詩へ逃げるな ― 清水哲男さんのこと

詩へ逃げるな ― 清水哲男さんのこと
 
 清水哲男さんが亡くなられたということは、八木幹夫さんからのメールで知りました。数年前から、清水さんの体調がすぐれないということは聞いていました。それでもやはり動揺をしました。これまでのことがいちどきに思い出されてきました。
 ぼくが詩の世界から何度も逃げて、戻ってくるたびに、理由も聞かずに静かに迎えてくれたのは清水さんでした。だから最期にもう一度お会いしてお礼を言いたかったと思いました。ぼくの『現代詩文庫』に推薦文を書いていただいたことへのお礼も、結局、直接にはできませんでした。ここ数年、清水さんには何度かメールをお送りして、「可能であればお伺いしたい、どこへでも出かけますから」と、お願いをしていました。でも、歩行が困難であることを理由に、今は会えないと返事には書いてありました。「独り歩きができるようになったら会いましょう」ということでした。その返事を見ながら、ぼくはずっと待っていたのです。

 七十年代半ば、二十代の頃にぼくは「グッドバイ」という詩の同人誌に入っていました。無名の若者五人の小さな雑誌ではありましたが、創刊号が幸いにも清水さんの目にとまったのです。当時はぼくも、同人の三橋聡も、まあ一言で言えば清水哲男さんの詩に夢中でした。詩集『水瓶座の水』や『スピーチ・バルーン』に完全に魂を持っていかれていました。この日本語はいったいなんだろう、この魅力はどうやって生み出されてきたものだろう、という手放しの驚きでした。
 ある日、同人の集まりで、清水さんに詩を寄稿してもらえないだろうかという話しになりました。ぼくらなりに手を尽くして連絡をとり、清水さんにお願いして、詩の依頼を了承していただいた時には晴れがましい気持ちがしました。ただ、こんなに小さな雑誌で申し訳ないような気もしたことを覚えています。
 郵送でもいいけど、せっかくだから会って詩を渡しましょう、という連絡をいただいて、新宿駅ビルの中の「プチモンド」という喫茶店で初めてお会いしました。ぼくの人生にとっては生涯忘れることのない貴重な日になりました。四十五年後の今でもその時のことを覚えています。会社からの帰りに、山手線を新宿駅で降り、たぶん待ち合わせの時刻よりもだいぶ早めに喫茶店に着きました。その時すでに清水さんがいたかどうかをぼくは覚えていません。ただ気持ちが舞い上がっていて、覚えているのは、テーブルを挟んだ向こう側にホンモノの清水哲男さんがいる、ということでした。ぼくは緊張で味のわからなくなったコーヒーを飲んで、清水さんはグラスに入ったビールをおいしそうに飲んで、いろいろな話をしました。愉快そうでした。ぼくは、今でこそおしゃべりな老人になってしまいましたが、当時はいたって無口な青年でした。その夜にどんな話をしたかは事細かには覚えていません。でも、ひとつだけ覚えていることがあります。当時ぼくは日本コカ・コーラ社の経理で働く勤め人でした。詩人と勤め人の中間にいる人でした。「松下君、会社勤めをしながら詩を書くのなら、詩を書くことが楽しいだけでなく、仕事も面白いと感じるようにした方がいいよ」。そんなことを清水さんは言っていました。たぶんもっときちっとした言葉だったのだろうけど、言いたいことはよくわかりました。詩へ逃げるな、実人生もきちっとやり遂げろ、詩を書くことも、会社で仕事をすることも同じ高さで見つめ、「生き、楽しめ」ということだったのだと思います。詩も仕事も、均等に楽しめということだったのだろうと思います。
 詩と仕事のどちらかを優先するのではなく、同じ重さで受け止める、という感覚は、清水さんの、この世界のあらゆるものを平等に広く受け止める、という姿勢から来ているものなのだと思います。ですから、名もない雑誌の名もない詩を書く若者だったぼくのような者にも、とてもきちんと対応をしてくれたのです。そう思います。だから無性にうれしかった。

