見出し画像

畑村洋太郎『失敗学』の視座から原発事故を分析する問題(2)

 ※-1 本稿は,原発の失敗を中心に国家の失敗,企業の失敗,宗教の失敗など,もろもろをあつかう「『失敗学』に関する連続講座(2)」として,関連するいろいろな課題を議論する

 #失敗学  #畑村洋太郎  #原発事故  #安全神話  #再稼働  #岸田文雄  

 野中郁次郎・ほか著『失敗の本質-日本軍の組織論的研究-』 という本が,だいぶ以前の1984年に発行されていた。この本は専門書としてダイヤモンド社から発行されていた。現在まで,軍事問題にかかわるだけではない戦略論・戦術論を,本質から考えるための「教科書」として,たいそうな売れゆきを記録してきた。

 本日は畑村洋太郎「失敗学」に関する連続講義の2回目となる。「原発の失敗」に着目しつつも,そのほかの「国家の失敗」「企業の失敗」「宗教の失敗など,もろもろ失敗に関した「失敗学」の内容にも関心を向けている。

 要は「失敗学の構想」が学問的な議論としてとくに,原発問題の次元まで敷衍されることになれば,この試みじたいが必然的に成立不能である事実,いいかえれば「失敗するほかない方途」が待っていた。

 本日は以下に本論を述べていくが,その前に,直近に登場していた関連する話題の「原発報道」を,つぎに引用しておく。

 『日本経済新聞』2023年2月28日夕刊1面冒頭記事が,原発を60年(以上)にまで稼働することを決めた岸田文雄政権の無謀・乱暴ぶりを報道していた。未来に対してとなれば,禍根しか残しえないこの原発行政が,しかも閣議決定するかたちで即断的に処理されていた。

再生可能エネルギーを主軸にもっていくべきこれからの電力需給体制の確立ではなく,その最大の妨害要因となるほかない原発をこのように長期にわたり稼働させるというのは,ある意味「狂気に近い」。

 40年以上稼働させている原発は外国にもあるが,日本みたく地震国ではない。「高い確率で発生する」と予測される南海トラフ地震が関東以南の海岸線を襲う危険性は,それこそ恐怖そのものである目先の現実である。

 【参考資料】

原発40年以上稼働

 そのなかで,原発を廃炉にするのではなく再稼働どころか新増設まですると決めた岸田文雄は,再び超大地震が来たときはどう対処するのか? もっとも,そのときは首相に地位にはいないか?

 【参考記事】


 ※-2「原発の60年超運転可能に 法改正案を閣議決定 稼働30年以降、10年ごとに認可」『日本経済新聞』2023年2月28日夕刊1面

原発運転期間延長

 政府は〔2月〕28日の閣議で、60年を超えて原子力発電所を運転できるようにする法改正案を決めた。原則40年、最長60年と定める現状の枠組みを維持したまま、原子力規制委員会による安全審査で停止していた期間などにかぎり、追加の延長を認める。いまある原発を活用し、電力の安定供給と脱炭素につなげる。

この記事の「前文」だけでも,つっこみどころがいくつもある。

 「原発の60年・以上の運転」がまず,無謀かつ危険である。
 つぎに,安全審査の基準がもとから,そもそも手前味噌である。
 さらに「電力の安定供給と脱炭素につなげる」という解釈や意向も,勘違いであり,実質的に虚説であった。

 この記事は,それこそろくでもない原発「観」を披瀝していた。最後の段落で,つぎのようにいっているが,原発をこうして特別あつかいし,闇雲に稼働を延長させたがる欲望そものが,技術経済的にかつ安全工学の観点からして,実に恐ろしい技術観で語られている。

 運転開始から30年を超える場合は10年以内に原子力規制委が認可を繰り返す仕組みにあらためる。経年劣化した原発の安全性を確認する。とくに「原発の廃炉費用の拠出」をまわりまわって,電力使用者側に結局,押しつける内容まで書いている。

 原子力基本法では原発を活用する目的として,脱炭素社会の実現や電力の安定供給を明確にする。廃炉を推進するため電力会社に廃炉費用の拠出を義務づける法案や,法令違反をした再生可能エネルギー事業者に厳しく対処するための法案も束ねる。(後略)

日本経済新聞』2023年2月28日夕刊1面。

 ※-3 原発の「新増設」に使う無駄金があるなら,少子化対策に全力を傾注せよ

 昨晩(2月28日)に,各新聞紙のメール配信によってすでに該当のニュースが届いていたが,2022年の出生数がとうとう80万人を割ったという報道がなされた。

 ★ 出生数80万人割れ 少子化,強まる危機感 都市部「対応は限界」★
    =『毎日新聞』2023年3月1日朝刊3面「オピニオン」=

 この記事の冒頭段落のみ引用する。

 初めて80万人割れとなった2022年の出生数。特に都市部は,さまざまな手を打ちながらも手狭な住環境など構造的な問題を抱える。ここ数年は新型コロナウイルスの感染拡大による影響が大きかったが,専門家の分析からはそれだけではない社会要因も浮かび上がってくる。「社会や経済の基盤が大きく変わる」(厚生労働省)という危機感に見合った,総合的な対策を講じられるかが問われている。

『毎日新聞』2023年3月1日朝刊3面。

 つぎは,『日本経済新聞』から関連する記事を一部の段落のみとなるが,画像資料で紹介しておく。図表が参考になる。

『日本経済新聞』2023年3月1日朝刊

 少子化の問題について「社会や経済の基盤が大きく変わる」情勢は,半世紀近く前から判っていた。それでもいままで,本格的に対策を講じるという「自民党政権」の為政は,基本的になかった。

 旧統一教会風の家・家族観に囚われつづけており,何十年も「なぜ少子化現象が発生するに至っていたのか」という問題意識さえもちあわせていない。それが,自民党(+創価学会公明党)の基本姿勢であった。

 以上,原発問題を議論する記述なのに,少子化の問題をじかに表現する,とくに出生数の低下傾向に歯止めがかからない日本社会の現状を「今日の話題」として先にかかげてみた。

 関連する『毎日新聞』本日「社説」の題目が「出生数初の80万人割れ 社会を変える覚悟が必要」となっていた。

 『日本経済新聞』のそれは「出生数80万人割れは社会への警鐘だ」である。さらに『読売新聞』は「出生80万人割れ 危機的な数字にどう対処する」。

 『朝日新聞』は3月1日に,該当する社説を掲載していなかった。

 この出生数の問題は,原発の新増設という時代錯誤のエネルギー政策を,それも,まるで自分の考えがなにもないかのようにして決めた岸田文雄(政権)とに,根柢で共通する課題があった。

 なにに対して国家予算を重点配分するか,岸田はどうやらほとんど判っていない。安倍晋三の兵器・武器の爆買い路線を,無意識的に継承していることだけはできているが……。

 問題の原発にこだわる日本のエネルギー行政は,まさにガラパゴス的な発想に手足を縛られたものでしかない。しかし,その方途に関して特定の利害や利得を有する原子力ムラの意向は,エネルギー産業のあり方としていまだに重厚長大の方途しか頭にはなく,完全に時代錯誤の上にあぐらをかきながらでも,そのように通そうとしている。

