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風が吹くまま、水が流れるままに生きていきたいです。

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最近の記事

さようなら。大好きな人。

今でもはっきりと覚えている。 高校の文化祭。彼はクラスの出店の受付と呼び込みをしていた。 優しくはにかんだ笑顔で声をかけてくれたっけ。 私が一年生の15歳。彼は2歳上の三年生だった。 私は大好きになっていった。 いつも穏やかで、優しくて。少し歳上で、頭も良くて、包容力もあって。何より、私の気持ちを聞いてくれる人。決して否定せずに、まず第一に私を優先してくれる人。 今までなかった、今までの人生でいなかった存在。 嬉しい、楽しい、心地良い…。 ふんわかと淡いベールに包ま

    • 映画『バグダットカフェ』から人生を考える

      映画「バグダットカフェ」を観た。 言わずと知れた往年の名作。1987年制作のアメリカとドイツ合作映画。日本では1989年にミニシアターで封切られ、ロングランの人気を博したらしい。 以下、ネタバレあります。 主人公のジャスミンは、夫とアメリカ旅行中にケンカし、ひとりでバグダットカフェのモーテルに滞在する。 バグダットカフェ、モーテル、ガソリンスタンドを切り盛りするのはブレンダ。彼女も、夫がケンカして家を出てしまう。子供たちは彼女を手伝うこともせず自分勝手に過ごしている(よう

      • 今日のいいこと

        私の自転車の鍵は、後輪部に設置されている輪っか状の鍵で、鍵穴に鍵を差し込み、左にひねるとリングがはずれる馬蹄式になっている。 しかし、最近、いくら左に回しても鍵がうまく外れないことが増えてきた。 「うーん。長年、乗っているし、そろそろ鍵も限界かなぁ。」 今日もスーパーから帰るタイミングで、自転車の鍵を外すのに四苦八苦していた。いくら左に回してもリングが外れない。 困ったなぁ。 暑いし、アイスも買っているから早く帰りたいのに。 いや、こんなにいつまでもガチャガチャやってて

        • ブラック部活で転落した中学生のはなし

          中学に入学すると、迷わず陸上部に入った。理由は、小学6年の頃に読んだマンガの影響だったと思う。主人公の女の子が、陸上を通して成長する、というまぁ、よくある話に、なんとなく共感したのだろう。 しかし、実際に入部した陸上部は、いわゆる「ブラック部活」だった。 まず、水を飲ませない。今では考えられないような話だが、当時は「水を飲む奴は軟弱」という、わけわからん指導がまかり通っており、どんな暑い日の練習でも決められた時間以外の飲水は禁じられていた。荒川の土手で2時間、タイムトライア

        さようなら。大好きな人。

          さんちゃんのいた日々

          その人は「さんちゃん」と呼ばれていた。 祖母も父も母も「さんちゃん」と呼ぶので、子どもたちも必然的に「さんちゃん」と呼んだ。 さんちゃんは、社長とさんちゃんの2人だけの小さな会社で、どこかの下請けの下請けのようなことをしていた。 時々、さんちゃんの家に行くと細々とした部品があった。ネジのようなものや、プラスチックでできた板などが積み重なっていた。 さんちゃんと、さんちゃんと小さなマンションで同居していた祖母が一緒に内職をしていることもあった。会社の仕事を持ち帰って仕上げてい

          さんちゃんのいた日々

          少年よ 

          少年よ そっと大人を盗み見ていたあの頃 誰もが器用に目を逸らした 少年よ 身体いっぱいに何かを伝えようとしていた君 その命のメッセージに 誰もが気がつかないフリをした なぜ? あなたの必死の問いかけに 誰もが耳を傾けなかった 少年よ 理不尽な世間の欲求に身体と心を引き裂かれながら君は闘った 全身全霊でもがきながら 言葉という武器を持てなかった君に浴びせられる正論のシャワーよ 冷たい視線よ 当たり障りのなさよ 少年よ いつか君は何かを諦めた 何かを手放した 握

          少年よ 

          違和感に気づく

          時々、左肩が重くなる。正確には、左肩から首筋にかけて、どんよりと重くなる。どうも疲れが溜まってくると症状が出るようだ。大抵の場合、湿布を貼ったり、ゆっくりと温めたりしていると2〜3日で治ってくる。 時々、かなりの痛みになる時があり、治るまで1週間くらいかかる。あまりに痛む時は、鎮痛剤を飲む。痛むと眉間にシワが寄り、動きも鈍くなる。年々、痛むまでの時間が短くなっている気がする。 日常の生活に追われていると、ちょっとした違和感に気づきにくくなる。もしくは気づいても、気づかないフ

          違和感に気づく

          友達がいないことについて

          友達は多い方が良い。親友は財産。 昭和的価値観?の親に育てられた世代である私にとって、とても苦しい現実と葛藤して生きざるを得なかった。そもそも友達を作る以前に、私は私自身を持て余していた。日々、訪れる現実をどうにか生き抜くことで精一杯だった。 別にいじめられているわけではなかったけれど、親友と呼べる友達はずっとできなかった。そして、そんな自分を心から恥じた。 幼い頃は、空想の世界へ逃避した。空想の世界では、何にでもなれた。 クラスのリーダー的存在。勉強ができて一目置かれ