 ところで、なぜぼくは(ぼくだけではなく多くの人は)、清水さんの詩にこれほどに惹かれるのでしょう。もちろん清水さんの詩の中には、とりわけ好きな詩や思い出深い特別な詩はあるのですが、なんというか、清水さんの詩は、驚くことにどの詩も清水さんらしさに満ちているのです。ですから、清水さんの詩の中でどの詩が好きか、という問題ではなく、清水さんの詩であるところから、もうすべてが特別なものになってしまっているのです。清水さんの発想自体、考え方自体、言葉の選び方自体、人生への向かい方自体、すべてにぼくは参ってしまっている感じがします。では、具体的に言うとそれは何だろう。説明するのはとても難しいのですが、それは、先ほど言った、あらゆるものを受け止める懐の深さと、受け止め方の柔らかさに関係しているのではないかと感じます。その受け止め方は、人生そのものの受け止め方、生きていることそのものの受け止め方にも通じています。さまざまな出来事に肯定的に平等に向き合うこと。それでいて、その肯定や平等は薄っぺらな一枚板ではなく、裏側に分厚な批評精神が貼り付けられていたのではないでしょうか。
 いつ頃のことかを正確には思い出せないのですが、まだパソコンが今ほどに性能がよくない頃に、パソコン雑誌に清水さんがマッキントッシュPCについての使用日記の連載をしていたことを思い出します。その文章を読めば、新しいツールに何が出来るかについて、少年のように目を輝かせて取り組んでいる様子が目に見えるようでした。それは大げさに言えば、生きていることへの限りない興味であり、そのさわやかな興味の先には、先端技術の可能性だけではなく、詩や俳句や評論の、表現の可能性も同じ地平にしっかりとあったのではないかと思います。

 清水さんは、あらゆることを平等に、あらゆるものを穏やかに迎え入れ、享受してゆく力のようなものを持っていたように感じてなりません。「増殖する俳句歳時記」という俳句のWeb サイトの中で、清水さんの書いた解説文に対して、時に、無謀に攻撃的であったり否定的であったりするコメントが書き込まれることがあります。そんなとき清水さんは、平然とそれを受け止めていました。もともと、「コメントがないよりも批判的な、あるいは乱暴なコメントでもあったほうがいいのだ」という考え方を持っていたようです。すごいなと、ぼくはその姿勢に感動をしていました。ぼくだったらあれほど揺るぎない姿勢を保つことはできないだろうと感じていました。

 Webサイトや電子書籍、SNSなどの新しい媒体への清水さんの興味に、ぼくは多くの刺激を受けてきました。それとともにSNSに詩や文章を書き込みながら、ネットの向こうに清水さんがいて読んでくれているかもしれないという思いは、ぼくを勇気づけてくれるものでした。ある日、童謡「ペチカ」についての感想を書いたときに、「松下君、ちょうど同じ日に、ぼくもペチカのことを書いていたんだよ」とメールをいただいたときには、とても不思議な思いをし、うれしく感じたものです。

 清水さんの周りには、いつも詩や俳句を作る人がたくさんいました。ですから清水さんの姿を、ぼくはたいてい遠くから眺めていました。清水さんの古希祝いのボーリング大会の日の夜だったと思います。後楽園のぬかるんだ横断歩道を渡るときに、清水さんの体を支えて歩いた夜のことを胸のつまる思いで思い出します。また、詩誌「生き事」「一個」共催の忘年会で、「清水哲男クイズ」で清水さんを囲んで皆で大いに盛り上がった夜を思い出します。さらに、詩の世界から蒸発していたぼくが久しぶりに詩集を出すときに、清水さんに帯文を書いていただいて、その原稿を吉祥寺ビヤホールの薄い暗闇で受け取った日の泣きたくなるほどの感激を思い出します。飲み屋で、「そのうち詩集『喝采』に載せた詩と同じタイトルの新しい詩をぜんぶまた書いてみようか」と話していた時の、清水さんの落ち着いた中にも意欲を見せていた表情を思い出します。
 中でも、「増殖する俳句歳時記」のイベントの時に、多くの参加者から離れ、会場の隅の椅子に座って窓の外の夕暮れをじっと見つめていた清水さんの背中を思い出します。広いホールにいた何十人もの参加者は、みな清水さんの元に集まった人たちでした。みんなとの会話が一段落して、ふっと一人で歩き出し、人々からしばらく背を向けて高い空を見ていた清水さんを思い出します。その姿を、ぼくは遠くの席から見つめていました。人と丁寧に接し、それから歩み出して一人になってゆく姿を見つめていました。その時にも、清水さんは多くのことを世界から受け止め、それを見事な言葉にして胸の内を走らせているのだろうと、想像して見つめていました。

そんなことができるもんか
あなたは
コオヒイの湯気のむこうがわにいて
胸のかたちを整え
少し血のにじんだ頬を
朝の光にたたかせて
ああ
じっと喝采に聞きいっている
(「喝采」より)

 ぼく(だけではなく多くの人)は思い出します。清水さんの、かがみこむほどの、詩と人への愛を。それから今でも、たくさんのうれしかった瞬間を思い出しています。清水さん、ありがとうございました。

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