 この国は21世紀にどの方途に向かえばいいのか,まともな認識を欠落させている。下掲した経済産業省・エネルギー資源庁は「再生可能エネルギーの電源に占める比率」を,あえて低めに設定している。

 原子力はゼロでいいし,そもそも非化石燃料のうちにこの原子力を含ませるのは誤導である。有害物質のウラン鉱が非化石だと分類するのも奇妙である。

 どだい,2030年に原発による電力発電比率を「20~22%」と決めていた点が,そもそもの誤り。原発は不要であるし,その分は徐々に電力総需要が減少していくにしたがい,自然になくしていけばよい。

2030年度 エネルギー需給の見通し(エネルギーミックス)

 ところで,最近における日本経済・産業は,世界大企業順位でみると50位までに食いこんでいるのは,なんと48位のトヨタ自動車の1社だけである。落ち目の原発産業では儲けることなど全然できていない東芝・三菱重工業・日立製作所など,この図表とは無縁も無縁になっている。

世界大企業50社順位

 

 ※-4 前回「本稿(1)」との関連で論じていくが,時期は2022年7月で,岸田文雄政権になっていたころ

 a) 『日本経済新聞』2022年7月15日朝刊1面冒頭に,「原発,冬に最大9基稼働  首相表明,消費電力の1割 火力も10基増」という見出しの記事が掲載されていた。

 だが,その内容は,実は予定の行動(原発再稼働の手順)を,いかにも「自分(岸田)が新しく措置をさせた」かのように発表されていた。つまり,この『日本経済新聞』朝刊の記事からよく伝わってくる点は,キシダメノミクスの「相変わらずの空虚ぶり」だけであった。

 b) さらに,同日の『毎日新聞』朝刊を開いて読むと,1面の冒頭記事で見出しを「首相,原発9基稼働指示 コロナ行動制限考えず 記者会見」として,最初の段落をつぎのように報じていた。

 岸田文雄首相は〔7月〕14日の記者会見で,電力の安定供給策として冬までに最大9基の原発稼働を進め,国内の電力消費量の1割相当分を確保するよう萩生田光一経済産業相に指示したと明らかにした。

 新型コロナウイルスの感染急拡大に対して,「新たな行動制限は現時点では考えていない」と述べた。また,参院選中に銃撃され死亡した安倍晋三元首相の葬儀を,今年秋に「国葬」として実施する方針を表明した。戦後,首相経験者の国葬は1967年の吉田茂元首相以来2例目となる。

『毎日新聞』2022年7月15日朝刊。

 この報道はいかにも,岸田文雄が「電力の安定供給」問題に対して,首相としてなりに決断をしたかのようにも感じられる「文面」である。

 だが,なんということはなく,日本の大手電力会社が保有する原発を再稼働させようとしてきた日程(予定)をなぞって語っただけであった。そのところを,彼はあえて,自分が意思決定を下した関連の事情であると「周囲が誤解しかねない」発言をしておき,新聞もそのように追随するごとき記事作りをしていた。

 つぎに紹介する記事にも,こう批判されていた。該当する段落のみを紹介する。

 夕方のニュースを観ていたら,コロナ対策についてヘタレ総理が記者会見するってんで……
 
 ヘタレ総理は,9基の原発再稼働も高らかに謳い上げましたとさ。でも,これって,すでに再稼働している原発を動かすといってるだけで,追加で9基本ってわけではないんだね。

 ヘタレ総理のお得意の「やってる感」アピールなわけだけど,原発再稼働を記者に質問されたわけでもないのに口にしたってことは,原子力村に配慮したってことなんでしょうね。

  「自分を支持しない市民を『こんな人たち』呼ばわりしたカルト宗教の広告塔を『国葬』にするとは,とことん舐められたものだ!!」
『くろねこの短語』2022年7月15日,http://kuronekonotango.cocolog-nifty.com/blog/2022/07/post-84e61a.html

 c) ところで,2022年は6月に入ってから下旬に,異様に早く梅雨明け宣言が早くも出たりしたなかで,地域によっては最高気温が40度を超えた場所もあった。そうした「猛暑」の気象条件が,2022年の場合だと,6月中にいきなり現象していたのである。

 日本国内での電力需給関係をめぐっていうと,これまで再生可能エネルギーの導入・活用は,遅ればせながらでもいちおうは進めてきた。なかでも,その6月下旬の猛暑が到来したなかでより明確になった事象があった。

 それは,「電力の需・給関係そのものが相対的に逼迫する時間帯」が,従来ならば「午後1時から2時にかけて需要が絶対的に頂点になる時間帯」に出ていたものが,「夕刻以降の時間帯(需要の絶対量が最高水準にはなっていなくとも,需給間の相対的な比率関係がそれなりにきびしくなる時間帯)」に移動していた点である。

 以上のごとき1日24時間における電力の需給関係の経過は,再生可能エネルギーの利用・進展とあいまった出来事になっており,たとえば九州電力みたく太陽光発電が非常に普及した地域(管轄)の場合,前段に触れたごとき電力需給関係の実相は,従来想定してきた「24時間における電力需給」に関した理解を,大幅に軌道修正させる必要を意味している。

 【参考資料】 -つぎの九州電力関係の図表を参照したい。原発が邪魔者である事実が一目瞭然である。-

九電2018年5月3日電力需給比率状況

 『日本経済新聞』や『毎日新聞』の記事に戻って考えるに,現状における電力の不足を原発以外の火力発電で応急的に対応するというやり方は理解できるものの,原発の再稼働によって対応する方途は見当違いもはなはだしい。しかも原発のコストが「安価」だという事前に想定された観念,実は合理的な根拠を書くもの-にもとづく発想だとしたら,なおさら的外れであった。

 しかも,その観念が化石燃料・LNG価格の高騰を踏まえたエネルギー政策の変更,すなわち,原発の再稼働になるのだとしたら,今後に向けて積極的に進展させるべき再生可能エネルギーの導入・活用を抑制し,妨害する作用しかもたらさず,エネルギー問題を将来をどのように展望するのかという現実の問題意識に対してまでフタをするものである。

 d) 要は,「トイレ」(ここでの意味はあの便利で快適なウォシュレットのことではなく,昔風の糞尿を溜める便壺のことだが)のないマンションを,これからも増やす決定(再稼働)をした岸田文雄首相である。だが,エネルギー問題に関した日本的な課題をそっちのけにした「完全に目先だけの意思決定」を下したこの首相は,もしかすると原発問題に対する基本的な認識に欠落があるらしいと心配する。

 ここでなお現状まで,高速増殖炉による核燃料サイクルが不可能でありづけてきた経過については,MOX燃料の使用とも関連して,つぎの記事を参照したい。いまの日本はそれこそ,ビロウないい方となるが,「ケツのまわりは糞だらけ」である原発利用国家体制になっている。このままだとそのうち,きっと「全身が糞だらけの国」になる。

