピーター・F・ドラッカーは,経済制度としての企業経営の存続と成長という観点から目標論を展開した。企業経営の基本目的は「顧客の創造」であり,このために企業経営は,つぎのふたつの基本的な機能「市場活動(マーケティング)」「革新(イノベーション)」をはたさねばならないとした。

 ドラッカーは,存続と成長のための目標に対する下位目標として,市場における地位,革新,生産性,物的および財務的資源,収益性,経営管理者の能力と育成,労働者の能力と態度,社会的責任をの8つを列挙し,これら目標間の均衡を図るべきだと主張した。

 ところが,ドラッカーは「利潤目標〔→収益性〕を目標のひとつ」に格下げしてしまった。

 企業経営が制度として存続するには経済的要因のみならず,広く社会的・政治的・文化的・伝統的諸要因を考慮し,社会的責任という用語に集約されるような〈ひとつの経営理念〉をもたねばならない。こうした目標論は,永続的に事業を展開していこうとする現代の企業経営の性格に注目したものである。

 大企業といえども,存続と成長を絶対的に保証されるわけではない。だが,現代社会において不可欠な存在となった「大」企業は,十分な利潤を獲得しながら,同時に「社会的使命」をはたしていかねばならない経済的制度となっている。

 ここまでドラッカーの見解を聞いたところで,東電を具体的にとりあげて考えてみたい。

 --東電は,主に関東地方を電力を供給する大企業であり,しかも「総括原価方式」)によって,一定の利潤割合を金額として保証されてもいる大企業である。

 東電が「顧客の創造」を実現するためとなれば,それも「売上増大=顧客の創造」という意味あいでいう場合,なによりも電力使用者に対して「電力をより多く消費させる」ことが目的となる。

 その点に注意してみると,「市場活動」をおこなう〔当時の〕電力会社は基本として「地域独占」を保障されていたから,当初よりたいした苦労もなく,その目的は実現できていた。結局,自社の電力使用者に対しては,電力をより多量に使わせるかに注力することになる。

 また「革新」という問題要因についていえば,東電だけではなかったけれども,再生エネルギーに関した〈技術革新的な経営行動〉が,「3・11」までは積極的になされてはいなかった。

 太陽光や風力,地熱エネルギーを利用した電力発電への着手は,一定限度にはなされてきたものの,まだまだ微少であった。ただひとつ「原子力発電」は,クリーンで二酸化炭素も出さない発電方式だと虚偽の喧伝がなされたなかで,東京電力だけでなく全国の電力会社全体の比率で,電源の3割を超える水準(比率)までその利用が高められてきた。

 しかし,その原発に関した喧伝はまさに喧伝であって,原発事故をもって端的に実証されたように,クリーンどころかダーティそのものであった。二酸化炭素についていうなら,これを大量に吐き出す燃料技術的要件に依存して成立する「原子力発電の特性:事実」に目をつむった言説は,言語道断のタチの悪い「意図的な無知論」である。

 2) 原発事故にみる東電の大失敗

  ピーター・F・ドラッカーいわく,事業の目的は「顧客の創造」であり,そのためには「市場活動」と「革新」が必要である。しかし,企業経営の基本目的が利益の追求でありその最大化にある事実は,依然まったくかわるところがない。

 そこで,東電は「地域独占企業」であるから〈事業の目的〉をその地域に対する電気の安定的な供給=社会的役割・責任に置きつつも,同時にそれ以上に,営利原則に則って利益の最大限獲得を可能にするための経営行動を採っていた。

 「総括原価方式」によって『利益額』ではなく『利益率』を国家保証されている東電は,どうしても利益〔額〕そのものを追求することになる。そうなのであれば,その総括原価「じたい:総額」を,まずさきに「〈より大きな金額〉のもの」にしておく必要があった。

