「陳情令」で読む老子 - テーマ1 黒と白。善と信。(上善若水)
陳情令の登場人物たちが葛藤する問い、友とは何か、信じるとは何か。保立道久著、ちくま新書「現代語訳老子」で陳情令を考えるのは楽しいがまとめるのに苦労した。テーマ編は記事を分け、今回は黒と白、そして善と信(上善若水)について書いてみる。
黒と白:世界の調和について
前回の記事で魏嬰と藍湛の衣装の色、黒と白について書いたが、この二色は太極を表す組み合わせ。ということは、彼ら二人の奮闘は、世界の調和のための奮闘ということになる。
この白黒の衣装は第38、39話の「義城」エピソードの主人公たちも着ている。暁星塵が白、宋嵐と薛洋が黒の衣装だ。白黒コンビの暁星塵と宋嵐に対して、義城ではもう一人の黒、薛洋が割って入る。なので白が一人、黒が二人になっている。
義城の三人は皆が命を落とす結末を迎えるが、こちらはどうも、調和が破れた世界を表現しているような気がする。義城に行った魏嬰と藍湛が、行方不明だった暁星塵と宋嵐の運命を知った時、きっと一歩間違えれば自分たちもこうなっていたと身に染みて感じたはず。
魏嬰は前半生で何度か藍湛とお互いの「信」を問われる究極の事態に直面した。温寧の一族を連れて逃げるために藍湛との死闘を覚悟した、あの雨の夜の場面。陰虎符の出所を疑われ続け、不夜天の屋根の上で「お前とはいずれこうなると思っていた」と藍湛と剣を交えた場面。
黒衣の魏嬰は白衣の藍湛に殺されても本望と思っていたし、一方藍湛は魏嬰を何としても止める気だった。黒白の二人はぎりぎりの状況で最後まで互いに向き合っていた。
義城の黒と白はどうだろう。黒衣の宋嵐は白衣の暁星塵と再会したが、白のほうは目が見えず、黒は舌を抜かれて話せず、互いの意思疎通ができなかった。
白衣の暁星塵の剣「霜華」で刺殺された黒衣の宋嵐の悲劇を考えると、魏嬰と藍湛の運命の行方は、実は紙一重だったという気がしてくる。それこそが、このドラマが描きたいテーマの一つかもしれないと思うのだ。
白の暁星塵は、自分の両目をやるほどの絆を持つ黒の宋嵐を殺すなど、ありえないことなのにそれが起きてしまう。彼はもう一人の黒の薛洋の言葉を信じた。
薛洋は最初からすり替わるつもりだったのでは、と思うほどに巧妙だ。宋嵐の視力を奪い、舌を奪った。暁星塵が両目を宋嵐にやることまで予見できたかはわからない。が結果的に薛洋のしかけはまんまと成功し、本来の白黒の二人は互いを認識できず、悲劇に落ちた。
ちらりと、ほんのちらりと、白の暁星塵が、五感を閉じる不言の教えの修行を深めていたら、どうなっていただろうと思ってしまう。
藍湛と暁星塵、白衣の二人のたどった運命はこんなにも違う。そして暁星塵は自らの不明を悟った時、その事実に耐えられず自ら死を選ぶ。
暁星塵が自分の目を宋嵐にあげたこと、魏嬰が自分の金丹を江澄にあげたことは根本的に同じ行為だ。自己を犠牲にして他者を救い、見返りは一切求めないのだから暁星塵も聖人だと思う。とすれば薛洋が愛情に飢えていることを知り、それに感応するのも自然だ。どんな人の苦しみも自分の苦しみとして受けるのが聖人だから。前回の記事 老子49章 「以百姓心為心」。
陳情令の黒と白には、二つの世界があると思う。魏嬰と藍湛が象徴する調和の保たれた世界。暁星塵と宋嵐が象徴する調和の失われた世界。どちらもアリでどちらも真実。世界はどう転がるかわからない。
この二組の黒白を描くことで「太極」、さらにその先にあるとされる「無極」をも表現しようとしたかもしれない、と勝手に思っている。もしそうなら、世界観の奥深さが半端ない。見ているこちらが惹きつけられるのも道理だ。
紙一重の運命をくぐり抜け、魏嬰と藍湛が互いを殺し合うことなく、揺るぎない絆を保ち続けられたのはなぜだろう。信じる、とは何か。
善と信:上善若水。 魏嬰/藍湛/江澄 vs 暁星塵/宋嵐/薛洋
お前は何を信じるか。ドラマの中で繰り返される問い。「現代語訳老子」を読むと「善」「信」という言葉に何度も行き当たる。
保立先生が「現代語訳老子」の中で注意するように言っているのは老子の「善」という言葉に、善悪の意味は全くないということ。
老子は善悪の意味ではなく、何かがその持ち前を発揮できる状態のことを「善」と言っているという。
善 =持ち前を発揮できる状態
不善=持ち前を発揮できない状態
そして「信」は、持ち前を発揮する「善」同士が互いに自由に向き合っている関係のことだという。それはとても心地いい関係に違いない。
魏嬰、江澄、藍湛、三人の関係は微妙である。江澄は白黒ペアではないものの、最初は魏嬰とペアだったわけで魏嬰が藍湛と親しくなっていくことに嫉妬する。この三人の関係は薛洋、暁星塵と宋嵐の三人を考えると、まるで合わせ鏡のようだ。
友とは何か。信とは何か。