 関連して『日本経済新聞』朝刊2022年7月15日3面「総合2」は,「プーチンのロシア」がウクライナ侵略戦争を開始したために,日本でもより緊迫した電力事情が生まれたかのように言及していた。

 とはいえ,岸田文雄が発表したように,いきなり9基もの原発の再稼働を強調した点に,いかほどの意味がありえたのかといえば,その前提に関してもともと一定の疑問があった。

 その記事は次項 e) で引用するが,その前に『日本経済新聞』のこの記事に添えられた図表をさきに参照しておく。奇妙に感じられる文言が記入されている点に気づくはずである。

『日本経済新聞』2022年7月15日朝刊

  とくにこの表の題名は「電力会社はもともと9基の稼働を予定していた」という文句を出していた。岸田文雄は今回,首相としてこの点,すなわち,あくまで「予定であるからこのとおりになるかについて不確定要因がないとはいえない点」を,事前に聞いていたとなれば,この首相が自分の立場から「いうべき事項」としてあつかい,独自に「指示を出したことがら」ではなかったはずである。

 なにゆえ,このように不可解な発言(「他人の褌で相撲をとるような仕草」)をしたのか? ともかく同日のその『日本経済新聞』朝刊は1面の記事のなかに,つぎの表をかかげていた。

『日本経済新聞』2022年7月15日朝刊

 この表に書かれている事項に「電力供給」が設けられているが,現状日本において電力問題について必要な対策は「給電」の領域ではなく,むしろ「送電」および「配電」の領域にあった。岸田文雄の首相としての電力観は,目先でチョロチョロと対応するだけだという印象を強く受ける。

 e)「『電力の安定供給へ総力戦 火力頼み,脱炭素と両立難題』政府,構造改革も必須」『日本経済新聞』2022年7月15日朝刊3面から,前半部分の5分の2ほどを引用する。

 「政府は電力が不足する見通しがあるなか,原子力発電所の再稼働や火力発電所の運転拡充といった総力戦で安定供給をめざす。需給はなお綱渡りの懸念が残るうえ,火力頼みの構図が続くため脱炭素との両立は課題で,構造改革が迫られている。足元では円安が進み,生活に近い品目の物価上昇も進む。対症療法にとどまらず,賃金上昇につながるような大胆な改革が必要になる」。

 この記事に関してはこう述べておく。火力発電のなかに位置づけられる原発もまた,「脱炭酸ガス⇒温暖化の防止」には結局,まともに役立たない発電方式であ。それゆえ,この原発とほかの火力発電方式とを意図的に区分してする話法は,完全なる間違いであった。それこそ「ただ原発のタメにする議論」でしかない。

 「『政府の責任であらゆる方策を講じ,将来にわたって電力の安定供給が確保されるよう全力で取り組む』。岸田文雄首相はこう強調した。電力不足が懸念される今冬に向け,原発で最大9基,火力で追加で10基の稼働を進める」。

 「今回,供給力の上積みに寄与するのは火力のほうだ。ただ,すでに古い火力も含めて今夏の需給逼迫を乗り切る方針で,さらに追加する場合には故障などのトラブルのリスクが増す可能性がある」。(引用終わり)
 
 ここでは火力発電に関して「古い火力」という表現が使用されていたが,40年経過した原発も「古く」はないのか? この付近のことばに関する,ある意味きわめてデタラメというかズサンな「一方的に原発だけを擁護するリクツ」は,論理的には説明できない「原子力ムラの強引な見地」がのぞける。

 ところで,いままで日本は再生可能エネルギーの導入・活用においては,それが進んでいる国々に比較すると周回遅れになっていた。それが進んでいる国々でも,もちろんいまは当面,エネルギー資源価格の高騰に苦しんでいる。

 f) だが,日本のように再生可能エネルギーの利用展開に大幅に遅れた国が,原発再稼働に重点をおくエネルギー政策・路線を進みたがるごとき「今回の岸田文雄の表明」は,まさしく「再生可能エネルギー後進国」のみっともなさを如実に表現している。

 9基は関西,四国,九州電力の原発で,電力需給の厳しい首都圏など東日本の原発はない。原子力規制委員会の審査を経ても東京電力ホールディングスの柏崎刈羽原発(新潟県)や日本原子力発電の東海第2原発(茨城県)は地元同意のメドもたたず,再稼働には至っていない。

 欧州ではロシアのウクライナ侵攻を受けてロシアからの天然ガスの調達が減っている。短期の電力確保や,中長期をみすえた脱炭素策をドイツやフランスなどが表明するなか,日本も脆弱なエネルギー環境をどう立てなおすかを示す必要がある。

 元経済産業省官僚だった古賀茂明は,こう指摘していた。

 日本には単位面積当たりの自然エネルギー資源量はドイツの9倍もあるにもかかわらず,自然エネルギーによる発電量はドイツの 1/9 しかない。ドイツは,3・11直後に原子力発電所の41%を閉鎖した。そのうち 3/5 は自然エネルギーの増加分で賄った。この日本とドイツの違いは技術や人材ではなく,制度の違いによる。

  「新聞記事より 原発再稼働しなければ交付金を減額-国が自治体へ圧力-慎重な新潟県へ狙い撃ち」『原発のない世界を求めて』2016年1月6日,http://www.nskk.org/province/genpatsugroup/category/新聞記事より/page/4/

 g) 要するに,岸田文雄政権は首相としての指導性に実体がみうけられない。自分の政治信念・思想・イデオロギーがよくみえない人であり,もう一踏みこんでいえば,それがなにもない「世襲3代目の政治屋」であった。安倍晋三と同じ程度か,おそらくそれ以下の人物。

 ところで,第7波が襲来している「コロナ禍」への対処はなにもしないと,岸田は語ってもいた。

 原発からできるだけ早く廃棄し,離脱するエネルギー政策・路線を採らないことには,いずれまた日本は東電福島第1原発事故に似た失敗をする危険性の再発を含めて,地球自然・環境史に対する反動形成:害悪の立場を採りつづけることになる。

 「ロシアのプーチン」によるウクライナ侵略戦争がこれから数年先まで継続すると想定しても,いつかは(それ以前かもしれない)停戦して落ちつく時期が来る。その時にはエネルギー価格もそれなりに沈静し,安定する。

 しかも,現状において原発の核燃料の価格が安価であるわけではない。それにしても,こちらの課題を含めてエネルギー政策・路線を吟味したエネルギー問題への取り組みをおこなっているようにはみえない。
 

 ※-5 ここからようやく「本日の本論」 -『畑村洋太郎「失敗学」の失敗(1)』

 主題 本日のこの記述では「失敗学の権威が失敗的に語りえなかった原発問題」という点に関心を向けて,議論をする。

  要点1:原発推進をあいまいに認める東大的な権威学者の立場
  要点2:権威をかかげて提唱される失敗学の「失敗の論理」,その「破綻の提唱」
  要点3:『朝日新聞』2019年10月18日朝刊15面「オピニオン&フォーラム」に,畑村洋太郎のインタビュー記事,「『失敗』を直視せよ 原発事故の真相が解明されないまま『安全神話』は続く」が掲載されていたが,いまどき「原発の安全神話」など信じる人はいない。

