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戦時体制期に中西寅雄が創説した個別資本運動説はマルクス主義ではなかったという事実(後編)

【断わり】 「本稿(後編)」は,2023年10月11日「前編」の続きとなる記述である。興味ある人はできれば,そちらをさきに読んでから,この「本稿(後編)」に戻る順序を採ってほしい。

 付記)冒頭の画像は1965年当時,日本生産性本部・生産研究所々長であった中西寅雄が,鍋嶋 達(東北大学教授)と編著となり公刊した『現在における経営の理念と特質』日本生産性本部,1965年の,函(の上部5分の2ほど)を複写したものである。

 ※-1 中西寅雄『経営経済学』1931年(「経営経済学説」)に対する考察,マルクス『資本論』との関連・対比

 1) 『資本論』との関連問題

 中西「経営経済学説」は,ドイツ経営経済学を『資本論』第1巻・第2巻とむすびつけて構想され,理論的経営経済学と技術論的経営経済学の分別・確立を意図していた。中西寅雄学説とマルクス資本論の関連性を考えるためには,まず中西の生きてきた時代背景をよく観察する必要がある。

 相沢秀一は,明治時代以降,日本の経済学の歴史を,

  第1期「翻訳経済学」の時代,
  第2期「輸入経済学」の時代,
  第3期「理論経済学(マルクス経済学と数理経済学)」の時代,
  第4期「純粋経済学(数理経済学)と生活経済学(構成体経済学)       と国家経済学」の時代

 というように区分していた。これは相沢の当該著作の発行年が1947年であったから,それまでの日本経済学史にかぎられる時代区分であった。

 註記)相沢秀一『経済学説史』三笠書房,昭和22年,181-182頁。

 そのなかの第2期「輸入経済学」時代,大正年代のはじめ東京と京都のもっとも有力な経済学者であった福田徳三と河上 肇がともに,マルクス主義の経済理論に深い注意をはらい,これに傾倒する者さえ出るにいたったことは,マルクス主義流行のおおきい原因となるに十分であった。

 1919〔大正8〕年をすぎると,日本社会主義思想の中心はマルクス主義となっていた。第1次世界大戦は,日本の社会主義運動にいちじるしい影響を与えた。

 戦時成金の輩出の結果,日本における資本主義の弊害がきわめて強くなったこと,および1917〔大正6〕年のロシア革命勃発がその原因である。これらによって,日本社会主義運動はただに量的に飛躍的発展をとげただけでなく,従来の社会主義とはまったく質的に異なるマルクス主義がおこり,これが全盛をきわめるにいたった。

 それまで全盛をきわめた社会政策思想などを,理論的に不徹底であるとか,小ブルジョア的観念の遊戯であるとして,するどく批判・攻撃するマルクス主義の主張は,当時の青年学徒にとってはまことに魅惑的であった。

 こうしてマルクス主義は,実践的にというよりは理論的に,若い人びとの信仰をあつめていったのである。そのさい,もっとも有力な役割を演じたのが,河上 肇であった。

 註記)難波田春夫〔著作集7〕『近代日本社会経済思想史』早稲田大学出版部,昭和57年,113頁,111-112頁。

 その河上は,『貧乏物語』1917〔大正6年〕年の立場を清算しつつ,急速にマルクス主義経済学へと接近していった。

 1920〔大正9〕年,戦後恐慌勃発という経済的背景のもとに,森戸事件,日本最初のメーデー,日本社会主義同盟創立と,あいつぐ社会情勢の急迫化の徴候が歴然としてきた。

 さらに翌1921〔大正10〕年には,神戸三菱造船・川崎造船のストがおこり,原 敬が暗殺され,ソヴィエトの政策はネップへと転換し,イタリアにファシスト党が,中国に中国共産党が結成され,内外の社会情勢は緊迫化した。

