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39番 浅茅生の小野の           参議等

花山周子記

浅茅生あさぢふ小野をの篠原しのはらしのぶれどあまりてなどか人の恋しき 参議等さんぎひとし
 
〔所載歌集『後撰集』恋一(577)〕

浅茅あさじの生えている小野の篠原のしの、、ではないが、しのび続けてがまんしてはきたが、どうしてあの人のことがこうも恋しいのか。

『原色小倉百人一首』(文英堂)より

「浅茅生」はまばらに、あるいは短く生えている茅(ち・ちがや)。わたしが小学校に上がるときに引っ越してきた公団団地は、広大な湿地帯を埋め立ててできたまだ新しい団地で、あちこちに広い空き地が残されていた。中でも団地の中心に置かれる広場にはスーパー建設予定地の広い空き地があり、一面に茅がなびいていた。それはまるで童話の中に出てくるような草だった。白い狐の尾っぽのような穂を何度も指でつまんだり、頬に撫でつけたりしていたから茅は懐かしい草である。

「浅茅生」はそういう茅の野のことであるし、「小野」にかかる枕詞とも言われる。「小野」は「小」が接頭語で「野」のこと。「篠原」は細い竹が生えている原で、ここまでが「しのぶれど」を引き出す序詞となっている。

『古今集』に詠み人知らずの、
浅茅生の小野の篠原しのぶとも人知るらめやいふ人のなし

という歌があり、この歌の本歌取りとされる。「しのぶ」までは全く同じ。後半はこちらの歌では「しのんでもその心を人は知っているだろうか、いや知るまい。その心を伝える人はいないのだから」という、寂しい歌である。

一方、百人一首のこの歌は、

浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき

この思いをしのんでいるけれど、思いが余ってしまう、なぜにこんなに恋しいのか

というふうに、自分の思いを見つめているところに、圧迫されるような切ない胸の苦しみが感じられる。「あまる」といって、それは他人にバレるというようなことではないのだと思う。上句は序詞であり、そしてこの歌の置かれる舞台でもあるのだ。ここは茅がなびき細い竹が茂る原っぱである。誰もいない。一人、自分では抑えきれない思いに立ちすくんでいる。胸中の思いのみが広大な風景のなかに晒されてしまうのだ。

本歌と並べて読むとき、誰にも伝わることのない思いと、それでも胸をあまる思いとが和音のように重なる。ほんの少しの違いでありながら、だからこそ、生まれる重奏性が本歌取りとしても見事な歌になっている。

ちなみに、「あまりてなどか」は句割れになっている。「などか」(なぜに)の挿入がこの和音を一層鮮烈にしている。

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