叙情的な論法にとらわれる ― 上手宰詩集『二の舞』(版木社)

叙情的な論法にとらわれる ― 上手宰詩集『二の舞』(版木社)

 上手さんの新詩集『二の舞』(版木社)を読みながら、これまでのことを思い出していました。上手さんと知り合ったのは半世紀ほど前、二〇代半ばでした。初めて会っていきなり詩の話を熱くして、それから一緒に詩の雑誌を創刊しました。月に一度、休日には昼間から夜まで飽きずに詩を語り合いました。
 ですから上手さんの新詩集の書評を書いてくれと言われれば、条件反射のように「わかりました、喜んで書きます」と返事をしてしまうのです。思えばぼくは、上手さんの詩のそばに長くいて、背をもたれたり、ため息をついたり、支えにさせてもらったり、深く感動をしてきました。それゆえこの詩集に見えるたくさんの「二」の文字は、そのまま上手さんとぼくの、長い時間の「二人」にも見えてくるのです。

(叙情的な論法)

 上手さんの詩の中心には喩えがある、とこの詩集を読んであらためて思いました。比喩、喩えを多く詩に書く詩人は上手さんだけではありません。でも、上手さんの場合、比喩の扱いをとても大事にしているように思われます。詩の発想は大抵、鮮やかなひとつの喩えから生まれてくるように思われます。そしてその一つの喩えを中心にして、しつこいほどに物語を語ってゆきます。時に、読者は喩えに直接とらわれることもあり、あるいは喩えに繋がる物語に引きずられ、結局は上手さんの叙情的な論法にとらわれてしまうのです。
この詩集が今までの上手さんの多くの詩集と異なっているのは、ひとつの決まりの元に書かれていることです。決まりというのは、すべての詩が「二」という数詞で揃えられているということです。おそらく詩集にまとめる時にそうしたのではなく、ひとつひとつの詩を書くときに、その度に「二」から発想して書いたもののようです。そのようなことが可能なのかと、ぼくは驚きます。これが二つや三つの詩であるならば、ある決まりを設けてその決まりに沿った詩を書くことは可能です。でもこの詩集には二十四篇もの詩があり、すべてが「二」で揃えられています。言い方を変えるなら、上手さんはどんな縛りであっても、一旦決めればその縛りに則った詩がいくらでも書けてしまう、ということのようです。
あるいは「二」という縛りがあったから、上手さんの頭脳に発想の川水が流れ始める、という習慣ができあがっていたのかもしれません。発想というのは不思議なものです、学生の頃の作文の宿題のように、何を書いても構いませんと言われるとかえって書けないものです。上手さんの宿題は常に「二」にこだわりなさいというものであったようです。そしてその宿題に嬉々として向きあっている上手さんの姿が思い浮かぶのです。

(さまざまなよさ)
                 
 上手さんの詩を読んでいて驚くのは、どの詩にも必ず「いいな」と感じる箇所があることです。箇所というよりも、大抵はその詩の発想の元のようなものです。「ああ、こんなふうに上手さんは感じて、その感じ方をあれこれ頭の中で転がして、言葉に添わせ、一篇の詩に作り上げているのだな」と、その過程が見えてくるのです。そしてその発想が詩に出来上がってゆく道筋こそが、上手さんの詩そのものであるように思います。上手さんの詩の多くは、それなりに長くなってしまいます。その理由は、こうして作りましたよ、この詩のここにはこのようなよさが含まれているのですよと、解説まで折り込んでしまうからなのです。
つまり上手さんは上手さんの詩を放って置けないのです。たいての詩人は、それなりの詩ができたら、あとは読む人に読んでもらいなさいと手放します。もう読者に任せてしまうのです。けれど上手さんは違います。詩を書き上げても、一緒に読者の元までついて行ってしまうのです。そのついて行ってしまうところが、読む人にとっては、そこまで書かなくてもわかりますよと、くどく感じることがあるかもしれません。でも、ぼくはそうは思わないのです。上手さんの詩への付き添いは特別なものに感じられるのです。付き添いそのものが、上手さんの詩の温かさになっていると感じられ、詩の魅力を一段上げているのではないかと感じられるのです。

 今回の詩集でもぼくは多くの箇所にぐっときました。その内のいくつかを具体的に引いてみたいと思います。味わってみたいと思います。

読まれるためにではなく
ただ祈られるためだけにある書物が
世界という書棚には保存されていて
かすかな物音をたてた後 またしまわれる
       (「二架――うす緑の本」)