 註記)日高 普・ほか5名『日本のマルクス経済学 上』青木書店,1967年,216頁。

 1930年代における日本社会の思潮は,マルクス主義の支配する10年間という意味で,「赤い10年間」とよばれる。マルクス主義者でなくても,彼らの用語でなければなにもいえないような時代がはじまっていたのである。

 註記)清水幾太郎『私の社会学者たち』筑摩書房,昭和61年,58頁。

 1930年代前半は,西田幾多郎に「夜ふけまで又マルクスを論じたりマルクスゆえにいねがてにする」にするという歌を詠ませ,田辺 元をして「マルキストの理論闘争が学界を動揺せしめ,およそ思想学問にたずさわるもの,何人といへども多かれ少なかれ,その刺戟を受けざるはなかった」といわしめた時代となった。

 註記)宮川 透・荒川幾男編『日本近代哲学史』有斐閣,昭和51年,222頁。

 中西寅雄自身,こういっていた。「あの当時,経営学の研究者にとって参考となる文献はマルクス資本論しかなかった」(*1)と。大内兵衛は,中西に関して「経営学をマルクスによってやるというひとつの考えをもっていた」(*2)と説明していた。

 註記*1)経営学史学会編『経営学の位相』文眞堂,1994年,〔高田 馨〕139頁。
 註記*2)『東京大学経済学部五十年史』東京大学出版会,昭和51年,675頁。

 吉田和夫もいっていたように,中西は,マルクス資本論を主軸にドイツ経営経済学の問題意識を基礎づけ,当時,理論体系も具体内容も明確に存在していなかった,経営学という学問を樹立させようと意図したのである。

 馬場敬治は,中西「経営経済学説」をこう評していた。中西『経営経済学』は,マルクスの述作における,経営学にたずさわる人びとの参考とすべき資料の一部を採りいれているが,とくにそれにもの足りなく感じる点は,中西がマルクスの所説に対して無批判の態度にあることである。

 註記)馬場敬治『経営学研究』森山書房,昭和7年,182頁,脚注1。

 以上の意見をまとめると,中西『経営経済学』昭和6〔1931〕年の示した「マルクス主義経済学応用の方途」は,マルクス主義「思想」そのものに立脚した「〈理論的〉経営経済学」を,当初より採るものではなかったことを証明している。そのように解釈して大きな間違いはない。

 中西寅雄『経営費用論』昭和11〔1936〕年は,そうした社会科学者としての中西の性格を現わしていた。『経営経済学』昭和6〔1931〕年は,理論的経営経済学を,理論的社会経済学の1分科として包摂されるものと規定した。中西は,経営経済学は経済学であって,そのほかの学であってはならないと予定していた。

 だから中西寅雄『経営経済学』は,経営「経済学」の書であっても,「経営」経済「学」の書ではなかった。中西の認める経営経済学は,「〈技術論〉としての経営経済学」である利潤追求の学=工芸学だけであった。『経営費用論』は当然,工芸論に関する書であった。

 『経営費用論』は,「経営経済学の中心的基本問題である」,「費用問題」:「費用,収益,利益の問題」を,「企業家の意識に反映させる姿容に於て研究する学である」と断わっていた。

 このように中西寅雄の学問は,マルクス主義経済学の造詣を活かすだけにとどめる「理論的経営経済学」に存していた。それゆえ,そもそものはじまりから,中西寅雄という人物は,マルクスの思想・立場とは一線を画していたといえる。

 マルクス資本論を応用した『経営経済学』1931年は,今日的に表現するばあいの経営学を否定していた。この認識を前提に書かれていた『経営費用論』昭和11年は,「経営学を否定していた」『経営経済学』1931年の延長線上に展開された,いわば,否定のなかに肯定された一部分として位置づけられた,〈技術論〉としての「経営経済学」なのである。

 したがって,晩年も中西が,理論的経済学から独立した別個の経営経済学なるものは存在しえないといいきり,これが今日もなお正しいと考えつづけていた点は,それほど奇異にうけとめる必要もないのである。ましてや,中西寅雄という人物に関して,特定の思想・立場に思いいれをもってする,戦時「転向」うんぬん問題は,まったく的はずれである