 日本で原発が利用が盛んになっていた背景には,そうした企業行動の基本原理が反映されていた。ところが,2011年3月11日に発生した東日本大震災は,大地震と大津波とによって,東電の福島第1原子力発電所を全壊させ,福島第2原子力発電所も停止させた。2023年12月すでに,東電の両発電所は廃炉になっていた。

 福島第1原発は,破損事故発生から 50日以上が経った本日〔ここでは2011年5月3日のこと〕になっても,放射性物質を発電所外〔空中と海水のなか〕に出しつづけていた。この事故がいつ収拾するのか,その後に落ち着いて原発廃止の処分作業(廃炉)に入れるのかさえ,まったく見通しがつかなかった。

 補注)厳密にいうと,2023年12月8日現在の本日になっていても,いわゆる廃炉工程には至っていない。東電福島第1原発事故では1・2・3号機が溶融したが,いまだにそのデブリの取り出しすら着手されていない。つまり,この事故の後始末すらまだ済んでいない。

 当初政府(まだ民主党政権だった時期)が語ったように,福島第1原発事故を終息させるには「6カ月から9カ月かかる」といった予測も,あまり充てにはできなかった。専門家であれば大方がそのように考えていたはずだし,実際そのように経過してきた。

 そして,さきゆきをどのように判断したらよいのか,的確に答えられる研究者もいなかった。要は,この原発事故の後始末に今後どのくらいの「莫大な経費」を要するのか,ほとんど予想もできていなかった。いまとなってみれば,その必要経費はどんどん膨らんでいく見通しとして覚悟するほかなくなった。

 3) 企業の社会的責任問題

 ドラッカーの経営学的な問題議論に話を戻す。いまは,資本制企業の社会的責任が重く観られる時代である。しかし,利益・利潤との関連においてその社会的責任問題は,本質面でどのように理解されればよいのか。21世紀の経営学は,そうした課題を,最重要の論点にとりあげ吟味していた。

 商法は,会社を「営利ヲ目的トスル社団」であると規定してきた。資本制企業が利益を目的に行動するのは,きわめて当然な事実である。とくに株式会社は,商法などに定められた規則にしたがい,損益計算書や貸借対照表などを作成し,企業経営の活動成果を公表する義務がある。

 そのことはもとより,会社の取締役=最高責任者に課せられた法律上の義務である。企業経営の活動成果は,結果責任を公開する形式をとり,そこに明示された利益〔あるいは損失〕の多寡あるいは有無によって,客観的かつ冷厳に評価を受けることになる。

 企業経営は,営利原則にしたがい利益を追求する。それも当然,可能なかぎり最大限に利益を獲得しようとする。とはいえこの事実は,資本主義の歴史的発展にともない,当初の明示的な意味あいから,最近の暗黙的な意味あいにまで変質してきた。この変質に関しては,企業経営に対する社会的責務の問題登場が対応していた。

 現代の資本主義体制における企業経営の目的追求活動は,一見したところ,利益を直接的に最大化する行動をそのまま許されていないかのようにみせる場面もある。しかし,企業経営が利益目的を最大化しようとする行動の方途は,全然否定されていない。

 当然ながら,あくなき利潤の追求はなお,資本主義経済社会を構成する企業経営の本性なのである。この程度の当たりまえである事実を真正面よりとりあげない経営学の理論は,社会科学としての資格を疑われる。

 4) 必要最低利潤説(necessary minimum profit)

 これは,ピーター・F・ドラッカーの企業目的に関する見解である。利潤は目的ではなく,企業経営を存続させるために必要な最低利潤が要求されると考える。この最低利潤は企業経営が生存し,成長するために必要だとされる。

 それによって企業経営が「技術革新に挑戦し」「設備投資をおこない」「顧客を創造すること」ができる。企業経営は多くの危険に直面している。そのためにも必要最低利潤が獲得されねばならない,というのである。

【参考資料】

ピーター・F・ドラッカー

 ドラッカーはこう主張する。事業の第1の目的は「なによりも存続する」ことである。だから,経営の指導原則は最大利潤の追求ではなく,むしろ「損失の回避」にある。事業の経営はつねに危険がともなうゆえ,それに備えて補填するに足りるたけの「余剰」(プレミアム)を作り出さねばならない。しかし,その源泉はだたひとつしかない。それが「利潤」である。