 おそらくここに書かれている書物は、上手さんが書こうとして手を伸ばし続けているものでもあるのだろうと思います。詩を読むことは単に理解し鑑賞するだけのものではない。心そのものを奪い去られてしまう、つまり生きていることを祈りに昇華することでもあるという、上手さんの、詩へ託す気持ちが表れているのだと思います。この志が、上手さんの詩集には常に貫かれています。

子どもたちはいくら走ってもいい
みずからは何もしていないのに
なにかのはずみでこの世にやってきた者たちは
跳びはね 追いかけっこをし じゃれ合えばいい
       (「二列――ちょっとしたはずみで」)

 子どものことを書くとき、上手さんの筆は詩という枠を突き抜けることがあります。子どもを見つめる目は、命の誕生を見つめる目であり、生きていることをじかに見つめることでもあります。実生活で、上手さんがよき父親であり、よき夫であるという現実が、このような寛容な眼差しを持つことを許され、生来のポエジーと相まって、詩を超えた詩行を可能にしているのではないかと思われます。

自分の目をのがれ
自分に気付かれずにいること
それが「忘れる」という語の起源である
人は外界を忘れるのではない
自分を忘れるのだ
       (「二人――自分に気付かれる」)

 「忘れる」という行為の対象を外部ではなく内面に置き換えてみる。この鮮やかな視点の転換が、詩に、今ここにはない新しい世界を広げています。自分の目をのがれるとはどのようなことか、読む人はそれぞれに想像をたくましくできます。ここにおいて、上手さんの視点は自分を手放してでもいるようです。他者をも自分としてとらえ、自分をも他者に紛れさす。この視点は、青年期には獲得のできないものなのではないでしょうか。

万年筆で書かれたての文字が
一瞬光っているのは
まだ泉だから
      (「二称――忘れられていた名前」)

 詩に説明があるように、泉は万年筆のファウンテンペンのファウンテンから来ています。言葉や文字の姿から世界を広げ、詩の深みへ導いてゆく上手さんの一つの名人芸が、この詩には見られます。おそらくこの手法で優れた詩を書き続けている(た)のは、吉野弘と上手さんだけではないかと思われます。


練習は実人生の航跡に残らない
自転車に乗れるようになったその時
行きたい場所があるのではなく
倒れずに走れるうれしさだけがある
       (「二本――練習用は何色で?」)

 この箇所を読んでぼくは、上手さんの詩作の姿勢を感じました。詩を書くことによって何かを獲得するのではなく、書くこと自体が幸せなのだということ。心にとどめておきたい感じ方です。

(家族、肉親を書く)

 ここまでいくつか、具体的に惹かれたところを見てきましたが、つまりはどの詩にも、その詩固有の良さが込められているわけですが、中でも特に胸に迫ってくるのは、上手さんが家族や肉親を描いた詩です。なぜ家族や肉親を書くとこれほどに詩が輝いてくるかというと、上手さんの、家族や肉親を見つめる目がまさに優しく輝いているからなのです。家族や肉親を書いた詩は、詩であることを超えて、上手さんの在り方そのものを表しています。

年老いた夜更け 不思議な自然さで
ありがとうが自分の口から出て行ったことがある
誰に言ったのかとその後を追ってみた
父のところまで行くかと思えば
妻の寝床に辿り着いてその耳に届けている
                (「二礼――におい棒」)

弟よ おまえが
突然亡くなったと連絡がきた
これまでずっと一つ下だったので
親しんだ自分の歳から一つ引く
「兄貴 僕の歳を即答できるかい」と
問うためにおまえは逝ったわけじゃないのに
その日私は 瞬時に寂しい算数をした
               (「二歳――長い階段が消える日」)

 任意に引いた詩篇からだけでも、この詩集の深さがわかっていただけるだろうと思います。この詩集はどのページを開いても、必ずその詩のよさに出会うことができます。

 そして、詩集の根底に流れている感覚は、後書きにもあるように「二流」であることなのだろうと思われます。

二流という言葉は寂しいものだが
三流よりマシなどの慰めはさらに悲しい
それらはみな同じもの
仲間はずれの一流が遠くに浮かんでいる
               (「二流――やわらかな流れの中で」

 誰が一流で誰が二流だという議論は虚しく感じます。おそらく、誰もが一流であり、誰もが二流であるのです。ただ、ありようがどうであれ、自分が一流であると思っている人からは一流の詩は出来上がらないのではないかと思います。上手さんは常に自身を二流の側に置こうとします。二流の側から謙虚に書かれた詩こそが一流であると、今ここでぼくが言い募る必要はないのでしょう。詩集自身がそれを見事に証明しているのですから。

 かけがえのない一冊の詩集が、上手さんによってまた生み出されました。

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