 「原子力は『悪魔のみが使いうる〈魔法の火〉』」
    -失敗していながらも,使いこなせるのだという議論の不可解さ-

 1)「悪魔の火」の怖さ-失敗したけれども「失敗は許されない原子力発電」を認めるという《失敗学の権威学者》の権威性?」-

 原子力利用の問題に関して日本は,「3・11」の東電福島第1原発事故以後,1年間における被曝限度を「1ミリシーベルトではなく,20ミリシーベルトに規制を緩めていた。だが,これは重大な過誤を意味していた。

 「生物の生きる生態圏の内部に,太陽圏に属する核反応の過程を『無媒介』のままにもちこんだ」原子力発電は,他のエネルギー利用とは本質的に異なる。

 その「ありよう」は,われわれの生態系の安定を破壊するし,さらには,本来そこに所属しない「外部」を,われわれの生態圏にもちこむ一神教である。つまり「原子力技術は一神教的な技術」であり,「文明の大転換」を試みねばならない威力を有する。
  注記)『朝日新聞』2011年5月26日朝刊「オピニオン1」,作家・高橋源一郎「(論壇時評)非正規の思考 原発もテロも広く遠く」参照。

 悪魔の使う《悪法の火》は,悪魔にしか使いこなせない。あの日,東日本に巨大地震が起こった,巨大津波が押し寄せてきた。だが,この悪魔はただ面白がって,福島東電で壊れた原発(原子炉:圧力容器)を壊し,この魔法の火を野に放った。

 悪魔と対等になれるわけもない人間どもが,なにを思いあがったか,悪魔以上に賢くこの《魔法の火》を操れると勘違いした。〈悪魔の火〉に,いま煽られている人間たちは,けっして悪魔自身にはなれない事実を想起しなければなるまい。

 〈愚かな人間ども〉の「浅知恵」では,その〈魔法の火〉が使いきれるはずがない。現に,東電福島第1原発の重大事故はまだ,終息の時期のみとおしすらついていない。いつまた「放射性物資を放出する事故」が起きないという保証もない。

 悪魔が〈魔法の火〉の使いかたを教えてくれたと誤解・浅慮した,そもそものその前に「人間の愚かさ」に気づくべきであった。

 『朝日新聞』2014年10月30日夕刊は,「燃料取り出しずれこみ  東電・国,計画変更へ 福島第一1号機」との見出しの記事で,こう報じていた。こうなると,福島原発事故の現場にかかる時間は半世紀「単位」での対処を覚悟する必要が,より明確になった。

 東京電力福島第1原発の廃炉作業で,東電と国は,1号機の燃料とり出し開始時期を計画より遅らせる方針を固めた。使用済み燃料は2年,溶け落ちた燃料は5年ずれこむ見通し。2号機の燃料とり出し工程も見直す方向で,〔2014年10月〕30日の政府の「廃炉・汚染水対策チーム会合」の事務局会議に示し,公表する。

『朝日新聞』2014年10月30日夕刊。

 さて,2011年5月24日に「原発事故調委員長に『失敗学』の畑村東大名誉教授」という報道がなされていた。

 「菅政権は5月24日,東京電力福島第1原子力発電所事故を受けて設置する事故調査委員会の委員長に「失敗学」を提唱する畑村洋太郎・東大名誉教授(70歳,当時)の起用を決めた」。その「事故調はほかに法律や地震の専門家ら約10人で構成」し,「年内に中間報告をまとめ,来夏にも最終報告を出す方針」であるという。
 注記)『朝日新聞』2011年5月24日9時59分,http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105240084.html

 東京電力福島第1原子力発電所の事故調査・検証委員会委員長に決まった畑村洋太郎(東大名誉教授,1941年1月生まれ)は,現在〔2014年当時〕,工学院大学グローバルエンジニア学部,機械創造工学科教授である。創造的設計論,知能化加工学,ナノ・マイクロ加工学を研究し,最近では,ものづくりの領域に留まらず,経営分野における「失敗学」などにその研究を広げてきた工学研究者である。
 
 2) 原発の失敗をめぐる「評価」に失敗していた自称「失敗学者」
 筆者は,1) のような観点に立ち原発問題の重大性,つまり「悪魔学の立場に立って対抗しないかぎり」,本来,とうてい相手などしきれない原子力の悪魔性(悪質さ)であったゆえ,「原発由来の反社会性・非人間性の問題」は,その「失敗をもたらす原因そのもの」として受けとるほかないとみなしてきた。

 ところが,東京電力福島第1原子力発電所の大事故を契機に,原発問題についてこの失敗学者がなにをいうかと思いきや,失敗学の概念・思考を活かしてこれからも,失敗なしで原発を利用していこうといった見解を提示していた。

 畑村洋太郎東京大学名誉教授・工学院大学教授は,2011年5月30日の『日本経済新聞』朝刊「経済教室」に「科学技術の役割 原発事故に学ぶ(上)『最悪時』前提に設計見直せ-完全制御志向改めよ,原子力になお未経験部分-」という題名の寄稿を披露していた。

 くわしい議論はあとにするが,この寄稿記事「科学技術の役割 原発事故に学ぶ(上)」は,その末尾〔むすび〕の部分で,「本稿は,5月24日の事故調査・検証委員会委員長の就任決定以前にまとめたものである」と断わったうえで,こう主張していた〔なお,a)  b)  c)  の符号は筆者〕。

  a) 筆者〔畑村〕は,日本が原子力を使わずに生きていけるとは思わない。1950~60年代,日本は電気がほしくて仕方がなかった。世界銀行から借り入れまでして完成させた黒部ダム(黒部川第4発電所)の発電能力は34万キロワット程度だ。これに対し,原発は1基で100万キロワットを超えるものもある。

  b) 原発の将来像を描くさいには,前述した「本質安全」の考えかたを採り入れなければならない。最悪の事態を想定して,それに対応できるよう従来とは別の思考ルートで設計しなければならない。要求機能と制約条件を定めれば,必らず設計は可能なはずである。

  c) 失敗に学んだ原子力の作り直しが求められている。日本にはその力があると思う。それには従来とはまったく違う発想で新しい原子力のありかたについて提案し,マスタープラン(基本設計)を描き,現在従事している人たちを使いこなせる人をみつけてこなくてはならない。大変な作業ではあるが,そうした人選や枠組作りは政治の力で実現しなければならない。

 要するに,畑村「失敗学」は原発推進派の驥尾に付する見解を披露した。また「原発⇔核兵器」である元来の必然的な技術問題には,いっさい触れてはいない。以下の疑問・批判は,後段でも議論するものであるが,ひとまず概略だけの指摘としておく。