 ここに登場するのが「必要最低限度の利潤」の概念である。これは,事業の意思決定や行動の妥当性を検討し,それに厳格な枠を与える重要な基盤である。つまり,利益は目的ではなく「事業活動の〈結果〉」であり,かつ「企業の業績を測定する〈唯一の尺度〉」でもあり,将来の危険を負担する〈唯一の源泉〉」である。

 しかし,このようなドラッカーの論理は,ただちに成立するものとはいえない。すなわち,利益は企業経営の目的ではなく「結果である」といったところで,企業経営の経済行動が目的として利益を追求することは,どうにも否定できない現実ではないか。

 ものごとの道理,その順逆をさかさまにした議論はいただけない。単なる修辞の問題ではないのだから,もっと現実そのものを正直に把握した定義的な説明にすべきであった。つまり,ドラッカーが主張した「その論理」を支持する厳密な根拠は,経済界をわたすかぎりどこにも探しだすことができない。

 必要最低利潤の実質は,できるだけ多額の利潤の獲得にあると解釈される。そうでなければ,そこに含まれている内容である「技術革新・設備投資・顧客の創造」などに「必要な利潤」最低額がとうてい確保できない。したがって「必要最低利潤」はその根本性格において「利潤最大化」と全然かわりない。

 結局,「必要・最低」利潤という修辞そのものが「ことばの綾」なのであった。その利潤観が意味する水準額は多分『空想的な高さ』に達するかもしれない。なぜなら,必要「最低」利潤の水準は「いくら高すぎても悪いということはない」からである。

 補注)この直前・段落の理解(表現)は,岩尾裕純(元中央大学商学部教授であった批判経営学の泰斗)が語ったものである。原子力村の強大な経済力は,各地域を基盤:商圏にして,しかも強大な存在であった電力会社が獲得していた利潤(利益)が源泉となっていた。

 5)「原発『検査中13基』,再開へハードル 福島事故響く-資金調達にも不安 市場,『リスク』意識-」『日本経済新聞』2011年4月28日 21時48分 配信記事。

 東京電力の原子力発電所事故の影響で,他の電力会社に逆風が吹いている。安全性を確保するよう求める声が強まり定期検査中の原発の運転再開が遅れれば,高コストの火力の比率が高まり収益を圧迫。電気料金引き上げにもつながる。

 東電の賠償負担の実質的な肩代わりを含めた「原発リスク」が嫌われ,金融市場での資金調達も楽ではない。各社は〔2011年4月〕28日までに2011年3月期決算を発表したが,先行きを不安視する声が相次いだ。

 --このような記事が『日本経済新聞』紙上で4月29日に報道されてから5日後,こんどは「原発賠償4兆円,政府が試算 電気料金値上げ前提」(2011年5月3日 3時1分 配信記事)という記事が登場していた。

 ドラッカー経営学の議論をしていたので,復習的に関連する要点を述べておきたい。資本制のそれも「大企業」は,内部蓄積を「必要最低利潤」の名のもとに莫大な利益額を獲得していくほかない。

 というのは,将来においていつ・どのように発生するか予期できない事態に対処できる態勢を,常時維持していなければならないからである。その意味でも「市場活動」おいて顧客をより多く獲得し,利益をより多く上げるためには,絶えず「革新」を巻きおこしつづけることが不可欠である。

 東京電力で具体的にいえば,その「市場活動」は産業基盤(インフラ)である電気を供給する事業体であるので,時代の進展=「生活水準の発展」「諸産業の成長」に応じて拡大されていく。必らずしも自社だけの努力で電力会社は大きくなっていくのではなく,時代の流れ:必要性に適応しつつ事業も合わせて大きくなるという〈基本的な企業特性〉を有する。