 註記)『中西寅雄経営経済学論文選集』千倉書房,昭和55〔1980〕年,231頁,231-232頁。発言初出の時期は昭和44〔1969〕年。

 

※-2 東京大学経済学部との関連問題

 東京帝国大学経済学部は1919〔大正8〕年に,旧法科大学の経済学科と商業学科を経済学部に編成がえして新しく発足する。しかし,直後からこの経済学部は前途多難な歩みをたどっていく。そのくわしい説明は『東京大学経済学部五十年史』などにゆずり,ここでは戦前期,同学部において発生した重大事件のみ指摘しておく。

 1920〔大正9〕年1月,森戸事件。

 1930〔昭和5〕年2~5月,共産党シンパサイザーとして,平野義太郎・山田盛太郎の両教授が検挙される。

 1937〔昭和12〕年12月,矢内原忠雄教授東大を追われる。

 1938〔昭和13〕年2月,大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・美濃部亮吉ら,人民戦線学者グループ検挙される。

 1939〔昭和14〕年1月,河合栄治郎教授東大を追われる(いわゆる平賀粛学)。

 さて中西寅雄は,1927〔昭和2〕年6月教授に昇任し,渡辺鉄蔵にかわって経営経済学の講義を担当しはじめる。だが,1939〔昭和14〕年の平賀粛学に巻きこまれて辞任を余儀なくされる。

 敗戦後,1952〔昭和27〕年に大阪大学法経学部の教員に復帰するまで,中西は,政府関係の多くの諸業務をまかされ,企業会計制度や産業経済問題に対する指導・啓蒙活動に専念してきた。

 註記)簡単な経歴は,黒沢 清・柳川 昇編,中西寅雄先生還暦記念論文集『原価及び原価管理の理論』森山書店,昭和34年,「中西寅雄先生略歴」参照。

 戦時中から,政府関係機関・委員会・理事会など,数多くの各成員を努めてきた中西の活躍ぶりから,彼をイデオロギー的にみるとき,反体制派に所属する社会科学者であると認めさせるような根拠は,まったくみいだせないのである。

 中西は,原価計算制度の法制化に深く関与し,戦後は経営管理の用具としての管理会計研究に専念し,みずからの経営学方法論を管理会計研究のうえに具現した,と評価されている。

 註記)長浜穆良編著『変容する経営学の知』千倉書房,平成7年,157頁。

 中西が戦前において,東大経済学部の教授に昇任したのは1927〔昭和2〕年であった。中西が,マルクス主義経済学に依拠しながら執筆した『経営経済学』の公刊は1931〔昭和6〕年のことであった。

 1928〔昭和3〕以降,治安維持法〔1925(大正14)年5月施行〕による検挙と起訴人員は,それまでの2桁台から一挙にそれぞれ4桁と3桁台へと急激に増加する。

上の統計図表で昭和3年は1928年

 この年から,治安維持法による検挙人員は1万人をこえ,とくに1933〔昭和8〕年の起訴人員は,最高の1,295人に達していた。中西『経営費用論』が公刊された1931〔昭和11〕年になると,治安維持法による検挙・起訴人員は,まだ多数ではあるものの減少傾向になりつつあった。

 当時の中西の心境をいまは聞くことはできないけれども,多分彼は,自分の学問活動に関して身辺を非常に心配していたはずである。

 1939〔昭和14〕年の東大経済学部辞職は,自身のマルクス〔主義〕的だった経営学の思想面に直接関係するものではなかったが,その経緯上に生じた複雑な事件の一環であったから,もとより心中穏やかではなかったはずである。