 まず,a)「発電供給量」の過不足問題については,完全に論破されている。畑村の議論は不要かつ駄用でもある。この a) の話:前提条件:時代状況を,21世紀の現段階にもちだすのは,お門違いもいいところというか,完全に時代錯誤の「現実的な非現実」論(?)であった。

畑村洋太郎図表

 したがって,「畑村作成の図表」(上図)は「お門違いの曲線の作図」をしていた。

  イ) 「ボイラー → 鉄道 → 自動車 → 航空機」のあとにつづけて

  ロ) 「原子力」を並べている。

 しかし,そもそも,これら イ) と ロ) との順序「並べかた:関連づけ」において不適切があった。「原子力」も,先行する諸曲線に倣って推移するという予測のありかたそのものが,とくに間違えていた。

 ボイラーはひとまず置き,イ)「鉄道,自動車,航空機」は,これからもまちがいなく,事故を起こしつづけていくほかない移動道具である。それではロ)「原子力⇒原発」は大丈夫か? 「完全に大丈夫という保証はなく,つまりダメである」というほかない。この点を認めない人はいないはずである。

 「スリーマイル島原発事故(1979年3月)⇒チェルノブイリ原発事故(1986年4月)⇒東電福島第1原発事故(2011年3月)」以降,いつかまた原発の事故が起こらないとは限らない。このようにわれわれは覚悟しておく余地がある。杞憂ではなく,未来の現実をめぐる不安・懸念である。

 なんといっても,前段の イ) 「鉄道,自動車,航空機」 と ロ)  「原発」の基本的な「実例の体験数」は,桁違いに異なる。技術的な成熟・完成度の高い イ)「航空機まで」の群に,無理やり ロ)「原子力」を近づけているが,これは強引に過ぎた関連づけであった。

 肝心な点は,原子力利用の場合,「失敗は成功の基」という イ)  ある種の原理的な思考は,ほとんどアテにできないというか,より厳密にいうと,けっしてアテにしてはいけないそれである。

 大型旅客機が満員の旅客を乗せて墜落する事件と東電福島第1原発事故とを比較することは,無謀だという以前に,もとより無意味に近かった。この無意味さの「意味」は,原発という発電装置・機械そのものが「事故った時」の非常な恐ろしさから湧き上がってくるものであった。

 「失敗は失敗で終わるしかない」のが「原子力利用の宿命」であった。この事実は,東電福島第1発電所の後始末が,われわれ「子孫の数代にもかけて」負担を課しつつある惨状を観るまでもなく,否応なしに認知させらるほかない「原発の本質的運命」である。

 つぎに前述の b) は,原子力発電に「本質安全」を求める発想=「最悪の事態を想定」したうえで議論しようとする点からして,もともと疑問があった。どだい無理を抱えていた。

 原発の技術的な問題として「最悪の事態」とは,いったいどのような想定になるのか? 原発事故のさいは,日本国中に放射性物資が拡散し,人間が住めなくなる事態を考えよ,こうした失敗に備えよと,いまからあらためて強調しているつもりか。げに,不用意に恐ろしい発想である。

 「鉄道,自動車,航空機」についての「十分な失敗経験を積むには200年かかる」という想定じたい,「原発」に関していえば完全に倒錯した発想である。実質,なにも提言していないに等しい意見である。

 旅客機は墜落事故を起こすたび,その教訓に学び,安全性をより増してきた。それでも落ちる時はまた落ちることを,なんどでも繰り返してきた。たとえその事故率が減少させえても,である。

 こうした「航空機の事故史」に「原発の事故=失敗」を等置させうるかのように考え,事故が起きたらこれを糧にして原発の安全問題をさらに向上させていけばよいというのである。この発想には根本的な疑問が突きつけらて当然である。

 単刀直入に聞く。「原子力村の人間たち」がいったい,あと何回「原発事故」を起こしていけば,原発の管理がより安定した技術水準に到達できる,原発事故は皆無にできるみこみがえられる,といいたいのか?

 いまだに絶えず墜落事故を起こす航空機とて,事故は絶対起こしてほしくないのである。ましてや原発に至っては,である。原発の場合は格別にそのようにきびしく制しておく必要があった。

 さらに,前述の c) 「失敗に学んだ原子力の作り直し」という点は,原発の基本設計がそれこそ “半世紀も以前の技術思想” で成立している事実を,どのように克服するのか不詳である。原発関係に従事している労働者集団の行方・進路も心配しているようであるが,これを政治力で解決する方途を示唆している。

 だが,このような方向違いで無駄な努力を強調・提唱する失敗学者による〈失敗的な政策提言〉は,大きく失望するほかない。この畑村洋太郎という工学研究者は本当に,世のため・人のためにものを考えて,原発の失敗学を論じていたのか?
 

 ※-6 原発の必要性に関する可否-世論調査の結果-

 日本経済新聞と朝日新聞は,それぞれ「原発」に関する,つぎの世論調査の結果を報道していた。

  ★-1『日本経済新聞』世論調査〔調査対象は日本全国〕
 日本経済新聞社とテレビ東京が2014年5月27~29日に共同で実施した世論調査は,東京電力福島第1原子力発電所の事故への政府の対応について「評価しない」が74%で,4月の前回調査から4ポイント上昇した。「評価する」は3ポイント低下し,16%であった。

 また,原発事故を契機に,原子力から火力など他の電力に移行したばあい,コスト上昇で電気料金が上がる可能性について聞くと「受け入れられる」が63%で,「受け入れられない」の30%を上回った。

 菅 直人首相(当時)が静岡県の中部電力浜岡原発の全面停止を要請したことには「評価する」が62%,「評価しない」は25%となり,首相の判断を評価する声が多かった。国内の原発をめぐっては「減らすべきだ」42%,「現状を維持すべきだ」35%,「すべてなくすべきだ」12%,「増やすべきだ」3%だった。

  ★-2『朝日新聞』世論調査〔調査対象は青森県民〕
 朝日新聞社が2014年5月28,29の両日実施した青森県民対象の世論調査(電話)によると,県内で建設中の原子力発電所2基について,「建設を中止するほうがよい」という人が48%を占め,「建設を進めるほうがよい」の25%を上回った。

 青森県内では下北半島で電源開発の大間原発と東京電力の東通原発1号機の計2基が着工しているが,東日本大震災を受けて工事は中断している。

 青森県内にはすでに,東北電力東通原発1号機や核燃料サイクル施設がある。これにともない「県民が受ける利益と不利益では,どちらが大きいか」と聞くと,「利益のほうが大きい」が43%で,「不利益」32%を上回った。施設が集中する下北半島を中心とする地域では,利益51%,不利益26%で利益のほうが大きいと感じている人が多い。

 「利益のほうが大きい」と答えた人のなかでみると,建設中の原発について「建設を進めるほうがよい」42%,「中止するほうがよい」37%と意見が割れている。原子力発電の利用については反対が42%で,賛成23%を引き離した。〔2014年〕今〔5〕月21,22日の全国世論調査では反対42%,賛成34%で,青森県民のほうが賛成が少ない。調査は県知事選の情勢調査とあわせて実施した。