これを老子8章「上善若水」で考えてみたいと思った。善、信、言、与(友)というキーワードがそろって出てくるからだ。
8章の上善若水という言葉はとても有名らしい。そのココロを知るために乱暴だけど我流で直訳してみた。訳にもなっていないが…ざっくりと。
上善若水。→よいものの本来の働き「上善」は水のようだ。
水善利万物而不争。→水の性質「水善」はすべてを利して争わない。
処衆人之所悪。→ 皆に嫌がられるところにも流れる。
故幾於道。→ そのはたらきは自然の道理そのもの。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。→
7つの例えでいえば、居、心、与、言、正、事、動、のそれぞれの本来のはたらきは、地、淵、仁、信、治、能、時、にある。
夫唯不争故。無尤。→ それゆえに争わず、無くなることがない。
例えが7つもあるのが、なんだか親切である。本来の働きを意味する「善」をはさんだ対応関係はこうなる。
居、心、与、言、正、事、動
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
地、淵、仁、信、治、能、時
こちらの目は、「心善淵、与善仁、言善信」に吸い寄せられる。与という字は、友のことだというからこの物語にぴったり。対応訳を保立解説から抜粋してみる。
心の深さ 心善淵
友のしたしみ 与善仁
言葉とその実践 言善信
16年後、第二の人生で再び藍湛と巡り合った魏嬰。今までどこにいたかと聞かれて魏嬰は自分にもわからないと答え、俺の言葉を信じるかと問う。そのとき藍湛は「我信你(おまえを信じる)」と即答する。(ドラマ第33話)
その言葉を聞いて魏嬰はたたみかける。「だがあの時(自分が崖から身を投げた時)本当に俺を信じていたか」と。その重い問いに藍湛は目を伏せたまま黙りこんでしまう。ドラマ中屈指の名セリフ、名場面だ。自分的にだけど。
あの夜の魏嬰と藍湛が、言葉を交わしながらも互いに目を合わせず、心中に思いを抱えて過ごす時の流れにひときわ深みを感じる。
他にも印象に残るセリフがある。雲萍城で江澄が魏嬰に向かって絞り出した叫び。「お前の配下になってお前を生涯支える、そう言ったではないか」。魏嬰は穏やかに返す。「すまない、約束を破った」。
魏嬰、藍湛、江澄の三人がさまざまな試練を通して問われ続ける「信じるとは」「友とは」なにか。
三人は別々の道を歩いたが、最後まで互いの絆は切られなかった。藍湛は悩みながら徹底して魏嬰に向き合っていたし、江澄もなんだかんだ言いながら最後まで魏嬰に向き合っている。
彼が雲萍城で魏嬰《ウェイイン》に陳情笛を渡した時はちょっと驚いた。笛を保管していた上にあの場に持ってきたとは…あの最大の危難を乗り越えられたのは江澄のおかげだ。
魏嬰、藍湛、江澄の三人に対し、義城の三人、薛洋、暁星塵、宋嵐はどうか。善、持ち前のはたらきも、信、互いの向き合い方もこちらは対照的だ。
黒白の太極をぶっ壊した薛洋は、どうやったかを思い出そう。本来の黒の宋嵐の目をつぶし舌を切り、白の暁星塵をだまして、二人の「信」をつぶしたのである。こわい。。
言善信。ことばのはたらきは、信にあり。
高潔な暁星塵は盲目のまま薛洋と向き合い、その「言」を信じ巧みな挑発に乗せられて宋嵐を刺殺してしまう。暁星塵は薛洋と暮らす中で、彼が奥底に持つ素直さは感じとっていただろうと思うし、薛洋が必要とする愛情=飴を与えることのできる心の深い人だ。
心善淵、与善仁、言善信、この実践を心がける聖人ならば、たとえ薛洋の二面性に気づいていたとしても、信じることが暁星塵自身の修行だったのかもしれない。
薛洋は傀儡にしてでも暁星塵が欲しかった。が暁星塵はどんな形でもこの世に残ることを選ばなかった。彼の宋嵐との絆はそれほど深かったとも言えるし、彼の目指した修行と「信」への究極の回答でもあると思う。
薛洋、暁星塵、宋嵐が問われた、信じること、向きあうことの意味。ドラマを見る側には少々唐突に感じられる義城のエピソードは、陳情令で重要な「信」を合わせ鏡のように映し出す。
不言の教えを実践し、寡黙な藍湛と、言葉を奪われた宋嵐。「言」についての老子の思想も、物語の中に感じ取れる気がしてくる。言葉について考えを深め続ける藍湛だから、暁星塵のように罠に落ちずにすんだのかもしれない。まあ魏嬰は肝心なことはあえて言わないのだが。白衣の主人公達の運命の違いは、このあたりにもあるかもしれないと思う。
義城の三人のエピソードは、本編の魏嬰と藍湛の話とあいまって「言と不言」そして「信と不信」の大きな問いを見る者に投げかけてくる。
さて、まだまだ考えることはたくさんある。長くなったので、善人と不善人については次の記事にしたい。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。