 中西自身は,「あれ〔辞職のこと〕は学問上の対立によると世間ではいわれているが,それよりもむしろ教授個人間の葛藤による」と回顧していた。

 註記) 経営学史学会編『経営学の位相』〔高田〕139頁。〔 〕内補足は引用者。

 大内兵衛は,東大の内部事情に関して,「むかしから坊主のケンカはひどいという話がある。学者のケンカもひどい。東大の例はその一つだった」と回顧している。

 註記)大内兵衛『経済学五十年 上』東京大学出版会,1970年,106頁。

 以上,中西にまつわる経歴をみてみれば,「東大辞職もあって,しだいにマルクス経済学の問題意識を後退させ,その認識方法から遠ざかっていった」(*)(松本正徳の見解),というような一知半解の誤解をもって,関連事情の現実的な諸継起を恣意的にひっくりかえしたり,勝手にむすびつけたりする解釈は,百害あって一利なしである。

 註記*)松本正徳「わが国における経営学の展開過程」,中央大学『奨学論纂』第21巻第3号,昭和54〔1979〕年9月など,これ以降。

 なぜなら,中西理論の展開内容〔大正時代後期からの全仕事〕から中西の東大辞職〔1939:昭和14年以降〕まで,この中西の立場は格別の変化を生じていなかった。というよりも,もともと中西の理論そのものに変化はなかったにもかかわらず,それでも「なにか特別の変化があった」と解釈されていた。

 そこで,中西の学問活動じたいをすこしかいまみたい。中西が,マルクス経済学の立場から,工芸学の問題だとして「理論的経営経済学」から放遂した,〈使用価値〉のとりあつかいを考えたい。

 田中章義は,1923〔大正12〕年2月から1925〔大正14〕年3月まで,東京帝大経済学部で経済学(第1外国語;英語)を担当したE.レーデラー,および留学先ドイツにおけるW.ゾムバルト,R.ヒルファディングらの直接的な影響を中西が受けたのではないか,と推測している。なかでも,ヒルファディングは,使用価値を経済学の考察の範囲外に横たわるものである,としていたからである。

 註記) 田中章義「宮上一男氏の会計理論について」『東京経済大学会誌』第96号,1976年7月,85頁。

 中西とヒルファディングとの関係については,『金融資本論』の翻訳者である林 要の発言がある。同書の翻訳は1926〔大正15:昭和1〕年弘文堂から刊行されはじめ,1929〔昭和4〕年改造社の改造文庫版に組みかえられ,さらに1947〔昭和22〕年世界評論社の戦後版が出され,1952〔昭和27〕年に大月書店から改訳本が出された。

 この大月書店版(1961:昭和36年)の「改訳にあたって」という一文のなかに,中西寅雄の名前が登場していた。それは,『金融資本論』の翻訳権を当初ヒルファディングからえていたのは,実は中西であったという話である。

 林 要は,東大からドイツに留学中(1923〔大正12〕10月~1926〔大正15〕年7月)の中西が,原書の出版社および著者と親交をむすび,親しくサインされた翻訳権譲渡の書類をたずさえて帰国した,と記されている。

 林が,その事実を戦前の時点において明かさなかったのは,複雑な当時の情勢上,あやまって累を中西におよぼすことをおそれた訳者〔林〕の,ひとりがてんの老婆心からであった。

 戦後,林は中西をたずね,その好意を謝するとともに,おくればせながらそうした事情を公表することの了解をえた,ということである。

 註記)R.ヒルファディング,林 要訳『改訳金融資本論』大月書店,1961年,「改訳にあたって」1-2頁,2頁。

 さらに中西は『資本論』第3巻の初版本をもっていたが,これを大森義太郎にゆずってもいる。

 註記)鈴木鴻一郎『一途の人-東大の経済学者たち-』新評論,1978年,332-333頁。

 1926〔大正15:昭和1年の時点において,中西が林に『金融資本論』の翻訳権をゆずりわたしていた事実は,中西がマルクス主義経済学の研究に従事する意味をよく理解していたことを示唆する。

 また,中西の留学中,東大経済学部では,1925〔大正14〕年12月の教授会でこういう議論がなされていた。「外国語経済テキスト(矢内原担当)にマルクス『資本論』の採否を議論,結局ヒルファディング『金融資本論』採用となる」。

