「明るみへ導いてくれる」 ― ハン・ガン著『引き出しに夕方をしまっておいた』(「CUON」)


「明るみへ導いてくれる」 ―    ハン・ガン著『引き出しに夕方をしまっておいた』(「CUON」)

ハン・ガン氏の著書からは大きく隔たった二つの印象を受けていた。エッセイ集『そっと 静かに』の方は人の心理の微妙な部分をきめ細かく掬い上げている。一方、小説『菜食主義者』の方は、これでもかというほどに激しく心理を掘り進めていく。これほどの表現の違いはどこからくるものだろうという思いの中で本書に出会った。
本書はハン・ガン氏の初めての詩集になる。翻訳であることを意識せずに読んだ。読みながら感じたのは、詩はどちらかというと小説の激しさに通じるものが中心にあるのではないかということだ。つまり著者は、創作物においては直接的な表現の激しさをとりこんでゆく。
それゆえこの詩集は、読者を穏やかにうっとりとさせてくれるものではない。深く蹲った作者の震える背中が見える。時に嗚咽をしているのではないかと思われるほどに苦しんでいる姿が見える。そのような精神状態にある自己をひたすらあからさまに書こうとしている。ずっと日本の詩を読んできた私には表現が驚くほど直接的に感じられる。逆から見れば、日本の多くの詩には何かを守ろうとして言いよどんでいる部分があるのではないかと考えさせられた。

本書が扱っているテーマは自己の内面だけではなく、外部に向けられることもある。しかし作者が外部を描こうとするとき、その外部は詩に書かれた途端に外部ではなくなり、作者の内面に消化されてしまう。あるいは逆に、自分の内面を、外部にあるモノのように違和感を持ち、忌み嫌ってもいる。「解剖劇場」という詩では、最も近くにある自らの肉体をも忌避している。

私に/舌と唇がある。//そのことに耐えられないときがある。
                       (解剖劇場2)

自分の肉体にさえ違和感を持つ心は、そのまま「死」の概念と直結してくる。そして死を見つめることは、同時に生をあるがままに見つめることでもあり、本書は死の奥に息づく生をも書ききっている。
暗い精神をさまよう多くの作品にも引きつけられるが、さらに惹かれたのは読者を明るみへ導いてくれる作品群だ。「鏡のむこうの冬 3――Jへ」、「ヒョへ ――二〇〇二年冬」、「だいじょうぶ」などは胸郭を広げてくれる美しい作品だ。苦しみの中で、作者と読者が支えあうものとしての詩を、本書に見いだした。

「どうしたの、ではなく/だいじょうぶ。/もうだいじょうぶよ。」
                   (「だいじょうぶ」より)

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