 いずれにせよ,一方では「世論を創ってきてもいる」大新聞社が,その他方で同時に「世論調査」もしているのであるから,いくらかは眉唾モノとして,あるいは「マッチポンプ」的なひとつの調査結果として,これらの回答を聞いておく余地もある。

 ※-7 失敗学者のいうところの「本質安全」を求めるという発想について

 ◆ 原発問題に「最悪の事態を想定」を適用するさい,そこでさらに,なにかくわえてを〈想定する〉という〈仮定的な理解の方法〉について ◆

 ※-5のなか議論・指摘した  a)  b)  c) に関する疑問・批判を,ここであらためて考えてみたい。畑村洋太郎は,こうもいっていた。

 原子力はエネルギーをとり出すのに大切だが,ものすごく危ないものだとの前提で付きあうべきだった。完全に制御することはできないうえ,いったん制御が外れると暴走を止めるのは容易でないことを認識しておくべきだった。

 そうした認識があれば,緊急の発電施設を離れた高台に設置したり,電源がすべて失われる事態を想定して建屋の高い場所に非常用水を配置したりすることもできただろう。

 原発の装置がほかの機械装置と決定的に異なるのは,事故を起こしたとき不可避に「放射性物資を拡散させる」ことを「確実に想定しておかねばならない」点である。

 今回の東日本大震災〔=大地震〕は,大津波が襲来する以前に福島第1原発は原子炉「装置」に故障を発生させていたが,この現象は大津波によってかき消された。この事実の認否問題は,一般的には完全に無視されてきた。

 1) 1984年12月2日,インド「ボパール化学工場事故」
 原発の機械装置が爆発したり火災を起こしたりして,周囲の地区に甚大な損害を与えることになったら,もうとりかえしのつかない事態の発生を意味する。チェルノブイリ原発事故と福島県福島第1原発はその実証事例である。

 1984年12月2日深夜のことであった,インド・マッディヤ・プラデーシュ州ボーパールで「ボパール化学工場事故」が,1万5千人~2万5千人もの死亡者を出す〈大事故〉を発生させた。この事故は,ユニオンカーバイド社の子会社の化学工場〔が約40tの有毒ガス:イソシアン酸メチル (MIC:肺を冒す猛毒) を周辺の町に流出させていた。

 同工場の近隣市街がスラムという人口密集地域であって,また事件当夜の大気に逆転層が生じて有毒ガスは拡散せず滞留したことも重なって,夜明けまでに2千人以上が死亡し,15万から30万人が被害を受けた。その後数カ月で新たに千5百人以上がさらに死亡するなど被害は拡大しつづけた。

 最終的にはさまざまな要因で,1万5千人~2万5千人もの死亡者を出す大事故となったのである。現在も工場から漏れ出した化学物質による周辺住民への健康被害がつづき,また工場を管理していたユニオンカーバイド社への訴訟や責任問題は,未解決である。

 補注)最近発生したつぎのアメリカにおける貨物列車転覆事件にも,原発事故に関連づけて解釈する必要があった。まったく同じ事故にはなりえないものの,共通する被害面もあった。

 2) 2011年3月11日,東電福島第1原発事故
 福島第1原発事故は,今後に向けて時間的・空間的の両次元において,そのインドの化学工場大事故やアメリカの貨物列車脱線事故をはるかに上回る被害を人間社会・地球環境に及ぼすことに「なっている」,そう間違いなく想定され,現実化している。

 ただし,化学工場事故と原発事故との基本的な相違点は,前者が目によくみえ鼻にも強く臭うかたちで人間・社会に被害をもたらしてきたのに対して,後者は目にもみえない鼻にも臭わないかたちで,現在から未来まで半永久的にその被害がつづくことにある。

 だから,失敗学者畑村洋太郎のいうように『「失敗学」の学問範疇のなかで「原発」をとりあげる』という問題意識じたいが,実は大いに疑われてしかるべきである。

 インドの化学工場事故ではまだ「周辺住民への健康被害がつづ」いているという。日本のばあい,水俣病の被災地となった水俣湾では汚染された沿岸地区を埋め立て,その被害を〈地球の表層〉において隠蔽した。それでもって,水俣病の被害はひとまず物理的に糊塗し,化学的に処理しておいた。

 足尾銅山鉱毒事件は,その後における始末のためにダムを建設したり,下流地区の渡良瀬地区を一大遊水池にしたりしてきて,その損害を薄めて・ぼかすための努力を重ねてきた。いずれも,その大きな爪痕は「日本の公害史」に刻まれ,広域の《追悼記念碑》であるかのように残されている。

 原発事故に関して最悪の事態を想定するという。だが,失敗学における「想定」とされる「適切な〈想定〉=〈仮定〉」というものが,はたして,この原発事故において予防的に実際に立てられうるか? チェルノブイリ原発事故や福島第1原発が世界中にばらまいている放射性物質のその後始末は,誰が・どのように「している」あるいは「できている」といえるか?

 失敗学が対象化できるつもりで「規定しようとする問題群」が,どのようにその「学的領域を定立・形成させていた」にせよ,原発問題の基本的な背景には,「失敗学」という学問構想がとうていあつかいえない〈現実の世界〉=《原子力という悪魔の火》が控えていた。

 3)「失敗学」の失敗性
 「失敗学」の根本矛盾は,われわれがよく口にする文句「失敗は成功の基」というセリフをもちだし,より相対的に考えても分かるはずだが,絶対に失敗の許されない原発という機械・装置をその研究の対象にすることに発源していた。

 先日(2011年5月9日),中部電力浜岡原発が菅 直人首相の要望を受けて運転を停止した。

 東海・東南海・南海の各大地震が同時併発するような,それこそ東日本大震災規模〔もしくはそれ以上のマグニチュード〕さえ上回るような「超大地震の発生」が予想されてもおかしくない時代の状況を踏まえて,その規模の大地震が来ても,そして大津波が襲来しても被害が出ないように,浜岡原発の敷地では海側に防波堤〔防波壁〕などを建設したとしている。

 畑村流「失敗学」は,中部電力浜岡原発の再稼働に向けて,なにを助言し指導することができるのか? 再稼働したのちに超大地震が起きても,絶対に失敗せず(なんら損害を受けず)に「浜岡原発の運転継続」を可能にするための理論条件は準備されうるか。

 政府の要請を受けて停止させた浜岡原発に関して,今後に予想されるかもしれない「〈失敗〉の〈想定〉」は,いったいどのような中身として考えているのか?