 註記)『東京大学経済学部五十年史』第5部〔「資料篇」年表〕1208頁。矢内原伊作『矢内原忠雄伝』みすず書房,1988年,385頁に関説がある。矢内原伊作が依拠した原資料の文献は,美濃部亮吉『苦悶するデモクラシー』文藝春秋新社,昭和34年。

 既述のように,大正後期からのマルクス主義思想の風靡,これに対する偽政者がわの弾圧体制の強化,高等教育機関の最頂点に位置していた東京帝大経済学部社会科学の動静に対して,とくにきびしい監視の眼をむけていたのである。

 

 ※-3 ドイツ経営経済学との関連問題

 中西は,ドイツの経済学のみならず,経営経済学全般に研鑽を積んでいた。「ドイツ経営経済学の問題意識をマルクス経済学でもって基礎づけんと意図した」(吉田和夫)。

 中西『経営経済学』が,第1章「経営経済学の本質」において,国民経済学と経営経済学との関係を規定するにあたって引きあいに出していたのは,ドイツ経営経済学の状況であった。国民経済学出身の当時のドイツ経営経済学者たちは,当然『資本論』をしっていたと推測してよい。

 しかし,経営経済学者が『資本論』をそのまま受容することは不可能であったし,それを引用することすらはばかられた。

 中西は,ドイツ経営経済学〔とくにH.ニックリッシュの経営共同体論〕にみられる,イデオロギー的な歪曲の指摘に力をそそいでいた。しかし,ドイツの経済が大戦後の混乱から回復し,いわゆる相対的安定期に入ると,イデオロギー的に歪曲された規範論的な企業理論ではなく,実在する企業を記述しようとする理論が登場する。

 それは,W.リーガーの『私経済学入門』1928年,および,グーテンベルクの『経営経済理論の対象としての企業』1929年であった。

 利害の階級的対立に注目し,共同決定と分配問題にとりくんだニックリッシュの経営理論は,当時の社会において,一方の焦点であったマルクス〔主義〕を無視した,規範的な経営共同体論として提起された。これに対して,『資本論』における資本運動を参照した,リーガーの私経済学とグーテンベルクの純粋経営経済学は,利害・共同決定・分配などを無視していた。

 この対照には,制度化されたドイツ経営経済学の社会的性格が,集中的に表現されている。中西理論を,このような文脈に置きなおしてみるとき,生産諸関係を対象にすえて,個別資本運動を闡明しようとした中西理論が,いかに独自なものであったかということが,あらためてわかる。

 註記)『現代の個別資本理論-浅野 敝教授還暦記念-』千倉書房,平成2年,〔長岡克行〕168頁,169頁,173頁。

 ドイツ経営経済学研究の草分けの1人である佐々木吉郎は,中西『経営経済学』を批判して,こういう。

 中西は,労働行程を経営とし,価値増殖行程を企業としているが,労働行程と価値増殖行程とは,ひとつの資本の生産行程の両側面にほかならない。それなのに,同一の生産行程の両側面としての経営および企業の把握から出発して,経営と企業とが故意に分離されている,と。

 註記)佐々木吉郎「企業概念に就ての一つの問題」『明大商学論叢』第16巻第1号,昭和9年4月,15頁,16頁。

 このように批判をうけた中西の処理方法は,リーガーが企業と経営を,したがってまた経済と技術をあまりにも機械的に分離し,経営を生産過程と同一視していたこと(*)と符合する。
 
 註記*)前掲,『現代の個別資本理論』〔長岡〕172頁。

 古川栄一は,R.ザイフェルトの経営経済学に関する分類に関連して,技術論・政策論的経営経済学に対する理論経営経済学は,国民・社会経済学といかなる関係に立つものか,いいかえれば,理論経営経済学は独立科学なのか,それとも相対的独立性を有するにすぎないものか,必ずしも明瞭ではないと指摘していた。