          友達がいないことについて

          心に残る風景

          いつか見た風景が、ずっと心に残ることがある。私の場合は、小学生の頃の歯医者の帰り道に見た商店街の夕暮れと、スイミングスクールで見上げた空である。 特別な場所でもなければ、特別な時間を過ごした訳でもない。いつもの慣れた、むしろ見飽きているような風景である。 通っていた歯医者は、商店街の一角にあった。親子二代の家族経営の歯医者だった。腕が良いかは分からないが、親が通っていたので私や妹も自然と通うようになっていた。 最初は、親が一緒に、親が忙しい時は祖母が連れて行ってくれてい

          心に残る風景

          ナマケモノの娘たち

          私が小学校入学前に、父と母は小さな家を建てた。暫くすると、一台のピアノがやってきた。祖母からのプレゼントだった。 母は幼い頃からピアノを習っていて、時々、家でも弾いていた。もちろん、娘たちにもピアノを習わせた。近所の女の先生の家まで、週に一回、習いに行った。 最初は新鮮で楽しかったように思う。でたらめに音を叩いているのと違い、自分の指から規則性を持って音が作れることは、不思議さと同時に新たな発見があった。少しずつできなかったことが、できるようになることは嬉しかった。 し

          ナマケモノの娘たち

          欠乏と向き合う

          時々、ランニングをする。 気が向いたら、気が向いた時間、気が向いたコースで。なので、週1〜2くらい。わりとお気に入りのコースは小さな川の土の小道。春は桜、夏は青葉、秋は紅葉、冬は木漏れ陽の下をゆっくり走ることができる。マイペースに、ゆっくりと。 転居した先々で、ランニングをした。ランニングシューズさえあれば、ひとりで好きな時間に気軽にできる。自分のペースで。誰にも気兼ねなく。他者との付き合いが苦手な私にとって、ランニングは大切な「私ひとりの時間」だった。 ランニングを続け

          欠乏と向き合う

          たもっちゃんのいた世界

          たもっちゃん、と皆から呼ばれている豆腐屋さんがいた。いつも頭にタオルを巻いていた。 年老いたお母さんと2人、朝早くから豆腐を仕込む。真面目でまっすぐなたもっちゃんの豆腐はしっかりとした大豆の味がした。 私の祖母は豆乳を飲むので、毎朝、たもっちゃんの豆腐屋で豆乳を買っていた。たまに飲ませてもらうと、出来たての豆乳はほんのり甘くて濃くて、とてもおいしかった。 夕方になると、たもっちゃんは四輪自転車の後ろの大きな荷台に豆腐、油揚げ、おからなどを積んで、町内を廻る。 「アーッアッ

          たもっちゃんのいた世界

          正しく傷つくことについて

          「人は現実を、自分が見たいように見るし、自分が捉えたいように捉える」 「自分」というフィルターがかかっている以上、それは当たり前のことだ。では、その「自分」と何なのか? 身体、感情、思考、過去の記憶…。 私が「自分」と思っているものを分解してみると、あまりに曖昧だ。身体も、感情も、思考も、過去の記憶も、全てが移り変わっていくものなのだから。  また、それらは独立してあるのではなくて、円状になっていて相互に影響し合っている。例えば、身体が変われば、感情も思考も過去の記憶も

          正しく傷つくことについて

          とてもわがままな彼女、

          時々、彼女は私や妹を家に連れて行った。 よその家に泊まれることは、それだけでワクワクする。しかも、彼女の家には2匹の犬がいる。 「ウエストハイランドホワイトテリアっていう種類よ」と、彼女は誇らしげに教えてくれた。 うちは犬を飼っていなかったので、白くて小さな犬の散歩をしたり、撫でたり、餌をあげたりできることはとても魅力的だった。よく吠える犬だった。 その夜は、彼女は寿司を出前で頼んでくれた。 寿司桶に各種類3貫ずつの寿司。まず、彼女が大トロ、中トロ、イクラを取る。その後、

          とてもわがままな彼女、

          命を繋ぐもの、祖母の話

           共働きで忙しかった両親に替わり、私たち三姉妹の世話をしてくれたのは祖母だった。 毎朝、7時になると「おはよう」とやって来る。午前中に掃除、洗濯を終わらせて買い物に行く。 午後からは夕飯の支度。お煮しめ、春巻き、コロッケ、もやしとハムの中華サラダ、お稲荷、巻き寿司。祖母の料理はレパートリーも多く、そしてとても美味しかった。 それはそうだろう。出汁は鰹節と昆布でとるし、胡麻はしっかりと煎って使う。海苔はガス台で炙る。もやしの髭根は一本いっぽん取る。野菜の千切りは、本当に針の

          命を繋ぐもの、祖母の話

          ドン松子との攻防

           一人暮らしだった祖父は、70歳を過ぎてから犬を飼った。白地に茶色のブチ模様が入った雑種の雌犬だった。  祖父は「ドン松子」と名づけた。恐らく、「ドン松五郎」という犬が主役の映画から取ったものと思われる。その映画のことはよく知らないが。  足が悪かった祖父との散歩はゆっくり歩くだけだったので、ドン松子は相当、ストレスが溜まっていたのだろう。時々、隙を見て脱走した。  大抵、2〜3日後に、近くまで戻ってきた。犬であっても、何となくバツが悪いのか、家の中までは入らず、近くをウロ

          ドン松子との攻防