 「絶対に失敗〔=事故発生!〕が許されない」のが「原発の事故」の性格であるとすれば,原発に「事故が起きてから」という想定じたいが,それこそ絶対に許されない考えである。とはいっても,福島第1原発の事故が現実に起きてしまっている。これにつづく原発事故は,けっして起こしてはならないが,かといって絶対に怒らないとは,だれにもうけあえない。

 浜岡原発の停止措置は,「この日本国の原発の現状」を深く憂慮した国家指導者の決断によって下されていた〔もっとも,これにはアメリカ側の強力な指南があったことはさておく〕。

 失敗学は,「失敗というものがある程度あるいは一定限度において許容〔想定〕されざるをえない物事」に関してならば,確かに適用できる学問・研究・理論かもしれない。

 だが,原発に対してとなれば,今後においても「絶対に事故を起こしてほしくない」機械・装置に適用することを予定に入れたかのようにして,換言すれば, “確率論的にあるいは偶然的な失敗の出来事” として予測するほかないかたちをもって「発想されてよい学知」ではありえない。

 4)「福島原発,年内の収束絶望的 避難見直しに影響も」(2011年5月30日報道)
 福島第1原発事故の収束に向けた工程表について,東京電力が「年内の収束は不可能」とのみかたを強めていることが5月29日,複数の東電幹部の証言で分かった。1~3号機でメルトダウン(炉心溶融)が起き,原子炉圧力容器の破損が明らかになったことで,東電幹部は「作業に大きな遅れが出るだろう」としている。

 東電は〔2011年〕4月17日に「6~9カ月で原子炉を冷温停止状態にする」との工程表を公表,1号機の炉心溶融が発覚したあとの5月17日にも工程表の見直しはないとしていた。東電幹部の1人は「9カ月という期限はあくまで努力目標だ」としており,原子炉を安定状態にもちこんだあとに想定していた政府による原発周辺住民の避難見直し時期についても影響が出そうである。

 東電は5月初旬まで,原子炉格納容器に水を満たし,燃料が入った内側の圧力容器ごと冷やす「冠水」に向けた作業をつづけていたが,5月12日に1号機の炉心溶融と圧力容器の損傷が明らかになり,冠水を断念した。原子炉建屋にたまった大量の汚染水を再利用する「循環注水冷却」という新たな方法で原子炉を冷却する方針に切り替えた。

 1号機では格納容器から汚染水が漏れていることも判明しているため,東電の技術系幹部は「まずどこから漏れているか突きとめ,ふさがなくてはならない。損傷程度が分からないと,その作業にどれほどの時間がかかるのかすら分からない」としている。

 さらにこの幹部は「継続的に大量の水を循環させて冷却するシステムを構築しなければならず,技術的にみて想定より1~2カ月程度余計にかかる」としている。別の幹部は「1~3号機の収束作業は同時進行できていない。1基ごとに同様の遅れが生じると,9カ月という期限もギリギリだ。作業員には申しわけないが,正月返上で収束に当たってもらうことになる」と話している。(共同)
 注記)『東京新聞』2011年5月30日 02時02分,http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011052901000607.html

 福島第1原発の重大事故は,福島県東部沿岸地方=「浜通り」地区に暮らしてきた県民から住居地を奪ってきた。何万人から何十万人もの日本国居住民がその原発事故のために甚大な損害を受けていた。

 これからさき10~20年単位でいえば,「放射性物資」の被害がじわじわと子どもたちを中心に発生していく点が軽視されてきた。この重大な問題は,福島県という地域単位を超えて日本国全体にとっての大被害を予告している。経済活動に与えてきた打撃には単に収まらない量的にも質的にも〈広大な被害〉が発生していった。
 

 ※-8「失敗の許されない」失敗学が「許されえない失敗」を許すような前提で議論をしているのであれば,まさしく当初から「失敗した学問」が「失敗学」である

 1) 失敗学の基本性格を理解しているのか
 谷光太郎『敗北の理由-日本軍エリートはなぜ迷走したのか-』(ダイヤモンド社,2010年8月)をとりあげ議論していたが,その末尾に参考文献としてつぎの4冊を挙げていた。

  戸部良一・ほか5名『失敗の本質-日本軍の組織論的研究-』ダイヤモンド社,1984年。
  鳥巣建之助『日本海軍 失敗の研究』文藝春秋,1993年。
  三野正洋『日本軍の小失敗の研究-現代に生かせる太平洋戦争の教訓-』光人社,2000年。
  千早正隆『日本海軍失敗の本質-元連合艦隊参謀が語る-』PHP研究所,2008年。

 旧日本軍が失敗ばかりしてきたからといってもまだ,かつて大日本帝国がやってきた侵略戦争を再行したいと妄想する輩が,この国にいないわけではない。

 しかし,この日本は54基もの原発を保有し(この記述が当初なされた時点での数字,2022年7月現在は運用中33基,解体・廃止中26基),いつでも核兵器を製造できる原料と能力とを潜在させている国家である。

 この指摘に当てはまりそうな人物が,2012年12月26日の政権交替によって登場した。誰であるかは,あえていわない。その後,長期政権を維持してきた自民党と公明党の野合政府は,原発の後始末問題(廃炉問題もこれから大問題になる)に四苦八苦してきたあげく,「3・11」の被害は終始,極力に矮小化(つまり最大限に隠蔽)する方針を採ってきた。

 畑村洋太郎は,「失敗」とはいっても「どの程度までの失敗(定量)」あるいは「どのような失敗(定性)」であれば,許容できるといいたいのか? このホームページの筆者はそうした疑問に答えてもらえないでいる。

 2) 失敗学:「勘違いの構想」
 しかし,原発事故にかぎっていえば,その失敗がおそらく「想定できない失敗として突発する」ことになる点にこそ,そして,それが地域・国家・世界・地球全体に対して修復不能なほどの大損害を与えることは,事前に十分に想定(推測)できている。

 それにもかかわらず,この失敗学を自称する畑村洋太郎・東大名誉教授は,前段〔※-5の 2) の c) 〕で引用したように,こういっていた(再度の引用となる)。

  失敗に学んだ原子力の作り直しが求められている。日本にはその力があると思う。それには従来とはまったく違う発想で新しい原子力のありかたについて提案し,マスタープラン(基本設計)を描き,現在従事している人たちを使いこなせる人をみつけてこなくてはならない。大変な作業ではあるが,そうした人選や枠組作りは〈政治の力〉で実現しなければならない。

再度の引用。

 失敗した原子力〔の事業あるいは,原子炉やその関連装置〕そのものは,他産業・異業種がこれまで,大震災の被害・損傷から立ちなおってきたなかで,これらと同じように,しかも同じ場所で物理的・化学的にも同じだという意味あいで,原発は作り直すことができるのか?