 註記)古川栄一「ザイフェルト」,経営経済研究編輯所編『経営経済研究』第9冊,昭和6年 5・6月号,274頁。

 中西は,この古川の指摘に直接,答えていた。

 「理論的経営経済学(より厳密には私経済学)は社会経済学の1分科であり,相対的独自性を有つと同時に,社会経済学に包摂される限りに於て,絶対的独立性を拒否される」と。

 註記)中西『経営経済学』58頁。

 しかしながら,理論的経営経済学の絶対的独立性を拒否した中西の発想:その相対的独自性に満足しえない後進たちが,そのあとにつづいて登場する。中西理論は,使用価値あるいは経営技術は理論的経営経済学の対象でないとしたので,経営技術へ接近する道は切断された。

 そこで,個別資本〔運動〕説は,鍋嶋 達の「経営技術学」か,その裏がえしのいわゆる「個別経済学」へ分裂せざるをえない。だが,これに満足しない人たち,古林喜楽・馬場克三〔・中村常次郎〕などは,経営技術に接近するべつの道を探索した。

 これは,いわゆる「意識性を媒介とする経営技術の包摂」であった。この方法も結局は,ヒルファディング=中西流の経済的形式と使用価値の分断論の一形式といえよう。

 註記)前掲,田中「宮上一男氏の会計理論について」90頁。〔 〕内補足は筆者。

 宗像正幸も指摘するように,経済の基礎としての経営,あるいは経済の反作用によって特殊歴史的な質をそなえる経営,具体的には特殊資本制生産の労働過程である経営の分析は,経営(企業)経済学研究の一端を占めるとし,「個別資本の生産過程」の分析のうちに組みいれられるとしたわけである。

 註記)宗像正幸『技術の理論』同文舘,平成1年,24頁。中西『経営経済学』89頁以下。

 中西『経営経済学』では,主要な分析の対象からはずされていた労働過程-技術過程は,『経営費用論』では企業概念の再構成とともに分析の対象となり,経済技術過程-経営の分析をとおして企業の解明をおこなう方向もまた重視されるにいたった。なぜなら,個別資本は,その技術的過程である経営を媒介してのみ,現実に機能するからである。

 ただこの場合,残された大きな方法的課題は,単なる形式的範疇の次元ではなく,また外在的技術批判でもなく,実質的内容をもったかたちで経済技術過程の分析を,しかも利潤追求学でもなく,工芸学でもないかたちで展開し,さらにこれを価値過程と統一的に把握する道を探ることであったといえる。

 註記)『東京大学経済学部五十年史』486頁,487頁。

 この『東京大学経済学部五十年史』による執筆者の指摘点が,その後どのように理論展開されていったかについて論じることは,本稿の課題からはずれるので触れない。

 

 ※-4 理論史・思想史・経営史

 第1次世界大戦期に生産規模を拡大させたのは造船業だけではなかった。ほかの多くの産業も市場の拡大にささえられて生産規模を拡大させた。しかし戦後は,これらの産業も市場の急縮に直面した。

 そこで製造企業は,一方で企業規模を縮小させつつ,他方で経営の合理化を図らねばならなかった。その合理化の必要性は,企業の目を生産現場にむけさせた。生産現場でムダを排除し,いかに能率をあげていくかが,企業の業績の悪化を防ぐことに直結すると考えられたからである。

 いわゆる能率運動が,第1次世界大戦後に全国的に高まっていったのは,そうした状況を背景としていた。この時期の合理化努力は,不況切りぬけ策つまり損失回避を主眼においていた。

 註記)日本経営史4 山崎広明・立橘武郎編『「日本的」経営の連続と断絶』岩波書店,1995年,131頁,132頁。

 中西が,教職の地位につき,国家の祿を食むようになった時〔助手就任は1921(大正10)年2月,助教授就任は1923(大正12)年3月〕であったが,そのころの経済社会情勢は,まさに戦後の反動不況,関東大震災などの悪影響が現出してくる時期であった。