 戦前であれば,工場はさておき家庭のばあい「電灯1灯」から電気利用は始まった。戦後になって,家庭のなかに電化生活が浸透していった。21世紀になると「オール電化」という電力使用の方法に着目した〈製品〉が,電力会社が公益事業でありながら消費者に電気を売るための道具・便法として登場している。

 出所)左側の写真は昔風(半世紀前)の「はだか電灯」である。ただし電球はLEDである。戦前であればこの電灯に電線を長く付けて使いまわし,これ1灯で家中を照らしていた。   

 電力会社の電力供給量は,日本経済の高度成長に即応したかたちで電力需要に応じる傾向で増加してきた。しかし,1990年前後を境にしてそれはあまり増加していない。東電の経営指標にも端的に反映されているように,日本経済のバブル破綻以後,電力販売量は頭打ちとなっていた。

 だから,東電はこんどは各家庭において電力消費量そのものを増加させるための戦略的製品の開発を試みた。それを象徴する製品は「オール電化」生活の概念を打ちだしている。

 ところが,この3月11日に発生した東日本大震災は,東電に甚大な被害を与え,電力不足の事態に追いこまれた。そのさい,しかも原発を「主要な電源に充てる:充てにする」という前提で販売を促進してきたはずの「オール電化」製品の販売・売込も,それどころではなくなる事情まで発生した。

 つぎは,『朝日新聞』2011年5月3日朝刊,http://www.asahi.com/business/update/0502/TKY201105020519.html が報じた関連の記事を紹介したい。 

 東京電力福島第1原子力発電所の事故に伴う損害賠償をめぐる政府内の試算が〔2011年〕5月2日,明らかになった。具体的な金額を入れて試算しており,賠償総額を4兆円,東電の負担を約2兆円と想定した。東電を中心に電力各社が〔今後〕10年にわたって負担する内容で,東電管内は2割近い電気料金の値上げを前提にしている。

 賠償の枠組みの案は複数あるが,もっとも東電の経営環境をきびしくみた案が有力〔である〕。現在,関係閣僚らが最終調整を続けている。試算によると,賠償は東電が担う。東電は自己資金で足りない分について,電力各社で新たにつくる「機構」から支援を受ける。機構には国も公的資金を拠出。公的資金は,東電を含む電力各社が毎年4千億円を10年間にわたって返済する。

 内訳は,東電は毎年1千億円を特別負担金として拠出。残る3千億円を東電を含む,原発を保有する電力9社で負担する。各社は電力量に応じて負担し,全国の電力量の約3分の1を占める東電は,約1千億円の負担となる。

 これらの賠償資金を確保するため,関係者によると,東電管内は約16%の大幅な値上げになる見通しだ。東電以外の8社は,残りの約2千億円を負担。これは,約2%の料金値上げ分に相当する。4兆円の賠償額の負担割合は,東電が約2兆円,東電以外の8社が計約2兆円になるみこみだ。

 機構は東電が発行する優先株 1.6兆円分を引き受ける。賠償負担による東電の信用低下や東電債の格下げを避けるためだ。また,福島第1原発1~6号機の廃炉費用を 1.5兆円,火力発電の燃料費増を年約1兆円とみている。リストラでは,来年度までに年1500億円,計3千億円の不動産や株式売却を進める。

 賠償は,今年度から1兆円ずつ,4年で完了すると仮定している。賠償額の上限設定については,枝野幸男官房長官が否定しているが,めどとして賠償額を確定させないと東電の2011年3月期決算をつくることができないため,上限を設けたとみられる。4兆円を超えるばあいには,言及していない。

 東電の決算は,2011年3月期は約8千億円の純損失(赤字)に陥るが,赤字は4年間で解消。2014年度以降に社債発行を再開し,2018年度には配当再開もめざすとしている。(引用終わり) 

 前段のごとき会計計算の問題,経営の赤字発生,賠償問題をめぐりとりざたされていた「金額」そのものは,その後12年以上が経った現時点では,もはや全然足りない水準になっている。