 「従来とはまったく違う発想」とはなにか? この失敗学者のいいぶんは, “ことばの遊戯” をしているかのようにも感じる。

 福島第1原発事故が発生してから,いままで「反原発派」の大学関係者である小出裕章助教や,広瀬 隆,高木仁三郎などが,あらためていま “世間の注目” を浴びるようになっていた。

 彼らのような「反原発派」の意見・批判が「まっとうな原発認識・分析」として,ようやく日本社会から正当な評価・認定をえている。

 小出裕章『放射能汚染の現実を超えて』が,2011年5月30日に河出書房新社から復刊されていた。この初版は北斗出版,1992年。

 彼らは,「失敗学」を構築する畑村洋太郎が「従来とはまったく違う発想で新しい原子力のありかたについて提案し」たらどうかなどというまえに,早くから「原子力をとりあつかうことじだいの危険性」を,厳重にかつ深刻に指摘・警告しつつ,原発の廃絶を主張してきた。

 つまり,今回の東日本大震災によって発生した原発事故という〈大失敗〉を,理論的に予測していたのである。したがって,彼らには「原発の失敗学」はありえない構想であった。なぜなら,電力生産方式として「原子力を利用する発電方法」じたいが「失敗作」であったからである。

 畑村洋太郎は,原発に特有であるその種の「重大かつ深甚なる失敗の事実」を踏まえたうえで,いったいなんのために〈失敗学〉にを提唱しようとしたのか。

 なかんずく,「原発の〈失敗学〉」を本当に構想しえたつもりであったたのか。工学の基本的な原理として,原発に失敗学は適用不可ではなかったか。

 とりわけ,畑村洋太郎は「日本が原子力を使わずに生きていけるとは思わない」とか「失敗に学んだ原子力の作りなおしが求められている」とかいった発言していた。再生可能エネルギーをどのように評価し,位置づけているか不詳のままであったからには,余計に面妖で不吉な失敗学「観」を汲みとるほかない。

 それよりも再生可能エネルギー問題に対して「失敗学」の導入を図ったほうが,よほど理にかなっている方途が開けているし,それなりに多く成果が期待できるのではないか。

 結局,それではあと何回,チェルノブイリ原発事故(1986年4月)や東電福島第1原発事故(2011年3月)のような深刻かつ重大な事故を実際に経験していったら,人類・人間は「原発の運営・稼働に失敗しなくなる」と確言できるのか?

 失敗がないところに失敗学はありえない。失敗学は失敗をいっさいなくせる学問ではないはずである。失敗あっての失敗学である。

 したがって,原発の事故=失敗を前提した『失敗学』の構想じたい,原理的に無理を承知で展開されていた。無理は無理であり,どこまでいっても無理で終わるほかない。

 3) 原発は要らない
 広瀬 隆は最近(2011年「3・11」直後からという意味だが)再び,引っ張りだこであった。あちこちで反原発派に関する講演を重ねてきている。

 たとえば,ビデオニュース・ドットコム( http://www.videonews.com/ )プレスクラブ(2011年05月10日)『福島原発巨大事故 今何が必要か』のなかで,広瀬は,「原発無用論」の根拠となる「2コマの画像」をパワー・ポイントに記入していた。

 その画像(動画)資料は,題字は「発電施設の設備容量と最大電力の推移」であった。「不要の原子力」ということばをかかげていた。要は「原子力で発電する供給電力」量は,実や「〈なし〉でも間に合っていた」という図解である。

 2010年1月1日現在,日本の原子力発電供給量は54基で,合計出力 4884.7万キロワットであった。ところが,当時までにおいてすでに,「民間の電力事業」への「潜在的な参入規模は3800万~5200万キロワット」あるとされていた。

 この予測は,福島原発事故以来,原発が1基も稼働していない期間を,2年間ほど体験してきた実績から観ても,原発の増設・拡張を主張する立場に対して否定的な材料を提示した。

 以上の指摘と同じ発電供給力体制は,現在においても,未稼働状態にあった多くの火力発電を稼働させることで整備できる。原発の再稼働は,再生可能エネルギーの導入・活用へと向かってきた「21世紀のエネルギー問題の趨勢」に水を差す要因でしかない。

 広瀬 隆はとくに,LNG〔液化天然ガス〕タービン発電の熱効率の「良さ:60%」に注目し,しかも,この燃料が将来も豊富に供給される見通しに期待している。くわえて,太陽光(熱)・風力発電・地熱発電などもさらに積極的に活用していくとすれば,どのような近未来における電力事情が予想できるか。

 補注)「ロシアのプーチン」がウクライナ侵略戦争を開始したために,LNGの価格が全世界的に急激に高騰したおり,当面,この広瀬 隆の提唱は妥当しにくくなっている。

 また,われわれが電力を使用する立場から〈節電の精神〉を周知・徹底・実行することも必要不可欠である。この点に関する努力は,家庭・世帯(「3・11」事後における電気料金の値上げ率2割)に対しても,企業経営(同,3割)に対しても,相当な努力が発揮され,効果を上げてきた。

 なかんずく,原発の不要性は実証されたと観てよい体験を,われわれは重ねてきた。

 不要となっている原発の再稼働に,それでもこだわりつづける「原子力ムラ」的な動向は,これからも「再生可能エネルギーの導入・活用」を妨害するために要因でありつづける。

 なぜ,再生可能エネルギーを電源として8割,9割まで高めたいとする展望とは絶縁した経済産業省・エネルギー資源庁しか,日本には存在しないのか?

 「3・11」後は,なんといっても実際に,原発の廃炉工程が日本国内で多く生まれてきた。この廃炉工程というものの存在じたいが,日本の経済社会全体に対して与えていく負担は,これからもじわじわと重みを増していく。

 4) 結 論
 畑村洋太郎「失敗学」で想定されうる原発継続論は,二重の意味で破綻している。

 ひとつの事由は,彼が創設したつもりらしい《失敗学》という学問形態そのものにあった。原発問題にかぎっていえば,失敗学にはとうてい収まりえない物騒な《悪魔の火》が介入してくる。これが,失敗学が原発問題を語りはじめる前から,もともと失敗させられる基本の要因を用意していた。

 もうひとつの事由は,「原発はなしにしておいても」,日本の産業活動および家庭生活に必要な電力は十分に賄える水準にあり,「現在および未来の電力供給体制」が確保できていることである。電力需要の頂点時(ピーク時間帯)にのみ囚われた電力理解は,いちじるしく柔軟性を欠いた立場である。

 畑村洋太郎は,半世紀も前に「反原発派」の小出裕章がこう断定していた「問題提起」に向かい,なにか応えうるものをもちあわせているか? 小出は若い時,原発が初めから失敗していた発電方式である事実に接し,この技術に加担する人生を歩まないことを決めていた。

 「夢に燃えて東北大学工学部原子核工学科に入学した私は,原子力を学び始めてすぐに,その選択が間違っていたことをしりました。なぜ電気を使う都会に原子力発電所を建てないのか。・・・その答えはとても単純なものでした」。

 「原子力発電所は都会では引き受けられない危険を抱えたものだからでした。1970年10月に女川町で開かれた原発反対集会に参加し,それ以降私は,反原発の道を歩き始めました。私は1974年から「京都大学原子炉実験所」で放射能測定を専門として研究していますが,原子力研究の世界に住みながら,なぜ原子力に反対しつづけるのか」。
 註記)小出裕章『隠される原子力 核の真実 原子力の専門家が原発に反対するわけ』創史社,2012年の紹介文から。

 【参考動画記事】

------------------------------

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?