 世界大恐慌の起きた1929〔昭和4〕年から,日本政府は,産業合理化政策を本格的に開始しはじめる。翌1930〔昭和5〕年6月には,臨時産業合理化局が官制として公布されている。

 1931〔昭和6〕年10月10~12日に開催された,日本経営学会第6回全回大会の統一論題は「産業合理化と失業」であった。中西は,この大会における統一論題発表者の1人となり,研究報告をしている。彼の論題は,統一論題と同じに「産業合理化と失業」であった。

 中西は,当時の失業を,戦後資本主義の延命策であり,一企業内の合理化と複数の企業の集中化(カルテル・トラスト化)とによってもたらされたものとみなし,独占段階に到達した資本主義の機能不全として論議したのである。つまり,中西は,資本主義経済の崩壊を信じる宿命的見解を示した。

 註記)小林俊治『経営環境論の研究』成文堂,1990年,263頁,264頁。

 1931〔昭和6〕年10月といえば,中西がその前月下旬に『経営経済学』を公刊した直後である。代表者を増地庸治郎とする,経営経済研究編輯所編『経営経済研究』(同文館,昭和3年10月に第1冊発行)の第8冊(昭和6年3月)に,中西が投稿した論文「経営経済学の本質に関する若干の考察」は,『経営経済学』の第1章に転載されたものである。

 要するに中西は,マルクス主義経済学でもって個別資本の価値増殖過程を,日本の企業の例などを使用して,きわめて具体的に分析した。そうして,その後につづく日本の批判的経営学の基盤をつくった(*)。と同時に彼は,昭和初期の日本経済における深刻な問題を分析したのである。

 註記*)鈴木英壽先生古希記念事業会編『現代ドイツ経営学研究』森山書店,1994年,〔小林俊治〕32頁。

 「本稿」全体の問題意識に照らして考えるに,以上のような学問姿勢をかまえていた中西寅雄は,1人の人間,1人の社会科学者として,どのような真意をいだいていたかが焦点となる。

 思想史は,資料の解釈をつうじた「追創造」の学問である〔丸山真男〕。思想史研究の魅力は,資料的制約の枠内で,可能なかぎり想像力を駆使しておこなう解釈という作業にある。同時に思想史研究の恐さは,研究者の力量にみあった「等身大」の思想家像しか描けないことである。

 註記)小松 裕『田中正造-21世紀への思想人-』筑摩書房,1995年,〔あとがき〕211頁。

 マルクス主義思想を堅持しているつもりの経営学者は,中西寅雄がマルクス主義経済学の研究者であるゆえ,親しい同朋〔同志〕でありうると判断した。そこから,つまり自陣営側からだが,ある一定の絶対的基準をしつらえたうえで,中西寅雄「経営経済学説」に対する独断的な思想史的解釈をくわえ,牽強付会していた。

 その意味でまさに,理論史・思想史は,経営史とは複雑で陰微な相互関連の上にあるといえるわけである。

 註記)山本 通・ほか3名「1993年の外国経営史」『経営史学』第30巻第1号,平成7年4月,111頁。

 

 ※-5 若干の議論

 ところで,日本における批判的(マルクス的)経営学をとりあげ議論する本ブログ筆者の立場について,前段のなかで引照した小林俊治は,以上のごとき議論・究明に接してこの立場を,「マルクス主義経営学の『規範』」を「容認ないし支持している」と解釈する向きもあったが,これは的を外していた。

 だが本ブログ筆者は,元来「マルクス主義経営学の『規範』を」「容認したり支持したりする」といった立場を採っていない。とりわけ,マルクス主義経営学の諸主張に論及したことや,またその方法をとりあげ議論したこと,さらには,その方法を適用して規範学説を考察したからといって,闇雲に突如そのように断言するのは,見当違いのやぶにらみ的な詮索であった。
 