 6) 東電の再生

 日本の国策会社といってもよかった日本航空とて,経営不振・債務超過を理由に2010年1月19日,東京地方裁判所に会社更生法の手続を申請・受理され,株式会社企業再生支援機構をスポンサーに経営再建の道を図っている最中である。(その後はみごと再生し,日航との勢力・地位関係が逆転した)

 しかし,東電は競争相手のある航空会社とは異なった製品・用役(サービス)である電気を,地域独占企業として提供する事業体である。

 したがって,東電がいま対面している原発事故に原因した難局は,「会社更生法」の動員,すなわち,経営困難ではあっても「事業の維持・更生=再建のみこみ」のある〈株式会社〉に更生させる手続を定めたその法律を適用するのではなく,東電じたいを初めに日本全国の各電力会社も協力させるかたちで,東電を更生する方法を採る。しかも,日本政府も公的資金を拠出して東電を助ける。

 その金額は賠償額としての4兆円であり,当時社の東電が2兆円を負担する。東電が,優先株 1.6兆円分を発行する点とは別にとくに注意したいのは「福島第1原発1~6号機の廃炉費用を 1.5兆円,火力発電の燃料費増を年約1兆円」が必要になるというくだりである。

 「東電は原発の解体引当金として現在3930億円を積み立てているが,その程度で済むわけがない。つまり本来,負担すべきコストを勘定にいれない,いわば目をつむっているからこその余裕」(2007年3月期の話。恩田勝亘『東京電力 帝国の暗黒』七つ森書館,2007年,115頁)を仮想してきただけであった。

 原子力発電「賛成・推進派」の人びと,つまり電力会社幹部・政府当局関係者・各種大手企業筋・大学研究者たちは,原発のコストは一番安いと主張してきた。それだからこそ,原発は必要であると強説もしてきた。

 けれども,原発の事故が起きたとなるや,それこそ爆発的に高い,1桁違いの経済的負担を,東電1社だけではとうていまかなえない金額で要求されることになっていた。原発の危険性・高コスト性が現実に証明されてしまった。「安全・安価・安心」などと原発の呪文を,いまさら唱えることなど,とうてい許されない時代に移った。

 ドラッカーは,必要最低利潤(=空想的な水準まで高い利益)の「必要性」を,企業経営が将来に要求されるかもしれない「莫大な金額での内部留保」に表現させた。それは「技術革新に挑戦し」「設備投資をおこない」「顧客を創造する」ために用立てるところに求められていた。

 ところが,東電はその「必要最低利潤」をもってしても,とうてい補填できないような「超重大事故」を,原発施設において現実に惹起させた。いいかえれば,東電は原発の技術管理に失敗し,実際にその日本では未曾有といってよい原発事故を起こしてしまった。

 これは自然災害:地震や津波のせいで起きた事象ではない。また「想定外」という理由にこじつけられるものでもない。「原子力:魔法使いの弟子」の地位に甘んじえなかった東電の悲劇である。この悲劇のおすそ分けが「日本国民全員が味あわされる苦渋」でもある。

 7) ドラッカー大先生から一言引用

 P.F.ドラッカー,岩根 忠訳『会社という概念』原著1964年,東洋経済新報社,1966年の「Mentor 版への序文」のなかに,こういう一句があった。

 「原子爆弾は科学の勝利というよりは,多分に組織の勝利であった」(同序文,ⅷ頁)。

 けれども「原子力の平和利用である」と宣伝されてきた〈ウソ〉の科学技術の応用,展開であった原発技術は, 企業組織:企業社会に対して〈挽回できない深甚たる敗北〉をもたらしてきた。

 1979年3月28日のスリーマイル島原発事故,1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故,そして,2011年3月11日の福島第1原発事故とつづいた。「2度あることは3度ある」というが,やはり3度めのそれは起きた。

 原発があるかぎり,その事故がこれからもつづかないなどと,誰に保証できるか?

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