健康マインド(心に残る言葉❗)湯川秀樹「一日生きることは、一歩進む事でありたい。」
1949年(昭和24年)日本人として初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹は、敗戦後の国民に大きな励みを与えました。
物理学の(中間子論)・(量子力学)の分野なので、一般人には理解できない分野でした。
しかし、日本人の学者が世界的な評価を得た事で、「一日生きることは、一歩進む事でありたい。」と普遍の努力を謳った湯川秀樹の言葉は自信喪失した国民に力を与えました。
GHQの統治下、マッカーサーと天皇陛下の写真を見せられてショックを受け、うなだれて拳をにぎった日本人は「一日生きる事」が精一杯だった。
そんな中で、1934〜1935年に発表した「中間子理論構想」・「素粒子の相互作用について」で(未知の新粒子の存在を主張しました❗)それが15年後幾多の戦争を経て、宇宙から地球に注ぐ(宇宙線)の中から中間子によく似た新粒子(ミュー粒子)が見つかった事で世界的に注目され、1947年に実際にイギリスの研究者がパイ中間子を発見した事で、湯川秀樹の先見の明が認められ1949年のノーベル賞受賞に至った。
湯川秀樹は太平洋戦争の末期(原爆開発プロジェクト)に招聘され、開発が本格化する前に終戦をむかえた経緯から「反核運動」にも積極的に携わった。
原子力発電所を急いで建設する方針に対して湯川は「基礎研究を省略して原発建設を急ぐ事は将来に禍根を残す」と反発、原子力委員を辞職した。
1966年には(ノーベル平和賞)の候補者に推薦されていた事も解っている。
京都大学名誉教授になって、生物学にも感心を広げた。
退官後発病して自宅療養中、第4回科学者京都会議に車いす姿で出席、核廃絶を訴えた。
広島平和公園にある若葉の像の台座には湯川の短歌が刻まれている。
「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ
平和をいのる 人のみぞここは」
「まがつび」→「災害・凶事を起こす神」
湯川秀樹は語る
「私は、真理の探求ということを誇りに思うし、自信を持っているし、私は一生それを貫いてきた。何の悔いもない。けれど、8月6日のあの事件(広島に原爆が投下された)を聞いたときに、科学者は科学者としての自分に対する責任があることを知った。」
「一日生きる事を無駄にせず、それを一歩進む事でありたいと希求する」研究者としての姿勢は今も、尊重され、周辺の人々を勇気づけるものです。
1981年 74歳で亡くなります。
合掌
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