 筆者の立場が奈辺にあるかは,この本文の記述を介しておのずと理解できるはずである。それゆえ,そのような推論的な解釈に対しては,あらためてつぎのように付論しておきたい。

 吉田和夫は,〈認識の論理を基礎とする経営経済学〉と〈変革の論理を基礎とする経営経済学〉を,いかに統一化するかがまさに,今後の個別資本学説の課題であといっていた。

 註記)吉田『ドイツ経営経済学』217-218頁。

 その「課題の把握方法」との関連があったも推測されるが,吉田和夫はまた,筆者の関連する著書をとらえて,「本質論のみを展開したもの」と評していた。

 問題は,叙上の用語:〈認識の論理〉と〈変革の論理〉のうち,変革の論理を,経営学の研究対象として,筆者がどのようにとりあげてきたかにある。

 筆者は,当然のこと,マルクス〔主義〕経営学の諸理論を日本経営学史研究の題材にしてきたが,研究対象としては〈認識の論理〉も〈変革の論理〉もともに,ただ客体的に接してきたつもりである。

 しかもその方途にあっても,日本個別資本論史における〈変革の論理〉そのものの側面は,議論の対象にとりあげていない。もっぱら,個別資本論の〈認識の論理〉に着目した考察をおこなってきた。

 したがって,先述のような吉田の評言「本質論のみ」をもらったものと推測している。かといって,〈変革の論理〉も同時にとりあげないと,個別資本論史の究明ができないというわけではない。

 筆者は,学問研究の対象枠組として示されている〈認識の論理〉と〈変革の論理〉に関して,前者に関しては客体的:対象的:第3者的なとりあつかいに重きをおき,後者に関しては主体的:関与的:当事者的なとりあつかいに重きをおくものだというように,分離させて考えてはいないし,かといってそのように便宜に引きはなした便法は,賛成できない。

 筆者は,〈認識の論理〉と〈変革の論理〉の統一化に今後の個別資本学説の課題をみいだす,という吉田の見解:立場に与している,と表明したこともない。

 ところが,ある論者が〈変革の論理〉をとりあつかうと,その論者はただちにマルクス主義の思想的立場を支持する学者である,と性急にみなす風潮がこの国の学問風土にはある。これはおかしな解釈(とらえかた)である。

 たとえば,大島藤太郎がいた。彼はマルクス主義の思想的信奉者ではなかった。にもかかわらず,学問の展開内容がマルクス経済学の関連文献にふれ,その専門用語をつかって業績を挙げていた。そのためか,大島はマルクス主義者だというふうに両「陣営」よりきめつけられ,だいぶ迷惑していたようすである。

 大島藤太郎の主要業績には,『国家独占資本としての国有鉄道の史的発展』伊藤書店,1949年,および同『封建的労働組織の研究-交通・通信業における-』御茶の水書房,1961年があった。

 マルクス〈主義〉経営学は,その研究対象に対して〈認識の論理〉と〈変革の論理〉の組み合わせを念頭においたとりあつかいを要請する。筆者は,そうした必然性を前提においたうえで,なおかつ〈変革の論理〉の問題側面をあえて排除し,日本個別資本論史の解明にとりくんでみたのである。このやりかたでも,日本個別資本論史の解明は十分可能である。

 筆者はその意味でも,「マルクス主義経営学の『規範』を容認・支持する」,というような発言や意見表明をしたことは一度もないし,またその必要性も感じていない。

 筆者は,自分の研究公表が,どのように他者にうけとられるかについても,ひとまず無頓着でいる。けれども,学問業績というものが元来一人歩きする必然性を有することをふまえたうえで,筆者の意図からおおきくはずれた解釈に対しては,きちんと説明しておきたい。

 いずれにせよ,日本規範経営学説:体制派「近代的経営学説」にむける筆者の批判が「マルクス主義経営学の『規範』を容認・支持する」論者であると推定を下したことは,明らかに読みすぎである。その点は,筆者の関連する公表物すべてを勘案してたうえで,判断すべき事項であったはずである。

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